【祝福の子】

月が中天にかかった頃。ジムゾンが眠っている客間に音も無く侵入してきた影一つ。侵入者はゆっくりと寝台へ近づいていった。ジムゾンは何も気付かぬまま安らかな寝息をたてている。
ひたり、と寝台の前で侵入者の歩みが止まる。微かな金属音と共に鈍い煌きが現れ、闇の中で翻った。
刹那、厚いカーテンがザッと引かれ青白い月の光が部屋に満ちた。月が照らしだした侵入者の正体は、紛れも無いベルンハルトその人だった。
ベルンハルトが我にかえって寝台を見ると、ジムゾンの姿は無かった。抜き身の剣を鞘に収めもせず慌てて踵を返すが、突然横合いから何者かに襲いかかられた。衝撃に剣は手を離れて床に落ち恐ろしく強い力で体を床に押さえつけられた。
「実の弟まで手にかけるのか。」
声のした方を見上げると、何時の間に現れたのかディーターが窓の前に佇んでいた。
「ご丁寧に俺が与えられた物と同じ剣を使って。」
ディーターは床の上に転がった剣を一瞥し再びベルンハルトを見る。
ベルンハルトが悪態をついてディーターから目を逸らすと、自分を押さえつけている大きな獣の足が視界に入った。思わず息を呑んで見上げた先には純白の毛皮と赤く光る双眸。“化け物”としか形容のしようがない獣の姿があった。
「残念です。」
聞きなれた声がした瞬間背中の重みが退き、すぐ傍に人の気配を感じた。痛む体をゆっくりと起こして見ると眠っていたはずのジムゾンの姿があった。悲しげな瞳でこちらを見つめているジムゾンの手は、先程自分に襲いかかった化け物のそれであった。
「お父様に福寿草の毒を盛っていましたね。お父様の本心を推し量ろうともせずに。」
何時もなら反論しているであろうベルンハルトだが今は恐怖で混乱し、ただ目の前のジムゾンを凝視して黙ってその言葉を聞いていた。

「あなたが信じなくても、私は領主になるつもりなど毛頭ありません。その資質が無い事はお父様が一番よく理解していらっしゃる。私は司祭の叙階こそ受けましたが、小さな頃と同じ引っ込み思案で人望も武力もありません。そして、人間でもない。」
ジムゾンはじっと人狼と化した自分の手を見つめた。
「私は人狼。人を騙し、その臓物を喰い、血をすすらねば生きていけない存在です。」
そこまで言ってジムゾンは顔をあげ、手を元に戻した。
「お母様もまた人狼でした。特質を受け継いだ私の身を何時も嘆いておられました。“呪われた子”だと。終いには自らの生も疑問視し、以来人を襲わず衰弱して亡くなってしまった…。
皆は病死だと言っていましたが人狼は病には冒されません。衰弱してゆくのは、人を喰わなかった時。」

「馬鹿な…。」
かすれた声でベルンハルトが呟く。優しい母だった。虫も殺せないほどか弱く、過保護だと思えるほど自分たちを何時も気遣っていた。それがあの恐ろしい伝説の人狼だったという事実。しかも一方の息子の生を否定し自分の生さえも否定して実質自殺してしまっていたということはとてつもない衝撃だった。おとぎ話の人狼が実在して目の前に現れたということ、しかも実の弟が人狼であったという事以上に。
「お母様にとって唯一の希望であったあなたが、くだらない誤解からお父様の命を狙っていたなんて。私は悲しいです。この領を守っていけるのはあなたしか居ないのに。
…たしかに、そのことで重圧もあったでしょう。勝手に飛び出してしがらみから逃げてしまった私には責める事はできません。ですがどういった失態があったのかは知りませんが、あなたは人間であるだけ…生きているだけで素晴らしいのです。」

月の光に照らされる中で沈黙が続いた。ジムゾンの前で床に膝をつき項垂れるベルンハルトの姿は、あたかも許しを請うかのようにも見える。ジムゾンはただ黙してベルンハルトを見つめていた。
「そろそろ行くぞ。」
ディーターの声に小さく頷き、ジムゾンも雑のうを抱えて同じように窓辺に歩み寄った。
「さようなら、ベルンハルト。いいえ、愛しいお兄様。もう二度とお会いする事は無いでしょう。」
一度だけ振り返ってジムゾンはディーターと共に窓から身を躍らせた。窓越しに一瞬見えたベルンハルトの顔は幾すじもの涙で濡れていた。


林に辿り着いた二人は立ち止まって城を見やった。城は相変わらず何事も無かったかのように静かに佇んでいる。
『良かったのか。』
顔を前に向けたままでディーターが囁く。
『何がですか?』
『ベルンハルトを脅しておかなくて。“また同じ事をしたら喰う”くらいのことを言ってた方が良さそうだったが。』
『もう二度としようとは思わないでしょう。』
ジムゾンはベルンハルトの表情を思い出して困ったような笑みを浮かべた。一度たりと兄のあんな表情を見たことは無く、言い過ぎたろうかと心中複雑でもあった。
『私はそれでも構わなかったよ。』

突如聞こえた囁きはジムゾンでもディーターでもなかった。二人は変化を解きジムゾンは思わず周囲を見渡した。林は相変わらずしんと静まり、湖面が風に揺れる音と時折のフクロウの鳴き声しか聞こえない。
『お父様…。』
愕然とした表情でジムゾンは囁きの主の名を呼んだ。落ち着いた低い声音は間違いなく父・オスヴァルトのものだった。父からは人狼の気配はしなかった。それなのに、何故。ジムゾンは混乱して二の句がつげない。
『囁ける狂人。』
ディーターは記憶の断片から導き出した答えを呟いていた。
『ほう、知っているのかね。』
『昔一度だけ会った事があります。』
『狂人…。囁ける…。』
二人の会話を聞きながら、ジムゾンは今だ驚きが消えないようだった。囁ける狂人というものが初めてだったし、何より父が狂人だという事に驚かされた。

『お母様のことも、ご存知だったのですか。』
『ああ。もっとも、気付いたのは亡くなってしまった後だったが。』
『え…?』
『葬儀の後バイエルンの筋に居た人狼に聞いたよ。私が月に狂ってしまったのは、あれを亡くしてからだ…。』
オスヴァルトの声が僅かに沈む。
『もっと早く気付いていれば、その苦しみを分かつ事もできていたのに。あれに喰われるのであれば私も本望だったのに。』
『…そんな事仰らないで下さい。』
囁きを受けてジムゾンは表情を曇らせた。父の犠牲を母は望みはしない。愛しい者を殺したくない。なのに喰わねば生きてゆけない。それが、母の途方も無い悲しみの始まりだったのだから。

『ベルンハルトが毒を盛っているのにも薄々感づいていたよ。庭いじりなど趣味でも無いくせに福寿草を植えだした頃からおかしいと思っていた。
…ああ、そうだ。昨日の会食では気遣いを有難う。さすがに私は匂いまでは解らなくてな…。死ぬのは一向に構わないが、ジムゾンに罪を着せられてはたまらなかった。』
『どうして放っておいたのですか。』
平然とした様子の父に珍しくジムゾンは苛立った調子で問い掛けた。
『言及すればベルンハルトはもうお終いだ。かといって誤解だと弁解したとて聞きはしまい。』
『彼のためにはならない。』
無愛想に返したのはディーターだった。

『それくらいの事で誤解するような男のままでは領の将来が危ういでしょう。繊細なのは大いに結構。だが戦場では生きていけない。場合によっては無駄死にさせるようなもので、決して彼のためにはならない。』
『ディっ…ディーター!』
ずけずけした物言いに、ジムゾンは慌ててディーターを止めた。いくら正論であっても狂った人間にとっては言っても仕方の無い事。それはディーターが一番よく知っている筈なのに。
『…ふん。さすがに敵兵団一個大隊を壊滅させただけはある。』
複雑さは滲んでいたが、声音は笑っていた。
『何処でそれを。』
『バイエルンのヴァルプルギス。ルドルフ・ヴァルプルギスから聞いていた。もし出会ったら何が何でも拘束し、知らせて欲しいとな。…彼はお前が人狼である事を知っていたと見える?』
『…。』
『まあいい。忠告は有難く聞いておこう。』

『そろそろ夜も明ける。』
オスヴァルトの声にジムゾンが辺りを見回すと、東の空がかすかに明るくなり始めていた。
『どこか行くあてはあるのかね。』
ジムゾンは返答に窮した。行くあてなど何処にも無いが何か言っておかねば父は心配するだろう。
『バーデン辺境伯領の黒い森へ。』
咄嗟に、昔母に聞いた土地の名前を口走っていた。バーデンの黒い森。そこが人狼が生まれた場所なのだと。ニコラスの話によれば人狼はケルトの神が生み出した物だ。黒い森は紀元前にケルトの民が多数侵入し暮らしていた場所。ならば人狼が誕生した地であると言うのも信憑性が増す。
『人狼の故郷だというシュヴァルツバルトか。話には聞いた事がある。あそこはシトー派の修道院や旧教集落も多い。
だがバーデンはフランス国境の領だ。皇帝軍が潰走をし始めればそれに乗じてフランス軍が侵入するだろう。野心と体力が有り余っている彼奴らの事。教会だろうが何だろうがお構いなしに攻めるのは目に見えている。それでも行くというのか。』

『前に滅ぼしてしまった村で出会った友人にまた会えるかもしれません。それに…どこへ行っても戦です。』
ジムゾンは語りかけるように城を仰いで小さく笑った。
『そうか。』
応えたオスヴァルトの声もまた諦めたように笑っていた。
『…さようなら、お父様。何一つ孝行できない息子で申し訳ありませんでした。今まで本当に、有難う―』
『今生の別れでは無かろうに。』
苦笑いしてオスヴァルトがジムゾンの言葉を遮った。
『本当に。どうしたんでしょうね、私。』
自嘲ぎみに囁くと何の前触れも無く涙がぼろぼろと溢れ出した。直接会っていなくて、囁きで良かった。ジムゾンは心の底からそう思っていた。
「なんだ、情けねえな。」
呆れた様子でディーターはジムゾンの涙を拭った。こぼした苦笑がどこかしらぎこちないのが自分でも解った。

『神は存在しなくていいものを生み出したりはしない。それは人狼であっても例外ではない。司祭のお前が一番よく知っていることだ。
もうお前にも大切な人が居るだろう。ベルンハルトを羨んでいたようだが、軽軽しく人間や何かと比べて自分の生を否定してはいけない。それは、傲慢というものだ。
たとえ何者であっても、お前は私の大切な子だよ。ジムゾン。』

それきり、オスヴァルトの囁きは途切れた。


林を歩く間中、ジムゾンは黙って涙を拭っていた。まるで子どもみたいに片方の手でディーターの服のすそを掴んだまま。
やがて木々が途切れ、小高い丘の上に出た。二人は立ち止まってあたりを眺めた。眼下には一面の草原が広がり遠くには所々民家が見える。地平線を隠す山々の向こうが白み始め朝を告げる鳥の鳴き声が響いた。夜明けが近い。
「…ちゃんとお別れをいえませんでした。」
鼻がつまったままの声でジムゾンが呟く。
「どうして、あれきり何も応えてくれなかったのでしょう。」
「人間に戻ったからだ。」
ジムゾンは驚いてディーターを見た。
「ただの人間に戻ればもう囁きは聞こえない。」

「どうして…。そんなに気安く正常に戻るものなのですか。…あっ。もしやあの時反論したのは…!」
「人と状況によるが。」
気付いて熱心に問いかけるジムゾンから目を逸らしてディーターはそっけなく呟いた。なにかもったいぶっている時や照れている時は何時もこうだ。
「自分で作り上げた思考の牢獄から解放されれば狂人はただの人間に戻る。難しい事じゃない。
だが宴の最中では狂人は正常には戻らない。だからヴァルターは正常には戻せなかった。それに恐らくはレジーナでなければ無理だったろう。今回は閉鎖空間ではなかったしお前の父さんは囁ける分やり易かった。単にそれだけだ。」
「ありがとう、ディーター。」
「俺のお陰じゃねえ。本人の意思がなければ無意味なんだからな。」
にっこり笑ったジムゾンに戸惑い、ディーターは照れくさそうな表情でそっぽ向く。らしくないだのと独り言ちながら後ろ頭をぐしゃぐしゃに掻いた。

朝日が山から顔を覗かせ陽光が地に注がれた。眩しい光に目を細めてディーターは地面に下ろしていた荷物を持った。
「じゃあ行くか。我々の故郷へ。」
芝居がかった声で言ってディーターが笑う。故郷という言葉にジムゾンは目を丸くしてディーターを見た。
「行くんだろ?黒い森に。」
「ええ。でもいいのですか?私の勝手な希望で…。」
申し訳無さそうに眉根を寄せてディーターを見つめジムゾンもまた雑のうを抱えて肩にかけた。
「考えてみればニコラスに別れの挨拶をしてなかったからな。それに俺は―。」
ニコラスがしていたようにディーターは両手を腰に当てて大きく息を吸い込んで天を仰ぐ。暫らくして顔を戻すと笑ってジムゾンを見つめた。
「お前と一緒ならどこでもいい。」

黒い森が安住の地で無い事はわかっている。無事に辿り着いたとしても長く留まる事はできないかもしれない。離散を余儀なくされた民のごとくに、人狼は命尽きるその日まで帰る場所も無く彷徨い続ける運命なのかもしれない。しかも彼らのように約束の地という精神的な支柱さえも無い。しかし十字架の道行きにも似た道にあっても二人はこの上なくしあわせで、満ち足りていた。
そうして二人はかたく手を繋ぎ、やがて丘を降りて行った。

その後二人の姿を見た者は誰もいない。





1635年。フランスは、国王の死去と和平条約とで勢いを失ったスウェーデンと同盟を結びついに戦へ参入。一時はバイエルン支配下にあったバーデン辺境は神聖ローマ帝国内で一番の激戦地となり悉くを蹂躙され修道院さえも破壊された。シュヴァルツバルトの黒い森も例外ではなく荒廃を免れなかった。

その後1648年にウェストファリア条約が結ばれ戦は神聖ローマ帝国の敗北に終わる。神聖ローマ帝国は連邦の主権確立による分裂と皇帝権の形骸化によって殆ど実態の無い国と成り果てて滅亡までの年月を重ねるのだった。


終章 罪の行方




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