【轍のバラッド:第五話】

 青い闇夜に鋭い金属音が幾度も響く。気付いて灯る明かりは無く、路地裏の剣劇に観客は誰も居ない。
「何故だ」
 鍔迫り合いから放れてヨハンが短く呟いた。ヨハンの額からは汗が幾つも流れ落ち、肩で大きく息をしている。隙だらけのその瞬間にも、目の前のディーターは攻撃を加えようとはしない。
「何故殺さない」
 疲れ切った様子のヨハンにそう問われ、ディーターは困った表情を浮かべて肩を竦める。ディーターはというと、多少息こそあがっているがヨハンほどの疲れは無い。ここまでくると誰の目にもディーターの優勢は明らかだった。
「無益な殺生はしたくないんでね」
「何故だ?お前はあの男に雇われたんだろう?」
 ディーターの返事を待たずにヨハンが言葉を続ける。
「教皇庁にも見逃されているんだ。ただ一人で追っている俺を殺しても人狼だという証拠にはならないのに」
「なんだそりゃ。教皇庁だって?」
 何も知らない風を装って問うディーターに、ヨハンは自嘲気味な笑顔を向ける。
「お前は知らないだろうが、教皇庁には極秘裏に人狼の討伐機関が存在する。俺がまだバイエルンの騎兵だった時、立ち寄った廃墟の地下に隠されていた禁書にそう記されてあった。俺はそれを元に早速教皇庁へ書簡を送ってあの男の事を知らせたが、一切の回答は無かった。そればかりか、俺の頭がおかしいんじゃないかと審問にかけられそうにすらなった」
 ディーターは目を丸くした。証拠となる書物が残っていたとは驚きだった。物心ついた頃からずっと旅を続けてきて、大方の土地は回っていたが、人狼と教会との繋がりに関してはニコラスに聞いて初めて知ったのだ。内容上書物として残すに適切な物でもない。それゆえ、あくまで口伝えなのだろうと思えていたのだが、教皇庁は何時の世でもそれを知る必要性がある。何時までも語り続けられるニコラスのような存在が居ない以上は記録を残すのも止むを得なかったのかもしれない。
 教皇庁が無視したというのは当然の結果だった。人狼の成り立ちから考えれば、単に殺しても意味は無い。もしその方針ならば今頃人狼は駆逐されこの世に存在しない。この点からしてヨハンは人狼の起源とその理由までは知らないようだ。もしそこまで知っていれば、教皇庁は何が何でもヨハンを始末するか内部に取り込むかするだろう。
「あんたはそれで修道士になったのか」
「半分は強制だ。今すぐ神の教えに立ち返るというのなら不問にすると言われて。……新教への改宗も考えたが、そうなると、教皇庁に居るとかいう占い師達の助力も仰げないからな」
「人狼に、占い師ねえ」
 ディーターは明後日の方向に顔を向け、すぐにヨハンへ視線を戻した。
「言っておくが、俺はあいつに雇われたんじゃない。あんたから変な疑惑を持たれて命を狙われて困っていると聞いて、ここに居る間見回りだけでもしてやろうかと思ったまでさ。親友も捕まえられて難儀してるようだったしな」
「馬鹿な!あの男と俺は顔を合わせた事も無いんだ!何故知って……。そうか、それも人狼の能力の一つなのか?クソ、気付いてないと思っていたのに」
 ヨハンは忌々しげに吐き捨てて歯噛みする。
「ともかく、悪い事は言わねえから大人しく帰れ。俺だって眠たいんだ。何時までもあんたの妄想に付き合ってられねえ」
「妄想だと?!」
 激昂したヨハンが吼えた刹那、その背後から冷たい声がした。
「紛う事無き妄想だとも。ヨハン」


+++


 何時の間に現れたのか、ヨハンの後ろにはロタールを乗せた馬が一頭佇んでいた。後続の兵士らが馬蹄の音を響かせて到着する中、ロタールは馬から降り、その後ろに乗っていたジムゾンも降ろした。
「まだそんな事を言っていたとはな」
 ロタールは地面に突き立ったままになっていた斧を引き抜いて訝しげに眺めた。ヨハンはというと、振り返ったまま立ちすくんで悔しげな表情を浮かべていた。
「聞けば、神父殿やフォン・ブランシュに、私がおとぎ話を信じて調べているなどと吹聴して回ったそうだな」
 ヨハンは何も言い返せず視線を逸らした。ディーターは二人の様子を見ながらため息をついて剣を納める。身なりにそぐわぬ精緻な装飾の施されたその剣が気になったのか、鞘に納めてしまうまでをロタールはじっと目で追っていた。
「戦場で悲惨な光景を見た衝撃は理解する。そしてその所為で精神を病んでしまった事も。それゆえお前を院へ引き取ったが、ここまで妄想が深刻だとは」
 ヨハンは何事か言いたげだったが、瞬く間に兵士らに取り囲まれてしまった。やがて兵士らはヨハンを連れて引き上げて行った。
「ヨハンさんはどうなるのですか」
 兵士らを見送っていたジムゾンが不安気にロタールを見上げた。問われたロタールはどこか呆れたような視線をジムゾンに向ける。救おうとしていた男の命を狙っていた者の心配をするなど、何処までお人よしなのか。そう言いたげな表情だった。
「早急にプレンツラウへ戻して審問にかけます。なに、恐らく謹慎程度で済むでしょう」
「どうしてですか?」
「あの男にはどういうわけか教皇庁直々のお達しが来てましてね。戦場での体験が生んだ妄想ゆえ、寛大な処置を求めると。まあ今時、異端審問もはやりませんからなァ」
 どこか当てつけのような調子だった。ディーターが不思議に思ってジムゾンを見ると、ジムゾンはさり気なくロタールから目を逸らしていた。恐らくそういう陰口を叩いていた所を見咎められでもしたのだろう。
「さて、では戻りますか。非常識な時間に門を開けて貰いましたから、フォン・ブランシュにもお詫びしなければ」
 半ば無理やりジムゾンを馬に乗せ、ロタールはディーターに向き直った。
「私の部下が迷惑をかけたな」
「いや。いい運動になった」
「華美な場所が苦手なのは結構だが、こののほほんとした主を野放しにしないように」
 そう言ってロタールも馬に跨った。今の言い方からすると、ジムゾンの連れだと解ったようだった。ジムゾンはこちらを見て不思議そうな顔をしていた。恐らくは剣で解ったのだろう。ジムゾンの父に貰った剣は如何にも値が張りそうな立派な物で、仮にディーターが傭兵だとしても不釣合いだ。
「迷惑料ってのは出ないのか」
 去り際に呼び止められたロタールは、馬上からディーターを見下ろした。ディーターは口の端に笑みを浮かべたまま続ける。斜に構えるその様は因縁をつけるならず者そのものである。
「たとえば小さな馬車の一つくらい。シモンは足が不自由で、里に帰ろうにも帰れない身なんでね」
「法外だ」
 ロタールは眉間に皺を寄せる。馬は高価だ。たとえば立派な馬と馬車、馬具の一式を揃えるとなると職人十年分の給料に値する。無論、そこまで揃えろと言っているわけではないのだが。
「……でも、エルンストさんが」
 ロタールの背後でジムゾンが呟く。囁きで事の顛末は一応聞いていた。切欠を与えたのはジムゾンだが、大元であるエルナ捕縛の事態はヨハンが蒔いた種でもある。
「エルンストがどうしたって?」
 ディーターがわざと大きな声で聞くと、それを遮るようにロタールが口を開いた。
「解った。なんとか用立てよう」
 舌打ちこそしなかったが、ロタールは眉間の皺を更に深くして馬首を返す。馬はあっという間に走り去り、振り返ってこちらを見るジムゾンの顔もすぐに見えなくなってしまった。残されたディーターは静寂を取り戻した路地に佇み、ふっと上を見上げた。見上げた先の宿屋の窓には同じくこちらを見つめるシモンの姿があった。特に囁く事もなく、ディーターは小さく笑って宿屋へ戻って行った。


+++


 翌朝、ジムゾンは漸くディーターを城に伴い、叔父ら家族へ挨拶に行った。ミュンヘンまで護衛するか、馬を贈るなりしようかとの申し出を受けたがジムゾンはこれを固辞した。そもそも自分の実家の名前を出してどうこうする事自体をすまいとしていたので、これ以上助けを借りるわけにもいかなかった。ただ、これからチロルへと戻るシモンの為に、硬く焼きしめたパンや干し肉等の食料、それに燻製ビールを一樽を分けて貰った。今頃宿の彼の元へ届けられている事だろう。
「しかしたった一人の連れで本当に大丈夫なのかね?ミュンヘンも最近漸く機能が回復したばかり。王が戦死したゆえ彼奴らも今はなりを潜めているが、また何時南下してくるか」
「有難うございます。でもご心配には及びません。常に情報収集はするよう心がけていますから。……それよりも、あんな事になってしまってすみませんでした」
 ジムゾンは申し訳無さそうに俯いた。
「いいんだよ。特に困る事でもないし、元はと言えばあの見習い修道士が起した事だ。事件の真相は解らず終いだが、夜警をもっと強化させれば少なくともこれからには対処できるだろう」
 マテウスは明るく笑い、ジムゾンは心からの礼を言った。


+++


 大通りまで出ると、宿の前にシモンとロタール達の姿が見えた。その脇には約束どおり、馬一頭と幌の無い小さな馬車が用意されていた。馬はスウェーデン騎兵隊が乗るような駄馬だったが、荷を引き、山岳地帯を越えるには寧ろ適しているだろう。馬車には既に荷物が積まれ、旅に備えてきちんと衣服を整えたシモンがロタールに礼を言っている所だった。おろしたての茶色いダブレットはエルナがシモンの為に仕立てていた物だ。
「シモンさん」
 呼びかけるとシモンは何時ものような力無い笑みを向けてきた。
「神父さん。それにディーターも。色々と、本当に有難う」
「いいんですよ」
 ジムゾンは微笑み、ディーターも返事の代わりに頷いた。
「ブラザー・ロタールも。有難うございました。本当に用意して下さるなんて」
「あなたに礼を言われる筋合いはありませんが」
 ロタールもまた何時ものように愛想の無い表情を返す。
「方向性は違えど、曲がりなりにも聖職者ですからな。嘘はつきませんよ」
 そっけない調子のロタールにジムゾンは珍しく微笑んだ。最初の頃は嫌な物でしか無かった嫌味だったが、彼なりの表現なのだと思えてきた今は不快では無かった。あれだけ疑い深いにも関らず、部下であるヨハンの言葉は裏も取らずに頭から信じていたのだ。しかも彼にとってヨハンは妄想癖という前科があったのに、だ。曲がりなりにも聖職者。彼の言葉の通り、異端審問官という役職ゆえの疑い深さなのであって、きっと心根は聖職者らしく純粋なのだろう。
「お元気で」
「そちらこそ。くれぐれも一人で城外野宿などされませんよう」
 最後の最後まで皮肉だらけの言葉にジムゾンは苦笑すらしてしまう。手を取ろうとしたロタールの手を逆に掴み返し、その体を緩く抱き締めた。目上に対する大仰な挨拶を嫌がる前に、自分からこうして対等な聖職者としての挨拶をしていれば早かったのだから。ロタールは一瞬固まっていたようだったが、すぐに背中に手が回された。
「いやに大きなビール樽の中身にもどうぞ宜しくお伝え下さい」
 耳元でそう囁かれ、ジムゾンは吃驚して顔を上げた。
「大した役者ですよ。ブラザー・ジムゾン」
 そう言ってロタールは二三度強く背を叩き、初めて普通の笑顔を見せた。ジムゾンも釣られて大きな溜息と共に笑い、お互いの体が離れた。ロタールはすぐさま踵を返して馬に乗ると、兵士らを率いて大通りを北方向へ消えていった。
『何だ?』
 ディーターの訝しげな囁きが聞こえたが、ジムゾンはただ恥ずかしそうに笑うだけだった。


+++


 シモンを見送った後でジムゾン達も南門から町を後にした。暫く街道を歩いていると、舗装が途切れて道が土に変わった。土の上に比較的新しい轍を見つけたジムゾンは、歩きながらそれを目で追っていた。やがて曲がり角まで来た所で足を止め、ディーターもまた足を止めた。
「なんかあったか」
「この轍」
 ジムゾンは轍を指し示してディーターを見上げる。
「あいつらのかもしれないな」
 ディーターは遠く前方を見やるが、もう馬車の後姿は見えない。
「それもそうですけど。そうじゃなくて。ほら、シモンさんが言っていたでしょう。両方の車輪が重なり合う事は無いって。」
 ジムゾンはピン、と指先を伸ばし親指を上にして自分の両脇に揃えて見せる。
「ああ」
 ディーターも漸くシモンが以前言っていた言葉を思い出したようだった。
「だけどほら」
 ジムゾンは腕を下ろし地面を指し示した。示す先には、曲がる際に交差した轍があった。
「たとえ車輪が重なり合えなくても、所々ではこうやって、轍は知らない間にちゃんと交じわっているんですよ」
 嬉しそうなジムゾンの様子を見ながら、ディーターは口の端だけを上げて笑った。寄せられた眉根がいかにも小ばかにした風だ。
「また真面目に説教ぶってやがる、って思ったでしょ」
 ジムゾンは口を尖らせてむくれ、早足に歩き出す。
「何も言ってねえじゃねえか」
「いいえっ。顔が十分すぎるほど語ってます!」
 ジムゾンは追って来たディーターに向き直り、鼻先に人差し指を突きつけた。
「まあ、日曜ミサで言う分にはいいんじゃねえの?」
 突きつけられた指先を軽くかわし、ディーターはおどけた調子で肩を竦めた。追い越していくその背中を見ながらジムゾンは口をへの字に曲げる。教会が無い事なんて解っている癖に、ロタールじゃあるまいし。そんな事を思って暫く恨めしそうに立ち止まっていたが、やおら走ってディーターを追い越した。
「ところで、まだ聞いてなかったんですけど。どうして謎の騎士がヨハンさんだって解ったんですか?」
 ディーターは見上げてくるジムゾンを暫く見つめてから目を逸らした。
「手だ。手を見ててピンと来た」
 ジムゾンは首を捻って思い出そうとするが、どうにもよく解らなかった。
「初めて見た時から、ああ、こいつ元は騎士だなと解ったんだが、騎士やめて修道士になる奴なんてそう珍しくないだろ。だから最初は別にどうとも思わなかった。ただ、自分が騎士だった事を変に隠してるようで妙だとは思ったな」
 ジムゾンは未だ腑に落ちなかったが、とりあえずは解ったふりをした。暫く他愛も無い話をしながら歩いていると、分かれ道に行き当たった。轍は真っ直ぐ南へ伸び続け、地平線の彼方に消えていた。
「どうやらここで完全にお別れみたいだな」
「そうみたいですね」
 馬車のシモン達は真っ直ぐミュンヘンへ向かうのだろう。恐らく今日の夜には辿り着く。徒歩のジムゾン達はあくまで街道をなぞって、今日の宿泊予定地である街道沿いの町へと向かう予定だ。
「良い旅を」
 遠く晴れ渡る南の空を仰いで、ジムゾンは街道へ戻った。


+++


 草の絨毯がオレンジ色に染まる中、シモンはゆっくりと馬車を進めていた。荷台に載せられた大きなビール樽は蓋が開けられ、シモンの傍らには寄り添うように座るエルナの姿があった。
「シモンと旅をするのなんて、初めてだね」
 エルナはそう言って大きく背伸びした。長時間身を屈めていた所為か、未だに違和感が拭えない。昨晩、夕食を置いて去ろうとしたジムゾンから作戦を聞かされた時はまさか成功すると思ってもみなかった。
 手順はこうだ。先ず、地下室にある抜け道からエルナが塔の上階へこっそり移動する。普段人の来ない貯蔵庫があるので、そこでじっと身を潜めていた。そしてジムゾンはエルナが逃げたとわざと騒ぎ立て、兵士の目を逸らしながら古い武器が詰まった麻袋を城壁から落す。更に混乱している演技をしてロタールを宿へ導く。そして無事ヨハンが捕えられた暁には、エルナの入った特大のビール樽がシモンに届けられる。
 ジムゾンの演技は見事な物だった。虫も殺せないような顔をしているので、嘘をついたり演技をするなどとてもできそうにないと思っていたのだがロタールは見事に騙されていた。しかし麻袋が無い事に気付かれたのか、最終的に作戦は露見してしまっていたようだったが。
 城主にはジムゾンがこっそり真相を話していたようなので、これで万事解決である。ただ、腹を空かせたシモンの餌食となってしまったスリの男は不幸だったかもしれない。エルナはシモンが人狼である事を改めて思い出したが、もうそれも今はどうでも良かった。
「チロルはどうなってるんだろう」
 エルナは徐々に藍色に染まり行く空を見上げ、傍らで馬を操るシモンはエルナを一瞥して微笑んだ。
「変わってないさ。空も、山も。人も」
 山に囲まれたチロル伯領にはまだ戦火も及んでいない。土地柄からしても馬蹄に蹂躙される可能性は低かろう。プラハに居た頃は一時ミュンヘンまでもが陥落したと聞いて、毎日気が気では無かったものだが、これで漸く落ち着ける。
「ああ。早く皆に会いたいな」
 呟いて見つめる前方には大きな町の影が見えていた。ミュンヘンはもうすぐだ。不意にシモンに目を向けると、シモンもまたエルナに目を向けていた。お互いに懐かしさと期待で一杯で、照れくさそうに笑った。馬は相変わらずゆっくりと歩を進め、残照に包まれる草原にくっきりと残る轍は、遥か南の懐かしい山へと続いていった。


おしまい




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