【黒い森の復活祭・第一章】

澄んだ音色が春の空に響く。涼やかでありながらも柔らかな音は幾重にも重なり心地よく溶けていった。ジムゾンは思わず足を止めて耳を澄ます。音は市場の隅にある骨董店から聞こえていた。
簡易テントの柱に括り付けられた紐の先で古ぼけた金属の塊が揺れている。不思議な音色を響かせているのはどうやらそれらしい。
「何かいいもんでもあったか。」
ジムゾンがついて来ないのに気付いてディーターが引き返してきた。
「綺麗な音ですね。」
ディーターの問いかけにジムゾンは溜息まじりで呟きを返した。
「ちょっと見て行ってもいいですか。」
目を輝かせながらそう言うと、ジムゾンは承諾の言葉も待たずに小走りに店へ向かった。ディーターは苦笑してその後を歩いて追った。
1633年、春。
スウェーデン王グスタフ・アドルフの戦死によって神聖ローマ帝国は束の間の休息を迎えていた。

ルーデンドルフの領を出て暫らくは南下していた二人だったが南部での戦闘激化によって足止めを余儀なくされ一旦ライン川沿いに北上した。鎧をつけた修道士とまで呼ばれたティリー伯が死去し、皇帝軍が益々劣勢となった事もあってディーターの提案で暫らくディトマルシェンに身を寄せていた。ディーターにとっては二度と戻りたくない因縁の土地ではあったが確実に安全な場所はそこしか無かった。
その後幾分か情勢が落ち着いたのを見計らって再び南下し、二人は実に一年かけて黒い森に無事辿り着いたのだった。実際に森に入ったのは随分前なのだが北部入口付近は新教徒であるバーデン大公領であるため迂回に迂回を重ね、こうして南部に辿り着くまで長らく気が抜けなかった。
復活祭を明日に控えたドナウエッシンゲンの街は賑やかで、漸く目的地に辿り着いた喜びも相俟ってジムゾンは何処か子どもじみた期待感に浮かれていた。


「そいつは帝国ターレル銀貨3枚だ。」
夢のような一時が一転、行商人の一言にジムゾンはしゃがんだままの姿勢で固まった。奇妙な音を奏でる鈴を熱心にとっかえひっかえした挙句ジムゾンが漸く決めた卵型の一つがその値段だというのである。
3ライヒスターレルとは一つの家族一月分の生活費にあたる。ぼったくりではないかと思いつつも何分骨董品。価値が解らない以上文句も言いようがない。諦めます。ジムゾンがそう言おうとしてディーターを仰ぐと、ディーターは財布を探っていた。
実に意外な事だがディーターの財布には高額な銀貨や金貨が詰まっている。傭兵時代の給金なのだが、日常生活でのちょっとした買い物で使うと釣りの小銭がとんでもない多さと重さになってしまう。傭兵だった頃は装備を整えるなど用途はあった。しかしやめてしまった今では家を建てるとか馬を買うとか、そんな出来事でも無い限り多額の出費は無い。ゆえに使わないまま財布の肥やしになっているのだった。
「い、いいんです。そんな…。」
『メシに困るわけじゃねえだろ。それにどうせ使いようが無くて余ってた金だ。』
『でも…。』
囁きでジムゾンが渋っていると突然声が降って来た。
「1クロイツェル。」
行商人が提示した値からかけ離れた安値を言い放ったのは身なりの良い青年だった。何時の間に現れたのか、ディーターの横に佇みにこやかな笑みを浮かべている。仰々しく値踏みするように片手を顎に当てて彼は言葉を続けた。
「おかしな音はするけど需要があるわけでもない。第一本当にケルトのドルイドベルなのかどうなのか真偽だって解ってない。どうせ元はただ同然。まあ、相場は子どものお駄賃程度が妥当だね。」
「おいおい、素人が勝手に値を決めちゃ困るな坊ちゃんよ。」
行商人は苦笑して青年に反論する。だが表情にはわずかな焦りが見て取れた。
「僕の名はエドガー・オッペンハイム。」
涼しい顔した青年の言葉を受けて行商人は一気に顔を青くし、ディーターもジムゾンも目を丸くして青年を見た。オッペンハイム家と言えばこの国で知らぬ者は居ない豪商だ。
「たしかに行商はした事無いけど商売歴は結構長くてね。で、幾らって言ったっけ?」

「本当になんとお礼を言っていいやら。」
広場で別れる間際、ジムゾンは改めてエドガーに礼を言った。あの後急に腰が低くなった行商人はあっさり言い値を呑んでベルを売ってくれた。この国の主要な取引を一手に握っているオッペンハイムに歯向かった所で何の利益も無いどころか市場から締め出しを食らいかねない以上、賢明な判断だったと言えよう。
「神父さんに恩を売っとけば天国に行けるかなあって。」
エドガーは無邪気に笑い、ジムゾンも思わず苦笑した。
「そっちの兄さんがゆさぶりに出るかなーって思って暫らく見てたんだけど、骨董物だったからね。何にしてもあんまり高い物は一度は疑ってみるべきさ。では、幸運を。」
短い別れの言葉を残してエドガーは隊商と思しき物々しい集団の中に消えた。
『似てたな。』
『ディーターもそう思いました?』
後姿を見送ったままディーターが囁き、ジムゾンも同意見を返した。エドガーはあまりにもよく似ていた。一年前辺境の村で出会った行商人のアルビンに。
『世の中に似てる奴は3人は居るっていうが…。案外兄弟だったりしてな。』
『でもアルビンさんのお名前はたしか、アルビン・グラーツだったはずです。』
『実は私生児だったとか、何か理由があって家出してきたとか。』
『うーん。確かにあれだけ名を馳せる大きな家ならそういう事もありえそうですけどねえ…。』
皇帝の遠縁になる自分の家やその親戚一つとってもありえそうな話だけにジムゾンは考え込んでしまう。
アルビンに比べるとやや幼く背丈もそんなに高くは無いのだが面差しや物腰は異様なほどそっくりで、長めの黒髪をジムゾンくらいに切り揃えたらまったくアルビンにしか見えない。

『そういえばディーター、髪の毛伸びましたね。』
広場から大通りに向かって歩きながらジムゾンがふとディーターを見る。ジムゾンはこの一年教会の日常を全く崩さなかった。同様に、髪の毛も少し伸びればすぐさま切り揃える徹底ぶりだったので見た目は何一つ変わっていない。
対するディーターと言えば、腰に帯剣している事に加えて髪の毛が肩あたりまで伸びてきていた。無精ひげには何かしら信条でもあるのか一定の長さ以上伸ばさないのだが、髪の毛は放りっぱなしだ。
「なんか顔についてんのか。」
「いえ、別に。」
『忘れてた。』
『ひげは時々剃るくせに?』
『いやほら、これが。』
「傷が消えたとか。…あ、あるか。」
周りには不自然に見えないようにディーターは自分の額を指し示す。示した額には以前戦で負ったと思しき古傷が横一文字に刻まれている。
「なんでもないんですってば。」
『傷?』
『違う、布。』
『そうか、前は包帯みたいに巻いてましたよね。』
『あれを巻く手間が無いと上にあげる必要もねえから気にならなかったんだよ。』
『どうして巻かなくなったんですか?』
『捨てたからだ。前に俺が狩人に襲われた事があっただろう。お前の知り合いだった…ルドルフだったか。あの時やりあいの最中視界を遮られて邪魔になったから捨てた。それっきりだ。』
急にジムゾンが立ち止まった。
『元々包帯代わりに巻いてたのが癖になってしていただけだったからな。その後はずっと忘れてた。』

それに気付いてディーターが振り返る。ジムゾンは考え事でもしているのか、黙って道のど真ん中に突っ立っていた。
嫌なことを思い出させたろうかとディーターは思った。ルドルフはジムゾンにとっては何の落ち度も無い理想的な古い知り合いだった。出来れば襲撃などしたくなかったろう。
「帽子とか。」
引き返すとジムゾンは考え込んでいる様子でぽつりと漏らす。
「かぶったら似合うかなあと思ったんです。その傷も隠れますし。」
「帽子?」
鸚鵡返しの問いを受けてジムゾンは黙って小さく頷く。なにやら言い出せなくて恥ずかしがっているようだ。
「だって私だけ貰いっぱなしだなんて気が引けます。でもディーターの欲しい物が解らなかったから。」
「どっちの金がどうだとか言うもんじゃないだろ。今更。」
ディーターは笑って、口をヘの字に曲げているジムゾンの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「復活祭へのささやかな準備って事にしよう。」
「卵型ですもんね。」
滅茶苦茶にされた髪の毛を整えながらジムゾンは苦笑した。

「あら、ヨハネス神父様。」
日も傾きかけた大通りの雑踏の中、知らない名前でジムゾンに呼びかけて来たのは一人の若い修道女だった。不意に現れた修道女は果物の入った紙袋片手に親しげな様子でジムゾンに話を続ける。
「明日の準備を手伝って下さるお約束でしたのに、こんな所で油を売ってらしたのね。」
「あ、あの。人違いでは…。」
「またそんなとぼけた事仰って。さ、私も帰りますから一緒に参りましょう。」
聊か憤慨した調子で修道女は強引にジムゾンの手を取った。
「いや、こいつはヨハネスじゃない。」
押しの弱いジムゾンに代わってディーターが引き止める。
「たしかに神父だが名前はジムゾンだ。ここの教区には縁もゆかりも無い。」
修道女は未だ不審そうにジムゾンとディーターを見比べていたが、やがて何かに気付き驚いてジムゾンの腕を解放した。
「ごめんなさい!私ったら早とちりして。」
「いえ。いいんですよ。」
「本当に申し訳ありません。私はフリーデルと申します。あちらの」
フリーデルは言葉を切って斜め後方を手で示す。伸ばした腕の先には聖堂の尖塔が見えた。
「聖堂傍にある孤児院で働いております。ヨハネス様は時々お手伝いに見えて下さる神父様なのです。」
「そうだったんですか。私はジムゾンと申します。こちらは友人のディーター。私はマリアラーハ修道院に所属しておりましたが、司祭叙階を終えてフランスまで彼と共に巡礼の旅の途中です。」
「フランスというと、どちらまで?」
「え、ええ。サン・ドニ修道院まで参るつもりです。」
「ああ!キリストの釘のある巡礼地ですね。私も一目見てみたいと…」

ジムゾンの出任せを切欠に、その後ジムゾンとフリーデルは二人で話が盛り上がっていた。同じ聖職者同士というのもあったが、フリーデルがジムゾンと同じようなハート型のベルを持っていた事も手伝っていた。フリーデルは買ったのではなく孤児院の子供から貰ったのだという。二つのベルの音は元々の不協和音を更に大きなものにしていた。
「ねえディーター。ちょっとだけ聖堂に寄って行ってもいいですか?」
漸く話に区切りがつくとジムゾンが言い難そうに問いかけてきた。
『シトー会は戒律が厳しいんです。孤児院が併設されてますから施設はいいと思うのですが、聖堂には聖職者以外立ち入れません。もし行くのなら、恐らくディーターには外かどこかで待って貰う事になると思いますが…。それでも構いませんか?』
『俺のことは気にしなくていい。好きなだけ見てこい。』
先を急ぐ旅でもない。ディーターが二つ返事で快諾すると、二人はフリーデルに案内されるまま聖堂へと赴いた。

予想通りディーターは聖堂で締め出しをくらい、ジムゾンだけがフリーデルに案内されて中へと消えた。一応聖堂脇の詰め所で待つよう言われたのだが復活祭の準備で忙しいのか詰め所には誰も来る様子が無い。フリーデルの気配が近づいてきた時にでも戻ればいいのだからと、ディーターは外に出て暇を潰す事にした。
中の静けさとは打って変わって外では修道女や修道士達が忙しそうに動いている。時折孤児院の方から子供らの騒ぐ声も聞こえた。聖堂前の階段に腰を下ろして声を聞きながら、ディーターはかつて自分に名をくれた神父の事を思い出していた。
血の宴の最中も村人は“神父”と呼んでいたので名前も知らないままだった。ディーターも名前を尋ねた事も無かった。ジムゾンと一緒にディトマルシェンに戻った際に墓碑銘ではじめて彼の名を知った。
マクシミリアン・ゴルツ。修道名はガブリエル。奇しくもジムゾンと同じ修道名だった。
お前にガブリエルなんてご大層すぎるよな。ディーターが茶化すとジムゾンは顔を真っ赤にして食って掛かってきた。ジムゾンが長らく修道名を名乗らなかったのは仰々しい名の所為でもあるのだろう。
今日会ったエドガーというアルビンそっくりの商人の事といい、ジムゾンにそっくりだという神父の事といい、偶然が重なるものだとディーターはつくづく思っていた。運命とは普段さり気無く忘れられながらも時折こうして強烈に存在を意識させる。人同士の力が殆どの結果を生み出す戦の最中にあって人々が神の存在を忘れないのは、こういう事があるからなのかもしれない。勿論、良しにつけ悪しきにつけ、だが。

「やっとお見えになりましたのね、ヨハネス神父様。」
呆れた修道女の声にディーターは顔を上げた。先程フリーデルがジムゾンと間違えた神父の名だ。
「広場でぼんやりしていたらつい遅くなってしまってねえ。」
次いで聞こえてきたはのほほんとした男性の声だった。声音から察するに、かなり年配のように思える。年齢を確認する為、そしてどれくらいジムゾンに似ているのかが気になってディーターは声のする方へ歩いて行った。
「もうじき夕べの祈りが始まりますわよ。」
「いやあ、すまんすまん。」
修道女に手を引っ張られているのはジムゾンとは似ても似つかぬ顔をした初老の男性だった。ディーターは思わず傍を通りかかった修道士の腕を引っつかんで引き止める。
「あれがヨハネス神父?」
「ええ、そうです。」
修道士は突然のことに驚きつつもディーターが指す男性を見て素直に頷いた。
「他には居ないのか。」
「この教区にはあの方お一人です。」
ディーターは礼もそこそこに修道士の手を離すと聖堂へ走った。

フリーデルが盲目だというのなら解らないでもないが、遠くに見える聖堂を指し示す事ができるのにあの神父とジムゾンを間違うなんて考えられない。そうなると考えられるのはただ一つ。
何か思惑があって故意に間違えた。
それもあまり良くない理由で。何故フリーデルがそんな事をしたのかは解らないがディーターは本能的に嫌な予感がしてならなかった。

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