「明らかな月夜に」
ジムゾンの腹を満たした者の遺骸は、教会裏の墓地にひっそりと埋められた。行方不明騒ぎになりはしたが、この時代にはよくある事でもあった為にそれほど村をにぎわす事は無く騒ぎは何時の間にか潰えてしまった。ただ、彼の妻であったカタリナの悲しみは言い表しようの無い物であり、何度も救いを求めて教会を訪れ続ける彼女を目にする度ジムゾンはあの夜の嘆きに胸が締め付けられるようでもあった。 そんなジムゾンをディーターは何時も冷めた目で見つめていた。あの後何度も晴れた日が訪れたがディーターは教会に留まりつづけた。その理由が何故なのかは解らない。風体も良くないならず者ではあれど寂れた村で悪事を働くわけでもなし。男らしい容姿と社交性も相俟って皆と打ち解けるのに時間はかからなかった。一年経ってなお村に溶け込めないジムゾンにとっては多少腹立たしい事でもあった。彼には村への思い入れなど何も無いのだから尚更だ。 『ここらで村壊滅と洒落込むのも面白いかもな。』 留まると言った時皮肉な笑みを浮かべて彼が囁いたのを覚えている。ジムゾンは顔を強張らせつつも冗談だろうと無視をした。万一本気だったとして自分には彼を止める事など出来ない。 不誠実なならず者の、恐らくは気まぐれで生かされてしまった屈辱。それに頼ってしまった自分への無力感。ディーターは食事と睡眠の為に教会へ戻ってくるだけで、言葉は勿論囁きさえ交わさない日も珍しくなかった。誰にも心の内を打ち明けられず一人罪悪感に苛まれ続けるジムゾンは暇さえあれば礼拝堂で祈るばかりだった。 そんなある日一隊の隊商が村を訪れた。隊商を構成するのは旅芸人や行商人、何らかの事情で旅をする旅人達。彼らは年に一度この村を訪れ、数日間滞在してまた去っていく。その間村の広場では旅芸人の見世物小屋や露天が開かれ、騎馬試合や処刑にお目にかかる事も無い辺境の村での数少ない娯楽の一つとなっている。 病に臥せっているヤコブの家へ行く途中でジムゾンは広場を通りかかった。人の集まっている方を見やると若い娘達が肌も露な格好で踊っていた。なやましく腰をくねらせ大半が男で占められた見物人達を挑発する。ジムゾンは思わず眉をひそめ、かたく目を閉じた。見てしまった事を後悔し足早にその場から立ち去った。ああいうふしだらなものに何故皆惹かれるのだろうか。ミサでの説教なんてロクに聞きもしないというのに。そんな事ばかり考えて憤りながら足元に視線を落とし土を確かめるように踏みしめて歩む。 「嘆かわしい。」 短く吐き捨てるように呟いた声は、怒りでか細くかすれていた。 教会へ帰ってくると時計の針は終課の時刻を指していた。ジムゾンは慌てて鐘楼を上り教会の鐘を鳴らす。ゆっくりと動く古びた鐘は空を朱に染める夕日を鈍く反射しながら一日の活動の終りを告げた。小さな鐘だがジムゾンにとってこの作業は一番の重労働だった。司祭と言えば最低でも家事をやる人間くらいはついているものなのだが、ヴィッテンベルク大学の教授が打ち立てた新教の浸透で信者数は減り資金も乏しい中では生憎そんな者を雇う余裕は無い。ディーターがやってくれればどれだけ助かるだろう。ふと考えて、ジムゾンは漸くディーターの事を思い出した。もう帰ってきて良い時間なのに姿が見えない。 すっかり冷めてしまった夕食を前に席についたまま、ジムゾンはぼんやりとカンテラの明かりを見つめていた。時計の時針は晩課の時刻を指そうとしている。とうとうディーターは戻ってこなかった。ジムゾンは諦めて席を立ち二人分の豆スープを鍋に戻した。無駄に汚れたスープ皿を洗ってしまうとカンテラを持って再び鐘楼に上った。人狼の目を使えば暗闇に明かりなど必要も無いのだが極力人狼の能力には頼らないようにしている。自分の身を守る為でもあり、人狼である事実に背を向けたい一心でもあった。 『神父さん。』 鐘を鳴らし終わって鐘楼を降りようとしたジムゾンの耳に聞きなれない声音の囁きが聞こえた。新たな仲間の存在にジムゾンの胸は早鐘を打つように高鳴った。 『聞こえますか、神父さん。』 若い男の声。ディーターと違って上品な声だが、何処か弱弱しさを感じる。 『ええ、聞こえます。』 焦る気持ちを抑えるように、落ち着いて返事をした。 『はじめまして。聞いて頂きたいお話があるのですが訳あって人の身では動けない状態なのです。今は旅芸人のテントに居ます。申し訳無いのですが、こちらへ来て頂けませんでしょうか。』 『しかし…。』 『もうじき使いを頼んだ旅芸人がそちらにお伺いするはずです。重病のように装っていますが実際それほど悪くはありません。何も知らないふりをして同行してください。』 程なく囁きのとおりに旅芸人の男が教会を訪れた。隊商に同行している旅人の一人が病に倒れ夜になって容態が悪化したと言う。旅人は旧教の信者であり終油の秘蹟を行って欲しいとの申し出だった。ジムゾンは香油と聖書を持って男に同行した。 青白く冴え冴えとした月の光が降り注く夜道を無言で歩き続ける。天上を仰ぎ見れば大きな丸い月が昇っていた。今日は満月だ。顔を戻して男の背を追ううちにやがて広場へと辿り着いた。昼間と打って変わって静まり返った広場。幾つかのテントからは明かりが漏れており、その中の一つに案内されて中に入った。道具置き場のようになっているテントの奥に簡単に作られた寝台があり、その上に若い男が目を閉じて横たわっていた。旅芸人の男はそこまででテントを出て行きジムゾンは寝台に歩み寄った。陽光のように輝く金色の長い髪。中性的にも思える端正な顔だち。旅人と言うよりは貴族と言われた方が納得がいく容貌をしている。ジムゾンより一回りは若いように見えるのだが、同時にはるかに老熟した雰囲気も漂っている。 「ニコラスさん。」 ジムゾンはそっと、旅人に呼びかけた。ニコラス・アッヒェンバッハ。先ほどの旅芸人から聞いた彼の名前だ。ニコラスはゆっくり目を開けジムゾンを見る。ニコラスの瞳は耳飾のラピスラズリと同じ色をしていた。 「この村の神父のジムゾンと申します。終油の秘蹟を行って欲しいとの事でしたね?」 言葉はなく、ニコラスは小さく頷いて見せた。 『こんな時間にお呼び出しして申し訳ありませんでした。』 僅かに笑みを浮かべてニコラスが囁く。 「どうやら、秘蹟を行う必要は無さそうですね。…良い事です。」 『昼間あなたを見かけたのですが、お仲間だと確認するのが精一杯で声をかける間がありませんでした。何か、お急ぎの御用だったのですね?』 『ええ。』 昼間の事を思い出すのも嫌でジムゾンは曖昧に返事する。 「折角来たのにこのまま帰るのも何ですから。」 と、言いおいて傍らの木箱に腰をおろし聖書の一節を朗読し始めた。 『こうして寝込んでいるのは、随分と喰っていないからなのです。』 ニコラスの告白にジムゾンは別段驚きもしなかった。あの声音からしてそんな事だろうと解っていたからだ。なにしろ数ヶ月前まで自分がそうだったのだから。 『もう一年近く人間に出会わなかったのです。少しでも飢えをしのごうとして兎やら狐やらを狩りはしましたが焼け石に水でした。そこで運良くこの隊商に出会ったのです。ところが襲撃の直前で存在が見つかってしまいまして。怪しまれない為に別隊とはぐれたふりをして中に入れてもらいました。しかしこうなると襲撃すればすぐにバレる。生殺し気分でした。』 囁きながらニコラスが苦笑する。 『そしてやっとこの村に落ち着いた。隊商は数日間村に滞在します。これなら私だけが怪しまれる事も無い。』 ジムゾンは囁きで相槌は打たずに聖書を朗読し続けた。次に発せられる言葉の内容を薄々感づきながら冷めた視線で文字を追った。 『明日の夜から、襲撃を行います。』 『3人が揃ってしまった以上は、逃れられぬ宿命です。』 ジムゾンは諦めたように囁き、聖書を閉じた。 『ご存知でしたか。伝承を。』 ニコラスは意外そうな表情を浮かべジムゾンを見た。 『昔ある人から聞きました。…仮に知らなかったとしてもこの体を流れる忌まわしい血が騒ぎ立てるので解ります。』 『大した方だ。普通ならそんなに冷静では居られないのに。』 『餓死寸前まで抑え続けてきたのでこれくらいは表面に出さずにおれます。』 囁く声が一寸自慢げになったのが自分でもよく解った。 「では、お大事に。」 ジムゾンは表情一つ変えず立ち上がり、踵を返した。 『もうお一方は少し荒れているようですから。明日にでも神父さんからお話してあげてください。』 ジムゾンは再びディーターの事を思い出した。そうだ、普通ならこの囁きとて彼に聞こえている筈。なのに返事が無いという事は…。 『彼が何処に居るのかご存知なのですか?無事なのですか?』 ジムゾンは思わず振り返ってニコラスを見た。力を暴走させてもう襲撃を行っているのではなかろうか。それとも衝動に呑まれ独りで苦しんでいるのではなかろうか。不安と憶測が頭の中を錯綜する。 『意味も無く振り返ってはいけませんよ。』 ニコラスは先ずジムゾンの行動をたしなめた。 『大丈夫。彼は随分と場数を踏んでるようですから心配要りません。ああ、囁いても聞こえませんよ。隣のテントに居ますが関わるだけ野暮な話です。それでは、おやすみなさい。』 「いえ、何でもありません…。」 ジムゾンはとっさに行動を繕って独り言ちた。何処で見られているか解らない。不審な行動は迂闊に取ってはならない。 『おやすみなさい…。』 視線を戻しつつ囁いてジムゾンはテントを後にした。 何か用があるのなら用があると言えば良いでは無いか。夕食の用意までしてずっと待っていた自分が馬鹿みたいに思えて、もやもやした気持ちを抱えたままジムゾンは広場に佇んでいた。どうせ旅芸人達と博打でもしているのだろうと思ったら益々腹が立つばかりだった。放っておいて教会へ帰ろうとしたジムゾンだったが、ふとある事に気が付いた。ニコラスが言っていた隣のテントからは明かりが漏れていない。それどころか人の声もしない。嫌な予感がした。逸る気持ちを抑えながらジムゾンはテントのそばまで歩み寄った。草木のざわめきに紛れて聞こえる微かな声。女の声。声を耳にした瞬間、ジムゾンはディーターが一体何をしているのかを悟った。何故彼が言い置いて行かなかったのか。ニコラスが、関わるだけ野暮だと言った理由も。それなのにジムゾンの手はテントをはぐってしまった。 「聖職者が覗き見していいのかよ。」 逃げるように教会へ戻ってからどれぐらい時間が経ったろう。床へ膝をつき寝台に顔を突っ伏していたジムゾンの耳にディーターの声が聞こえた。どきりとした。覗き見たのが何故ばれたのだろう。何か物音を立てた覚えもなかったし足音もさして響かなかった筈だ。 「落ちてたぜ。お前のだろ。」 顔の横に何かが置かれジムゾンは一寸だけ顔を上げる。視界に入ってきたのは香油の瓶。胸元を探ってみると確かに無い。ジムゾンは慌てて瓶をひったくり、胸元に仕舞いこんで再び顔を突っ伏した。ディーター独特の体臭に混じって女物の香水の匂いがする。鼻をつくきつい匂いにジムゾンは顔をしかめる。 「何とか言えよ。」 苛立ったディーターの声。ジムゾンは半ば意地になって感謝の言葉も謝罪の言葉も言おうとしなかった。 「なあ。」 ディーターの手が肩を掴む。払いのけようとすると更に強く引っ張られた。 「痛い!!」 思わず叫んで振り返ったジムゾンの顔は涙にまみれていた。 「…何で泣いてるんだ。」 あっけにとられた様子でディーターが呟いた。 「知りません!解りません!放っといて下さい!!」 ジムゾンは怒りに頬を紅潮させてヒステリックに叫ぶ。立ち上がってディーターを部屋の外まで押し出しドアを閉めて鍵をかけた。 ただ涙が溢れて止まらなかった。どれだけ懸命に聖務をこなしても世の罪に信仰が勝る事は無く。信じて待って心配していた人は情事に耽っていたという現実。 「私の行いの、一体何が報われたと言うのですか?」 ロザリオを握り締めて、腹の底から振り絞るように呟く。見返りを求めぬ愛。そんな事は子供の頃から知っている。しかし報われない事がこれほどまでに虚しい事だとは知る由も無かった。涙でぼやける目で窓を見ると沈みつつある満月がかすんで見える。月の冷たい光を浴びながらジムゾンは自らを呪い、神を呪った。こんな世界に一体何の未練があろう。 『何もかも、消えて無くなってしまえばいい。』 そう囁いた後。無くなってしまえと言いながら、それでもまだ誰かに救いを求めているという矛盾の事実に気付いてジムゾンは涙を溢したまま自嘲ぎみに笑った。狂気で虚勢を張って見せても所詮自分は愚かな存在に過ぎない。解ってる。そんな事は、解っている。ただそれに気付くのが恐ろしかった。 『血の饗宴の前夜祭には、何よりの祝福の言葉です。』 慰めにも似た穏やかなニコラスの囁きは子守唄のように心地よく響き、ジムゾンは眠りの世界に意識を手放した。 next page → |