【青の楽園 第十三話】
入口のような場所にある薔薇。教会のファサードにある薔薇窓はまさにその条件にぴったりだった。 ジムゾンは驚きを隠せないままトーマスを見た。トーマスは腕組して目を閉じており、ジムゾンの様子には気付いていないようだった。気付いた事を悟られないように細心の注意をはらいつつ、ジムゾンはゲルトが残した言葉を再考した。“薔薇”そして“子羊”の条件は満たした。後は天上輝くのくだりだ。 よくよく考えてみると雷鳴に“輝く”はおかしい。雷に対しては“光る”が妥当であって“輝く”という表現は少しずれている。また、発光するのは雷そのものであって、雷鳴は発光しない。となると、これも何らかの比喩になるだろう。 教会の上方にある物と言えば尖塔につけられた十字架と、鐘楼の鐘だ。鐘はゆっくり鳴らせば穏やかで心地よい音をたてる。だが激しく鳴らせばやかましいだけの騒音にもなる。時に表現の手法としてしばしば鐘の音を雷鳴に喩える事がある。そうなると“天上輝く”は鐘でいい。 間違いない。きっと、この教会に隠されている。 最後の一文の謎も判明し、ジムゾンは逸る気持ちを抑えられなかった。 「“666”の文字は、持っていないのですか?」 漸く気持ちを落ち着けてジムゾンはトーマスに問うた。話をしていても対策を考えられるだろし、神学生だった頃ノートに落書きなど他の事に感けていると、すぐに見破られていたジムゾンにとっては考えているフリの方がよほど難しかった。また、トーマスが先程言っていた“使役される者”というのも気になる。 「持っていない。」 「あれは一体何なんですか?必要な物では無いんですか?結社とは、無関係なんですか?」 立て続けに質問されてトーマスは少し呆気に取られてジムゾンを見ていた。が、やがて小さく苦笑を漏らす。 「印は青の会に属する人間が持ち、身の証とするものだ。結社自体に必要な物じゃない。」 「…どうして、結社に?あんな絵空事みたいな事の為に人を殺めるなんて…。」 トーマスが無言で立ち上がったので一瞬逆上したのかとジムゾンは身構えた。 「ではローマ教会の教えは絵空事では無いと?」 そう語るトーマスは、笑みこそ浮かべてはいるがどこか薄ら寒いような物を感じさせた。 「何故聖職者に婚姻が認められない?人が生まれながらに罪負いし存在だからだ。結婚はやがて子孫を残す、罪を継承する行為に他ならず、性交は穢れた物だと言う。にも関わらず人の結婚は神が認め、それができるのは司祭のみとし祝福するだのと恩を着せる。 …欺瞞もいい所だ。所詮は人を絵空事の教義の名の下に縛る仕組みに他ならず、王政となんら変わらない。だがそれを認めない。お前は、一度も疑問に思った事は無いのか?」 「私たちは神の僕にすぎません。」 ジムゾンはぐっと唇を引き絞り、歩み寄るトーマスを見つめた。 「マグダレーネも所詮は人の子。知らないだろう。あれがかつては修道女を志していた事を。」 「えっ。」 「あれは早くに家族を亡くし、私の実家の養女になっていた。つまり、義理の妹だった。」 トーマスの表情にもう笑みは見えなかった。 「家族を亡くした事がそうさせたのか、熱心な旧教信者でな。やがては修道女になるんだと言って足しげく教会へ通い、神父に相談していた。 父や母は当然反対した。マグダレーネは美しかった。奉仕の生活で一生を終えさせるには惜しいと誰しもが思い、私も同感だった。…マグダレーネを、愛していたからな。 なんとか思いとどまらせようと、自分の思いを打ち明けもした。けれどまだ物心つかぬ頃に家へ来たあれにとって、私は兄としか思えないのだとはっきりと言われた。 一時期はあれを養女に迎えた父母を恨みもした。それでも修道女になるのなら他の男の物にはならない。残念だったが、安堵もあった。 しかし、マグダレーネは修道女にはならなかった。」 トーマスは祭壇の前まで来て足を止めた。見上げた先には手を合わせて祈る姿の聖母の像があった。 「あっけなかった。頑なに見えた信仰心の盾は盾ではなく単なる殻という名の氷壁に過ぎず、何かと付きまとい、誉めそやすあの男の熱であっけなく溶けてしまった。 失望した私は上辺だけ結婚を祝うとすぐに配属の変更を申し出た。一時として、傍に居られなかった。あれが気付いて気に病むかとも思ったが、もうどうでも良かった。そして新しい任地で、結社を知った。 軍に所属していた事もあって上部組織の一員となりはしたが、中々その言わんとする所は理解できなかったものだ。カイン派もしくはイルミナティだとお前やゲルトは言っていたが、あんな極端な暴論ではない。だからこそどちらも作られてすぐに無くなったのだからな。しかしやはり、生まれた時から染み付いていた旧教の様式は根強く、地上の楽園という論は理解に苦しんだ。 そして転機が訪れたのが、あの戦だった。 レオンハルトとは部隊が違う上に階級も違ったからさして会う機会は無かった。改めてこちらから会いに行くつもりも無かった。ところがある日に、マグダレーネ本人が私を訪ねてきた。」 「母が?一人で?」 訝しげに眉根を寄せて問うジムゾンにトーマスは無言で頷いた。 「もうその頃には私も心の蟠りが失せ始めていたし、わざわざ駐留地にまで押しかけてくるという事は余程の用事だろうと思って、会った。そして会うなり、泣きつかれた。」 ジムゾンは、さぁっと血の気がうせていくのを感じた。会うなり、泣きついた。その言葉の先に何があるのか容易く想像がついた。いや、何があるのかの可能性の想像が、ついた。けれどどれに行き着いても恐らく聞きたくも無い事には違いない。 つい先程まで、殺されるに足るような悪事をしでかしていればなどと考えていた事をジムゾンは呪った。 「よくある話だ。最初のうちは幸せだったのに。まさかこんな人だとは、と。 レオンハルトは恐ろしいほどマグダレーネに執着していた。結婚するなり行動を縛り、家に縛った。端から言葉だけで聞けば愛情の行き過ぎ程度にしか聞こえまい。だが違う。あの男の行動は常軌を逸し、愛というよりは思うがままにしたいという欲望の具現でしか無かった。 変態的な行為を強要し、マグダレーネが息子…つまり、お前に世話を焼くのにすら嫉妬していたという。現に、その後会ったお前は酷く怯えていた。 私はあの男の友人だ。年月で言えばマグダレーネよりも長く付き合っている。だからこそ、幼い頃からその素行を知ればこそ、どういう人間なのかも良く解っていた。気の強い女ならあの男の我を収める事もできよう。だが優しいマグダレーネではただの餌食になるのが目に見えていた。 あれがレオンハルトとの仲を打ち明けてから結婚するその直前まで私は再三忠告してきた。なのにあれは、私が以前告白した事を覚えていて、私がやっかんでいる程度にしか思わなかった。 今にして思えばただの自業自得だ。しかし当時は私もまだ青くてな…。」 トーマスはため息を一つついて再び歩み始めた。 「こんな事になるのなら兄さんと結婚していれば良かった。やり直せるものなら、やり直したいというあれの言葉を真に受けた。離婚は背教行為。それと知りながら望むのかと。…そして私は戦死に見せかけてレオンハルトを亡き者にした。」 トーマスの言葉を聴きながら、ジムゾンは気を失わないようにするのが精一杯だった。忘れていたはずの幼い記憶が断片的に、しかし鮮明に蘇り、放っておくと歯の根が合わずにガチガチと鳴ってしまう。 大きな声で怒鳴る男に邪魔だと何度言われただろう。目の前で嘆く、自分に良く似た女性は何と言っていただろう。あんたなんて生まなければ良かった? まだ事の善悪も解らないような年だったはずだけど、こう思っていたっけ。どうすれば二人は怒鳴ったり、泣いたり、しなくなるのかと。自分が居なくなれば二人は仲良くなるのかなと。 「あ。…あ、あ。あぁあああああああああああああああああああああ!!!」 頭を両手で抱え目を見開いて絶叫するジムゾンの両肩をトーマスががっしりと掴んだ。いいだけ叫んでジムゾンは漸く我に返る。全身にどっと汗が噴出し、掴まれていてなお肩は荒く上下してしまう。 トーマスはジムゾンの息が整うのも待たずに続けた。 「大した損害も出さずに戦は勝利に終わった。…当たり前だな。相手は素人同然なのだから。戦というのも怪しいものだった。私は残務整理を済ませ、数日後に晴れてマグダレーネを迎えにいった。だが、マグダレーネは死んでいた。」 問いかけるように向けたジムゾンの瞳をトーマスは真っ直ぐに見つめた。 「遺書を残して。…自殺だった。」 「じ…じさ……。」 震えるジムゾンの声を制するようにトーマスが言葉を継ぐ。 「橋の上から身を投げて。私が辿り着いたのは、丁度葬儀の時だった。解るな?マグダレーネの死は、憐れんだ知人らによってかどうかは知らないが事故という事にされたのだ。逃亡した敵兵に追われて、誤って橋から転落したのだと。 私はすぐに嘘だと解った。どう考えてもあれの家にまで敵兵がゆくわけがない。そして幼いお前を引き取ったあの日に、聖書に挟まれていた遺書を見つけた。遺書にはこうあった。 あなたの事を愛してる、あなたの一切を赦しますと。」 「はぁ…?」 ジムゾンは徐に立ち上がり涙まじりで呆れたような声を出した。 「レオンハルトが私に殺されたのだと悟ったのだろうな。それは自分の罪だから、自分がそれを背負うのだと。そういう事だろう。」 「…なんですか。それ。そこまでしておいて。自殺?あなたの為に私は死にます。それで、罪は償われ、はい綺麗に終わります?…はは。ははは?」 そう言いながらジムゾンの顔は次第に怒りの形相へ歪んでいく。どんなに非難しても、嘲笑っても、そうしたい者はもう居ない。声はただ空気に溶け言葉は精神を怒りに染めていく。怒る事は虚しい事。主の御心に反する事。それを知りながらも今のジムゾンには叫ばずにはおられなかった。 「ジムゾン。落ち着…」 「道ならぬ恋をして、それは私の所為なのよで、自分がさも罪を引き受ける子羊のような顔をして自殺?神をも恐れぬ傲慢ですね?なんですかそれ。なんなんですか。ああ美しいですね?美しい美しい。 …ぅつくしいものかふざけるなッ!!!」 礼拝堂に乾いた音が響いた。突然の事に呆然としていたジムゾンだったが、やがて痛みはじめた頬を震える片手で包んだ。幼い頃のように怯えた瞳にうつるトーマスの表情に怒りは無かった。トーマスは同じように痛む手を伸ばしジムゾンを抱きしめた。 「お前を苛む声も、嘆きも、もう存在などしない。」 昔と同じ優しい温もりにジムゾンはただ子供のように身を預けていた。もう何も、考えたくない…。そう思っていた刹那。 「…あの時が、ローマ教会との決別だったように思う。」 トーマスの囁くような声を聞いて、ジムゾンは我に返った。トーマスはゆっくりとジムゾンの体を離した。月光が背になる形となっている所為でトーマスがどういう表情を浮かべているのかジムゾンにはわからなかった。けれど直感的に、笑っているのだと思った。 「作られた礎の為に都合の良い教義がある。その教義の所為で心に罪悪感が生まれて人を死にまで追いやる。破門という言葉一つで生きながらに滅ぼせる。 礎は人だ。何故そこまでする権利があろう。我らの信奉する神とは愛の神では無かったか?ならば何故愛の神が人を縛る。 私ははっきりと悟った。人を救うのは礎というお題目を持った人ではない。人である人なのだと。人を救えぬ教義など要らぬ。ヒエラルキーを生む教義など要らぬ。 偽りの神が二度目の死を迎えた時。その時こそ我々の待ち望む世界が開かれる。地上の、楽園が。」 「なんてこと…。」 ジムゾンは弾かれたようにトーマスの腕から逃れた。 「おいで、ジムゾン。私はお前まで殺そうとは思っていない。」 自然と足は後ろへと進み、ジムゾンが一歩後ろに踏み出す度にトーマスが一歩を踏み込んできた。 「お前がどんなに汚れようとも私はそれを受容れよう。お前に何の強制もすまい。」 「では何故神学校へ。」 当然の問いにトーマスは一瞬立ち止まった。そうしてすぐに、嘲笑にも似た笑みを浮かべた。 「解りきった事を聞くな。敵を滅ぼすのに中からの攻撃ほど有効な物は無い。」 ジムゾンは愕然とした。そうだ、解りきっていた事じゃないか。こんな簡単な事。…そう言い聞かせてみても、確かに解っていた事だったにしても、衝撃は隠せなかった。 「…皆も助けてください。」 「それはできない。」 「どうして?!ただ守秘を徹底させればそれで済む話でしょう?!」 「必要なのは完全な沈黙。その為に“人狼”は作り上げられ、数百年の長きに渡って結社の秘密が守られてきた。まだ、時期では無い。」 ガクン、と上体が揺らいだ。何歩めか後ろへと退いたジムゾンの足に説教台がぶつかっていた。焦って周りを見渡すが、横には壁しかない。 「間違っています…そんな事…。」 涙で声を震わせながらジムゾンはやっとの思いで呟いた。怖くは無かった。理不尽に命を奪われたゲルトらの事を思うと、悔しかった。ただトーマスとの隔たりが、悲しかった。 十二年間の愛情が、神学校に毎週よこしてきた手紙の気遣いが嘘だとは思えない。だからこそ、結社とやらの為に平気で親しい友人達を殺せるというトーマスの狂気が悲しかった。 現にその手はレオンハルトを初めとして、知りうる限りでもモーリッツを殺めている。仮に正気に立ち帰らせたと言ってもすぐさま教義は断罪し、人の作った法は制裁を課すだろう。それでも、空しい事とは解っていても、これ以上血に塗れて欲しくなかった。 「ゲルトが余計な事を聞きさえしなければ何も無かった。せめてゲルトの死を強盗としてケリをつけていればここまではしなかった。私とて残念だ。」 ただの責任転嫁だ。そうは思いつつもジムゾンも疑問に思っている事があった。なぜ、青の会の隠された任務も知りながらゲルトは安易に近づくような真似をしたのだろう。前の晩もそうだった。目をつけていたレジーナの目の前であんな話をすればどうなるかは解っていたはず。残された最後の手紙からすると危険は承知していたはずだ。それなのに、何故。 「ゲルトは自ら接触したのですか。」 「ああ。あっちから訪ねて来た。」 トーマスの話によるとゲルトが殺される二日前、トーマスは夜にゲルトの訪問を受けた。ジムゾンと喧嘩した後だったのでなるべくそっとしておこうと教会で話をする事にしたのだと言う。 「色々調べ上げていたようだな。マグダレーネが自殺だという事は知らないようだったが。レジーナが浮気した夫を殺した事も、リーザが、母であるカタリナの愛情を奪った妹を殺しかけた事も、結社の話だけではなく色々とな。」 一瞬の沈黙に小さな機械音が刻まれた。音のした方を見ると柱にかけた時計の短針が動き、針は三時を指していた。 「“ここに連ねた皆を告発しようなんて思ってない。ただ、真実を知りたい。”そう言っていた。幸い、グノーシス主義と混同しているようだったから適当に知りうる限りの知識を青の会とこじつけて話した。 私はもう脱退した身だと言う嘘を信じたかどうかは知らないが、上機嫌で帰っていったよ。如何にゲルトが聡明でも、学者としての研究欲の前には知り得た知識も嵐の中でさす傘と同じというわけだ。翌日にはレジーナの前でそんな話もして。お前に暗号として残した保険、私に話して何事も無かった事からの油断が仇となった。」 とうとう目の前まで来たトーマスは再びジムゾンの肩に手をかけた。 「資料の場所は何処だった。」 ジムゾンは思わず身を震わせた。 「し、知りません。まだ、暗号が、解けて」 「嘘をつくな。一度切り上げた無駄話をまた聞いてきたという事は時間に余裕ができたからだ。何故余裕ができたのかは言うまでも無いな?」 トーマスの口の端がいびつに引き上げられるのを目にしながら、ジムゾンは自分の迂闊さを悔いていた。きっと気付かないと思っていた。ふと思い返せば、立て続けに質問してしまったのが一番の失敗だろう。あの時トーマスが苦笑したのは、ジムゾンの時間稼ぎという真意に気付いていたからに他ならない。 ジムゾンは生唾を飲み下して震える唇を開いた。 「この教会に…。」 「ゲルトの残した暗号の最初の一行はこの場所を指しています。初めに聖母の祈り、ロザリオの示すのはファサードの薔薇窓。入ってすぐに目にするのは磔刑の聖像です。それが子羊。更に天井の鐘の音が響く場所といえば教会しかありません。 二行目の処女とは聖母の事であり、その衣の色を指します。…ご存知のとおり、青です。そして娼婦とはマグダラの聖マリアであり、衣の色は赤とされています。この教会にある“青”と“赤”それらに関連する場所に、資料は隠されています。」 ジムゾンは腹の前で両手をゆるく組んで俯いた。教会の青と赤とはガラス窓にはめられた小さな色ガラスの事だ。歓喜に満ち満ちるとは朝の事で、物憂げに沈むのは夕刻。青色ガラスのはめられた窓は祭壇に向かって右と聖像の奥。赤色ガラスのはめられた窓は向かって左側。 北東を背にして建つ教会では右側面の窓から朝日が入り込む事は無い。入るのは聖像奥の青色ガラス。そこから伸びる日の光と、夕刻に赤色ガラスから伸びる日の光が交わる場所。参列者席の何処かに資料はあるのだ。具体的に話さなかったのはささやかな悪あがきのつもりだった。 トーマスはそれ以上問いもせずに参列席へ向かった。 「あ…。」 ジムゾンとて大まかな場所の推理に手間取っていただけで、それさえ解れば二行目は容易く解けた。ある程度の知識を持つトーマスなら二行目などぼかさなくても解ってしまう!しかも教会は石の壁に石の床。置いてある物は少なく、初めから隠せる場所は限られている。ジムゾンは見付からないように祈る他無かった。 「王手。」 諦めて目を閉じた瞬間に肩への衝撃を感じた。何時の間にトーマスが戻ってきたのかと目を開けて肩を見ると、そこには痛々しい焼印の刻まれた右手があった。驚いて振り返ったジムゾンの目に飛び込んできたのは友の姿。宿屋の地下室で皆と一緒に縛られているはずのディーターだった。 「待たせたな、ジムゾン。」 次のページ |