「呪われし存在」

「お前は呪われた子よ。」
泣きながら私を抱き締めた母の温もりを今でも覚えている。涙で掠れた声で何度もごめんなさいと繰り返した。幼かった私はただ母が泣いているのが悲しくて、意味も解らぬままに一緒になって泣いた。口の周りをたった今喰ったばかりの人間の血で汚して。

母は人狼だった。選帝侯*1の家に生まれた母は、恋愛の末に父と結婚した。人を、時にはごく親しい友人でさえも喰らわねば生きていけない人狼として生を受けた事に疑問を感じながらも、父と結ばれたいという気持ちが勝ったと母は言う。5つ離れた兄は人間として生を受けた。だからきっと、次男の私も人間として生まれてくると信じていた、とも。それなのに私は母の血を濃く継ぎ、人狼としてこの世に生を受けた。自分でさえも自分の存在を呪わしく思っていたというのに子どもの私に受け継がせた事を、母は随分と後悔していた。

母が死んだのは私が20になった冬だった。城からの書簡によれば原因不明の病による衰弱死との事だった。人狼が病に侵され、衰弱して死ぬ。それは、母が喰いを行わずに自ら死を選んだ事を意味していた。当時私は一人家を離れ、人里離れたベネディクト派*2の修道院に居た。俗世との縁を切ったとはいえ貴族の子であれば話は別。直ちに領へ帰って母の葬儀へ参列する事も出来たが、私は帰らなかった。貴族の醜い確執を再び目にしなければならない事が嫌だった。私を愛してくれる父はともかく、それが面白くない兄のベルンハルトから再び陰湿な苛めを受けるのかと思うとぞっとした。そして何より、母の死を確認する事で私も同じ道を辿ってしまうかもしれないという恐怖もあった。母と同じに私も自分の生に疑問を抱き続けていたのだから。

心にある自己の存在への疑問ゆえか、私は20を半ば以上過ぎても相変わらず襲撃が出来ないでいた。にもかかわらず生き延びられていたのは、神学校の教師でもある修道士・アロイスのお蔭だった。彼もまた人狼であり、私を聖職へと導いた人でもあった。時折城へ訪れていた彼は、兄から受ける執拗な苛めと親族間の争いに嫌気がさして人間不信に陥った私の心を開いてくれた。やがて信仰に救いを見出した私は半ば逃げるように修道院に入ったのだった。
日々の聖務の中で人狼である事の罪深さも忘れるようにつとめたが、教義を学びより正しく生きようとすればするほどに罪の意識ばかりが大きくなった。アロイスに問うてみても、何時も笑って私を宥めすかせるばかりで何の答えにもならなかった。

司祭叙階を間近に控えたある夜。私は院長に告解を申し入れた。
「今日私は名も知らぬ人を殺し、喰いました。」
告白をした瞬間、院長が息を飲んだのが解った。それでも私は言葉を続けた。
「いいえ。今日だけでなく、これまでもずっと。本能が人の血肉を求めた時、おぞましい獣へと姿を変えて人を喰らいました。それだけではありません。野の獣のように姿を保持するのならともかく、普段は人の姿をして人の目を欺いてきました。何故人を喰らうのかと問われれば、それは人の食欲と同じ事であるとしか答えられません。人を喰わなければ、人狼である私は生きていく事が出来ないのです。我が身可愛さに人を欺き続け、人を喰らいつづけてきました…。」
大いなる罪を隠したまま司祭になるという事には耐えられず、秘めてきた胸の内をあます事なく吐露した。告白する事で、若しかしたら処刑されるかもしれないという不安はあった。…事実、そうされても何も言えない事なのだから。それを推しても告白して楽になりたいという欲求もあったし、聖職者の鑑とも言える誠実な院長にならば処刑されても構わないという思いもあった。

ある時修道院に息も絶え絶えな男が助けを求めてきた。体中に傷を負っており、助けた所で長くは持たないだろうと思えた。しかし院長は彼を巡礼者として扱って保護した。見立てのとおりどれだけ看護しても男の傷は癒える事はなく、徐々に死が近付くばかりだった。他の病人のように体の清拭と食事の介助等だけならともかく、汚い膿だらけの傷口に触れなければならない上、痛みを訴える呻き声に四六時中悩まされた。
暫らくして警備兵の一隊が修道院にやって来た。商人の家に強盗に押入った罪人を探しているのだと言う。一旦は捕えたものの、刑執行の寸前で取り逃がしてしまったらしい。罪人の特徴などを聞くと、数日前に助けを求めてきた男がその罪人である事が解った。私たち修道士は引き渡すべきだと言った。聖域たる修道院とはいえそんな者を許すわけにはいかない。
しかし院長は聞き入れず、そんな者は居ないと兵士達を追い払った。
「どのみち長くは持たないだろうし、彼の罪は中々に許しがたい物でもあろう。だがその罪を彼に理解させ、命あるうちに悔改めさせ許す事こそが我々の為すべき事では無いかね。」
口々に不満を申し立てた私たちの前で、院長は静かにそう諭した。私たちは皆一様に押し黙ってしまった。きっと皆心の片隅に、日々の疲れから解放されたいという思いがあっただろう。聖職者でありながらそう考えてしまった事が恥ずかしかった。
そんな院長だからこそ、私は敢えて告白しようという気になったのだった。

「神の許しを求め、心からの悔いを。」
幾分か落ち着いた院長の声が聞こえ、私は悔改めの祈りを唱えた。院長は許しの文言を続ける。声も態度も、何時もの穏やかなものだった。…この分では私の告白も冗談か何かとしか思われて居ないのではないだろうか。不安を感じると同時に卑怯な安堵感があったのも確かだった。
「神の教えに帰り、罪を許された人は幸いです。安心しなさい。」
「有難うございました。」
私は憑き物が落ちたかのような心持で、心からの感謝を述べて退室した。これからも生きていく以上は同じ罪を繰り返さねばならない。自己満足の為と言われればそれまでの事だろう。それでも隠し続けているよりは余程良かったのだ。

そして次の日、院長の姿が消えた。

その日は美しい満月だった。 晩課を終え、眠りにつこうとした私の目の前に黒い影がよぎった。瞬きした次の瞬間目に入ったのは髪に白いものが混じり始めた修道士の姿だった。
「アロイス先生。」
私は顔を上げて確認するように彼の名を呼んだ。彼は返事の代わりに穏やかな笑みを浮かべる。遅れてきたゆるやかな風が部屋を通り抜け、微かな鉄の匂いが鼻腔をくすぐった。
「襲撃を行ったのですか。」
「ああ。」
彼の返事を受けながら私は何気なく寝台を整えていたが、ふとした予感が頭を掠め即座に彼に向き直った。
「まさか。」
「うん。そのまさかだ。」
彼は聊かも動じず、満足げに呟く。体中の血の気が、さあっと引いていくのが解った。気が、遠くなる。
「何故なのですか?!どうして…どうして院長を…!!」
頭の中が真っ白になって、私は混乱のままに彼を問い詰めた。まだそう、急いて襲撃を行う必要は無かった筈だ。それに院長を襲撃すれば足がつきやすいから避けると、彼自身が言っていたというのに。
「先生!…答えて下さい!」
半狂乱になって彼の腕を掴み揺さぶる私の目の前に、彼は一枚の羊皮紙を差し出した。びっしりと埋め尽くされた文字。美しく丁寧な筆跡は院長の物だった。そしてそこには私の処遇についてが書き連ねられ、宛てた先はこの地域管轄の異端審問官となっていた。
「お前を売ろうとした。」
彼はそう言って羊皮紙をカンテラの炎にかざした。羊皮紙は黒煙を立ち上らせながら、みるみるうちに灰になってしまった。羊皮紙だった灰を凝視したまま、私は力を失って石の床に膝をついた。吐息が口から漏れると同時に瞳から熱い液体が零れ落ちる。院長の柔和な笑みが思い出されると、どうしようもなく胸が痛んだ。あの笑みはもう見られない。許しの言葉すら最早聞くこともかなわない。

暫しの沈黙を破り、私は漸く口を開いた。
「私は告白したのです。自ら、進んで。」
抑えたつもりだったが声は震えていた。
「そうだね。あれは良くない。」
「…知っていたのですか?!」
私の問いに、彼は黙って頷いて見せた。激情にかられてしまうより先に、彼は私と同じように跪いて私の両肩に手をかけた。

「いいかねジムゾン。我々は生きていかなければならない。当然、人狼である事も隠さなければならない。たとえそれが主の御前であってもだ。」
諭すような彼の声に、私は言葉一つ返せないまま首を横に振りつづけた。
「ジムゾン。」
呼びかける声さえ聞きたくなくて、彼の手を振り払って耳をふさいだ。漏れ出た力無い嗚咽が頭の中に反響する。それは情けない声だった。泣けば兄にまた苛められる。幼い日の体験から、泣き方すら忘れてしまっていたからだ。その事が今日はことさらに憎かった。胸が張り裂けるほどに泣けたら、どれほど楽だったろう。
「聞きなさい、ジムゾン。」
静かに強く。彼は私の目を見据えて言った。そうして私の両手を耳元からゆっくりと外させる。
「人間としての心がそれほどまでにお前を苛むのなら、お前はこの先も襲撃などしなくていい。司祭になった後もここへ来なさい。今までと同じように、ただの食事として喰えばいい。」
私は泣きすぎて腫れた瞼のまま、ぼんやりと彼を見つめていた。
「いいね?」
その問いにも、ただ機械的に頷いて見せた。やがて私は同じくに腫れた唇をぐっと噛み締めて彼を見る。
「何故、そこまでして下さるのですか…。そこまでして私が生きねばならないのは何故ですか…?」
私の情けない問いを受けて、彼は再び笑みを浮かべた。何時もとは違う、どこか困ったような笑顔だった。
「神がお前を愛しているからだ。」

数ヵ月後、司祭として辺境の村に赴任した私は再び修道院を訪れた。本能が目覚めたわけでは無い。単にアロイスに会いたかっただけだった。初めての外の世界で勝手の解らぬ事が多く、ほんの数ヶ月で随分と精神的に参ってしまった。彼と話せれば、せめて姿を見られたなら少しは心が安らぐだろうと思ったからだ。ところが、何処を探しても彼の姿は見当たらなかった。私は新顔の修道士をつかまえて彼の所在を聞いた。
「アロイス修道士?ああ、あの人狼。」
若い修道士の言葉に私は息を飲んだ。修道士は顔を顰め、まるで悪魔の事を語るかのように言葉を継いだ。
「しばらく前に院長が行方不明になったんですよ。たまたまその後異端審問官が修道院を訪れて、全員で再捜索したところ無惨な死体が見つかったのです。残されていた手の中にあった留め具が、アロイスの物と一致したのですよ。ええ、その日のうちに処刑されました。」
私は思わず倒れこみそうになって近くの柱にもたれた。
「だ…大丈夫ですか?」
心配げに声をかけた彼に大丈夫だと頷いて見せ、私は何とか呼吸だけでも落ち着けようとした。
「…神学校時代の、恩師だったのです。」
漸く呟いた言葉に、修道士の口から同情の溜息が漏れる。…これで、ふらついた事の弁解にはなったろうか。刹那に頭をかすめた保身の言葉に、私は心底自分自身を憎んだ。
「彼の墓は…。何処にありますか?…せめて、祈りだけでも…。」
なんとか体を持ち直させて、修道士へ再び問い掛けた。修道士は私を見つめ気の毒そうな表情で答えた。
「ありません。火刑の後に谷底へ捨てられました。…悪魔には墓など作る必要もありませんから。」

その日から私は一切の喰いを止めると心に誓った。そんな事を思い出しながら窓の外を見やると、空が白み始めている。そろそろ朝の祈りの時間だ。私は寝台から身を起こして乱れた衣服を整えた。
「神が私を愛しているというのなら…。」
独り言ちて胸のロザリオを手にとって眺める。
「何故今、こんなにも苦しいのですか?」
銀の十字架にかけられた銀の救い主は暗い死の影をたたえるばかりで、何も答えてはくれなかった。

「『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』霊も言う。「然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである…。」
私は黙示録の一節*3を唱えながら、何時も以上に重く感じる体を引きずって礼拝堂へ向かった。外の森で小鳥たちが明るい声で囀り始めるのを聞きながら、私の頭からは母の言葉が離れなくなっていた。


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【注釈】
*1選帝侯…神聖ローマ帝国皇帝すなわち、ドイツ国王への選挙権を有する諸侯のこと
*2ベネディクト派…529年にベネディクトゥスがモンテカシノにて創建。「清貧」「従順」「貞潔」を旨とする。労働と祈りを戒律とし、これを厳格に守らせて修道院では自給自足の共同生活を行った。
*3黙示録の一節…旧約聖書「ヨハネの黙示録」十四章十三節より抜粋

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