【青の楽園 第十二話】

はじめに聖母への祈り 目にするは子羊 天上輝く雷鳴を知る者であり、同時にやさしさを知る者
歓喜に満ち満ちる者は処女に 物憂げに深く沈む者は娼婦によって守られる

「…なんの事だか…。」
威勢を取り戻したまでは良かったが、肝心の謎がさっぱり解らない。ジムゾンは項垂れて頭をかいた。
「聖母への祈りはロザリオの祈り。ロザリオは薔薇…。薔薇が咲いている場所…?」
ぶつぶつ独り言を言いながら鉛筆で紙に書き殴っていく。

薔薇 子羊 雷鳴とやさしさ 処女 娼婦

「処女とは聖母マリアの事、象徴は百合。娼婦はマグダラの聖マリアの事、象徴は香油の壷。」

薔薇 子羊 雷鳴とやさしさ 百合 壷

雷鳴とやさしさ。天上という言葉から天候の事だと仮定すると、気象をよく知る者としてはヤコブとカタリナが思い浮かんだ。何れも天候に左右される職業だ。そういう意味ではトーマスも当てはまるかもしれないが、せいぜい“雨なら休み、晴れたら出かける”という程度でしかなく、二人ほど詳しくは無い。
ヤコブの家の周りに咲くのは野の花程度で、観賞用に植えているのはゼラニウムくらいだ。対するカタリナは凝った花壇を作っている。花など植えても羊に食われてしまいそうなのだが、きちんと羊の来ない自宅側に分けて作ってある。
今は一刻を争う。取り敢えず、行くだけ行ってみようとジムゾンは腰を上げた。
「解ったのか?」
トーマスも立ち上がった。
「まだ解りません。確認に行くだけです。…一人で行けます。」
ついて来ようとするのでジムゾンはあからさまに嫌悪をあらわにする。
「そうはいかない。変な真似をされては困るからな。」
ジムゾンはそれ以上逆らわず、黙って背を向けた。
まだ西の空に微かな青さを残す夜空は大小様々な星で埋め尽くされていた。しかし今のジムゾンにはそんな美しい星空を楽しむ余裕も無い。カンテラと聖書をそれぞれ手に持ち、早足でカタリナの家へと向かった。

カタリナの家は静まり返っていた。外で律儀に番をしていた犬のベロが一瞬立ち上がったが、ジムゾンとトーマスだと気付くと再び地面に寝そべった。
花壇に回って確認するとたしかに薔薇が植えられていた。薔薇の他にも色々花が植えられているようだが、百合は無かった。
「ちょっとお邪魔します。」
ベロにそう断ってからジムゾンは玄関のドアを開けた。泥棒も居るわけが無いので、カタリナの葬儀の日からずっと鍵は開けっぱなしにしてある。星明かりの届かない室内は矢張り暗い。カンテラを掲げて躓かないよう慎重に歩いた。
部屋はどこも綺麗に片付けられていた。目立つような置物などは殆ど無い。目に留まった物と言えば、寝室の棚の上にあったマリア像。何の花かは解らないが、花が描かれたタペストリー。空の小さな花瓶が一つと、台所の片隅に置かれた壷くらいだった。
「…処女は百合ではなく、聖母マリアそのもの?」
居間の椅子に腰掛けてジムゾンは考え込む。テーブルに置かれた花瓶はさすがに壷とは言い難い。となるとやはり壷は台所の壷が適当だろうか。
処女と娼婦、と分けて記述されている所からして分割しているのかとも思えたのだが、マリア像には細工などされておらず、壷にも何も入ってはいなかった。
ジムゾンはふうとため息をついて立ち上がった。
「何処にあるのか解ったのか。」
「間違えました。」
ジムゾンは短く答えてカンテラを手に家を後にした。
再び宿屋へと向かいながらジムゾンは何処か安堵もしていた。解けなければ一日ごとに殺して行くと宣言されたが、解けたら解けたで間違い無く皆殺しにされるだろう。解っても露骨に動かないようにしたい。できれば皆を助ける機会が作れるようにしたいものだ。

「ジムゾンが仮に今晩中に解いたとしてもどうせ殺される。」
ハン、とオットーは自嘲ぎみに笑った。
「…なんでしょうね…。」
アルビンは暗い顔で呟き、脇に倒れているリーザを見やった。
「気絶してるだけだ。」
オットーもちらりとリーザを見てすぐに目線を戻した。全員が捕らえられた後、リーザはレジーナによって散々に殴られて倒れてしまった。ディーターに見付かった上、自白の際にレジーナの名前をうっかり出した失態への仕置きだと称して。
「仲間にも躊躇無くこんな事する奴らなんだ。…下手するとジムゾンが解くのが遅くなったら、殺されるより先に餓死するかもな。」
「…あ。僕そっちがいいかも…。」
力なくヨアヒムが笑う。
「死に方考えてる暇があったら脱出して生き延びる事考えろ。」
そっけなく言ったのはディーターだった。
「そうは言ってもな…。」
落胆したヴァルターだったが、ディーターを見て目を見開いた。ディーターはブーツの中に隠していた小さなナイフを取り出して自身の手首の縄を切っていた。
ディーターは表情だけで黙ってろと全員に促す。扉の向こうにはヤコブが居る。大声を出せば聞かれてしまうからだ。ディーターは声を落として言った。
「そこらへんに割れた瓶の欠片もある。やろうと思えば出来ねえ事じゃねえだろ?…いや、やんな。指摘しただけだ。素人がやったら手ぇ切ってそれこそ死んじまうぞ。」

ディーターが縄の戒めを解き、全員が一先ず縛りから解放された。
「問題はここからだ。」
そう言いながら更に手袋の中からナイフをニ揃いずつ取り出した。
「歩く武器庫状態だな…。」
オットーは呆れ半分、感心半分に漏らした。
「最初の関門はヤコブだ。これは腹が痛いのなんのとおびき出して即・沈黙。でなけりゃ異変に気付いたレジーナが加勢に来ちまうからな。次にレジーナなんだが…。…えーと。
がんばれ。」
何を!
と、思わず大声で突っ込みそうになったオットーの口をヨアヒムが塞いだ。
「ディーターがのしちゃってくれれば早いじゃないのよ。」
パメラの言葉にディーターは首を横に振った。
「俺はレジーナとかお前らはおいといて、中世のナイトよろしく颯爽とジムゾンを救出に行きたいわけ。…というのは半分冗談なんだが、」
「半分本気かよ。」
「俺が自由になった事を知れば逃げる。逃げるだけならいいが、さっき出て行ったトーマスとジムゾンの所に報告に行ったらジムゾンが逆に人質に取られかねない。」
「じゃあヤコブと同じで即沈黙させるとか…。」
ヨアヒムの提案にもディーターは首を横に振る。
「ヤコブがここの扉の前に居るんだ。レジーナは離れた場所で待機してるだろうよ。距離が開いてたら即しとめるのは不可能。それどころか、取り逃がす可能性の方がでかい。」
「…どうしたもんかなあ。」
オットーは難しい顔で首を捻る。こちらから事を起こさなくてもヤコブが気まぐれで中の様子を見に来たらそこからもう戦闘開始だ。焦燥に思考を半ば奪われつつ天窓から満天の星を仰いだ。


「どうして。」
星明りの下を宿屋に向かって歩きながらジムゾンはぼそりと呟いた。
「どうしてモーリッツさんを殺したんですか。」
問うだけ問うて、トーマスには背を向けたまま無心に歩み続ける。
「指輪を置いた所を見られたからな。」
そっけない返事を受けてジムゾンは立ち止まって振り返った。トーマスもまたその場に立ち止まった。ジムゾンを見つめる表情には何の感情も表れていなかった。
「レジーナも下らないヘマをしてくれたものだ。リーザの自白をオットーが逆手にとって解釈した事もあってまだ利用できると思って部屋の捜索の際に指輪を取っていた。
が、解釈の流れが変わりすぐにその可能性も潰えた。そうなると指輪を持っているだけ不利になる。だから返そうとした。」
ジムゾンはまるで得体の知れない物を見るような表情でトーマスを凝視した。レジーナの部屋の、目立つ場所に証拠を戻すとはレジーナの退路を断つという事だ。それでなくても言い逃れできない状況証拠が揃っているのに、トーマスの行為は関連切りでも何でも無い、見捨てるという行為に他ならない。
「…酷い。」
「酷い?あの印章を持つのは使役される者だ。罪が明るみに出て処刑されれば、寧ろ後始末ができてこちらには好都合。酷いどころか、相応の処分と言えるのではないかな?」
薄っすらと笑みさえ浮かべているトーマスを見て、ジムゾンは言葉も出なかった。

再び歩き始めたジムゾンは遠くに見える宿屋の明かりだけを見ていた。もしさっきのカタリナの家で資料が見つかっていたのなら。トーマスが何かしら発見の合図を取り決めていると仮定するならカンテラの明かりだろう。それなら遠くからでも合図ができる。そして合図が送られたなら。宿屋の人質は殺され、ジムゾンはトーマスの手で処分される。どういう手はずになっているのかは知らないが、それが一番効率的に思えた。同時に、取られると困る手段でもある。
宿屋は役場と同じ村の中心に位置している。凡その村の建物は宿屋から見える位置にある。よほど森の中にでもゲルトが隠していない限り、正解を見つけて宿屋から出た時点で全滅は約束されたような物だ。
ジムゾンは考えながら進路を変えた。
「何処に行く。」
「教会です。」
ジムゾンは立ち止まって振り返った。
「静かな場所で考えたいんです。教会なら資料もあります。…不服なら一人で宿に戻って下さい。いえ、むしろそうしてください。一人になりたいです。」
怒ったようにまくし立てるジムゾンを見てトーマスは笑った。
「解った。だが一人にはさせられない。」
教会なら宿屋から見えない位置にある。トーマスらがどういう取り決めにしているかは実際には知らないが、用心に越した事は無い。ジムゾンは内心胸をなでおろしつつ教会へと向かった。


夜の礼拝堂は全ての燭台に火が灯され、オレンジ色の光で満たされた。ジムゾンは持ってきたオルガン用の椅子に座り説教台を机代わりに暗号解読を再開した。
「子羊もまた、直接の意味ではなく比喩が妥当…。」
カタリナの家に無かった事を踏まえておよそ思いつく限りの比喩を書き連ねていく。モーリッツに頼まれて持ってきたあの資料にはジムゾンが思いつかなかった表現も幾つかあった。
「マグダラの聖マリアが聖杯というのは…ブラザー達に言ったら物凄く非難されそうですけど。」
いいだけ書き連ねるとジムゾンは少し上体を反らして腕を組んだ。
「“はじめに”とある以上は“必ずそうである”のでしょうね。建物、ないしはその在り処に辿り着くまでの、明確な入口のような場所にある“薔薇”。」
カタリナの家では裏庭に薔薇が植えられていた。裏庭では“はじめ”にならない。その時点で推理は間違っていた。
ゲルトは手紙の中で村の外かもしれないと言っていたが、あれは恐らくハッタリだろう。ジムゾンは体勢を元に戻すと村の中で入口が存在する場所を思いつく限り書き取っていった。
大抵の家には花が植えられている。その中で薔薇が植えられているのは“村長の家”“ゲルトの家”そして“墓地”。
次は“目にするは子羊”だ。入口を過ぎる、或いはドアなりを開けると一番に見える物なのだろう。子羊に関する比喩はさして多くは無い。
「“犠牲”という意味で考えるなら、公僕であってある意味村の代表的犠牲者とも言える村長さんもありえるわけで…。ゲルトも最初の犠牲者だからありえる。墓地にも戦などで犠牲になった方もいらっしゃるでしょうし…。」
幅が広すぎる。ジムゾンは書いたばかりの犠牲という文字をぐしゃぐしゃ塗りつぶして消した。
「キリストだとするのなら…。」
村長の家にもゲルトの家にも入ってすぐの場所にその象徴は無い。だが、墓地には入るとすぐに大きな石の十字架が見える。“雷鳴とやさしさ”を文字通り天候とし、“者”が人ではなく場所ないしは資料そのものを指すのなら、雨ざらしになっている墓地は条件に合致する。
ジムゾンはカンテラを手に裏口から墓地を目指した。

墓地はひっそりと静まり返っていた。周りを古い木の柵で囲まれ、入口の部分だけが扉のように稼動するようになっている。入口にはぼろぼろになった木の札がかかり“Kirchhof(教会墓地)”とだけ書かれている。柵に沿う形で作られた花壇では丁度薔薇が咲いていた。黒薔薇とも称されるほど濃い赤をした薔薇は礼拝堂から漏れる光に照らされ、暗闇の中でぼんやりと存在を示していた。
はっきり言って、あまり気持ちの良い光景ではない。恐らく冗談だったのだろうが、亡霊が恐ろしいと言ったディーターの言葉が今なら理解できるとジムゾンは思った。
「掘り返すならシャベルを持って来るが。」
ジムゾンは背後からのトーマスの問いかけで我に返った。そうだ。亡霊などよりトーマスの方がよほど恐ろしい。ジムゾンは黙って首を横に振ると、トーマスから逃げるように墓地の中へと入った。
「処女と、娼婦…。」
ぶつぶつ呟きながら墓を一つ一つ確認していく。薔薇以外には何も咲いていない。そうなると“百合”や“壷”などの象徴は無関係と言う事になる。大体、それでは視覚的に直ぐ判明してしまうので解りやすすぎるような気もする。
「では名前?マリーア…そして。」
そこまで考えてジムゾンは口をつぐんだ。娼婦・マグダラの聖マリアは名前にすると“マグダレーネ”。それは、ジムゾンの母の名だった。
母が、父が生きていたら自分は今頃どうしていただろう?ずっと町で平和に暮らしていたかもしれない。父が退役するなりしてこの村に来たかもしれない。何れにせよ、平穏な生活はきっとそこにあった。
そう思った途端、ジムゾンは腹の底からどす黒い感情が溢れてくるのを感じた。暗くて熱い、今まで感じたことの無い感覚だった。
奥底から突き上げてくる、その言い知れぬ熱さを忘れようとしてジムゾンは一心不乱に墓碑銘を確認していった。墓地はさほど広くは無い。三十分もしないうちに全ての確認が終わった。マグダレーネという名前は、無かった。
ジムゾンは暗い思いを抱えたまま礼拝堂へ戻った。夜の闇も深さを増し、日付が変わろうとしていた。

「マグダレーネが死んで。あれから丁度二十年になる。」
ジムゾンは書く手を止めて顔を上げた。参列者用の長椅子に座ったトーマスが視線を床に落として呟いていた。鉛筆の走る音が絶えたのに気付いてトーマスもまた顔を上げた。
「墓地でずっと名を呼んでいた。」
怪訝そうな視線を向けるジムゾンを見てトーマスは少しだけ笑った。どうやらジムゾンは墓碑銘を確認しながらずっとマグダレーネの名をうわ言のように呟いていたらしい。他人事のように語るトーマスを見てジムゾンはまた腹の底が熱くなるのを感じた。
「恋破れて、七年もの間、ずっと、機会を窺っていたのですか。」
震える声を押し殺し、ジムゾンは立ち上がってトーマスに問いかけた。
「忘れる努力はした。」
淡々と答えるトーマスの顔に笑みは無かった。
「わざわざ配属の変更を申し出て、その願いは叶った。だが、戦が起こった。何の因果かレオンハルトと同じ部隊になり、その上マグダレーネの住む町が戦場になった。たまたま、そうなっただけだった。」
「だからと言って殺人を肯定する理由にはなりません!」
たまりかねてジムゾンは叫んだ。しかしトーマスは何の反応も示さず、ジムゾンもまた言葉を続けられなかった。聞きたい事は山ほどあった。両親を何故殺したのか。一体どれだけの暗い思いを、トーマスが抱えていたのか。出会った時の事や、小さい頃の事。…。
あれこれと聞きたい事を考えながらジムゾンは喉の奥がヒリヒリと痛むのを感じた。自然と表情は歪み、涙が溢れた。
両親の顔が全く思い出せなかった。両親が殺されたのはジムゾンが六歳の時。六年間は両親と共に居たはずだ。それなのに思い出すのはトーマスと過ごした日々の事ばかりだった。
木こりとは社会的地位など無いに等しい労働者だ。軍時代の恩給が僅かに入ってはいたが、それでも二人で暮らしていくのは難しかったろう。けれどジムゾンは一度たりと生活に不自由を感じた事は無かった。高価な物も欲しいままに与えられていたし、何につけても必ず一番に立派な物を与えられていた。トーマス自身は身なりにも構わず、幼い頃のジムゾンはそれを仕事上の都合だと思っていた。自分の事は二の次にして何もかも惜しみなく与えてくれていた事実に気付いたのは神学校に入ってからだった。
だからこそ、この村に帰ってきた。少しだけでも孝行がしたくて。両親と過ごした六年よりも、その仇であるトーマスと過ごした十二年がどれだけ重い物かをまざまざと思い知らされ、ジムゾンは情け無いような複雑な思いで一杯だった。
あんな利己的な言葉を聞きたかったんじゃない。“違う”と、一言言って欲しかった。殺されるに足るような悪行を両親がしでかしていて欲しいとさえ、心の奥底で願っていた。
「相変わらずよく泣くな。」
トーマスが笑い、ジムゾンは服の袖で何度も涙を拭った。涙を吸ってふやけた紙を丸めてから椅子に座りなおす。聞きたい事は山ほどあるし、できる事なら何もかも忘れて一日中泣いていたい。それこそトーマスの膝の上で、幼い頃のように。
挫けそうな気持ちを振り払うように見上げた薔薇窓からは青白い月光が降り注いでいた。


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