【第四話:黒い霧】

 闇に閉ざされた森を一陣の風が吹き抜けた。木々はまだ新しい葉をも散らし、突然眠りを覚まされた鳥の群れが夜空に舞った。風と共に現れた大きな黒い影は複雑な森を器用に駆けて、一つの大木の前で漸く動きを止めた。刹那、風を切って飛来した数条の光が影に突き立ち、鮮血が散る。突き立った光は小さなナイフで、丁度影を大木に縫い付けるような形となった。被毛に覆われた黒い影はまるで狼のような顔を苦悶にゆがめ、茂みから現れた赤毛の男を睨む。男は自分より一回りも二回りも大きな、まるで人型の狼のような姿をした影に驚く様子も無く近づき、懐から取り出した銃を影に向けた。
「お休み」
 呟いた瞬間、影は跳ねて柔らかい草の上に崩れた。完全に倒れ付すのを待たずに影は足の先から徐々に黒い霧のような形に姿を変えた。体のみならず、溢れた血液さえも。霧は大きな塊となってやがて森の空気に溶けた。
 男は複雑な表情で一部始終を見守り、草の上に残った綺麗なままのナイフを拾って踵を返した。

***

 町外れの教会では、昨日から咲き始めたアメジストセージの花が庭を美しく彩っていた。散策するのにも飽きてきたディーターはその場にしゃがみ込んで青紫の一輪に手を触れた。花の表面に生えた和毛の感触が心地よい。
「帰っていたのか」
 唐突に、後ろから声がかけられた。振り返ってみると買い物袋を抱えた初老の男性が庭の門前に佇んでいた。伯父で、この教会の神父でもあるマクシミリアンだ。金色だった髪の毛は元々色が薄かったが、今は完全な白髪になっている。ジムゾンと違って普段殆ど聖服を身に付けないので、見た目だけでは神父だと解らない。
「出張ついでにちょっと」
 ディーターは立ち上がってマクシミリアンに向き直った。
「うん?」
 鉄格子の門を後ろ手に閉めながらマクシミリアンは訝しげな声を上げた。
「お前、腕輪はどうした」
 そう言われてディーターは自分の左腕を上げてみた。背広を着ている今、当然ながら腕には手袋がされていない。露出した部分からは腕時計が覗いているだけだった。
「そうそう、その事も言わなきゃと思ってたんだ。あの腕輪な、人にやった」
「やった、って!」
 マクシミリアンは愕然とした様子でディーターを凝視する。よもやこんな反応をされると思っていなかったディーターは、一先ずジムゾンへ譲渡した経緯を説明した。ジムゾンと和解するまでのいざこざと、やる切欠になった過去の話と。聞き終えるとマクシミリアンは大きな溜息をついてディーターを司祭館へ連れて行った。

「あの腕輪はな、気休めだとかそういう物じゃない」
 ディーターの向かいに腰掛けながら、マクシミリアンは口を開いた。年期が入った木製の机の上には二人分のコーヒーカップが置かれ、湯気と共に香ばしい匂いを立ち上らせていた。
「魔除けかなんかだっつんだろ」
 マクシミリアンがこういう切り出し方をする時は大抵話が長くなる。ディーターは椅子にだらしなく背を持たせて窓の外を未練がましく眺めた。
「トルクと言う魔除けの装身具でな。人狼か人間か簡単に判別できる代物だ」
 諦め顔でコーヒーカップを口に運ぶマクシミリアンを、ディーターはまじまじと見つめた。姿勢を戻し、思わず机に腕をついて前のめりになる。
「人間には無害だが、人狼があれに触れると炎が噴き出て火傷をする」
「形質発生の潜伏期間中でも?」
 マクシミリアンは黙って頷いた。
「そんな便利な物なら、何で本部に送らないんだ」
「複製はきかんし、実用性が無い」
 あっさり言われて、ディーターは暫し考え込んだ。虱潰しに全国、あるいは全世界行脚するわけにもいかない。仮にやったとしても、その過程で別の人狼に情報が飛んで狙われるのがオチだ。せいぜい、閉鎖空間での戦いに巻き込まれた時に有効なくらいだろうか。
「それに、一日に一回しか動作せん。閉鎖空間なら尚更使えない」
 ディーターの考えを見抜いたか、マクシミリアンはそう付け加えた。
「うわ使えねえ」
「だから使えないと言っとるだろうが」
「なら別にいいじゃねえか。気休めで俺にくれたみたいに、気休めでジムゾンにやったって。そうだ、ジムゾンは人狼じゃなかったし、問題ねえだろ?」
「お前はいいんだ、お前は。狩人だから。だがその友人とやらは、狩人じゃあるまい?自分の身を守れないただの人間がつけていて、何かの拍子に人狼に出会って火傷させてみろ。真っ先に狙われるだけだぞ」
 ディーターの全身から血の気が引いた。ただの親切のつもりだったものが、逆にジムゾンの身を危うくしてしまった。ジムゾンが運悪く人狼に出会ってトルクを発動させてしまったら終わりだ。一瞬の間を置いてディーターは慌てて携帯電話を取り出した。
「待て待て!人間だと解ったろうが、狂人でないと保証できんだろう。理由を話せば万が一狂人だった場合お前が何かしらの者だと勘付かれてしまうだけだ」
 ジムゾンが狂人だとは思いたくないし、思えない。しかしこればかりは閉鎖空間にでもなって生き延びない限り解らない事で、安易に決断を下すわけにはいかなかった。ディーターは携帯電話を下ろして片手で頭を抱えた。
「何かいい理由をつけて取り返すしかねえか……」
「一旦譲渡したら戻らんよ。もしお前が返却して貰ったとしても、司祭館に忍び込んで取り返したとしても、腕輪は勝手に持ち主の手元に戻る。次の譲渡契約が執り行われるか、持ち主が死ぬまでは、その友人の物だ」
「とことん不便な道具だな!」
「とことん不便な道具だよ!作った当時も散々言われたわい!」
 炎を噴出したり、勝手に誰かの手元に戻るという変な道具を、人間の手で作ることが出来るだろうか。それ以前に、ある程度の工芸の才能が無ければ腕輪自体作る事ができないだろう。また、マクシミリアンには工芸の趣味が無い。小さい頃から見ている限り、趣味は庭弄りくらいのものだ。
 マクシミリアンは時々よく解らない事を言う。生きていない時代の事を、まるで昨日の事のように語ってみたり、全く接点が無い筈の人間の事を知っていたり。しかし夜になると狼の化物に変化する者が居たり、それに反応して炎を生じる腕輪があったりする、冗談みたいな事は現実にまかり通っている。今更気にする事でもないか、とディーターは流す事にした。
 それから延々、軽々しく行動するなとマクシミリアンの説教は夜まで続いた。


 翌日、ディーターはベルリン郊外にある連邦文書館を訪れていた。生活に直接関わりの無い機関なため、構内に人気は疎らだ。古びた建物が点在する中、ディーターは一際古い本館に入って行った。受付で挨拶を交わして真っ直ぐ奥へと進み、廊下の突き当たりにある“第二庶務局”と書かれた扉を開けた。中はこざっぱりとして幾つか机が並んでいるが、どれも主は留守中で人っこ一人居なかった。
「コーヒーカップが足りなかったんだ」
 無用心だと独り言で突っ込む前に背後から声がした。驚いて振り返った先には空のコーヒーカップを手に佇む初老の男の姿があった。
「局長」
 ディーターが呆気に取られて呟くと、更に後ろから声が聞こえた。
「ヨハネスさん、お水忘れてますよ、お水」
 隣の課の女性事務員が水の入ったガラスポットを手に走ってきていた。ヨハネスは事務員からポットを受け取り礼を言うと、さっさと中に入れとばかりに黙ってディーターの背を押した。
「鍵もかけないで空にして、中の文書見られたらどうすんだ」
「あまり厳重にしていても返って変に思われるだろう」
 そうは言いながらも、ヨハネスは聊かバツが悪そうな様子でコーヒーをセットした。
 内務省連邦文書館第二庶務局。表向きは単なる雑用係だが、局長のヨハネスと、ディーターを含むたった五名の局員で構成されるこの小さな部署にはもう一つ別の顔があった。
 正式名称は内務省人狼対策局。普段は全く普通の人間と変わらないのだが、ある条件を満たすと夜な夜な人を喰らう異形“人狼”の討伐が主な任務だ。おとぎ話として長らく伝えられては来た“人狼”だが、存在が正式に政府の知る所となったのはつい近代に入ってからの事だった。しかしその頃には人狼の仕業と思しき事件も激減しており、存在自体風化したものと思われていた。が、近年活動が活発化し、東西統一後にこうして正式な対策機関が作られた次第だった。
 五名の局員全員が狩人で、母体となった連邦統計局や厚生省にも数名、占い師を含め隠れた協力者が居る。本来ならその任に相応しい場所に置かれるべき部署なのだが、内容が内容なだけに存在そのものが機密となっている。そのため、一番目立たない文書館の隅に雑用係として配置されている。
「ギュンターとウルリヒも?」
 ディーターは鞄から書類の束を出しながらあたりを見回した。ディーターと他二名は基本的に各地に散って指示を受けて動くが、ギュンター達はヨハネスと同じく文書館に常駐している。
「最近多くてな。ウルリヒはボン。ギュンターは国外、アメリカだ。ウルリヒの方は特定できているが、ギュンターは占いが追いつかなかった。毎日今も当たって貰っとるが、難儀しとるだろうな」
「国連の応援頼めなかったのかよ」
 ディーターはどっかと椅子に腰掛け、纏めた書類を再度見直した。ヨハネスもまたディーターに目は向けず窓際をゆっくり歩んだ。節をつけるように手振りを加えて。
「君臨すれども統治せず、ならぬ、君臨すれども」
「援助せず」
「よくできました」
 ヨハネスは満足げに笑った。
 人狼対策局は国連とも繋がりがある。元は国内だけの問題だったのだが、かつての西側政府が連合軍と接触を持った際、どうやら他国にも人狼が居るらしき事が判明した。相互連絡の結果国連にも対策機関が発足する形となって、今は人狼についての情報を共有している。とはいえ彼らの技術はまだ未熟で、ヨハネス曰く閉鎖空間の戦いになったら全滅必至との事である。それゆえか否か定かでは無いが、色々と干渉をしてくる割に、人員の派遣などの援助はあまりしない。


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