【青の楽園 第十話】

「顔色悪いぞ、ジムゾン。」
階下に下りるとオットーが挨拶もさておいて心配そうに声をかけてきた。それくらいにジムゾンの顔は血の気が無く、足元は今にも崩れ落ちそうにふらついていた。
「まさかディーターに別の意味で襲われたんじゃないだろうな。」
あまりに真剣な様子でオットーが聞いてくるのでジムゾンは苦笑して首を横に振った。まだ先程見た焼印の事は言えなかった。本当の本当にディーターがそうだと思える証拠でも無い限り言いたく無い。
もし本当に一連の事件に関っていたとするならあまりにも無防備だ。眠りこけている所であの布を外して見られたならバレてしまうのだから。 けれど何故言ってくれなかったのだろう。全く関係の無い焼印だったのなら言ってくれれば良かったのに!
そこから自然と導き出されてくる恐ろしい推測に、ジムゾンは何時の間にか涙をこぼしていた。
「…いや確かにあいつ、妙にお前にべったりしてるとは思ってたけどさ…。」
色々と勘違いしてしまっているオットーに、本当に何でも無いと言いながらジムゾンは台所へ向かった。

カウンター側の調理台に立つと窓越しに遠く空が見えた。もうじき日も昇る。今日も一日きっと良い天気になるだろう。爽やかな外の景色に少しだけ心を落ち着かせ、じゃがいもを台に並べる。視界を何かが掠めて顔を上げるとヨアヒムがカンテラ片手に大あくびしながら外を歩いていた。

「やあおはよう。…今日は何も無いな?」
パメラまで地下行きになったという事もあってか、ヴァルターが何時もより早く起きてきた。服も髪型も何時ものように一分の隙も無く整えられているが、目にはクマが出来ており疲労の色は隠せない。
「今のところは。」
「おはよーございます…。」
少し遅れてペーターも降りてきた。片目をごしごし擦ってまだ眠たそうだ。子どもが起きるには早い時間だが、この状況で三階に残しておくわけにも行かなかっただろう。
「おはよう、ペーター。」
「おはようございます、村長さん、ペーター。」
調理の途中でジムゾンもかけてきた。
「村長さん、ちょっとお伺いしたい事があるんですが…。」
「うん?」

ヴァルターは言われるままに近くの椅子に座り、ジムゾンは椅子の向きを変えて向かいになるよう腰掛けた。
「昨日モーリッツさんが殺害された時、皆があの寝室になだれ込んだと聞きました。」
「そうか、お前はあの時居なかったんだな。」
「はい。それで、皆がかけつけた時の順番を知りたいんです。」
「順番か…。私が着いた時にはトーマスとヨアヒム、それからペーターが居た。ペーターは子どもだからな。私が気が付いた時には既に部屋から飛び出していたよ。それから私の後からオットーが来て、最後にディーターが来た。オットーが来るまでは大して時間差は無かったように思うが、ディーターは少し遅れて来たな。」
「ディーターが最後に…。」
ジムゾンは呆然として呟いた。
「ああ。外に居たから遅くなったのではないかな?」
ジムゾンは釈然としないまま調理へと戻った。ディーターが遅れて最後にやってきたという事実があった。もしディーターがモーリッツを殺し、その後始末なりをしていたと考えるなら実に自然な遅れだと思えた。けれどそれだけでは立証に足りない。
本当なら手の甲にあった“666”も十分な証拠なのだが、それだけでディーターが人狼だと思いたくなかった。ゲルトの説では人狼は血も涙も無い存在だ。今までのディーターとの他愛も無い会話の一つ一つが、全ての出来事が、すべてが嘘だとはジムゾンにはどうしても信じられないのだった。
それでもディーターには何かおかしな点があった筈だった。その事さえ思い出せれば…少しはあの焼印の事も受け入れられるのかもしれないと思いつつ、ジムゾンの心は暗く沈んでいった。

そのうちに日が昇ってトーマスやアルビンも起き出して来た。
「今日は皆さん、無事みたいですね?」
全員を見回してアルビンはホッと胸を撫で下ろす。そうこうしている間にディーターも下りてきた。ディーターは珍しく厳しい顔をしている。
「よし。じゃあヨアヒム、パン作るの手伝ってくれ。」
オットーは大きく伸びをしてヨアヒムを呼んだ。
「では郵便物を受け取るのは。ディーター、すまんが取りに行ってきてくれ。」
「…わかった。」
ジムゾンの元へ行こうとしていたディーターだったが、ヴァルターに頼まれて渋々表に出た。
「?…余計な事を言ったかな。」
何時もなら二つ返事で快諾してくれるのにと戸惑いつつ、ヴァルターはカウンター席に腰を下ろしてパイプに火をつけた。

ガシャ!ガシャン!と派手な音が続けざまに宿に響いた。フォークやスプーンなどがそれらを載せたプレートと一緒に床へ落ちている。ジムゾンは愕然として宙を見つめ、手はプレートを持った形のままだった。
「ど、どうしたんですかジムゾンさん。」
アルビンは恐る恐る声をかけるがジムゾンの反応はない。やがてジムゾンは猛然とペーターの元へ歩み寄り、目線の高さまで屈み込む。それでもジムゾンの勢いに気圧されてペーターは体を震わせた。
「ペーター。ニコラスさんが殺害された晩、ここに下りたといいましたね?」
「う…うん。」
「その時“ディーターは煙草を吸っていた”と言っていましたが…。ディーターの姿は見たのですか?」
ペーターは首を横に振った。
「居なかったんだ。アル兄ちゃんが言ってたから、そうだろうと思ったんだよ。」
回答を得るとジムゾンは次にアルビンへ目を向けた。普段と違うジムゾンの眼光にアルビンまでもがビクついた。
「アルビンさんは?これまでディーターと一緒に番をしてきて、煙草を吸っている姿は見ましたか?」
「ええーとぉ…。」
アルビンは冷や汗をたらしながら眉根を寄せて考え込む。
「出て行く瞬間とかに吸ってる姿は見ました。でも、その。夜だし、外は暗かったですし。ずっと見えたってわけじゃあ…。」
「!…カンテラも持たずに外へ?!」
「は、はひ…。」
「…ジムゾン。まさか。」
トーマスは愕然としてジムゾンを見た。番をしていた者のアリバイには誰も目を向けてこなかった。言われてみればディーターにはその間のアリバイが無い。

ジムゾンはふらつきながらゆっくり立ち上がる。ヴァルターもトーマスも皆、それぞれに動揺を隠せないでいた。
「違和感はあったんです…リーザを捕えた日に、ディーターは煙草を皆の前で吸っていたのに…。」
「そ…そうですよね。皆の事を気にしないんなら、何も外で吸わなくても…。」
アルビンはすっかり青ざめて椅子にへたりこんだ。
「モーリッツさんが殺された日、ディーターは最後に部屋へ入ってきたと聞きました。多少なりと血がついて、それを落としていたのかもしれません…。おかしいのです!外に居た、一階の近くに居たのに、最後になるなんて!
ニコラスさんの時もそうです。どうやって殺害に及んだかまでは解りませんが…。」
「そうか!ディーターならあの窓から侵入できる。レジーナに嫌疑をかける為に入り込んで、それでわざわざ目立つ場所に…。あの日は特にアルビンが居眠りしていたのだから、機会は幾らでもあった筈だ!」
そこまで言ってヴァルターもまた頭を抱えた。
「地下送りにした者を処分しろと言ったのも頷けるな。怖れていたのは雑音じゃない。レジーナやパメラの口から語られる真実だった。」
険しい顔で腕を組み、トーマスはふとジムゾンに目を向けた。
「しかし何故今になって怪しいと思った?」
「…ディーターの手の甲に…。…。」
「“666”があったのか!?」
ヴァルターの問いにジムゾンは無言で頷いた。
「これは…。アルビン、ペーター!オットーとヨアヒムに至急戻るよう伝えてくれ!」
「は、はいっ!」
弾かれたように立ち上がったアルビンはペーターを連れて走っていった。


テーブルの上には布袋と手紙が無造作に放られていた。釈放されたレジーナやパメラも含めて皆は手紙を手に取るでもなく、テーブルのまわりに集まっていた。
「対岸に渡った、って事は考えられないか?」
「そんな形跡は無かったですね。できない事は無いでしょうけど、時間かかると思います。」
「ではまだ村に潜んでいるのだな…。」
アルビンの報告を受けてヴァルターは取り出した地図をテーブルに広げた。
あのあとすぐにアルビンらはオットー達を連れて戻ってきた。だが、ディーターは何時まで経っても帰って来なかった。不審に思い、トーマスとオットーとでディーターが向かった筈の崖へ行ったが、郵便物の布袋だけが地面に置かれてディーターの姿は何処にも無かった。

「カンのいい奴だ。」
オットーは両手を腰にあててため息をついた。
「森に入られたら私でも見つけようが無い。」
「その心配は無いだろう。」
トーマスは心配げだったがヴァルターは即座に否定した。
「人狼の目的は我々の殲滅だろう?それにあいつだって人間だ。腹も減れば喉も渇く。兎などを仕留めようにも、武器になりそうな物は全部回収してあるから無理だ。だから必ず、この近くに潜んでいる筈だ。」
「じゃあ、全員で捜索しましょう!」
アルビンの提案にトーマスは首を横に振る。
「あの男が暴れ出したら止めきれるかどうかわからない。力の無い者なら返り討ちにされかねない。」
「…トーマスの言うとおりだな。悔しいけど。」
オットーが呟き、全員がまた黙りこくった。
「でもここで皆踏ん張ってるわけにもいかないだろ?」
と、レジーナが言った瞬間誰かの腹が小さな音をたてた。
「なるべく宿から離れないようにして、ディーターに気を付ける。取れる対策はこれくらいしかないな…。」

「本当にいい迷惑だったわ!」
パメラはそう言って大きく伸びをした。
「誰よ、あたしが犯人だなんて言ったの!」
睨まれたオットーは珍しく何も答えずにぷいっとそっぽ向いた。
「あんまり言わないであげて下さい。あれでも結構気にしてるみたいだから。」
「被害者はあたしなのよ!謝罪の一言くらいあってもいいんじゃない?」
おかんむりのパメラをアルビンは必死に宥めた。パメラは暫く憤慨していたが、椅子に腰掛けぽつりと漏らした。
「でも、だからってディーターが犯人だなんて、思えないのよね…。」
「…思いたくないです。」
ジムゾンは肩を落として項垂れた。
「それにね、ディーターはリーザを見つけたでしょ。そんなに簡単に仲間を売っちゃうの?」
「うーん。自分一人逃げ切れると思ったんじゃないかなあ。」
言ったのはヨアヒムだった。
「ほら、リーザって視点をちょっと変えたら凄く怪しかったよね。だからもうディーターには仲間って感覚より“なんて事しやがる!バレんだろがー!”って、感覚だったんじゃないかな。それで自分に疑いが来る前に突き出した。そしたら“仲間を売るなんて、無いよね”ってなって益々ディーターには疑いが行かなくなる。」
「んー…。」
全員は一様に唸って頭をひねった。
「ジムゾン。ちょっと良いかな。」
唐突に声をかけられてジムゾンが振り返ると、奥のテーブルでヴァルターが手招きしていた。


コツン、コツン、と乾いた靴音が響く。内陣の後方にある薔薇窓からは夏の強い日差しが差し込んでいるが、石造りの礼拝堂はひんやりとした空気に包まれていた。
祭壇の前まで歩み寄ってジムゾンは足を止めた。ぐるっと周囲を見渡すが、何の気配もしない。
「…怪しんで出てこないと思うんですけど…。」
ジムゾンは誰に言うでもなく呟いてため息をついた。
礼拝堂の外の茂みにはオットーとトーマス、そしてアルビンが身を潜めていた。ジムゾンにはわざと目立つように礼拝堂に向かわせた。接触を図ろうとディーターが現れた時を一気に捕まえるという手はずになっている。
「案外俺たちの行動も見てたりしてな。」
「それは無いですよ。わざわざ森経由して来たのに。」
「しかし暑い…。」
オットーはシャツの襟元を指で押し広げて風を入れようとぱたぱた動かした。茂みは深く陽光もある程度しのげるが、それでも暑いものは暑い。
「工房の方が暑いんじゃないですか。オーブンあるし。」
「あそこはこんな嫌らしい暑さじゃない。」
などと二人が無駄話をしていると急に向かい側の茂みに居たトーマスが体を起こした。
「え?どうかしました?」
アルビンの問いにも答えず、トーマスは階段をかけ上って礼拝堂の扉を勢いよく開けた。
「あっ…!」
遅れて辿り着いた二人は中を見て声を上げた。祭壇の奥にある青色硝子の窓が開け放たれ、ジムゾンの姿はなかった。

「…んっ、んぅっ。」
塞がれた口からは小さなうめき声しか出ない。ジムゾンの口はディーターの手できつく塞がれ、両手は手首を一緒に掴まれて動かせず、体には上からのしかかられて全く身動きが取れなかった。ディーターは外の音に注意していたがオットーらの気配が遠のくと漸くジムゾンを解放した。
ジムゾンは大きく深呼吸しつつ壁にもたれ、ディーターを睨んだ。
「ずっとここに居たんですか。」
「お前を囮にしてくると思ってたからな。」
ふーっと長いため息を吐き出してディーターもジムゾンと同様に石の壁にもたれて座った。
祭壇の裏に潜んでいたディーターはジムゾンを奥の祭具室に閉じ込めた。色ガラスの窓は外に逃げたと思わせる為に開けておいたのだった。案の定、オットーらは勘違いして他を捜しに行ったようだ。
「俺の手の甲を見たんだろ。」
唐突に切り出されてジムゾンは訝しげにディーターを見た。
「黙ってて悪かった。…疑われると思って、言えなかった。」
疑われるも何も、正体がばれるの間違いではないのかと思いつつも、ジムゾンは黙って聞いていた。

「何も無かったわけじゃなかった。」
最初にディーターの口から漏れ出たのはいきなりの否定だった。
「同僚に青の会に誘われた所までは本当だ。俺は一応旧教の洗礼は受けているし、成人していて会費も捻出できないわけじゃなかったから資格はあった。表向きの入会資格はな。」
「…表向き?」
「ああ。つまり“社交クラブ”っつうお前も知ってる表向きの資格だ。だが俺に求められていたのはそれじゃなかった。俺に求められていたのは、前科者という裏の資格だ。」
ディーターは思い出すのも嫌そうに顔をしかめた。
「あの時の俺はせめて人並みになろうと必死で、憧れすぎてて、何故俺みたいな労働者階級の人間に話が来たのか疑いもしなかった。…最初のうちは会の理念だとか何だとか、普通の話をされるだけだった。けれどそのうちに“選ばれた人間だから”だのなんだの言われて別の集会に呼ばれるようになった。そこで行われたのは“人狼”となる為の教育だった。
そこには老若男女問わず色んな人間が居た。青の会と切り離して暗躍する為、通常青の会には入れ無い女が好まれたみたいだな。…色々教え込まれた。サタニズムだとか肉体的快楽主義だとか。とりわけ、青の会を声高に批判する事が求められた。」
「批判?」
「そうだ。ゲルトは言及していなかったが、人狼とは別に似たような組織も作られていた。裏も表も無く、本気で社会に適合し難い性質の奴らばかりで、任務は青の会の批判。方法は何でもいい。近しい人間に吹聴するだけでもいいし、組織を作って反社会的行為に出るのでもいい。
いかにも会とは無関係そうな、社会的におかしな連中が陰謀説を唱えてみせる事で“あんな頭のおかしい連中が陰謀だの何だの騒ぐって事は、いい組織なんだ”と思わせる。敵の敵は味方の法則で会本体に向けられた疑念を取り除くっていう二重構造ってわけだ。
…ともかく俺は、そこで漸く奴らの正体に気がついた。奴らも俺の不信感に薄々感づいてたみたいで、見せしめに焼き鏝で手に刻印を押されちまっていたが逃げ出してきた。」

「追っ手は、来なかったのですか?」
「来た。」
ディーターはさらりと肯定した。
「行く先行く先で死にかけた。その証拠がこの傷だ。」
そう言ってディーターは上着を広げて見せる。
「俺が青の会に入ったのはヴェストファーレンでの事だ。そこからずっとバイエルンまで逃げてきて、結局この町に、この村に戻った。…こんな田舎にゃ居ないだろうと思ってたんだ。」
二人の間に沈黙が流れる。ふいにジムゾンが肩を震わせてディーターはぎょっとした。
「な。何で泣くんだよ。そこで。」
「わかりませんよ私だって。」
怒ったように言いながらジムゾンの瞳からは涙がぼろぼろ溢れた。
「でもディーター。」
手の甲で涙を拭いつつ、ジムゾンは問う。
「どうして夜、外に出たんですか?どうしてモーリッツさんが殺された日、最後に入ってきたんですか?」
「それは…。」
途端にディーターは口ごもった。
「…モーリッツが殺された時は犯人が近くに居ないか調べてたからだ。外に出ていたのは、ただの見回りだ。」
「だったらそう言えば良かったのに!」
ジムゾンは叫んで立ち上がった。
「見回りなら見回りだってちゃんと言えば誰も怪しまなかったんです!カンテラも持たないで、煙草吸うなんて嘘ついて、その方がよっぽど怪しいです!モーリッツさんの時だって、結局手がかりも何も出さなかったでしょう!」
「確証が無かったんだよ!俺が居たのはレジーナの家の方の玄関側、正規の階段はアルビンが見張ってるから他に来ようもない。残された場所はヴァルターがレジーナの部屋を探った時に入った窓だけ。だが、俺の目に触れずどうやって侵入し、殺し、出て行ったのかが掴めなかった!」

ディーターが叫んだ瞬間、木のドアが破られてトーマス、それにオットーやアルビンがなだれ込んできた。二人は一瞬何が起こったのか理解できなかった。お互いの大声で、ドアに体当たりされていた事など気付きもしなかったのだ。
「良かった、無事だったんですね!」
アルビンは嬉しそうに言って額から落ちる汗を拭う。その脇でオットーとトーマスは険しい表情を浮かべてディーターにゆっくり歩み寄った。


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