【罪を知らぬ罪】
「神父さんには申し訳ないけど、俺に決まって良かったと思ってるよ。」 寝台に身を横たえたままヤコブは静かに呟いた。足や腕に留まらず顔までも侵食する黒い斑点がもう長くは持たない事を如実に物語っていた。 「厄介者排除の投票じゃ無いんだ。」 処刑希望を聞いている途中で質問を切り、ヨアヒムは呆れたように呟く。背にしている黒板にはヤコブの名前が連なっていた。 「満足に動く事も出来ない彼が人狼だっていうのか。」 全員が後ろめたさに黙りこくる。気まずい沈黙を破ったのはモーリッツだった。 「人狼でないという保証も無いぞ。」 目の前に積み上げていた本を一冊取って開き、文字を追う。 「人狼というのは、なりすましている姿と本来の姿とはまったく関連性が無いと言う。」 「知ってるよ。けれど、召集にも応じられず意見も言えないままなんてあからさま過ぎる。」 「それが彼奴らの“手”では無いという証拠は。」 モーリッツは更にもう一冊を手に取り、広げて見せる。 「あからさま過ぎるから人狼では無いだろう。という心理にかこつけて人狼が黙り続けていたという記録もある。お前さんのその論理が絶対だと言うのなら、か弱い女子供は先ず人狼では無かろうよ。」 ヨアヒムは反論する事もできず、更に追い討ちをかけるようにカタリナが口を開いた。 「モーリッツさんの言うとおりだと思います。では逆に聞きますけど、ヨアヒムさんは他に今絶対処刑すべきだと言えるほど怪しいと思う人はいるのかしら?」 「…。」 「ヤコブは怪しく無いかもしれないが、人間だという証拠も無いぞ。村の助力にもならん男を捨て置いて、思い込みに負けて村が滅びてしまったら死んでも死に切れんわい。」 そう言ってモーリッツは本を閉じる。 ヨアヒムは暫く悩んでいたようだったが、処刑はヤコブに決定した。ヨアヒム・ヴァルター・トーマスそしてジムゾンの4名がヤコブの処刑に立ち会う事になり、他の者は明日の一時課に再びここへ集合という事で散会した。人々が帰り支度を始める中、ヨアヒムが思い出したように言った。 「占い師は今日カタリナを占って欲しい。そして明日ここに集まった時に結果と一緒に身分を明かしてくれ。」 「私を?」 カタリナは聊か不服そうな声をあげた。 「ずっと黙っていたのにモーリッツが反論した途端に追従したじゃないか。」 ヨアヒムより先にアルビンが突っ込んだ。 「追従じゃありません。ただ共感を覚えただけです。」 「でもあれだけ色々考えてるのに、それまで何も言わないっていうのはおかしい。」 「言っても不毛だと思ったのよ。」 「だったら僕らの今までの議論は全部不毛だっていうの?」 「そんな事は言って無いでしょう。」 「やめるんだ、二人とも。」 口論になりかかった二人をヨアヒムが制止した。先程の事もあってか心底疲れ果てているようだ。 「カタリナには悪いけど僕にもそう思えた。独断で悪いとは思う。でも三匹潜む人狼の組織票と追従という事を考えたら、多数決が必ず正しいとも思えない。もし君が占い師ならアルビンを占ってくれ。」 「占われたらいけないの?」 隅の方でペーターやレジーナと一緒に遊んでいたリーザが不思議そうに首をかしげてカタリナを見た。 「いけない事は無いわ、リーザ。ただ、私を占っても無駄だって言いたいの。」 「言い伝えにある人狼がよく言う台詞ですね。」 モーリッツに借りた文献を読み漁りながらニコラスが言い、村人の視線は一瞬ニコラスに集まってすぐ一斉にカタリナへ向けられた。そう、人狼の本来の姿と人間の姿との因果関係は無い。善良そうなこの羊飼いは一見しただけではとても人狼に思えない。知慮深き残忍な魔物の事。案外こういった姿をして騙しているのかもしれない。と、村人達の間に急速に疑念が広まっていく。 「ハインツは見つからないし…。まさかね。」 オットーは行方不明になったカタリナの夫の事をふと思い出していた。その言葉と同時に更に強まった村人達の冷たい視線を浴びてカタリナは唇を噛締め、憤りでか細い手がわなわなと震え始めた。 「その辺にしとけ。」 窓枠に浅く腰を落として腕を組んでいたディーターは面白くなさそうに言った。 「明日になればはっきりする事じゃねえのか。一先ずカタリナの事は置いておいて他に眼を向けた方がいい。」 ぶっきらぼうな言い方だったが、再び疑心暗鬼に陥りかけた場を修復するには十分だった。村人は何事も無かったかのように一人、また一人と宿を出て行った。楽しげな談笑が聞こえない点だけを除けば、時折に開く集会となんら変わらない光景だった。 「はっきりするとは限らんぞ、ディーター。」 すれ違いざま、モーリッツが釘をさすように言った。 「どういう事だ。」 「人狼が占い師を騙るかもしれん。そうなれば占い師の真偽自体が解らなくなる。若し明日2人以上占い師だという者が出て、その占い結果が分かれたら真実は闇の中じゃ。…そうならん事を祈るわい。」 そう言い残してモーリッツは出て行った。 「さっきは有難うございました。」 ヨアヒムらについてヤコブの家へ向かおうとしたジムゾンの耳にカタリナの声が聞こえた。声のした方を振り返って見ると、カタリナが宿から出ようとしているディーターを引き止めていた。 「礼を言われるような事じゃない。」 「でもお陰で助かりました。あれ以上続いていたら、私もきっと耐えられなかったと思います。」 今まで人に面と向かって礼など言われた事など無いからか、ディーターは戸惑っているようだった。 「でも、私が怪しいとは思いませんでしたか。」 「印象に過ぎないが、毎日熱心に祈りに来てるあんたが人狼だとは思えない。」 カタリナは驚いて目を見開き、恥ずかしそうに頬を染めて照れ笑いを浮かべる。 「ご存知だったのですか。」 「教会に居候してるからな。」 そう言ってディーターが苦笑し、カタリナもまた笑った。 「神父さん、行くよ。」 ヨアヒムに呼ばれてジムゾンは我に返り、ヨアヒム達と共に宿を出た。胸の奥にわだかまる複雑な感情を忘れようとして、ただ無心に歩き続けた。 村はずれにあるヤコブの家は明かりもつかず、ひっそりと静まり返っていた。すぐ横に広がる畑はとても畑とは思えないほどに荒れ果て、農具を収めてある小屋には幾重にもツタが絡み付いている。 ジムゾンが村に赴任してきた当初はまだヤコブも一人で身の回りの事ぐらいはできていた。広大な畑はやはり荒れてはいたが、片隅で必要なだけ野菜や穀物も栽培していた。病が伝染する事を恐れた村人はヤコブとの接触を避け、訪ねる者は介助の経験があるジムゾンだけだった。 ヤコブの家を訪ねていてジムゾンにはひとつだけ解った事がある。それは村人がヤコブを遠ざけているというよりは、ヤコブ本人が村人との接触を避けているという事だった。 「そもそも人狼が出ただなんて、まだちょっと半信半疑だけどな。俺は人狼じゃないと言ったって誰も信じられないだろう。同じ事が皆にも言える。誰が人狼なのか解らない中でただの人間を意味も無く処刑してしまうより、役立たずの俺が処刑された方がずっといい。」 ヤコブと二人だけの部屋の中でジムゾンはただ黙ってヤコブの話を聞いていた。刑を執行する三人は隣室に待機している。ヨアヒムから処刑を宣告された時にヤコブの顔に浮かんだのは安堵の表情だった。そして今終油の秘蹟を終えてヤコブは穏やかな笑みさえ浮かべていた。 「ずっと見捨てないで世話してくれていたのに、ごめんよ。…こんな事言うと怒られるかもしれないけど。早く楽になりたいって思ってたんだ。」 相変わらず穏やかな笑みを浮かべて言うヤコブに、ジムゾンは動揺を隠せなかった。 「何も出来ないのは今に始まった事じゃない。元気だった時にも、俺はやっぱり役立たずだった。」 ヤコブは思い出したように呟いて俯いた。笑みが消えた横顔には暗い死の影が落ちていた。まだ自活できていた頃のヤコブは時折体調を崩してしまう事を除いてはまったく健康そのものに見えた。日に焼けた肌と精悍な顔つき、働き者で快活な人柄。病にかかってさえいなければ何の問題も無いように見えた。そんな彼をして役立たずと言わしめるのは一体何故なのか。過去に何かあったに違いないと時々思いながらもジムゾンは何時もそれを聞く事ができずにいた。 告解を受ける事は何度かあった。しかし教会の儀礼そのものが形骸化してしまっている状態で本当に身を苦しめている悩みの告白など受ける事は稀で、ヤコブに関しても同じ事だった。そしてジムゾン自身が孤独を好んでいたがゆえに、不必要に他人に干渉しようとする事をよしとしなかった。そんな自分の性格をジムゾンは今はじめて悔いていた。 「過去に何があったのですか、ヤコブさん。私で良かったら聞かせては頂けませんか。」 ジムゾンは思い切ってヤコブに問うた。ヤコブはハッとしてすぐに押し黙ってしまう。何時もならその様子を見て質問をおさめてうやむやにしてしまうジムゾンだったが、今日ばかりは問いを撤回しようとはしなかった。今聞かなければヤコブを苛む過去は彼を解放する事なく永遠に封印されてしまう。 「時間だ。」 声と共に扉が開き、明かりを背にした黒い人影が三つ、扉の向こうに並んでいた。ヨアヒム、続いてヴァルターとトーマスがヤコブを連れ出そうと部屋に入る。 「待ってください!まだ話は終わってません!」 立ち上がった拍子に床に落ちた聖書に目もくれず、ジムゾンは悲鳴に近い声をあげる。なんとか止めようとしてヤコブを抱えかかったトーマスの腕に縋りつく。トーマスは驚いた様子でジムゾンを見た。が、次の瞬間何故か忌々しげな表情を浮かべてジムゾンの腕を振り解いた。ジムゾンは脇のテーブルに倒れこみ、その弾みで上に置いていた蝋燭の火が消えてしまった。なんとか体を起こすと、両脇を抱えられたヤコブと目が合った。 「墓まで持っていかせてくれ。」 そう呟いてヤコブは再び笑ってみせた。その笑顔は、恩師のアロイスが最後に見せた笑顔によく似ていた。 「今まで有難う神父さん。俺にとって、あんたは天使みたいな人だったよ。」 しん、とした冷たい空気を感じてリーザは目を覚ました。降り注ぐ青白い月の光を遮って長くのびる影ひとつ。 「こんばんは、リーザ。」 大きな三角帽子の奥から聞こえる涼やかな声。それはリーザがよく知っている声だった。 「ニコ兄ちゃん?」 リーザが問うとニコラスは帽子を脱いでにっこり笑った。何かに引き寄せられるように、リーザは寝台から降りてニコラスの前に立った。隣で眠っているレジーナとペーターはまるで魔法にかかったように目を覚まさない。 「だめじゃないか。占い師は悟られないようにしなくちゃあ。」 「さとられる?」 「気付かれるという事だ。」 答えたのはニコラスではなかった。一陣の風が通り過ぎ、何時の間にかニコラスの横にはディーターが佇んでいる。 「リーザが占い師だってどうして解ったの?」 小首を傾げるリーザを見てニコラスは苦笑した。 「あんなに占いの事に口を出したら解っちゃうよ。」 議題回答の時。リーザはしつこく占い師の身のふり方に関して突っ込んでいた。そしてカタリナが占いに不満を表した時にも真っ先に疑問を投げた。 「うまく隠れたつもりだったのになぁ。」 リーザは背中で手を組んで口を尖らせ、ぷぅと頬をふくらませた。 「でもいいや。お兄ちゃんが居なくて寂しかったもん。ニコ兄ちゃんに食べられたら、お兄ちゃんに会えるんだよね?」 「うん。すぐに会えるよ。」 ニコラスは微笑んだままリーザを見つめ、ディーターは表情一つ変えない。 「じゃあリーザ、いち抜けたー。」 事実を知らぬままの無邪気な声が闇の中にかき消えた。 『でも良かったのかもしれません…。この世の悪や悲劇を見ないまま、綺麗なままで死んでいくというのは。』 ほんの少しの羨望も込めて、ジムゾンは嘆息と共に囁いた。 ディーターが教会へ帰った時、ジムゾンは自室で祈りを捧げていた。明日報告するのも面倒だったのでディーターは率直に今日の襲撃の事を伝えた。ゲルトの死体を見て卒倒したジムゾンのこと。まだ幼いリーザを襲撃した事実を告げれば半狂乱になってしまうのでは無いかと思われた。が、ヤコブの処刑の衝撃で茫然自失になっていた為さほど動じる様子も無かった。 『とんでもない事を仰る。』 ふと、ニコラスの囁きが聞こえた。 『死の恐怖を知らなければ、生きている事の有難さを感じる事も無い。そう、言うなれば神の存在を強烈に意識する事も無いに等しい。この世の悪を知らず、己の罪も知らない。これ以上の罪は無い。あなたが一番よくご存知の筈ですよ。』 目を背けようとしていた教理を突きつけられて、ジムゾンは返す言葉も無かった。 『神父さんはやさしいから、そう思いたくなるのも仕方無いですね。いや、余計な事を言ってすみませんでした。おやすみなさい。』 『やさしい、か。』 ディーターが鼻で笑う。 『自分の心が揺らぐのが怖くて現実を直視できない。同じやさしいでもお前の場合は“自分に”だ。』 「Requiem aeternam dona eis, Domine…。」 ジムゾンは囁きには答えずディーターに背を向けて跪いたまま、祈りの代わりに小さな声で歌い始めた。ディーターは溜息ひとつついて踵を返し、階下へ降りていった。 澄んだ歌声が夜の闇に溶けてゆく。ヤコブの穏やかな顔がジムゾンの脳裏をかすめた。歌っていれば何も考えずにすむ。それなのにあの笑顔が目に焼き付いてはなれず、何時の間にかジムゾンの頬を涙が伝っていた。 「Kyrie eleison Kyrie eleison Kyrie eleison…。」 主の憐れみを讃える歌を歌いながら、ジムゾンは自分が憐れみを乞うているかのような錯覚を覚えていた。 next page → |