【轍のバラッド:第二話】

 翌日、ディーターとジムゾンは囁きを頼りに再会を果たした。宿屋で落ち合った二人は、一階酒場の窓際の席に陣取り、ジムゾンは昨晩の事を囁きも交えつつ説明した。酒場は昼なお燻製ビールを求める人で賑わい、窓の外に見える通りは露店が軒を連ね、買い物客でごった返していた。
「その異端審問官な。昨日ここに来たよ」
 試しに、とディーターの分のビールをちびちび舐めていたジムゾンはハッとして顔を上げた。
「やたらめったら口ひげを整えた、いけ好かない感じの男だろ。ぼさっとした妙な感じの修道士を従えてて」
 ディーターの的確な表現にジムゾンは思わず噴出した。
「ぼ、ぼさっと、は少し言いすぎですけど……そうです。城で別れたのは結構遅い時間でしたけど。もしや晩課の後に?」
「鐘が鳴って店が閉まる直前だったな。宿中一々調べてたみたいだ」
「何を聞かれたんですか?」
「この町に来てどれくらいになるか、最近夜中に不審な事は無かったか、だとよ。今日来たばかりだと言ったんだが、宿の主人やら他の客やらに裏取ってた。坊主の癖に疑い深い野郎だ」
「異端審問官ですからねえ」
 昨夜の事を思い出し、ジムゾンはふう、とため息をついた。
『ところであいつな、共有者じゃないぞ』
『えっ?』
『前ニコラスが言っていたように、権威を確立する為に血の宴の秩序が生まれたんだ。ただ単に人狼を討伐したって教皇庁には何の旨みも無い。それに、共有者は来るべき日の為に潜伏する事に意義がある。おおっぴらに活動してたら意味が無いだろ』
『そうですね。審問官が表立って派遣されたら……私なら、万一を考えてすぐ逃げます』
『司教会は何も知らず、単純に噂を懸念してロタールをよこした。だがロタールには何らかの個人的事情があって、単独行動をしてるんだろうな』
「あのぅ」
 唐突にディーターの後ろから声が聞こえた。振り返ってみると、そこには昨晩会ったエルンストが佇んでいた。
「上着、破れてるよ」
 指摘され、改めて上着を確認すると裾に近い部分が確かに破れていた。何かに突っかけたような鈍い破れ方で、そう大きくも無いので気付かなかった。
「あ、本当」
 ジムゾンも初めて気付いて声を上げた。
「そういや昨日、避けようとして剣が引っかかってた気がするな」
 ジムゾンは雑のうを探ろうとしたが、エルンストが申し訳無さそうに笑ってそれを制した。
「僕が直すよ。これでも仕立て屋の端くれだから。親父さーん!椅子一つ貸してくれる?」
 エルンストが持っていた荷袋を開けると、そこには裁縫道具やら布切れやらが詰まっていた。ほどなく椅子が運ばれ、エルンストはディーターの脇に腰掛けて上着の繕いを始めた。さすが手馴れたもので、エルンストの手はスイスイ動く。ジムゾンも身を乗り出してその様子を見学していた。その間、お互いの自己紹介も始まった。
「へえ、じゃあ神父さん達は西部から来たんだね」
「ええ。エルンストさんは、どちらのご出身なんですか?」
「僕はここからもっと南のチロルさ。チロル伯領のインスブルック。シモンはお隣さんで、幼馴染なんだ」
「この町には、シモンさんとお二人で?」
 エルンストの手が止まった。なにか拙い事でも聞いたろうか、とジムゾンは焦ったがエルンストは感慨深げに天を仰ぎ、笑顔を向けた。それは本当に屈託の無い笑顔だった。
「偶然なんだよ。ほんと、奇蹟みたいな偶然ってあるんだね、神父さん」
 エルンストはこう言った。町を出てからはお互いどこに居るのかも知らなかった。エルンストはプラハの仕立て屋の弟子になり、マイスター試験に合格したので故郷に帰る所だった。本当はレーゲンスブルクからすぐミュンヘンまで行こうとしていたのだが、ゆっくり行って体に無理がいかないようにしようと、この町に立ち寄った。そして本当に偶然、この宿屋でシモンと再会したのだ、と。
 話が終わる頃には再びエルンストの手が止まり、広げて見せたディーターの上着は、綺麗に繕いが終わっていた。


+++


 謝礼は要らないという事で、せめて酒の一杯でもと勧めたが、エルンストは笑って固辞した。なんでも、今はこの町に留まって短期ながらただの徒弟として仕立て屋で働いているのだという。恐らく、シモンの世話をする為なのだろう。意気揚々と出て行くエルンストの後姿を見送りながら、ディーターが妙な事を囁いた。
『女だな』
『は?』
『エルンストだよ。あいつ、女だ』
 ディーターの手のひらが、叫びそうになったジムゾンの口を間一髪で塞いだ。口を塞がれたままジムゾンは目を左右に動かし、誰にも気付かれていないと解るとホッと胸を撫で下ろした。
『な、何を根拠に』
『手だ。手を見ててピンときた』
 ジムゾンは目を見開き、ふがっという声と共にディーターの手のひらが振動する。
『いやらしい!』
『何で手ぇ見てただけでいやらしいになるん――』
 ディーターが囁きを途中で止めた。ジムゾンは、一体何事かとディーターの視線の先に目を向ける。窓の外に見える通りには何故か、先程出て行ったばかりのエルンストを中心にして人だかりができていた。いや、人だかりではない。エルンストを取り囲んでいるのは兵士達だ。よくよく見てみると、エルンストと向き合う形でロタールとヨハンの姿があった。
「どうしたんでしょう。また尋問?」
「様子が変だな」
 そうこうしているうちに、エルンストは半ば無理やり連れて行かれそうになった。ディーターが制止するのも間に合わず、ジムゾンは店を飛び出していた。
「その方がどうかしたのですか」
 ジムゾンが問うと、ロタールらは一斉に振り返った。
「これは神父殿。またお一人でお出かけですか」
 ロタールは別段驚いた様子も無く嫌味を返す。
「今日は連れと一緒です。それより、その方は」
「フォン・ブランシュよりお聞きになったやもしれませんが、先日この町で事件が起きましてね。現場付近でこの仕立て屋を見たという証言があったのですよ」
 事件、とロタールが口にした瞬間、エルンストは僅かに身を震わせた。
「ええ、叔父様から聞きました。ですがブラザー、あなたのお役目はもう終わった筈なのでは?噂による混乱も治まっているというのに、これ以上何をしようと言うのですか」
 何時に無くジムゾンは強気だった。相手が共有者で無いと解った途端にこれか、と、遅れて出てきて後ろから傍観していたディーターは思わず苦笑いを浮かべた。実際、ジムゾンにはロタールを追及するに足る理由と、立場がある。ロタールは表情こそ崩していなかったが、ジムゾンの登場に苛立っている風は感じられた。
「もしや、あなたご自身が妙な噂を信じているのではないでしょうね?」
「滅相も無い」
 即座に返ってきたロタールの言葉に焦りはなかった。
「そのような疑惑をかけられるとは、同じ主に仕える者として心外です。ですが、あなたのお気持ちも解らなくも無い」
「私の気持ち?」
 ジムゾンは怪訝な表情で問い返した。対するロタールはというと、苛立ったような雰囲気は完全に消えうせ、表情には余裕さえ浮かんでいた。ロタールはジムゾンの前まで歩み寄り、恭しく跪いて手を取った。ジムゾンは反射的に手を引っ込めようとしたが、更に上から手を重ねられて掴まれ、どうにもできなかった。
「昨夜は本当にご無礼申し上げました。神父殿がお怒りになるのもご尤も、そのお怒りが私に向けられるのも致し方ないことと……」
 ロタールは大仰に悲しげな表情を浮かべて嘆き、ジムゾンに許しを請う。
「私は、怒ってなんて」
 ロタールへの言及が全くの私怨にされてしまい、多少そういう気持ちもあったジムゾンは否定できずに戸惑った。先程までの威勢はどこへやら。ジムゾンは今や完全におされていた。
「それを聞いて安心致しました」
 立ち上がると、ロタールの表情は元に戻っていた。
「神父殿は誤解なさっているのです。たしかに私は混乱を鎮めるように、との命を司教会には受けました。ですが、フォン・ブランシュからの命は事件の捜査です」
「あっ……」
 元々マテウスは事件解決の為に司教会に相談していたのだ。人狼を信じるも信じないも、単に犯人探しをしているのなら何の問題もない。証拠も何も無いまま追及したのでは、本当にただの私怨である。ジムゾンは最早返す言葉もなかった。
「司教会から帰還命令が出るまでの間は、きっちり捜査を続けるつもりです。全ては主の御心のままに。これで結構ですかな?ではごきげんよう、神父殿」
 舞台上の役者の如く一礼をして、ロタールとその部下達はエルンストを連れて去っていった。見物人は散り、通りは再び人が流れ始めたが、ジムゾンはなおも呆然と道の真ん中に佇んでいた。ディーターに後ろから肩を叩かれて、ジムゾンは漸く我に返った。
「エルンストさん……どうなるんでしょう」
「さあな」
 ディーターはそっけない言葉を返したが、表情は険しい。
『人間だから白なんだろうが、ロタールにはそれを調べようもない。無罪放免になればいいが、捜査のやり方によっては女だとバレるかもな。そうなればマイスター資格は剥奪、運が悪けりゃ牢獄行きだ』
『そんな!』
 ジムゾンが囁いた瞬間、後方で重い物音がした。二人が振り返ると、そこには地面に崩れ落ちたシモンの姿があった。騒ぎを聞きつけて宿から出てきたのだろう。
「だっ。大丈夫ですか?」
『どういう事なんだ。どうして、あいつが』
 駆け寄ったジムゾンに目もくれず、シモンはただエルンストが連れて行かれた道の先を凝視していた。
「あなたが、シモンさん?エルンストさんのお友達の」
 ジムゾンが問いかけるとシモンは無言で頷いた。
『それよりもエルンストは。一体誰があいつを』
『いいから取敢えず立て。ここは目立つ』
 ディーターは有無を言わさずシモンを起こし、三人は一旦宿屋へと引き上げた。


+++


「……あんたらの推測どおり、エルンストは女だ。本当の名前はエルナ・ツァイス」
 締め切った宿屋の一室で、シモンは寝台に腰掛けてぽつりぽつりと話し始めた。
「エルナは元々、母親と二人で山間の町ステルツィングに住んでたんだ。ところが、インスブルックで代々続いた仕立て屋を継いでいた親父さんが病死してね。後継ぎが必要になった祖父さんから呼び出され、以来男として、仕立て屋になるよう育てられてたと言っていた」
 シモンは縋るような瞳でジムゾンを見る。
「仕方なかったんだ。あいつは、家を絶やすわけにも行かなくて」
『俺達は組合と無関係だからそれはいい。事件そのものへの関与は?』
 淡々と問うたディーターにシモンも囁きで返した。
『無い。あの事件の被害者は俺が喰った。第一エルナはその頃まだここに来ていなかったんだ』
 それはあまりに明確な事実だった。事件の起きた時この町に来ていなかったのなら、関与のしようがない。
「全く事件とは関係ないんだな」
 ディーターの問いに、シモンは無言で頷いた。
「そんな……では、一体誰がこんな嘘を」
 嘆息するジムゾンの問いかけにシモンは見当がつかない、といった風に首をかしげ、ディーターは腕を組んで考え込んだ。
「そこが問題だな。エルナが女だと知っていて、惚れていたような男は?」
「いや。故郷でもエルナの正体を知ってる人間は家族と俺くらいのものだった」
「エルナがここで勤めてる仕立て屋は?」
「場所は聞いた事があるんだが、行ったことが無いからな……人間関係がどんな物かまではわからない」
 考えは行き詰まり、暫くの間部屋は沈黙に包まれた。日のあるうちは大きな行動もできず、考えていても埒はあかない。ディーターはやおら顔を上げるとジムゾンに向き直った。
「ジムゾン、お前は城に行って、ロタールかあの従者の男あたりから何か聞き出せないか探ってみてくれ」
「ええ。でも、ディーターは?」
「俺はここに残って調べたい事がある」
「じゃあ、帰りますね」
 そう言って席を立つジムゾンの背中に、後ろからシモンが問いかけた。
「何故?あんた達には何も俺達を助ける理由なんて無いだろう」
「理由ねえ……」
 ディーターは天を仰いで頭をかいた。
「無いな、たしかに」
「服を繕い直して頂いた恩がありますっ」
 即座にジムゾンが反論した。
「叔父様も今回の件では困惑されています。解消する意味でも。それに、主の思し召しですから」
 今更思い出したかのように、ジムゾンは胸元に引っ掛けていたロザリオを持ってシモンに見せた。
「……すまない」
 シモンはどこか複雑な表情で力なく笑った。


+++


 城の地下、今は殆ど使われていない古い牢獄に、エルナの姿はあった。石造りの城の地下は日も殆ど入らず、奥の牢獄では朝の訪れも解らない。長らく使われていなかったとはいえ、岩肌にはかつて使われていた頃の面影である黒い染みが残り、頑丈な鉄格子は所々歪んでいた。突然こんな場所へ押し込められて、すっかり気が滅入ってしまったエルナは、小さな木の丸椅子に腰掛けようともせず、冷たい石の床の上で膝を抱えて蹲っていた。
「この者があの恐ろしい人狼だと言うのかね?」
 遠くからエルナを眺めていたマテウスは怪訝な表情でロタールを見た。
「人狼などという化け物は存在せんのです」
 ロタールはぴん、と口ひげを跳ね上げて反論する。
「伝説に乗じて殺人を正当化しとるだけでしょう」
「だが聞けば、この者は事件の後にここへ来たと言うではないか」
「苦し紛れにそう申しておるのでしょう。事件をこの町で起こし一時は去った。が、証人を作れば問題は無いと舞い戻ってわざわざ仕立て屋に勤めるような真似をしたのですよ」
 マテウスはうーんと唸って考え込む。
「戻って来る理由が解らない。そして、面識も無いスリを殺したという理由もだ」
「それはこれから調べてゆきます。まあ恐らくこの男が下手人と見て間違いないでしょう」
 しかし既にエルナは牢獄に入れられており、ロタールの口ぶりには本気で調べるような様子が微塵も感じられなかった。二人は何事か話した後に地下から出て行った。地上とを隔てる扉が閉じられる重い音を聞きながら、エルナは再び項垂れた。それからさして時も置かず、何処からか小さな足音が聞こえてきた。
「誰」
 地下に入ってきた人間はあの嫌な審問官と城主の二人だけ。そして二人は出て行って、地下には自分以外誰も居ない筈。足音がする事からして亡霊でもあるまいが、唐突な足音は酷く不気味で声は自然と震えてしまう。やがて人魂のような小さな光が鉄格子の前に現れて、音も無く地面に下りた。よくよく見ると、人魂のように見えたそれは真鍮製の皿に載せられた蝋燭だった。エルナが驚いて顔を上げた先には、なんと昼間酒場で会った神父・ジムゾンの姿があった。ジムゾンは小さく微笑んで、沈黙を促すように唇の前で指を立てて見せた。
「この地下室にはね、地上への抜け穴が幾つかあるんです」
 ジムゾンは肩からかけていた鞄から紙切れと鉛筆を二揃え取り出すと、片方を鉄格子から差し入れた。
「残念ながら、ここの鍵は持ち出せませんでしたが……きっと出してあげますから」
 エルナはただただ驚くばかりで、叫ぶより何より、何から聞いていいものやら解らないでいた。
「さて、突然なのですが」
 ジムゾンは言葉を切って地面に紙切れを置き、鉛筆を走らせた。
“誰かに恨まれたような覚えはありますか?”
 そう書いた紙切れを一旦エルナに見せ、すぐにその下に書き添える。
“盗み聞きされると悪いので、念の為筆談でお願いします”
 するとエルナも鉛筆を取って紙切れに書き込み始めた。
“ない”
 短い言葉を見てジムゾンは続ける。
“では、あなたが女性だという事を知っている人は?”
 ギクッとした表情のエルナに、ジムゾンは知っていますよ、と言うように微笑んで頷く。エルナは戸惑っていたが、すぐに短く返事を綴った。
“家族とシモンだけ”
 シモンが言っていた通りの返答だった。ジムゾンも、ディーターが手のことに気付くまでエルナが女性だとは思いもしなかった。女性として器量が悪いというわけではない。寧ろそれなりに良い方なのだが、男装があまりにも自然で頭から男だと決めてかかってしまっていたのだ。エルナが感知しない、彼女に思いを寄せる人間の存在も無いわけではなかろうが、どうも色恋絡みの線は薄そうに思えた。
“有難う。また、何かあったらここに来ます”
 そう書き綴ってすぐ下に続けた。
“もし変な扱いを受けたり、命の危険があった時には、ジムゾンを呼べと言って下さい。ここの城主は私の親戚ですし、異端審問官より私の方が位階は上です”
 驚いて目を白黒させているエルナに、ジムゾンは黙って苦笑いするだけだった。鉄格子ごしにエルナの鉛筆と紙切れを回収し、紙切れを蝋燭の炎に翳した。紙切れはあっという間に火に包まれ、炭になった。ジムゾンはその炭を何も書いていない紙切れに包んで鉛筆と共に仕舞い込み、エルナに別れを告げて去っていった。


→第三話