【湖畔の盟約・第三章】
ヨハネスは、院長と話してくると言って女子修道院に残った。ジムゾンとディーターは一旦聖堂へ戻る事にした。 「さて、誰に紹介を頼むかな」 ディーターは横を歩くジムゾンに目を向ける。去り際、クララは誰かに紹介状を書いて貰った方がいいと言い残していた。知人でも無い人間がライナーに会いたいというだけで訪ねてゆけば不審がられる。となると図書館を見せて貰うという理由で訪ねるのが適当に思われた。しかし宮廷図書館はその名のとおり王宮の中にある。蔵書は宝とも言える貴重な物ばかりで、当然一般公開はされていない。ジムゾンのような一介の司祭が気軽に訪ねて行ける場所でも無かった。それゆえ、それなりの権力者に紹介して貰う必要がある。 「クララさんは私の所属修道院と仰いましたが……」 ジムゾンは難しい表情で口篭もる。村を壊滅させてしまった後、ジムゾンは院に書簡を出していた。一時期村を離れていた間に村が無くなっていたとか何とか言い訳を言って、それゆえ実家に居候すると。半分院から出てしまったような身で今更頼るのも如何な物かと思われた。 「父に」 「却下」 ディーターは即座に否定した。 「相手はウィーンの司書官だぞ。お前んちとは繋がりが薄いし、何よりお前んちは色々ややこしいからな。貸しのあるバイエルンを挟んでいたからいいようなものの、お前のお袋さんは皇帝との婚約を破棄したわけだし。冷遇される、最悪断られる可能性だって出てくる」 「そりゃあややこしい家ですけど」 ジムゾンは思わず口を尖らせる。勿論ジムゾンにも抵抗はあった。俗世を捨てて院に入ったのに実家に頼るのは情けなくて。 「時々蔵書を目当てに僧侶がやってくるって言ってたろう。司教だとか、僧院のお偉いさんなら誰でもいいと思うんだがよ」 二人は益々考え込んでしまう。厳密に言えば血の繋がりは無いが、ケルン大司教はジムゾンの叔父だ。ただし困った事に大司教は停戦を説いて久しい。ウィーンとは袂をわかっているのだ。融和派の所に停戦を望む大司教の手紙が届いたとなったら、益々ライナーの立場を悪くしかねない。では他に司教や僧院で近しい人が居るかと言えば、答えは“否”だ。強いて言えばヨハネスの所属するドナウエッシンゲンがあるが、やや気が引ける。 「……ミュンヘンの叔父様に頼んでみます」 ジムゾンは渋い顔で呟いた。ミュンヘンの叔父様、とはバイエルン大公の事だ。 「できれば、できれば親戚は頼りたくなかったですが。叔父様以外にいらっしゃいませんし、それなら何の問題も無いでしょう」 「お前が抵抗なきゃそれが一番だな」 ディーターはあっさり承諾した。 「ディーターは抵抗無いんですか?」 「無い。俺にしてみりゃ、何でお前が抵抗感を持っているのかが解らん」 「だって、こんな。虎の威を借る狐のようで。なんだか情けないのです。私自身には何の力も無いのに。家の名や親戚の名声でぬくぬくと生きているなんて」 ジムゾンは口をへの字に曲げて視線を逸らした。 「使えるもんは使わにゃ損だ。それに、権力振りかざしてどうのという話でもねえだろ」 と、言ってディーターは芝居がかった調子で両手を広げる。 「たとえばあの辺境の村でだってそうだ。小さな集団では余計に余所者が不審がられる。だから皆隣村に初めて行く時は村の名前を言ったり、ヴァルターの名前を出したりしてたろう。それは単にヴァルターの威を借りていたわけじゃなく、相手に安心感を与えるために必要な事だからだ。お前はそれをみっともないと思うか?」 ジムゾンは首を横に振った。 「な。そういうモンだよ。それにお前何時も言ってるじゃねえか。誰もが一人で生きてるわけじゃない、そう思うのは傲慢だ。って」 ディーターに言われてジムゾンは目を見開いた。それから眉根を寄せ、ふーっと長く溜息をついた。 「嫌だ。ディーターにお説教される日が来るなんて」 「司祭だって人間だもの」 おどけた調子で言って、ディーターはジムゾンの頭をわしわし撫でた。 正午、ジムゾン達はヨハネスから修道院の一室に招かれた。机の上には地図が広げられ、つい先ほど食べ終わったばかりのスープ皿が三皿隅に重ねられていた。二人には不要な食事だったが、人目のある場所では食べなければ不審に思われてしまう。部屋には他にヨハネスと同様に呼ばれてきた修道士や司祭達がいる。彼らもとうに食事を終えて、それぞれ祈りを捧げたり午後からの聖務の準備を始めたりしていた。 「このまま東へ進んでいけばオーストリア領と各司教領のみを辿って行く事ができます。街道をメミンゲンまで行けば、後はミュンヘンまで一直線なのですが」 地図をなぞっていたヨハネスの動きが止まる。 「ここからの地形が宜しく無い。街道を辿っていっても、運が悪ければ閉鎖空間ができそうな場所だらけです。それゆえ、少々危険は伴いますが、新教ヴァルトブルク領を辿ってウルムまで出て、プファルツ=ノイブルクの平野伝いにインゴールシュタットに抜ける道をお勧めします」 「そこらへんの新教領なら問題無いだろ。それより問題はバイエルンに入ってからだ」 ディーターは溜息混じりに頬杖をついた。 「ミュンヘンは最近解放されたばかりだし、レーゲンスブルクは占領されっ放し。恐らく領内には傭兵連中がわんさといるぞ」 ディーターの言う傭兵連中とは新教側の傭兵を指している。旧教側にくっ付いている傭兵なら、ジムゾンの後ろ盾の関係でそう悪さをされる心配は無い。が、新教側ならば寧ろジムゾンは標的になりかねない。 「お可哀相に……」 ジムゾンは表情を曇らせて嘆息する。幼い頃に見た緑豊かな風景が、優しい叔父や叔母らが大変な目にあっているのかと思うと、いたたまれなかった。 「インゴールシュタットで一旦情報収集して、それからまた考えよう。あそこは堅牢で有名だ。陥落の心配も無いし、情報も集まるだろ」 バイエルンで足止めを食う可能性を考えれば、行動は早い方がいい。二人は荷物を早々に纏め、聖堂を出た。 「あ、ところでブラザー」 聖堂前でヨハネスがジムゾンを呼び止めた。 「その鈴。私に一旦お預け願えませんか」 鈴とはあのドルイドベルの事だ。今回クララと関る事になったのも鈴が原因だった。クララのような内情に詳しい人間は少ないかもしれないが、万一という事もこれからあるかもしれない。ジムゾンは懐から鈴を取り出し、ヨハネスに渡した。鈴は、アロイスの持ち物だったと聞いていた。ジムゾンにとっては師でもあった伯父の、唯一の形見であるだけに聊か寂しい思いもあった。 「その代わりと言っては何ですが、こちらをお貸しします」 ヨハネスが取り出したのは一振りの短剣だった。何の変哲も無い短剣だが、樋には細かな文様が掘り込まれてあった。 『狩人の力の元となる慈悲の刃……変化した人狼に唯一傷をつけられる剣です』 ジムゾンは改めて眺め回した。悪魔に効くとか言われる銀で出来ているわけでもなし。何故この短剣にそんな効力があるのか不思議だった。それ以前に、何故そんな物を人狼の自分に貸し出すのかも不思議だった。 『都会は人狼にとって過ごし易い土地ですから、人狼もそれなりに多かろうと思われます。もし万一仲間と敵対するような事があったらお使い下さい』 「物騒な代物ですが、旅のお守りだとでもお思い下さい」 そう言ってヨハネスは微笑んだ。 『ここへ戻られる時までに、あの鈴の音を消しておきます。そうすればお持ち頂いても大丈夫ですから』 ヨハネスはジムゾンの思いを察していた。 「有難うございます。……必ずお返しに来ます」 ジムゾンは言葉に詰まり、頭を下げた。 「そうそう。言い忘れていましたが、あのお嬢さん。ここへ来るまでニコラスに伴われて来たようですよ」 二人は驚いてヨハネスを見た。 「気まぐれは何も、あなたに限った事では無いようです」 囁きでのかいつまんだ説明によれば、なんと生贄の鈴について教えたのはニコラスだったらしい。ここにヨハネスが来る事を予見できるはずも無く。クララがもう長くないと見て色々と教えてやったようなのだが、思わぬ所で仇となったものだ。 ヨハネスは説明しながら困ったような笑みを浮かべていた。 「道中の無事をお祈りしていますよ」 「ニコラスさんの事、久しぶりに詳しく聞きたいですね」 ジムゾンは懐かしそうに目を細めた。修道院を後にして、二人は森の小道を歩いていた。小道とはいえ道幅は広い。人々が修道院へ行くまでに利用してきた道なだけあって、舗装されずとも綺麗に土がならされていた。 「無事にやる事やり終えたらな」 ディーターもそう言って笑った。 「ハ。あいつが村で出した交換条件みたいだ」 「そうそう。あれでやる気を出すなんて、私も随分現金だったものです」 二人は村での出来事を思い出して苦笑した。当時は決して苦笑できるような状況ではなかったが、今となっては懐かしく、可笑しい。 「思わぬ所で懐かしい人の事を聞けるなんて。情けは人のためならず、とは良く言った物です」 と、ジムゾンは一人解ったように頷いた。 「神の云々とか言ってたくせによ」 「司祭だって人間だもの」 そう言ってジムゾンは笑った。 「ニコラスも登場した事ですし。さあ、ウィーンに向かっていざ出発ですよ、サンチョ!」 「誰が太鼓腹だ、誰が!」 「お?私は“パンサ”まで言ってませんけど?」 などと二人はじゃれあいながら街道まで出た。報酬を鼻先にぶら下げられてやる気を出すとは単純も良い所だが、先に漂う暗雲もそのお陰で霞んで見えていた。待ち受ける物を予感しながら、二人は一路ウィーンを目指すのだった。 おしまい(「轍のバラッド」に続く) |