【恩愛の夜明け 第八話「祖国」】

 雪の止んだウィーンの町は夜の帳を下ろし、ショッテン修道院も安らかな眠りに就いていた。ただ一つ、一角の客室を除いて。
 ニコラスもヨハネスも、夜更かしは慣れたものだと快く応じてくれた。部屋の片隅で占いに取り組んでいるクララの邪魔をしないよう、四人は声を落として話し合った。
「そのカペル卿はいかにもくさいですな。何しろ誘拐の前科もあるのだし」
「だろ?それに狙いすましたかのようにウィーンへやって来るってのもおかしな話だ」
 ヨハネスも考えあぐねて腕を組み、ディーターは机に上体を乗り出した。しかしすぐに思い直して体勢を元に戻す。
「だとしたら誘拐って事だ。しかしそうなるとジムゾンが助けを求めてこないのが解らん」
 何度か呼びかけてはいるが、ウンともスンとも返事が無い。あれだけリヒャルトを嫌がっていたジムゾンだ。彼に誘拐されたのならば、意地など張っている場合では無いだろう。いや、リヒャルトだと解らなくても、誘拐されたのなら何らかの反応があっていい。仮にまたどこか遠くへ連れ去られているにしても、囁きが届かなくなる前に反応の一つくらいあるだろう。
「では助けを求められない理由があるからか、或いは最悪……」
 ヨハネスは口を噤んだ。考えたく無い線ではあるが、もう生きていない可能性も、あるにはある。
「いやあ兄弟ヨハネス。単純に気絶しているとか、フィビュラの結界のある場所に閉じ込められているのかもしれませんよ」
 ニコラスに指摘されて、ヨハネスはハッと目を見開いた。
「もう随分目にしていないが」
「あるかもしれません。オーストリアが熱心に黒い森を捜索していた事もありますし、他にも古い能力者の家系で保管されているやも」
 ヨハネスは暫く天を仰いでいたが、次第にその顔に明るさが戻ってきた。
「そうだね。あれは人狼が扱えない道具だが……ほかに政争の道具として利用しようと思ってる人間も居るかもしれない」
「だとしたら、オットカルか?」
 ロタールは机に片方の肘をついて額を押える。
「神父が陛下の実の甥だと知る、その上で人質としてハンガリーの自治権を――いや、現実的ではないな」
「そのオットカルって奴は逆臣か」
 ディーターの問いにロタールはすんなりと首を横に振る。
「いや。単純にハンガリーの出だと言うだけだ。それを言うとライナーも容疑者になるし、仮に神父を人質として陛下に迫るとしても持ち札があまりに貧弱だ」
「独立したがってるわけでも無いんだろ」
「そうだな。今はオーストリアの支配下に置かれている方がハンガリーにとっても益になる。寧ろ今独立するのは危険過ぎるくらいだ。――だが、併呑された側の人間の感情という物は複雑でな。
 とりわけハンガリーは特殊だ。彼らマジャール人は大昔、遥か東に栄えていた国に制圧された関係で、モンゴル人との混血でな。今はさして見た目では解らんが、昔は外見の違いで不当な扱いを受けた事もあったろう。それを踏まえるとなんとも言えんだけに可能性として完全に否定はできない。
 しかし――いやいくらなんでもオットカルやライナーがそんな事をしでかすとは到底思えん」
 ロタールは渋面をつくり、溜息をついた。
「場当たり犯行は考え難いし、状況的に薄い。あいつが一人でフラフラ出かけたなんてのももっと解らん。そうなるともう、リヒャルトしか残ってないのか」
 ディーターも難しい顔をしたまま天を仰いだ。
「カペル卿は血の宴に巻き込まれた事が無いと仰ったそうですが、神父さんを誘拐した時に思い込みの虚を衝く作戦を使ったのですよね。自ら事を明らかにするなど多少の工作は十分考えられる範囲です」
 と、横からニコラスが言い添えた。
「あれだけ熱心に口説いていたからな。しかし手紙という証拠を残した件は、虚を衝く策にしてもやり過ぎに思えるが……しかもその証拠を活用していない」
 ロタールは益々眉間に皺を寄せて頭を抱えた。ディーターとニコラス、そしてヨハネスはふとした言葉に引っかかってロタールを見た。
「手紙って何の事だ。リヒャルトがジムゾンに寄越したってのか」
「何を今更。薄気味悪いくらい情熱的な口説き文句が並べられたあれだよ。イタリア人でもよう書かんだろう、あんなもん」
「へえ。そりゃ見てみたかったな」
 文面を想像してディーターは思わず口の端を歪める。すると、ロタールが突然顔を上げた。
「見ていないのか」
「存在すら」
 ディーターは少し唖然としたまま首を横に振る。
「お前にも見せていない手紙というなら――ならば何故ライナーが内容を知っている?」
 ロタールが思わず立ち上がったと同時に、クララが声を上げた。突然立ち上がったので驚いたのかと思われたが、どうやら占いが終わったようだった。
「いかがでしたか?」
 ニコラスはそっと歩みより、クララが向かっている小さな机を覗き込んだ。机の上にはぼんやりと青白い光が浮かんでいる。手前にはジムゾンが人狼であると知らせる文字が、少し奥に一つの点と、点を囲むような歪な線があった。歪な線は、丁度ウィーン市内のような形をしていた。囲まれている点がジムゾンの居場所を示しているのだろう。
「少し郊外のようですね」
 ニコラスは図を記憶してふとクララに目を向けた。クララは目を見開いて口元を両手で覆っていた。
「まさか、そんな事……」
「どうかしたのか」
 ディーター達も続々とニコラスの後に続いた。全員がジムゾンの位置を確認するが、一体何にクララが驚いているのか解らなかった。クララは徐に両手を下ろし、ごくりと喉を鳴らした。
「位置はあくまでも大まかな位置です。ですけど、この辺りには、ライナー様の別邸以外何も」
 ディーターとロタールは顔を見合わせる。もしライナーがジムゾンを攫ったとしたならば、手紙の内容を知っていても何の不思議も無かった。
「そこにフィビュラの結界はありますか。金属製の留め具が部屋の四方に」
 ニコラスの問いかけに、クララは何度も小さく頷いた。
「ええ、ええ!ライナー様は何もご存知ありませんが、私が、秘密のお部屋を隠す為のお守りにと!」
 とうとう、些細な疑惑が確信へと変わる。ライナーがジムゾンを攫ったのには、ほぼ間違い無さそうだ。しかし、何故。幾ら考えても答えは出てこなかった。

+++

「……ライナーさん?」
 カンテラの光に照らされて暗闇にぼんやりと浮かび上がったのは、見慣れた人の姿だった。ジムゾンは書類を手にしたまま呆然とライナーを見つめた。
「手荒な真似をしてすみません」
 ライナーは扉を後ろ手に閉めてカンテラを机に置いた。更にもう片方の手に持っていた何かも机に置く。それは、取り上げられていたジムゾンの雑のうだった。
「言ったところで渡して下さるとは思えなかったので、こちらで調べさせて頂きました。――が」
 カンテラの明かりが眼鏡に反射しており、その表情はよく解らない。しかし口調からして、探し物が見付からなかったであろう事は解った。そもそも、ライナーが欲しがるような物など何も持っていないのだが。
「弔いの石はどちらに?」
 ジムゾンは一瞬耳を疑った。何の脈絡も無く人狼の歴史に関わる品物の名前が出た事もそうだが、それを自分が持っていると確信しているかのようなライナーの口ぶりには更に驚かされた。
「そんなもの、持っていません」
 わけも解らぬままジムゾンは即座に否定した。ライナーは少しだけに口元を緩め、ジムゾンに向き直った。
「アロイス・ハイゼンベルクという修道司祭をご存知ですね。本名をフリードリヒ・アロイス・フォン・ハプスブルク。陛下の兄君にして、あなたの実の伯父」
 驚くジムゾンをよそに、ライナーは続ける。
「殿下が失踪した当時、宮中は大変な騒ぎだったと聞いています。それと言うのも、世継ぎが失踪しただけでなく、宝物庫にあった弔いの石までもが消えていたからです。
 恐らく殿下が持ち去ったのだろうと思われ、誰もが血眼になって探したそうです。しかし事が事だけに騒ぎを大きくするわけにも行かず、殿下も石もとうとう見付からぬままでした。
 私は密かに調査を続け、漸くマリアラーハに行き当たりました。ところが殺人のかどで処刑されており、遺体すら解らぬありさま。諦めかけていた所で、特別目をかけていたというあなたの存在を知りました。そして、あなたが親族であった事も」
 ライナーは嬉しそうに語りながら、ゆっくりと歩き始めた。
「バイエルン大公からの依頼が届いてどれほど驚いた事か!まさに天意というものです。更に陛下は面識も無いというあなたに会いたいとまで仰られた。恐らく、あなたが弔いの石を持っているからに他ならぬものと」
 まるで夢でも見ているかのように語るライナーの姿は、どこか異様に感じられた。弔いの石は、ヴァレンシュタインが口にしていた天空の破片だ。手にした者に覇権を齎すというそれを、何故ライナーが欲しがるのか。一抹の不安を覚えつつ、ジムゾンは訝しげに問うた。
「そんなものを手に入れて、どうしようと言うのですか?」
 部屋に響いていた小さな靴音が止んだ。ライナーは机を挟んだ真向かいで立ち止まり、こちらに向き直った。
「勿論、この戦乱を終わらせる為です。そして、我がハンガリーを取り戻す為に」
 ライナーは笑み一つ浮かべなかった。至って正気なのである。至って正気で、この国を意のままにしようと言うのだ。それが、返って得体の知れない不気味さを増していた。
「あなたも、あなたまでもがこの帝国の冠を狙うのですか。ヴァレンシュタイン卿と同じに」
 ジムゾンの声は掠れていた。何故、ライナーはヴァレンシュタインを庇おうとまでしなかったのか。何故、話せば簡単な事なのにリヒャルトと和解しようとしなかったのか。今になって漸く、ジムゾンはライナーの真意を理解していた。しかしライナーは目を閉じて首を緩く横に振った。
「私はただ故国を取り戻したいだけなのです。彼のような俗物とは違う。ハンガリーの民であると同時に帝国に恩のある身で、この黄昏の帝国も奪おうなどとは毛頭思いません」
 ヴァレンシュタインも同じだった。ロタールが信じていたように、彼はただボヘミアを取り戻す為に皇帝に忠誠を誓っていた。力で力を制するのではなく、忍耐とその積み重ねによって。
 それがどこで歯車が狂ってしまったのか、今や軍を意のままに操り、敵国と独自で交渉をするまでに至った。ライナーがそうならない保証は無い。また、彼が野心を全く持たずに生涯を終えたとしても、後に続く者がどうなるかは全く解らない。
「その思いが何処まで持つか」
 ジムゾンは呆然と呟いた。
「私には、ヴァレンシュタイン卿もあなたも、同じように思えます」
 突然、ライナーが眦をつり上げた。
「あなたに何が解る!」
ライナーは吐き捨てるように続けた。
「強者の庇護の下で、何不自由無く生きてきた、あなたに」
 ジムゾンの胸が一際強く脈打った。全く辛くない人生だったとは言えないが、生活という面においては随分甘やかされて育ってきた。虐げられてきた者の痛みは、自分には解らない。解りたくても、完全に理解する事ができない。ライナーの言葉は鈍い刃のようにジムゾンの身の深くに重く沈み込んで行く。
「あなたには解らない。母語さえも禁じられ、従属する他無かった我々の痛みなど。出自ゆえに陰で嘲られる者の痛みなど」
 ライナーは沈痛な面持ちでやや俯き、目を閉じる。
「ヴァルターも出自が平民である事が枷となり、とうとう辞任してしまったのです。各地の惨状をご覧になったでしょう。田畑は傭兵に踏み荒らされ、罪の無い人間が大勢犠牲になっていく。たった一握りの人間の、愚にもつかない大義の為に、この馬鹿げた戦があるのです。
 断固として終わらせなければならない。ヴァルターの無念を晴らす為にも」
 悲劇を齎す村であるなら、いっそ滅びてしまえば良い。罪深き生であるのなら、どうせ死んでしまうなら、生まれてくる意味など無い。人はどこまでも愚かしく、救いの手など差し伸べられない。
 喰われてしまったあの夜に、ヴァルターはそう言ったという。
 ライナーは滅びを望んでいない。だからこそまだ人であるのだろう。だが願いの極端さは、ヴァルターのそれと同じ。そしてライナー自身が否定して止まぬ、戦の口実と同じ事だ。
「どうか石をお渡し下さい。出来る事なら、あなたを傷つけたくは無い」
 ライナーは片手をジムゾンの方へ差し出した。ジムゾンはそれでもライナーを悲しげに見つめるだけだった。生前、アロイスは石の事など一言も口にしなかった。そもそも持っていたのかどうかさえ解らない。しかしジムゾンには、アロイスが修道院に入る前に石を捨ててしまったのだと思えてならなかった。ドルイドの一人だったからなのかもしれないが、人ならぬ力を欲し、溺れるような人では無かった。
「伯父が、アロイスが、人目につかぬ所へ捨てたとは思わなかったのですか」
 ライナーは一瞬目を見開いて、笑った。
「ありえません。ありえませんよ、そんな事は。……フリードリヒ殿下は誰よりもイエズス会の影響力を危惧されていた方だと聞いています。争いの種であるものの、平和への礎ともなれる弔いの石を、みすみす捨てたなどとは到底思えません」
 ジムゾンは目を伏せて静かに首を横に振った。
「アロイスはそういう人です。人が手にしてはならない力なら、どこかに捨ててしまうでしょう。たとえそれが、己の理想を実現できる物であっても。彼は自ら帝位を捨てた。それが全てです」

+++

 説明を受けてもライナーは納得した様子ではなかった。
「さすがに嘘をつくのは苦手なのですね、ジムゾンさん。そんな話を信じられるはずもない」
「本当です。私は弔いの石など持っていません」
 ジムゾンは冷静だった。ここに来て漸く、プラハの処刑の意味が解り始めていた。そしてロタールが釘を刺すように、あなたも人間でしょうと言った理由も。ロタールの父が吸血鬼となってしまったように。行動の箍を外すのは正義であり、人を魔物にしてしまうのは、良きにつけ悪しきにつけ人を超越しようとする心だ。
 人を食ったような、という言葉がある。馬鹿にした態度の事を指すのだが、よく言ったものだと思った。人を喰う、即ち己の力が人以上であると誇示する事。自分も人間である事を踏まえず、人間という存在とその営みを下に見る思い上がりこそが魔物の正体なのかもしれない。だからこそ人狼の襲撃には掟が生まれたのだろう。せめて心までは魔物と成り果てぬように。
 今のライナーはまさに魔物だ。己の理想が正義と確信し、何一つ疑わない。確かに正しい事かもしれないが、どんな正論も一面の物に過ぎない。しかも人を力でねじ伏せてまで従わせる正義はもはや正義とは言えない。
「村長、ヴァルターさんは論にものを言わせた暴力など望んでいなかった。発狂は、彼の本意では無かった筈です」
 ジムゾンは思わず唇を噛み締めた。ウィーンに来た時、ライナーは言っていた。ヴァルターは、パメラの誕生を誰より喜んでいたのだと。なのにこの世に生を受けさせて悪かったなどと思い、村を滅びに導いた。村でのヴァルターは確かに狂っていた。今更ながらその狂気が悲しくて仕方無かった。
「発狂?」
 愕然とした表情で、ライナーは鸚鵡返しに問いかける。
「ええ、ヴァルターさんは狂っていました。村を荒廃させられ、奥様を殺され、村の滅びを望んだ果てに自ら幕を引いたのです。ですがそれは狂気ゆえで、彼の本意では無かった。投げ遣りで、力ずくの方法など、彼が本当に望んだ事では無かったのです。
 覚えておいででしょう。ウィーンに居た頃のヴァルターさんの事を。リヒャルトのように性急な手段には出なかったはず。対話を積み重ね、それでもどうしようもなかったから村へ帰った。それこそが、本来の、私もよく知っていたヴァルターさんの姿です」

 搾り出すように言い終わると、乾いた小さな音がして何かが床に転がった。刹那、部屋に風が渡り、漆黒の異形が現れた。聞こえた声の予想に違わず、それは人狼化したディーターだった。
「成れの果てが、このありさまだ」
 そう言ってディーターは元の姿に戻った。思わぬ異形の出現と、正体がディーターであった事実に、ライナーは恐怖も驚愕も通り越してただただ唖然とするのみだった。ジムゾンもまた思わぬディーターの出現に驚き、何と言おうか戸惑っていると背後で扉の開く音がした。振り返って見たその先には鍵を手にしたクララ、そしてニコラスやロタールの姿があった。
「神父さんは持っていません。それは本当です」
 にっこりと笑みを浮かべて、ニコラスが歩み寄る。
「天空の破片、弔いの石は、ここにあります」
 ニコラスはそう言って髪の毛を少しかき上げてみせた。露になったのは、彼が何時も身につけているラピスラズリのピアスだった。思わぬ一言で全員の視線が集まる中、ニコラスは平然と続けた。
「弔いの石は元々私の持ち物なのです。私が寿命を迎えるなりして死んだ後は、勝手に黒い森の深部に戻るよう作られています。が、今回は転生するまでの間にウィーンへ持ち去られ、しかもその傍で兄弟アロイスが生まれた。
 兄弟アロイスもまた我らの同胞。ドルイドです。弔いの石は勘違いをして、私が転生した後も戻ってきてくれませんでした。さて困ったなと思っていた所に、兄弟アロイスが私に返して下さったのです。
 この石は本来私達が持つべきものではありません。人狼の法が終焉を迎えた時、全てを終わらせる為に仕方なく残されたもの。私とて、何度転生していてもただの人間です。情の絆しが生まれればこの石を何に使うか解らない。それで、何時の世でも深く人と交わらず、一人で旅しているのです」
 ニコラスは髪の毛を元に戻し、帽子を被りなおした。
「まさか、森渡りの」
 小さく掠れたライナーの言葉に、ニコラスは苦笑いする。
「森渡りの賢者、と。昔の私はそう記されているそうですね」
「まったく、大仰な名前だねえ」
 漸く追いついてきたらしいヨハネスが、息を切らせながら言った。「年寄りに急な運動は堪えるよ」
「そしてこちらが宿り木の賢者」
 ニコラスは茶化した調子でヨハネスを片手で示し、改めてライナーに向き直る。
「確かに弔いの石は本来の目的以外にも使えますが、ドルイド以外が使えば永久に死ぬ事を許されない体になります。ケルトの法は犠牲の法です。何らかの代償を支払わねば、見合うだけの物は得られない。この石は、見返りとしてあなたの幸福の全てを奪う。しかもそうまでしても代価として足りず、あなたの願いを叶えないかもしれない。
 あなたのお気持ちも至極当然で、理解もしているつもりです。ですが、あなたを不幸にしかしないこの石をお貸しするわけにはいきません」
 ニコラスの語調はいつになく重く、強かったが、その眼差しは柔らかだった。
「私一人の夢ならまだしも……」
 ライナーは机に両腕をつき、項垂れた。
「他に仲間が居るのですか」
 ジムゾンの問いかけに、ライナーは沈黙で答えた。恐らく、ジムゾンを誘拐した実行犯はその仲間なのだろう。オットカルは実際にライナーを呼び出している。ジムゾンを一人でここへ連れて来るのは物理的に不可能である。だがライナーはもう決して仲間の存在も、その名前も明かさなかった。

「私にも相談できないことだったのか」
 呟くロタールの表情は何とも言えない苦悩に満ちていた。ライナーは弾かれたようにロタールを見上げたが、すぐに視線をそらしてしまう。どうにも二人は以前からの知り合いのようで、お互い何か言いたげな様子で黙っていた。他の者が口を挟むのも憚られ、暫く部屋は妙に重い静寂に包まれていた。そのうち、僅かな沈黙を破ったのはロタールだった。
「今更お前に言うまでも無いが。本当に祖国を思うのなら、人ならぬ力によらず、ゆっくり時間をかける他あるまい」
 説教すると言うよりは、自分自身に言い聞かせているようでもあった。ライナーはただ、黙って俯くのみだった。


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