【恩愛の夜明け 第十話「恩愛の夜明け」】

 通された部屋は全体が濃い茶と臙脂色で統一され、白亜の城内とは趣を異にしていた。調度品はどれも豪奢だったが、重苦しい室内の雰囲気で煌びやかさは目立たず落ち着いて見えた。大きな窓からはウィーンの森が見渡せ、鉛色の空は今にも雪を零しそうだ。昼間だと言うのに厚いカーテンを全開してなお暗く、暖炉の火と机の上のランプだけが仄かに室内を照らしていた。
「あれは兄の身代わりになる筈だった身でな」
 フェルディナントは窓の外を見つめたままぽつりと呟いた。どうやら先程の立ち話を聞いていたようだった。
「過ぎるほど忠実な男だ。役目を果たせなかった事に責任を感じているんだろう」
 ジムゾンは閉じてしまった扉を思わず振り返り、顔を戻すと少しだけ俯いた。
「さて、どこから話そうか」
 フェルディナントは執務用の椅子に腰掛け、机の脇にある一人掛けをジムゾンに勧めた。ジムゾンはやや戸惑いながらも腰を下ろし、考えを巡らせた。母が姉である事を、アロイスが修道司祭になっていた事を何時から知っていたのか。自分を呼び出したのは何故なのか。ハプスブルクで人狼の血が受け継がれて来たのは何故なのか。また、それをどう感じているのか。考えれば考えるほど聞きたい事が溢れ、どこから聞いて良いものか全く解らなかった。
「黒い森の伝承集を読みにここまで来たのだろう?」
 ジムゾンはハッとして顔を上げた。そういえば、宮廷図書館での本の閲覧が表向きの目的だったのだ。神学書とだけ伝えていたのだが、フェルディナントにとっては黒い森の伝承集が目当てだと思えただろう。
「いいえ。貴重な書物が沢山所蔵されているとお伺いして我侭申し上げたのです。母は――」
 ジムゾンは一瞬言葉を切って視線を逸らした。母の事はどうにも言及し難い。しかし出てしまった言葉が引っ込む事は無い。暫し躊躇った後、ジムゾンは再び口を開いた。
「母は、自分の出自を一切口にしませんでした。伝承集は図書館で見かけて初めて存在を知ったくらいです。母から聞いた事のある変わった話と言えば、人狼の故郷が黒い森であるという事くらいでした」
 フェルディナントは意外そうに目を丸くした。
「では、アンナが私の実の姉だと言う事は誰に聞いた?」
 ジムゾンは再びぐっと言葉に詰まった。血筋の詳細を教えてくれたのはヨハネスだ。バイエルンも揃って内密にしている事を王家と無関係な一介の司祭が知っていると解ったらどうなってしまうだろう。ジムゾンは、ドルイドである事以外ヨハネスについての言明を避け、率直に事の経緯を説明した。フェルディナントは少し驚いた様子を見せたものの、取り立てて疑問には思っていないようだった。
「賢者との接触があったのなら人狼の成り立ちについても知っていような」
 ジムゾンは頷いた。
「ですが森渡りの賢者も、宿り木の賢者も、ハプスブルク家で人狼の血が継がれている事は知らなかったようです。カペル卿の祖先がその影となって支えてきた事も」
「ふん」
 フェルディナントは暫し目を閉じ、独り思いを巡らせているようだった。
「何故人狼の血が継がれてきたのでしょうか。……母が死を選んだのも、人狼であるがゆえでもありました。私にその血を継がせたことも、悔いていた」
 ジムゾンは慎重に言葉を選びながら言った。
「ではジムゾン。お前は、人狼としての生を不幸に思っているかね」
 思わぬ問いだったが、ジムゾンはすぐに首を横に振った。かつては不幸だとしか思えなかった。しかしアロイスの犠牲があった。ディーターとの出会いがあった。様々な要因が自分を支えてくれている今、そう思う事もなくなった。
「――いいえ。たしかに色々な事がありました。辛い事も、悲しい事も。ですが幸か不幸かを決めるのは何時でもこの心でした。私自身が足るを知れば、不幸なことなど何もありません」
 フェルディナントはどこか安堵したように相好を崩した。初めて見せた笑みだった。
「結構。ならば話しても問題あるまい。何故ここで、人狼の血が継がれてきたのかを」

 フェルディナントは徐に立ち上がり奥の部屋へ姿を消した。暫くして再び現れたその手には、一冊の大きな本があった。宮廷図書館で見た黒い森の伝承集に良く似た装丁の古びた本だ。フェルディナントは腰掛けて本を机に置き、ジムゾンへ見せるようにして広げた。
「黒い森の伝承集の原本だ。お前のように賢者と出会った祖先が聞いた話を書き留めたものでな。写本では成り立ちの部分と、この家に纏わる部分とを削ってある」
 示されるままにジムゾンは本の文字を目で追った。成り立ちの部分は以前ニコラスが語った内容と寸分違わぬものだった。フェルディナントは続けた。
「血を継いで行く要因となったもの――それもまた賢者に裏付けられたものだった。いや、驚くことは無い。まさか賢者とて、こうも長らくその血を継いでいるとは思わなかったろう」
 『要因』とは一体何なのか。ジムゾンは期待と不安とを複雑に入り混じらせながら、物語の先を急いだ。

――おおきなおおきな火事のあと、むじつの神のこひつじを、たくさんころした王さまは、賢者のおさに呪われました。
「この先うまれるおまえの子らは、ひとを喰わねば生きられず、血のうたげのにえとなる。血にくをささげて、罪をあがなえ」
かしの木の賢者はそういって、ほのおとともに消えました――

 ジムゾンは思わず息を飲んだ。賢者の長、樫の木の賢者とは、アロイスの事だ。あのアロイスが、この呪いをかけたというのか。真っ白になってしまった頭の中に、フェルディナントの声だけがどこか遠くに聞こえる。
「大きな火事とはローマ大火の事だ。無実の子羊はキリスト教徒、王様とはかの暴君ネロだ。史書によれば、この後后のポッパエアが懐妊しているが、母子共に死んだとされている。しかし、実際は子は助かり、こうして、今に至る……」
 ジムゾンが顔を上げると、フェルディナントはため息混じりに芝居がかった調子で両手を広げていた。
「我らはカエサルの末裔――その血脈たる証が、人狼の血に他ならん。血の宴とは、人狼が人を食い殺すと言う意味ではなく、キリストの教えを広めんが為、人狼がその生贄となり血を捧げる宴と言う意味だ。ローマ教会は教化の贄の始祖として我らを保護し 、我らもまた教会を保護し続けている。それゆえ、当主も代々人狼が務めてきた
 だが本流たる先々代のルドルフは未婚、その弟で次代のマティアスは子を儲けず、伏流のこちらに当主の座が回ってきた。しかしこちらも、私を含む十七人の兄弟のうち人狼だったのはアンナとアロイスだけだった。にも関わらず二人は家を出てしまい、人間の私が当主とならざるを得なかった。……去ってしまった兄と姉を、恨んだ事が無いと言えば嘘になる」
 自嘲ぎみに肩を落とすフェルディナントを、ジムゾンはただ呆然と見詰めていた。いや、彼を通して、今は亡きアロイスを見つめていた。ルドルフ二世やマティアス帝が何故子を儲けなかったのか。憶測でしか無いが、もしかすると、その血を嘆いての事だったのかもしれない。取り分けマティアスは、時のウィーン司教メルキオルと結託して新教との融和を推し進めていた。それがもし、人狼の血脈や宿命との決別の意であったなら。考えられないことではないとジムゾンは思った。もしそうだとしたら矢張りこ の血は呪いに他ならず、要因を作り出したのは――
「樫の木の賢者とは、アロイスの事です」
 ジムゾンは思わずその名を口にしていた。アロイスがドルイドであった事も、弔いの石を本来の持ち主の手に戻した事も、何もかも全て。フェルディナントもアロイスがドルイドだったとは知らなかったらしく、今度は彼が驚く番だった。
「先生は、宿命を嘆く母や私を何時も励ましてくれました。何時も傍に居て、狩りが出来なかった私の代わりに人を――」
 言いながら、とうとうジムゾンの瞳から涙が溢れ落ちた。彼を指すのに伯父とも呼ばず名も呼ばず、口を突いて出たのは呼びなれた『先生』だった。
「自ら生み出した呪いへの贖いだったとは、思いません。だけどどうして、何も、一言も、喋って下さらなかったのか」
 責められるのが怖かったからではないか。意地の悪い考えが一瞬頭を掠めた。しかし、そうでは無かったとジムゾンは確信していた。人狼の法の成り立ちと呪いの源泉を知る事は、宿命を嘆く者の絶望に拍車をかけてしまうだろう。母が自ら死を選ぶほど思い悩んでいた事も、まだ心が安定していない時に伝承集を読んでしまったからではないかとすら思えていた。
 確かに呪いをかけてしまったのはアロイスだ。時の皇帝の逸話を思えば当然の報いだとも思えるし、アロイスも当時は何とも思っていなかっただろう。しかし少なくともジムゾンの知っている彼は、まだ何の罪も無い子までも断罪して平気でいられるような人間ではなかった。更には皮肉なことにその血脈として生まれ、過去の呪いを自ら被る事となった。そして呪いを嘆く兄妹の姿を見続ける事にも。
 僧籍に入ったのは神のお導きによるものだと生前語っていたが、もしかすると、彼もまた罪の意識に耐え切れなかったからではないかと思えて仕方が無かった。
 呆然とするフェルディナントの前で、ジムゾンはただただ涙を流していた。涙で歪む視界には、困ったように笑うアロイスの姿があった。人を殺めなければ生きていけない自分など、いっそこの世に生まれなければ良かった。そう言って嘆く自分に、語りかけた彼の言葉が蘇る。

『神がお前を愛しているからだ』

 アロイスはただ、困ったように笑っていた。その笑みの理由が今になって漸く解る。
「私はいつも励まされ、与えられていたばかりで、何一つお返しすることができませんでした。ほんの一言でも、やさしい言葉をかけてあげたかった。先生としてではなく、恩人としてでもなく、一人の家族として」
 後は最早何も言葉にならなかった。アロイスが生きていた頃と同じように、優しく身を包まれて。けれどジムゾンは、幼い頃のように泣き声を殺さなくなった。流す涙も己の為では無くなった。そうして包み込む腕は、フェルディナントのそれになっていた。

+++

『兄弟アロイス自身、怒りに任せて呪った事を随分後悔していました。どのみち、この人狼の法を作るにあたっていつか生贄を決めなければならなかったのですが』
 ニコラスの囁きは何時ものように穏やかだった。
『でも一寸意外に思いませんでしたか。あの温厚な兄弟アロイスが、そんな事をしていたなんて』
『ええ』
 ジムゾンは苦笑混じりに返した。少しの間を置いて、若干言い難そうなニコラスの囁きが聞こえた。
『恨めしくも思いませんでしたか。神父さんを含め、長い間あの家を苦しめてきた呪いの発端だった事を』
 一瞬目を見開いて、ジムゾンはまたも苦笑した。
『昔だったらそう思っていたかもしれません。でもその血が無ければ私が生まれる事もありませんでした。それに、伯父さまの意外な所も解って良かったです。あまりに聖人君子のような人でしたから、なんだか人のように思えなくて怖くもあって』
 その答えにニコラスは思わず笑ってしまった。
『……少し変な事をお伺いしますが』
 面と向かっていないのに、ジムゾンはやや上目に宙を見つめて囁いた。
『伯父さまももう何処かで転生されているのでしょうか』
『いいえ。地上に残された四人全員が死んで初めて、順番に生まれる決まりになっています。私が自然死するのはまだ少し先ですから――まあでも神父さん。きっとまた何時か会えますよ』
 ニコラスの囁きは不思議とただの慰めのようには思えなかった。
『それよりも、今は存命の叔父さま孝行だろ』
 割り込んできたのはディーターだった。ジムゾンはン、と隣のディーターに目を向けた。ディーターは一瞬だけジムゾンを見てまた目を閉じた。
『そうですとも。こういう時は、遠い死者を悼むより生きている人への何とやら。ウィーンなら喰いの衝動もかなり弱まりますから、神父さんも存分に羽根を伸ばして下さい』
 あれから、ジムゾンは正式にウィーンへ留まる事を決めた。ディーターと一緒に居る事も難なく認めて貰えた。フェルディナントが良くても他の親族が。等と不安があるのも事実だったが、もしすげなくされてもそれはそれで良いとも思い始めていた。政治的に何かが出来るわけではないし、また、政治に口出す気もさらさらない。ただ今は、声をかける事でも祈る事でも、何か支えになれないかと思っていた。
 ニコラスとの囁きを終えてディーターの隣のベンチに座りなおすと、草を踏みしめる音が聞こえた。顔を向けた先にはロタールとライナー、そしてクララの姿があった。
「まだこんな寒い所におられましたか」
 呆れたように呟いてロタールは空を見上げた。雪が降る気配は無いが、それでも寒いものは寒い。幾ら宮殿の奥まった場所にある庭とは言え人が来ないだけであって、風は通り放題である。見るような花も無く、あるのは僅かな緑と枯れ木ばかりだ。
「待っていたんですよ」
 ジムゾンは立ち上がり、ディーターもそれに倣った。ロタールは非公式ながら出てきたから、と皇帝への謁見を済ませて今日ウィーンを発つとの事だった。別れの挨拶の為に二人はこうして寒風吹き荒ぶ中庭で今まで待っていたのだった。
「人狼に寒さはあんまり関係ありませんし」
「それは結構」
 ロタールは何時ものようにすまして言った。そうして二人は改めてロタールに別れを告げた。今回は偶然が重なって再会したが、この先はそうも行かない。ロタールは正式にモラヴィアに篭る事を決め、今後は領地の守護に尽くすとの事だった。
「ところでクララさん、その格好は……」
 クララは初めて会った時のような遠出用の衣服に身を包み、大きな荷物を持っていた。
「スイスへ戻る事にしたんです。兄が、どうやら行き違いで国へ戻っていたらしくって」
「そりゃ良かった」
 スイス傭兵の消息がわかるのは珍しい。傭兵時代を思い出しているのか、滅多に他人へ情を見せないディーターもどこか嬉しそうだった。
「ギレッセン卿のお陰でしてね。情報網の広い方の助力が頂けて助かりました」
 隣のライナーも心底安堵しているようだった。
「これで私も肩の荷が下りる」
 少し意外な一言だった。あれだけ親しくしていたのに、別れが惜しくは無いのだろうか。そんなジムゾンの心境を察してか、それともクララに誤解させたと思ったのか、ライナーは慌てて続けた。
「いえ、クララの滞在は大歓迎なんですよ。ですが婚礼を控えている大事な時期の姪を預かる身としては気が気ではなかったのです」
「兄を探していたのも、実はそれが理由だったんです。家族が全員揃ってからの方がいいと私が我侭を言って、ハインリヒ――婚約者も同意してくれたものですから」
 ライナーとクララから続けざまに、しかも当たり前のように新情報を齎され、驚きのあまり声を上げそうになったジムゾンは思わず自分の口を片手で塞ぐ。これはさすがにディーターも予想していなかったらしく、二人して目を白黒させた。
「姪御さん、だったんですか?」
 どこから突っ込んでいいのか、整理のつかないままジムゾンはやっとのことで問いかけた。ライナーは申し訳無さそうに苦笑いしながら頷いた。
「隠すつもりは無かったんです。ですがリヒャルトに狙われている状態で、何が起こるかわからなかったものですから。クララはスイスに嫁いだ姉の子で、姉もごくたまに家族を連れて里帰りもしていました。旧家とはいえ義兄が平民だと言う事で父が公にしなかった事もあってか、リヒャルトもそこまで調べきれなかったみたいですね」
「最初からそう言ってた方が、あいつとのややこしい話にならなくて良かったんじゃないのか?」
 ディーターは少し呆れた調子でライナーに突っ込んだ。
「カペル卿の一件の前から、私の方から言い出していたんです。いくら母が貴族と言っても、私はスイスの生活しか知りません。ライナー様を叔父だと言うのもなんだか気が引けて……あくまで小間使いとして扱ってほしいとお願いしていました」
「ああ、なんとなくわかりますその気持ち」
 どことなく言いにくそうにもじもじするクララを見て、ジムゾンは苦笑した。貴族としての生活に慣れていたジムゾンでも、近年まで中々親類に頼ろうとしなかった。スイスからこの大都会に出てきたのなら、場違いに感じるのは尚更だろう。
「リヒャルトにはクララが姪だと告げた上で、襲撃した件についてきっちり賠償金を請求しました。命が危なかったんですからね。本当にあの男は人の話を聞かないもので」
 そこまで言ってライナーは思わず辺りを見回した。幸い、今回ばかりはリヒャルトの気配は無かった。
「元はと言えば、私が彼を誤解させていた事が始まりでしたから。……これからは地道に議会で戦っていこうと思います」
 ライナーは少し気まずそうに苦笑いした。それから取りとめも無い話をしながら宮殿の外へ出ると、ライナーの家の馬車が主達を待っていた。クララは既に帰郷の準備はしてきたらしく、宮殿にはごく少ないながら親しくしていた同僚達への挨拶のため訪れていたとの事だった。
 ふと見ると、御者はライナーの家の使いの者達ではなく、ロタールの私兵達になっていた。ジムゾンが問いかけるより先に、クララが口を開いた。
「スイスまでギレッセン卿の兵士さん達が付き添って下さるそうなので、もう大丈夫だと思います」
「このご時勢に武装した兵もつけずに一人旅と言うのも何ですからな」
 と、ロタールが言い添えた。スイスまでは旧教領伝いに戻れるし、宮中伯の紋章があればまず襲われる事も無いが、どこに集団からはぐれた傭兵や、傭兵くずれの野盗がうろついているともしれない。歴戦の、更には葬送の子の兵であれば不測の事態にも難なく対処できるだろう。
「長い間、本当にお世話になりました」
 クララは深々と礼をし、ジムゾンとディーターは代わる代わる別れと祝いの言葉と共にクララを抱きしめた。

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『この人狼の法も、いい加減終わらせてしまいたい思ってしまう事があるんですよ』
 ショッテン修道院の一室で身支度をしていたヨハネスの耳に、不意にニコラスの囁きが響いた。
『ハプスブルクの一件といい、思わぬ所で波紋を呼んでいる』
『それを決めるのは私たちでは無いよ』
 ヨハネスは淡々と返した。
『血の宴と同じだとも。読めない先を憂いても仕方ない。また、戻らない過去を悔いても仕方ない』
『今の私がそう割り切れるようになるには、あと五十年かかりそうです』
 茶化した囁きに、ヨハネスは小さく笑っただけだった。と、同時に開けっ放しにしていた小部屋の扉から一人の兵士が顔を覗かせた。ロタールについてきた兵士で、ヨハネスもまた彼らにドナウエッシンゲンまで送り届けて貰う事になっている。
「出発の準備が整いましたよ」
「ああ、有難う」
 ヨハネスはいそいそと扉に向かった。そうして扉の手前でつと立ち止まって振り返り、壁にかけられている聖像に目をやった。
『君の魂の平安を祈るよ』
『では私は兄弟ヨハネスの安全を』
 修道院の外に出ると、丁度雲間から太陽が顔を覗かせた所だった。灰色に沈んでいたウィーンの町が一斉に鮮やかさを取り戻した。馬車へ乗ろうとした時ふと、荷物の中に硬い手触りのものがある事に気付いた。ディーターから返却された慈悲の刃だ。
「狩人に生まれる事があったら……か」
 ヨハネスはひとりごちて笑みを浮かべ、馬車に乗り込んだ。やがて馬車はゆっくりと動き始め、町並みも静かに窓の外を通り過ぎていった。

+++

 翌一六三四年二月、皇帝軍総司令アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタインは、駐屯先のエーガーで暗殺され、五十年の生涯を閉じる。彼を裏切った将校によるものだが、暗殺の首謀者は未だ謎のままである。
 また、七年後の一六四〇年、スウェーデンの侵入によりモラヴィア辺境伯領都・オルミュッツは陥落した。しかし皇帝軍はブリュノへ後退するも、終戦まで領地を守り通した事を追記したい。


『恩愛の夜明け』完


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