【遅すぎた言葉】

とどめをさす事は出来なかった。
狩りの本能が覚醒したばかりのジムゾンの牙は緩く、またどういうわけか吹き上がる鮮血を浴びた瞬間にジムゾンはトーマスから飛びのいてしまった。
トーマスは喉元に喰らいつかれたにもかかわらず猛然と眼前のディーターに向かってきた。目の前に居たがゆえなのか、それともディーターだと認識していたのかは定かではない。
一線から退いたとはいえ歴戦の猛者。そして生まれながらの狩人。苦戦するディーターにニコラスも加勢して漸くトーマスを沈黙させた。

ディーターは肉を少し口にしただけですぐにそっぽ向いて姿を元に戻してしまう。長椅子の一つに腰掛けてトーマスに切りつけられた脇腹に応急処置をしている。血痕などは元の姿に戻れば消えるが、傷は残る。幸い上着に隠れる位置だったため後は出血さえ止まれば問題は無いだろう。ジムゾンは口を動かすのを止めて申し訳無さそうにディーターの背を見つめていた。
『神父さん。』
ニコラスはジムゾンに呼びかけ喰うように促す。ジムゾンは浮かない顔で咀嚼を再開した。
『あなたが最初に牙を入れたのですから。何も気にすることなんてありません。』
ジムゾンはチラとニコラスを見て黙々と喰い続ける。喰う事に引け目を感じているわけではない。ディーターの態度が気になって仕方無かったのだ。それでも喰い続けていくうちに不安はあくなき食欲にかき消された。トーマスへの罪悪感も消してしまうほどに。古の盟約のとおりに血を渇望する本能が漸く解放され、落ち着いて喰っているつもりでもついがつがつしてしまう。

内臓を綺麗に食い尽くしてジムゾンは元の姿に戻った。上半身は裸で所々に先程つけられたばかりの内出血の痕がある。ジムゾンは二つに裂かれた上着とシャツを拾いあげて抱えた。もう使い物にならない。
「代えはありますか。」
同じく元の姿に戻ったニコラスに問われ、ジムゾンはこっくりと頷いた。
「それなら良かった。明日急に違う服を着たら間違いなく怪しまれますからね。」
ニコラスは一息ついてトーマスの遺骸を眺めた。さすがにこれを何処かに移動させるのは難しそうだ。移動できても血量から疑われてしまうだけの事。
何の脈絡も無く教会で襲撃されたトーマス。しかも彼はずっとジムゾンに対して不信感をつのらせていた。これではジムゾンを疑ってくれと言わぬばかりだ。明日の言い訳をどうしようかと考えていてニコラスは突然トーマスの遺骸の傍にかがみこんだ。まだぬめる血を指にとって地面に何かを書き始める。

“Priester”(神父)

ややたどたどしい指使いで書き終わるとトーマスの指先に血を塗って文字の上に置いた。
ジムゾンはその様子を見ながら気が遠くなるのを感じた。とうとう売られる時が来てしまった。しかし二人を救うにはそれ以外に無いだろう。
「ペーターはヨアヒム君にこっそり文字を習っていたようですよ。」
ニコラスはにっこり笑ってジムゾンを見た。そうだ。今夜占う事になっているのはペーターだ。
「ヨアヒム君は呼び名が共有者に変わっても元は異端審問官です。使う教材は当然聖書や教会に関する物。神父という単語は初歩の初歩でしょう。」
「まさか。」
「かわいそうですが、ペーターには人狼になってもらいます。明日が勝負ですよ。」
指についた血をきれいにふき取るとニコラスは帽子を目深にかぶりなおした。
「ではおやすみなさい。良い夢を。」

ニコラスが去って礼拝堂には二人が残された。こうなればもうディーターは大人しく教会に居た方がいいだろう。幸い、宿屋への往復を見ていた者は居なかった。
「トーマスの方がお前よりよほどマシだ。」
背を向けたまま言ってディーターは立ち上がる。ジムゾンに目を向ける事も無く隣接する家へ通じる扉に向かって歩く。ジムゾンは俯いて引き裂かれた聖服を抱き締めた。牙を突き立てる所までいって仕留める事が出来なかった。それにあの白い毛並み。闇の中でことさらに目立つ白い色。人狼に向いていないと宣伝するようなものだ。ジムゾンは自分が情けなくて仕方なかった。

扉に手をかけてディーターが少しだけ振り向いた。出て行こうとした吹雪の晩のように。
「やっと俺の名を呼んだな。」
ディーターは一言だけぽつりと呟いて扉の向こうに消えた。


雲一つ無い空に朝日が昇り地上を照らす。朝一番に教会から齎された訃報と共に村は目覚めた。定刻に集まったのはヨアヒム・ディーター・ニコラス・ジムゾン・レジーナ・パメラ・ペーターの7名。
仮に村人が勝利したとて、無事に村を復興させる事ができるのだろうか。
嫌でもそんな思いを抱いてしまう中、ニコラスが立ち上がった。荷袋から取り出した水晶玉には赤い三日月が揺らめいていた。
「ペーターは人狼です。…これで終りですね。」
ニコラスは淡々と告げて水晶玉を荷袋へしまった。ニコラスに向けられる村人の目には希望と猜疑心が複雑に入り混じっていた。誰も言葉を発する者はいない。人狼だと告げられたペーターは青ざめてニコラスを凝視している。口は僅かに動いているが言葉は発せられない。ペーターは兄のように慕っていたニコラスが人狼だという事実というより、ニコラスによって断罪される事が衝撃だった。
「待てよ。それならあの血文字は何だ?」
訝しげにニコラスに問うたのはディーターだった。
「“神父”と書かれていたんだろう?トーマスの遺言じゃないのか。しかも襲撃された場所は教会だ。」
「そうだよヨアヒム!正体がばれてしまった人狼が呼び出して殺した…そしてトーマスはその名前を残した。これが正解じゃないのかい。」
ディーターに続いてレジーナも口添えする。

「違う。」
ヨアヒムは短く否定した。その表情は険しく何かしらの焦燥を感じさせる。
「考えてもみてくれ。自分の身を喰われながら血文字なんて書けると思うかい?」
「そりゃあ…。けどトーマスは元傭兵団の団長なんだ。それくらいの根性はあってもおかしくないさ。」
「それにね、レジーナ。もう一つ決定的な事がある。トーマスは文字を書けないんだ。」
「あっ…。」
ヨアヒムの言葉にハッとしたのはレジーナだけではなかった。固まりかけていた流れが一気に崩れ去る。
「この中で文字を書く事ができるのは…。僕、ニコラス、神父さん…そして…ペーターだ。」
「なんだって?!」
レジーナは叫んで立ち上がる。
「あれほど文字を教えてくれるなと言ったのに!」
「すまない、レジーナ…。でも折角の芽を潰したく無かったんだ…。」
ヨアヒムはギュッと瞳を閉じて苦しそうに項垂れる。そして意を決したように顔を上げて言った。

「ニコラスが人狼で書き残した?いや、意味が無い。では神父さんが人狼で自作自演をやってみせた?いや、何の利益もない。けれどペーターなら。…今日占われる事になっていたペーターなら。
トーマスの遺言のように見せかけて神父さんに疑いを向ける。教会で食い殺して更にそう思わせる。…十分すぎるほどの動機がある。」
「では何故素直にニコラスを狙わなかったんだ?」
ディーターが素朴な疑問を投げる。
「それは狩人の守護を恐れたからだ。そして、狩人は恐らくトーマスだ。」
刹那、全員が息を飲んだ。
「昨日のトーマスの様子を見ていて気づかなかったかい?守護が成功させられなくて焦っていたんだ。だから僕にあんな嫌味を言った。…ペーターがそれに感づいたにしろ感づいてないにしろ、ニコラスをさておいてトーマスを襲撃する理由は十分だ。」


もう投票を行うまでも無かった。
泣いて暴れるペーターを気絶させ、ニコラスとヨアヒムの二人で処刑場へ運んでいく。弟のように接してきたペーターが人狼なのだという事にパメラは泣き崩れ、レジーナは一緒に泣きたい気持ちを抑えながらパメラを宥めた。ディーターは釈然としない表情で宙を見つめ、ジムゾンは両手を顔の前で組んで一心に祈り続けた。

幼い命の灯火が消え、村は夜を迎える。決して明ける事の無い夜を。


「ごめんなさい。こんな所にお呼び出しして。」
ジムゾンは申し訳無さそうに言って礼拝堂の扉を開けた。トーマスの遺体も血の跡もきれいに片付けられてはいたが何分にも昨日の今日だ。気持ちの良い場所であるはずがない。カンテラの火を燭台に移しながら祭壇に向かって歩むジムゾンの後を数歩遅れてパメラが追った。
「気にしないで。それで、何のご用事?」
パメラは真っ赤に腫れたのを隠そうとして時折目をごしごしこすっている。
「あなたにと言付かった物があるのです。」
やがて祭壇の前まで辿り着いたジムゾンはパメラに椅子に座るよう勧めた。ポケットから少し大きな封筒を一つ取り出してパメラに手渡す。
「神父さん、あたし字が読めないのよ。」
「あ…。」
ジムゾンはしまった、と思わず口に手を当てる。
「読んで頂戴。神父さんなら別に知られても構わないもの。ところで、それは誰からの手紙?」
問い掛けるパメラの瞳は期待に輝いている。ジムゾンは直視できず返答もせぬまま封を切り、取り出した手紙をゆっくりと読み始めた。

「…“親愛なるパメラへ。僕が村を出て行く前にしていた約束を君は覚えているだろうか。”」
「!」
急にパメラが顔を強張らせた。どうやら、オットーからの手紙だと気づいたようだ。
「“君は何時だって元気で明るくて村の人気者だった。だけど君が本当は寂しがり屋なのを僕は知ってる。仕事で忙しいお父さんやお母さんに迷惑をかけまいとして無理して甘えを閉じ込めていた事も知っていた。何時も森の入り口の楡の木の陰でこっそり泣いていたのも知っていた。だから僕は君が心配で、何か僕にできる事があればって言ったんだ。そしたら君は僕に言った。

あんたパン屋の息子でしょ。だったらマイスターになってすっごいのを作って村の名物にしなさいよ。そうして村に人が集まれば、もうお父さんもお母さんも朝から晩まで頭を悩ませなくて済むようになる。

そして僕は約束した。

僕は必ずマイスターの試験に合格して村に戻って来る。必ず村に人を呼べるような凄いものを作る。

僕が村に帰ってきてから丁度一年になる。下積み時代、フランスから来ていた職人に習ったお菓子をヒントにして構想を練っていた作品がやっと作れるようになった!これできっと沢山旅人が立ち寄るようになって、もしかしたらその中から定住したいと言ってくる人もでてくるかもしれない。残念な事に君のお母さんは亡くなってしまったけど…。お父さんの負担を少しは軽くできると思う。
…それでちょっと、気は早いんだけど。先にお願いしておくよ。
僕と結婚して下さい。
僕が村に戻ってきたのは勿論約束の事もあるけど。一番の理由は、君の心からの笑顔が見たかったから。君の事が好きだから。
無理にしてなんて言わないよ。だからゆっくり考えて。春になったら、返事を聞かせて欲しい。それまで僕はのんびり待っているから。
オットー・フェルステマン”」

読み終えるとジムゾンは手紙をそっと封筒にしまった。パメラは硬い表情のままじっと目の前の空間を見つめている。膝の上に置いている手は硬く握られ小刻みに震えていた。
「今更なんなの。」
かすれた声を発してすぐに唇をかみ締める。
「あいつ本当に口下手よね!笑っちゃうわ!」
わざとらしく叫んで笑うパメラにジムゾンは何も言う事が出来なかった。
「だって何も言わないから。あいつもう忘れてるのかと思ってたのよ!」
訴えるようにジムゾンを見たパメラの顔は再び涙に濡れていた。パメラはいきなり目の前のジムゾンに抱きついてわあわあ泣き出した。ジムゾンはパメラを抱き返しながら、見つかるはずも無い言葉を探していた。

「でも知った所でどうしようも無かった。あいつは狂人だったんだもの。」
ひとしきり泣いたあとでパメラが呟く。詰まった声でしゃくりあげながら。
「残念ですが、オットーさんは狂人ではありません。」
返事をしたのはジムゾンでは無かった。パメラが驚いて顔を上げると祭壇の前にニコラスが佇んでいた。ニコラスは三角帽子を脱いでにっこり笑った。
オットーは狂人ではない。ニコラスの言葉がパメラの頭で何度も響く。
「…嘘でしょ。」
パメラは徐にジムゾンから身を放しながら小さな声でニコラスに問う。
「お父さんは立派な村長でした。けれど立派過ぎて心を壊してしまった。」
残酷に笑いながらニコラスはゆっくりと歩み寄る。パメラは思わずあとずさるが椅子に膝が当たって再び座り込んでしまう。

「あたしが馬鹿だったわ…。」
もうどうすることもできず呻くように言って顔を覆った。
「父さんがたとえ狂っていてもあたしは今でも父さんを尊敬してる。オットーが何であっても関係無かった。信じられなかったあたしが馬鹿だったというわけね。」
「あなただけの所為じゃない。」
「それは同情かしら。」
パメラは気丈にもニコラスを睨んだ。
「いいえ、それが事実だから。」
ニコラスは言いながらふっと笑った。
「さすが親子だ。お父さんも同じ事を言いましたよ。」
「そう。」
もうパメラは動じる事も無くなっていた。
「好きにすればいいわ。もう望む事なんて何も無いから。」


再び赤に染まった床を見つめてジムゾンは涙を流す。流れ落ちる涙では血の一滴を清めることすらできない。
「村長さんはパメラに“憐れな生を与えてしまった”と言っていました。」
その言葉にジムゾンはハッと目を見開く。
「パメラの人生は憐れだったと思いますか?」
ニコラスの問いにジムゾンは迷う事無く首を横に振った。
「村長さんはそんな事を仰ったのですか。」
「ええ。けれどパメラ本人には言っていません。」
「…良かった。」
ジムゾンは安堵の吐息と共に少しだけ笑った。人狼という立場からの欺瞞だとも思わない。
「さあ行きましょう。お約束どおりお伝えしますよ。」
ニコラスは何時ものように笑って続けた。

「あの伝承の真実を。」


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