【七つ楔解く獣】

Confiteor Deo Omnipotenti
(我が罪を告白し奉る 全能の主よ)


俺は独り立ちしてからずっと傭兵として生きていた。辺境の村の狩人の家に生まれたが、狩人を生業として人に知られてはならないのだと教えられてきた。そうなれば図体がでかく力が有り余っている俺にできる仕事と言えばそんなものしか無かったからだ。
立場の違う勢力同士の話し合いでの交渉が決裂した時、地上は黒白に分かれてどちらかが負けるまで戦う。そこにはしばしば名誉や大義と言ったものも持ち出された。
正直言って、そういう物には興味が無かった。朝に白の陣営についたとて高い俸給を持ちかけられれば夕べには黒の陣営につく事も珍しく無い。俺たち傭兵にとっては金以外の事などどうでも良かった。
何れ戦場で死ぬだろうと思っていた。その方が楽で良いと思っていた。どこかに定住し、妻を娶り子を作り穏やかに暮らす。ただただ平穏に。何事も無く。そんな生活をして情にほだされて生きるより、何のしがらみも無く自由に生きて勝手に一人で死ぬ事が理想だった。

Beatae Mariae semper Virgini
(終生乙女なる聖母マリアよ)


ところが俺は何時までも生き長らえた。勿論戦いに負けるのは嫌だったし死にたかったわけでもない。そうして戦いに勝利していった結果、初老に足を突っ込む年齢まで生きてしまっていた。
そうなると今度は傭兵団のお荷物となる。文官が居る騎士団で歴戦の者は参謀として重宝がられるが、殺るか殺られるかの傭兵団ではただの厄介者。俺はさっさと団長の座を若い者に譲り渡して故郷の村に戻った。
村は寂れていた。辺境にある村ゆえに元々寂れていたのは確かだが、生気までもが抜けていた。俺よりも先に村に戻っていたモーリッツの話によると、傭兵団の襲来が原因なのだと言う。それゆえか傭兵あがりの俺は村人に歓迎されなかった。俺が何かしたわけではないと解っているものの、傭兵という職業自体が忌まわしい悪魔であるという認識からだった。
気持ちがわからないわけではない。だがこの村に何かしたわけでもないのに意図的に遠ざけられるのは我慢できない。そこで俺は森の中に篭る事にした。一人で居る方が気楽だったし、村人にとっても良い事だからだ。

Beato Michaeli archangelo
(祝福されし大天使ミカエルよ)


暫らくして。村長が長らく司教会に交渉していた成果が実り、空家だった教会に神父が派遣されてきた。烏の濡れ羽のような黒髪が印象的な美しい男だった。だが人々の悩みを解消するにはあまりにも若すぎ、頼りなかった。その上内向的な性格らしく村の会合にもしぶしぶ出席するというほどの非社交ぶりで村人達の失望は想像に難くなかった。神父自身自覚しているようで、情けなさゆえか更に人を遠ざけるようになっていた。
傭兵時代の罪の告白に行ったのはほんの気まぐれだった。神父という叩き所が出来たお陰で俺へ向けられていた冷たい視線は一斉に神父へ向かっており、多少感じ始めていた優越感からの慰めでもあった。しかし過去の告白を終えた時、俺は自分を深く恥じることとなった。

Sanctis apostolis omnibus sanctis
(および全ての諸聖人たちよ)


「辛かったでしょう。」
神父は悲しそうな目で俺を見た。社会的にややこしい職業であった事への同情でもなく、数え切れぬほどの命を手にかけてきた事への戒めでもない。
本人以外知りえない苦しみを共有して分かとうとする思いと言葉。
たとい仮にその一言が神父という立場上自然と出ただけの形式的な言葉であったとしても、俺にとっては深い慈悲であり、救いだった。
その日から神父は俺にとってかけがえの無い存在となった。世の汚濁ばかりを見つめてきた人生で初めて美しいと思えるものに出会った。幾度とない戦いの中で神の加護を祈る相手の兵士をなぎ倒しては神の存在をあざ笑っていたが、もう一度信じてみるのも悪くは無いとも思った。

et vobis, fratres
(また友と兄弟たちへ)


しかしある吹雪の日から思いは揺らぎ始めた。俺と同じ傭兵あがりであろう流れの男が教会に住み着いた。奴は何時の間にか村に溶け込み、同時に村人が抱いている神父への不信感すらも払拭してしまった。
奴に対する憎しみが積もり始めた頃に事件は起こった。
村に隊商が訪れていたある晩、隣村に材木を運んでいた俺は予定より大幅に遅れて村に辿り着いた。教会の前を通りかかった時礼拝堂のガラス越しに明かりが見えた。何時もならとうに神父は眠っている時間だ。
近寄って中を覗くと火の灯ったカンテラが祭壇に置かれ、床には神父が常備している聖書が落ちていた。不審に思った矢先に視界を掠めたのは絡み合う二つの影。旅芸人の男に組み伏されている神父の姿。
礼拝堂に乗り込んで男を追い払うのは造作も無い事だった。だが抵抗すらしない神父の姿に果てしない絶望を感じた俺はとてもそんな気にはなれなかった。見たくなかった。関りたくなかった。悪い夢なのだと思いたかった。そして俺は逃げるようにその場を後にした。
思考が回復してまず湧き上がってきたのは激しい嫉妬だった。旅芸人の男へではない。教会に居候している男、ディーターへだ。
何故あの男が長々と教会に居るのか。単に路銀が尽きたからだろうかと思っていたが、もしや神父と何か良からぬ関係にあるのかもしれない。俺にはもはやそうとしか思えなかった。
汚される。神父が。いや、俺の思いが。踏みにじられる。
生まれて初めて持った何かへの執着は自分でもうんざりするほどにどす黒く、暗かった。
だから嫌だったのだ。何かに心を寄せるのは―。

quia peccavi nimis
(私は罪を犯しました)





礼拝堂の扉が開く音がした。続いて、閉じる音。近付いてくる乾いた足音。ジムゾンはてっきり出て行ったばかりのディーターが戻ってきたのだと思っていた。しかしそれにしては足音に違和感がある。音は立てているが忍び寄るかのように慎重な。
『今日も彼は見張っているようですよ。』
先程のニコラスの囁きが思い出される。ジムゾンは立ち上がって振り返った。はたして、居たのは紛れも無いトーマスその人だった。トーマスはジムゾンの前まできて足を止める。
ジムゾンは震えが止まらなかった。会議中の一件が思い出されて冷や汗が頬を伝う。冷たい指先を椅子の背にかけてどうにか立っているような状況だ。一体何の用なのか。問いたくても問う勇気が無い。

cogitatione
(我が心の罪)


「がっかりしたか。」
トーマスは静かにそう言った。
「ディーターを待っていたんだろう。」
「…は…?」
ジムゾンはわけがわからずに間の抜けた返事をする。
「それとも俺を誘っていたのか。」
「誘う?」
「そうだな、奴はもう家に引き入れてしまったんだ。何も礼拝堂に呼び出す事も無い。」
「私は考え事をしていただけです。」
漸く意図を飲み込んだジムゾンは独り言ちて苦笑しているトーマスに反論した。声は震えて頭に血が上る。被害を受けた身だと言うのにまるで娼婦か何かのような言われようでは腹の虫がおさまらない。
「これまでも、あの夜も。私は好きでされたわけじゃない!勘違いしないでください!」
「じゃあ何故抵抗しなかった!」
突然トーマスはジムゾンの肩を掴み礼拝堂の床に組み伏した。それはまるであの夜のように。

verbo et opere
(我が言葉と行いの罪)


ジムゾンは金縛りにあったように体を動かせなかった。強い力で押さえつけられているので実際動けないのもあるが、指一本動かせないのは恐怖ゆえ。あの夜もただ怖くて身動きできなかったのだ。
「ほらな。何も抵抗しない。」
唇の端をつりあげてトーマスが笑う。
「あんたも所詮そんなものなのか。あの時の俺への憐憫の言葉も売女が客にかけるのと同じ軽軽しい言葉でしか無かったのか。…畜生…ああ畜生!」
「うぐ…。」
勝手に勘違いされている事が悔しくて。かつて親切だった頃のトーマスが思い出されて悲しくて。涙をぼろぼろと溢しながらジムゾンの口からは言葉にすらならない声しか出てこなかった。
ディーターが来る前のジムゾンの心の支えはトーマスだった。引っ込みがちで聖務以外に何も、上手い言葉や冗談の一つでも言って喜ばせる事もできない自分に優しくしてくれていた。
週ごとのミサにもちゃんと出席してくれた。言い出せない用事も先に気がついて黙ってしてくれた。人狼の自分には必要の無い食糧や薪を気遣って持ってきてくれていたのもトーマスだった。

mea culpa
(我が過ちなり)


全てが狂ったのはディーターの所為だ。
ディーターがこの村に来なければ自分は望みどおり死ねていたし、トーマスにあらぬ疑惑を持たれる事だって無かった。村だって滅びずに済んだのだ。
混乱の極地に陥ったジムゾンの頭にはそんな思いばかりがぐるぐると渦を巻いていた。ディーターの所為ではない事は解っていた。それでも今は誰かの所為にしていないと狂ってしまいそうだった。
生きるという事。ただそれだけの事なのにそれだけが何と罪深い事か!生きたいと願い誰かに何かに執着すれば必ず争いや諍いが起こる。何の抗争も起こらない状態とは死でしかない。虚無でしかない。
“お前は呪われた子よ”
母の言葉が再び聞こえた。
呪われている。私は呪われている。親切な人を傷つけて。何の罪も無い人を騙して喰って生き延びて。

mea culpa
(我が過ちなり)


「あんたを殺して俺も死ぬ。」
トーマスの声は震えていた。あふれ出る様々な感情を抑える苦痛に顔を歪めてジムゾンを見る。やがて我慢できなくなったのか、いきなりジムゾンの唇に唇を重ねた。ジムゾンは唇を介してトーマスの激情の全てが流れ込んでくるかのような錯覚を覚えていた。受け止めきれない。あまりにも重く、暗く、激しい感情。
ジムゾンにはまるで永遠のようにも思えるほど長い時間が過ぎて漸く解放された。互いの間で唾液がだらしなく糸を引き、途切れ落ちてジムゾンの唇を伝った。

mea maxima culpa
(我が最大なる過ちなり)


「村は何れ人狼に滅ぼされてしまう。ヨアヒムは守るに値しない。せめてあんたは。いっそこの手で。」
ジムゾンの目の前に突きつけられたのは一振りのナイフ。涼やかに煌く刃はまるで人狼の牙のよう。昔一度だけ見た、人狼に変化した恩師アロイスの牙の煌きによく似ていた。
“神がお前を愛しているからだ”
アロイスの言葉が蘇る。そして頭に浮かんだのはディーターの姿だった。
生きたい。救ってくれた者に報いる為に。いいや自分自身の為に。我侭でもいい。神が私を愛しているのなら。どうかもう一度だけ生きる機会をお与え下さい。

『ディーター!』





Agnus Dei, qui tollis peccata mundi
(世の罪を除き給う神の子羊よ)


悲鳴にも似たジムゾンの囁きが届いたのは二人が丁度宿から出ようとしていた時の事だった。
『何だ。』
ディーターは問い返すがジムゾンからの返事は無い。
『何の用だ。』
それでも返答は無い。
『答えろ。早く。』
再三の問いに少しの焦りが混じる。どうせ何時もの後ろ向きな考えからの文句なのだろう。そう思う気持ちが心の大半を占めていたが声音が妙に引っかかった。
ニコラスは二人より広範囲を見渡せる人狼の目で教会を探っている。やおら何かに気づいてディーターの腕を引っつかんだ。
『襲撃を変更します!急いで!』

dona eis requiem.
(彼らに安息を与え給え)


ジムゾンの体中を無骨な指先が這いまわる。聖服は襟元から引き破られ、顔の真横に突き立てられたナイフに映る顔は恐怖に歪んでいた。死と性欲とは隣り合わせなのだと何かの本で読んだ事がある。ジムゾンは今まさに身をもって感じていた。
人狼が人間に一対一で生命を脅かされるとはとんだお笑いだ。このままされるがままになって殺されたら、きっと自分は人狼の歴史に残る汚点となるに違いない。
抗えない自分が悪いのだ。救いの手など差し伸べられるはずもない。ジムゾンは止め処なく涙を溢しながら自嘲ぎみに笑った。

Agnus Dei, qui tollis peccata mundi
(世の罪を除き給う神の子羊よ)


『クソッたれ!!生きたければ自分で襲撃しろ!』
『神父さん!今日の襲撃は彼に、トーマスに変更します!』
突如聞こえた囁きにジムゾンは目を見開く。トーマスの肩越しに見ると変化した二人の姿が目に入った。変化した姿を見るのは初めてだったがどちらが誰なのかはすぐにわかった。
夜の闇のような黒い被毛の人狼はディーター。月の光のような銀色の被毛の人狼はニコラスだ。
こちらに向かおうとしたニコラスを何故かディーターが引き止めた。
『お前が自分でやれ。俺達は知らん。』
ディーターの囁きは先程のような怒鳴り声では無かったが酷く冷たい声だった。
『無理です!たしかに狙うには最適ですが、今の神父さんに強いるのは酷です!』

dona eis requiem.
(彼らに安息を与え給え)


「ぁう…うっ…。」
ジムゾンは喘ぎながら縋るような目でディーターを見るがディーターは一向に動こうとしなかった。
『泣くな!意識を情に持っていかれるな!生きたければ本能に従え!』
苛立ったディーターの声音は再び怒鳴り声へかわる。

Agnus Dei, qui tollis peccata mundi
(世の罪を除き給う神の子羊よ)


ジムゾンの姿が何故か昨夜のヴァルターの姿に重なってしまう。ディーターは昨夜の事を思い出していた。月の光の中でヴァルターが語った言葉を。何処から持ってきた言葉なのか、それともヴァルターの創作なのかは知らない。だがジムゾンもきっと同じ事を考えているはずだという不思議な確信があった。



『“待ち望んで”いるばかりでは救い主など来ない!』



dona eis requiem sempiternam.
(彼らに永遠の安息を与え給え)


マドンナブルーの物憂げな瞳が血の赤に染まる。

裂かれた黒い聖服が翻り礼拝堂に流れる時が止まった。

絶叫さえ許されない魂の解放と生命の終り。

祭壇の前で被毛を赤く汚したのは

あまりにも無垢な白い人狼だった。



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