【第三話:人狼の暗い影】
「 「違う。 断言するディーターに、ジムゾンは戸惑いを隠せなかった。 「あなたも、東ドイツに?」 問うてはみるものの、昼間からのディーターとの一連の会話からすると彼が東に居たようには思えない。傷には納得するが、その経緯が不明だ。何か意図があって嘘を言っているのか。しかしディーターの反応は予想外の物だった。 「東ドイツ?どういう事だ?」 ディーターは驚いた様子で体を起こした。ジムゾンはその迫力に気圧されて思わず身を引いた。が、両方の肩を聊か痛いくらいに掴まれる。 「人狼が東ドイツに居たのか?被害に?お前も?」 矢継ぎ早に問いを投げかけるディーターだったが、とうのジムゾンは完全に怯えた表情でディーターを凝視するばかりだった。しかも僅かではあるが体を小刻みに震わせている。 「ごめん。つい」 ジムゾンの様子に気付いたディーターは漸く肩を放し、ソファに座り直した。暫く気まずい沈黙が続いたのち、ディーターが口を開いた。 「俺が襲撃されたのはオルンバウって小さい町で両親と一緒に暮らしてた頃だ。二人とも喰い殺されて、俺だけが生き残った」 沈んでいたジムゾンもさすがに驚いて顔を上げた。 「ご両親を」 「ああ。おとぎ話じゃ一夜に一人って言う話だが。そう上手くはいかないもんだな」 苦々しく笑うディーターを見つめながら、ジムゾンはふとある事に気がついた。 「ちょっと待って下さい。“喰い殺された”ってどういう事ですか」 「ん?だってお前。人狼だぞ?」 「だから。人狼ですよね?喰い殺すって、映画か何かの化物じゃあるまいし」 「その化物の事なんだが」 ジムゾンはディーターを訝しげに見つめた。一旦目を逸らして考え込んでみるが、どうにも意味が解らない。どう考えてもディーターの言っている人狼とは、架空の話に出てくる狼男の事のようだ。何の冗談だと思いつつ、ジムゾンは再びディーターを見つめる。心の底から気の毒そうな表情で。 「辛かったでしょうね。突然ご両親を亡くして」 「いや待て。妄想じゃねえから」 表情から察したらしく、反射的にディーターが突っ込む。 「信じる信じないはお前の勝手だ。俺だって未だに信じられねえし、殺人事件で片付けられたしな。当然ながら、未だに犯人は捕まってない」 ディーターはそう言ったが、矢張り俄かには信じ難かった。とはいえ、ディーターが自分を騙そうとしているようにも見えない。釈然としないまま、ジムゾンは冷えてしまったコーヒーを一口飲んだ。 「ところで、お前の言う人狼って?」 何気なく問いかけた直後にディーターは言葉を添える。 「悪い。今の無しだ」 「ナチスの残党です」 ディーターの言葉を遮るようにしてジムゾンが言った。 「東ドイツに?まさか」 「信じる信じないはあなたの勝手です」 ジムゾンはすました顔をして先程のディーターの言葉を準えた。そうして、少し苦笑いする。 「シュタージの目をどうやって誤魔化していたのか本当に不思議ですが、彼らは自分達をそう言っていました。……さっきあなたが肩を掴んだ時、私、震えてしまったでしょう。閉じた場所で体を触られると怖くなってしまう。あれが未だに消えない、彼らの呪縛です。」 不意に何かが手に触れた。膝の上に重ねた手の指先に触れていたのは、古めかしい金属製の輪だった。かなりの年代物らしく、細かに彫られていたであろう模様は磨耗している。しかし質感も見た目も金属そのものであるにも関らず、冷たさは感じなかった。不思議に思ったまま顔を上げると、輪を差し出しているディーターの片方の手袋が取り去られていた。傷の残る腕にほんの僅かながら圧迫した跡がある事から、輪は恐らく腕輪で、今までディーターの腕にされていた物であろう事が推測された。 「これは?」 「やるよ」 そう言ってディーターは半ば強引に腕輪をジムゾンの腕へつけさせた。腕輪はぶかぶかで、かなりの重みがあった。 「お守りだ」 返品不可と言わんばかりに、ディーターは外していた手袋をまた付け直す。 「お守りって……」 ジムゾンは眉根を寄せてしげしげと腕輪を眺めた。趣味に合わないという事も無いが、こういう物をつける習慣が無かっただけに違和感がある。それ以前に腕輪から漂ってくる呪術的な雰囲気が、果たして神父である自分がつけて良い物かどうか疑わしくさせていた。 「心配すんな。おっさんから貰ったモンだから、お前がつけても問題無いだろ」 「おっさん、って?」 「育ての親だ。母方の伯父で、ヒルデスハイムで神父をしてる」 「神父」 溜息混じりのジムゾンの声は思わず上ずってしまう。詳しい事は知らないが、幼い頃から神父を見て育ったのであれば、自分への評価が厳しくなるのも仕方ないのかもしれない。ミサの度手伝わされて面倒臭かった、と言ってディーターは笑った。 「あたりが暗くなると暗闇で何時赤い目が光るかと思ってな。夜はずっと明かりを消せなかったし、長い事おっさんからも離れられなかった。昼間はいいかと言えばそうでもなくて、おっさん以外の誰も信用できずに学校でも何時も一人だった」 「嘘でしょう」 両親を亡くした辛さを察してはみても、今この目の前に居る図々しさの塊のようなディーターが何かに怯えたり、友人の一人も居なかったなどとは想像すらできなかった。 「嘘じゃねえよ。両親が殺される前まではちょっと大人しい程度だったと思うが。事件以降、おっさんの居るヒルデスハイムに引っ越してからは地獄だったし、俺自身誰かと仲良くしたいとすら思わなかった。……信じてねえだろ。俺は小さい頃優等生だったんだぞ。で、見かねたおっさんがくれたのが、それだった」 ディーターは主の代わった腕輪を指さした。 「魔除けだってな。貰った時は半信半疑だったんだが、唯一信頼できるおっさんが言うんだから嘘じゃねえだろって。それで暫く付けてたら、段々怖さも無くなってきた」 「はあ」 ジムゾンは感心した様子で改めて腕輪を観察した。この古さは、確かに説得力はある。古く見せる為に加工しているようにも見えない。存在感がある所為かもしれないが、何処か心が落ち着くような気さえしていた。 「何しろ精神的な問題だ。偽薬効果めいた側面もあるだろうし、単純に俺が成長したからかもしれない。でも俺は、それだけじゃねえと思うわけよ。出所はお前と同じ神父なんだ。疑う必要もねえだろ?物は試しだ。騙されたと思ってつけてみろ」 そう言いながらディーターは立ち上がった。ふとジムゾンが時計を見ると、もう短針が十時を指していた。 「いいんですか、本当に頂いても。それに、あなたが」 玄関までディーターを見送りに出たジムゾンは、腕輪があるあたりの聖服の袖を指し示した。 「俺にはもう必要無い。そのうちおっさんに返そうと思ってた所だし、今はお前に必要だと思う」 ディーターは壁際に止めていた自転車を引き寄せて跨った。 「んじゃお休み、ジムゾン。戸締り忘れるなよ」 「えっ」 去ろうとしたディーターだったが、ジムゾンが妙な声を上げたのに気付いて振り返った。 「何だ」 「な、名前」 戸惑っているジムゾンを訝しげに見て、ディーターはとうとう自転車ごと振り返る。 「ルーデンドルフさんって言った方が良かったか」 「いえっ。そ、そうじゃなくて。どうして私の名前を?」 「お前この村来て挨拶した時自分で言ったじゃねえか」 ディーターは呆れたような表情を浮かべている。言われてみれば確かに自己紹介はしたし、あの日の教会にディーターが居たような気もしないでもない。しかしたった一度の紹介で覚えられるとは。人の名前を中々覚えない性分のジムゾンにとっては驚くべき事だった。 「よく覚えてましたね。私、未だに皆さんのお名前も覚えないものですから」 「そりゃお前にとっての皆の名前と、皆にとってのお前の名前は全然違うわ」 「……あ、そうか。それもそうですね」 当然の事を指摘されてジムゾンは拍子抜けしてしまう。 「それじゃお休みなさい。ええと……」 口ごもるジムゾンを見て何か察したのか、ディーターは意地悪く笑った。 「ヘルツェンバイン様」 「様?」 ぽかんとした表情でジムゾンは敬称だけを準える。 「冗談だよ、冗談。ディーターでいい」 ディーターはそう言って笑ったが、何とも釈然としないままジムゾンは口をへの字に曲げる。その後、ディーターの姿が見えなくなるまで見送ってからジムゾンは家へと戻った。 それからというもの、ディーターが司祭館へちょくちょく顔を見せるようになった。別に何かを頼んだわけでもなし、トーマスがまた依頼したというわけでもないのだが、毎日のように司祭館を訪れては何かにつけて手伝いをしてくれる。土曜日にトーマスと一緒になる事もままあった。思いがけない第二の友人の誕生はジムゾンにとって喜ばしい事ではあったが、同時に謎も深まった。 トーマスが毎週土曜日か、他の曜日に来ても夜であるのに対して、ディーターはほぼ毎日のようにやってくる。さて、果たしてディーターは何を生業としていて、何時働いているのだろうか?トーマスによると在宅の仕事のようだという事だったが、具体的に何であるかは知らないという。他の村人数人にも聞いてみたが、誰一人として彼の仕事を知る者は居なかった。 「明日から一週間くらい留守にすっから」 ある日の昼食時、ディーターは何気なくそう言った。 「どこかお出かけですか?」 ジムゾンは手を止めてディーターを見た。時々村を長期間空けることがある、とは聞いていた。仮に在宅の仕事だとすると報告か何かに出かけるのだろうか。 「ベルリン」 スパゲティを頬張りつつ何気なく言うディーターを、ジムゾンはまじまじと見つめた。 「そんな遠くに職場があるんですか」 咀嚼中のディーターは黙って頷いた。頷いた拍子に前髪が皿に乗っかり、毛先がトマトクリームにまみれてしまう。ディーターはげんなりした表情で漸く顔を上げて毛先を丁寧にティッシュで拭いた。 「ディーターは、何のお仕事をしているんですか?」 今ぞ好機と、ジムゾンは意を決して問い掛けた。 「翻訳」 呆気なく語られたのは、ディーターと凡そ結びつきもしない仕事だった。 「本か何かの?」 「いや。文書だ」 「文書だけ……って、一体どちらにお勤めなんですか?」 「内務省の連邦文書館だ。コブレンツの本部じゃねえし、文書館の中でも隅っこにある地味ーな部署の所属だよ」 ジムゾンは再度ディーターの顔を穴が開くほど見つめた。公務云々はさておきディーターが書類を片付け、文書を整理している姿など想像もできなかった。結びつかないにもほどがある。 「都会でじっとしてるのが性に合わなくてさ。住居が自由になる部署は無いかって探してて丁度ここが見付かったからよ」 「どうして誰にも言わなかったんですか?」 「聞かれなかったから」 即答だった。言われてみれば、自分も最初はトーマスやら村人やらに聞いただけだった。直接本人に聞けば早いというのに、風体からして聞く事がどうにも憚られて今日のような事が無い限り聞き辛かった。一見親しげに見えていた村人達がディーターに聞かなかったのも、恐らく同じ理由だろう。勿論、ディーターが何の仕事をしていようとどうでも良かったというのもあるのだが。何となく居心地が悪くて、ジムゾンは食べるでもなくスパゲティをぐるぐる巻き続けていた。 「と、言うわけで。一週間寂しいかもしれねえが我慢の子だ」 「さっ。……だっ、誰が寂しいものですか!」 ディーターは空になった皿を手に台所へ向かい、ジムゾンは虚しくその背に抗議するのだった。 翌日、宣言どおりディーターの姿が村から消えた。トーマスが時々出張で居なくなる時も寂しかったが、今回はそれ以上だった。 毎日のように作っていた二人分の昼食が一人分になった。以前と何も変わらない、何でもない日常のはずなのだが、それが今は無性に寂しい。ディーターよりもトーマスとの付き合いの方が長い。一食、時には二食分ただ飯を食っていくディーターと、わざわざ毎度物を持って来てくれるトーマスと。単純に比較してもトーマスの方に分がある。なのにどうして、トーマスの出張以上に寂しいのか。そこまで考えて漸く、ジムゾンはディーターと年が近い事を思い出した。トーマスとは大方親子ほど年齢が違う。ディーターは自分の二つ上なだけだ。 修道院に入ってから、同年代の友人とは一切無縁の生活だった。司祭になる為に引っ張り出されて行かされた神学校では多少同年代の者も居た。しかしその頃のジムゾンはただ純粋に学ぶ事が楽しいばかりで、己を律する修道生活が続いた事もあって内向傾向に拍車がかかっていた。教義と道徳を学ぶ中で、人として正しくある事だけに集中もしていた。 それだけに、久々の同年代の知り合いとなったディーターと一緒に居るのは楽しかった。 「早く帰ってくるといいですね」 誰に言うでもなく呟いて、ジムゾンはカレンダーを見上げた。早いもので、この村に来て二度目の秋がやってきていた。 次のページ |