【黒い森の復活祭・第三章】

「聖痕の民とはですな、人狼の獣性のみを持つ人間の事なのですよ。」
古い石造りの司祭館の一室で二人はヨハネスの話を聞いていた。あの後ジムゾンは修道士用のローブを貸して貰って耳と尻尾を隠し、ディーターと共に広場前の教会に匿われた。広場前は昼間こそ人でごった返しているが夜にもなれば夜警と盗人以外には通る者も居ない。
「獣性?聖痕があるのにですか?」
勧められた白湯をすすりジムゾンは怪訝そうに顔を上げた。ディーターには香草茶が用意されたがジムゾンはまだ毒が残っているという事もあって無難な白湯を出された。症状も酷くないので無理に吐くよりは一晩安静にしておいた方がいいとの事だった。
「お二人は人狼の成り立ちをご存知かな?」
「ええ、昨年仲間だったある人に聞きました。」
「ほう!我らのはらからにお会いなさったか。」
ヨハネスは少し驚いた様子だった。
「して、誰に?」
「金髪碧眼で緑尽くめの若い男だ。名前はニコラス。」
ディーターの若い、という説明にヨハネスは苦笑いする。
「そうですか。森渡りのバルドに。」
聞きなれない単語を聞いてジムゾンとディーターは思わず顔を見合わせた。
「我らのはらからは12名おりましてな。血塗れの三日月の僕であると同時に、ドルイドなのですよ。更にそれぞれ専門の三分野に分けて“ドルイド”“ウァテス”“バルド”と言うのです。
バルドとは吟遊詩人。ニコラスは特に弾唱詩人としてボエルジと呼ばれますな。私はウァテス。祭祀の助手をし天文を見ます。」
「天文はいいとしても、吟遊詩人がそんなお偉いさんなのか。ドルイドってのは王よりも権力を持っていたんだろう。」
ディーターの問いにジムゾンも頷く。吟遊詩人と言えば昔はもてはやされた事もあったようだが騎士文化の衰退と宮廷音楽の登場と共に姿を消し、今やジプシーと混同され存在さえ風前の灯火である低層階級の存在だ。
「ケルトの民は基本的に文字を用いませんでな。伝承を記憶し語り継ぐ語り部や歌い手は法の担い手同様だったのです。…ああ、話が逸れて申し訳ない。それで、聖痕の民ですが。」
ヨハネスは一旦言葉を切ってティーカップを口に運んだ。

「人狼の体系を作るに当たっては銀の腕と血塗れの三日月の作業となったのです。銀の腕は一日に一人を判別する能力、その日の死者の正体を知る能力、そして人狼を追い払う力を人に与えた。それが、占い師・霊能者・狩人。
対する血塗れの三日月は、夜を迎えると異形に変化し人を喰らう能力・月に狂い異形を信奉する狂気を人に与えた。それが、人狼・狂人。
人狼を作るのは容易ではなかった。狂人が生まれたのは、その精神面だけが人に現れた副次的要素があったのです。精神面なのでどうにでも変わってしまう。突発的に狂人になる者や、普通の人間に戻ってしまう者もおりますな。
さて、その中で獣性だけを保持した人間も生まれてしまった。それが聖痕の民です。」
「仲間とみなすから襲撃できないと。」
「そういう事です。」
察しの良いディーターの言葉にヨハネスは満足げに笑った。
「はじめは彼らを共有者にしようという話になっておったのです。だから聖痕の特性も与えた。ところが世の中そう上手くはいかないもので…魔女狩りの派生系というか元祖というか。」
「我々が喰う事ができず書状などより確かな奇蹟である聖痕まであるというのに、ですか。」
「ブラザー。あなたは彼女の聖痕を知ってどのようなお気持ちになられたかな?」
問われてジムゾンは一瞬躊躇する。やがて諦めたように口を開いた。
「羨ましいと思いました。」
聖職者にあるまじき発言を恥ずかしがるジムゾンに、ヨハネスはそうでしょうと笑って頷いた。
「崇拝からの狂信、疑惑からの嫌悪、羨望からの嫉妬。どれもが人々の心の泉に波紋を呼ぶ。やがて彼らが来る前までに培われた秩序体制が揺るがされていく。その内に混乱を鎮めるにはあいつを追い出せという話になる。共通の敵が生まれ、それを叩く事で結束した村は邪魔者の排除という儀式を終えるとまた元の秩序を取り戻す。聖痕の民はそういう扱いを受けたのです。
だから共有者とするには向かなかった。ちゃんとした信頼を築いた権力者の証明の方が良かろう、という事となって今の共有者特有の聖別様式が確立されたというわけです。」
そこまで言うとヨハネスは立ち上がって執務机から巻物を一つ持ってきた。再び椅子に座るとテーブルの上に置いて広げる。それは周辺国まで記された地図だった。

「全く血の宴で意味を為さなくなった彼らは一先ず身の安全の確保が最重要となった。そこで逃げて、逃げて…この地まで逃げ延びたのです。」
ヨハネスは地図の上に人差し指を滑らせてある地点で動きを止めた。
「オスマントルコだな。」
覗き込んだままディーターがぽつりと呟いた。ジムゾンはそれに驚いて思わずディーターを見た。ディーターは文字を知らない。この一年で少しばかり教えはしたが、オスマントルコという単語まで教えた覚えはない。ジムゾンが驚いているのを見てディーターは素っ気無く答える。
「作戦会議で嫌という程見たから形で大体解る。ここが神聖ローマ帝国。ドナウエッシンゲンはここだ。」
ディーターはジムゾンの手を取りその指で地図をなぞらせた。細かい都市名までは書かれていない。ジムゾンはどこか意識を他所へ向けたまま恥ずかしそうに俯いた。
「そう、オスマントルコ領土のアレッポという都市です。その内回教徒が支配する土地となりましたがそこそこに寛容だった。聖ヘレナ大聖堂もあり、彼らにとって居心地の良い土地だった。
ところが十字軍がやってきて両者の間で血が流れた。憤った回教徒から次第に迫害されはじめた彼らは再びこの因縁の土地へ戻る事になる。今も血の宴に巻き込まれぬようひっそりと暮らしておるのです。」
「巻き込まれてはいけないのですか?」
ジムゾンは不思議そうに問いかけた。
「襲われる事が無いのですから、それこそ災禍の中では英雄になれるのでは?」
「それがですな。彼らは、占われると消滅してしまうのです。」
ディーターもジムゾンも一瞬言葉を失った。聖別を勧めた途端にあっさりと去ってしまったフリーデルの姿が二人の脳裏をよぎる。
「支えを失って肉体が掻き消えてしまう。跡形も無くです。また、どういうわけか占いと襲撃が重なると喰えるようになる。一風変わった存在なのです。
聖痕という恩恵を活かせずただ保持するのみ…我々が彼らの事を暗に“ハムステルン(貯め込む者)”と呼ぶのはそういうわけです。」
ジムゾンは複雑な面持ちで俯いた。幾ら聖痕と言えど必ずしも恩恵になるとは限らない。その所為で忌み嫌われてしまうし、女の子だったら体に傷がつくのは普通に考えて嫌に決まっている。フリーデルが“聖痕”と強調して言っていたのも、人狼にも人間にもなれずに村八分にされた悲しみからの強がりかもしれないと思った。
興味深い話は夜遅くまで尽きず、眠りに就く頃にはジムゾンの体調も回復していた。


翌日ジムゾンがヨハネスの手伝いをすると申し出た為ディーターも復活祭のミサに付き合う事になってしまった。祭服に身を包んだジムゾンを見るのも久しぶりだ。無闇に触れてはいけないような気分にさせられるが、昔のような威圧感や嫌味さは感じなかった。
思いもかけない若い神父の出現に、参列した街の人々は喜んでいるようだった。特に若い女性陣はミサの最中も、実は身分を偽ってきたどこぞの王族なんじゃないのかなどと憶測の話題に終始していた。
「まあ、皇帝の血を引いてるのは確かだよなあ…。」
ディーターは昨晩聞いた話をぼんやりと思い出し、誰に言うでもなく独り言ちた。ジムゾンも知らなかった母親の生い立ちや恩師の身の上を恩師の知り合いだったというヨハネスに聞かされて一緒に驚きはしたが、だからといってジムゾンに近寄り難さを感じはしなかったし、ジムゾンはジムゾンだと改めて思っていた。

ミサが終わって合流しようとすると、ジムゾンは用事があるからとディーターに待つように言って足早に何処かへ向かう。鈴の不協和音を響かせながら突き進むジムゾンをディーターは追う。方向からしてあの修道院に向かっているようだ。
「待っていてと言ったのに。」
「忘れ物でもしたのか。」
ジムゾンは少しだけ振り返って返事代わりに微笑んだ。
「なら俺が取ってきてやる。またあの尼に会ったら厄介―。」
突如ジムゾンが立ち止まる。
「どう厄介なのかしら。」
声のした前方にはフリーデルが佇み、忌々しげにこちらを見つめていた。
「白昼何もできはしないわよ。獣のあんたと違ってか弱いんだから。」
ジムゾンはフリーデルに歩み寄った。
「まず誤解を解く必要があります。」
フリーデルは訝しげにジムゾンを見た。一体何が誤解なのだと、事と次第によっては再び感情が昂りそうな様子だった。
「ルドルフを殺めたのは、私です。」
突然の告白にフリーデルは目を見開いた。
「ルドルフは狩人でした。占われて人狼だと判明したディーターを長らく追っていたそうなのです。のちに友の仇ともなってしまい、あの森でばったりと出くわした。同時に、私とも出会った。
私とルドルフは幼い頃からの知り合いなのです。彼は、私が人狼だと言う事までは気付かなかった。」
フリーデルは言葉を紡ぐ事もできずにジムゾンを凝視している。それは信じがたい事だろう。ジムゾンはたった今“自分が殺めた”と言った。古くからの知り合いなのだと言うのなら、何故そんな事をしたのかが解らない。
「ディーターはルドルフによって人狼に変化できなくなる薬を盛られ、襲撃されました。人狼に変化できないばかりか体に変調をきたしたディーターは殺されるのを待つだけだったと思います。…だから私は、ルドルフを喰いました。」

乾いた小さな音がした。
ジムゾンは叩かれた頬を押さえもせずにフリーデルを見た。フリーデルは無言のままジムゾンを睨んでいた。だがそのうちに栗色の瞳は潤み始める。
愛する人の仇を殺そうと思った。だが愛する人は、仇となった者の大切な人を殺めようとしていた。
彼は言うだろう。呪わしい人狼は葬られて当然なのだと。
たしかに人狼は人を喰らう。理不尽に全てを奪い、ただの餌として喰ってしまう。しかし呪わしい存在だからといって殺められて良い法は無い。それは、長きに渡る迫害の歴史を持つ一族の血を継ぐフリーデルには痛いほどよく解る事だった。
完全な人間であれば躊躇無く怒りだけが溢れて刺し違えても殺そうと思うかもしれない。けれど聖痕の民ハムステルンであるフリーデルには、できない事だった。
「ごめんなさい。」
ジムゾンがぽつりと言った。
「ごめんで済めば審問なんていらないわよ。」
明後日の方向を向いてフリーデルが呟く。
「卑怯ね。」
フリーデルは溢れ出る涙を拭い、ジムゾンはただ無言で視線を落としていた。

「落としていました。」
落ち着くのを待ってジムゾンは懐から何かを取り出した。差し出した手のひらに乗せられていたのはハート型のドルイドベルだった。
「…要らないわよ。もう持っていても意味が無いのに。」
囁きが聞けるという効果を知ってからは恐らく、仇を探す為だけに活用していたのだろう。
「子供がくれたのでしょう?」
ジムゾンは小さく笑う。
「魔的な力は必要なくても、あなたを慕う子供の思いまでもが無意味だとは思いません。」
フリーデルは無言で鈴を手に取った。
「大事にしてください。」
「血の宴とやらに巻き込まれる機会があったら、これで人狼どもを処刑しまくってやるわよ。」
強気に笑うフリーデルを見て、ジムゾンも笑った。


「お前も強くなったもんだ。」
先刻のやりとりを思い出しディーターは感心してジムゾンを見た。
ヨハネスに別れを告げてドナウエッシンゲンの街を後にした二人は街道を歩いていた。フリーデルが居る以上はドナウエッシンゲンに留まるわけにもいかない。ディーターは、どこか閉鎖空間になりえない、それでいて戦場にもし難そうな場所に居を構えるのも悪くないとも思っていた。南西にあるザンクトブラジエン修道院領か、オーストリア領あたりにならあるかもしれない。
「あなたが居るからですよ。」
直接的な言葉にディーターは一瞬戸惑った。柄にも無く頬が火のように熱くなる。その様子を見ながらジムゾンはくすくす笑ってこう続けた。
「ブラザー・ヨハネスはあの毒の事をお見通しだったようですよ。」
ディーターはぎくりとして動きを止める。
「気だるいなあとは思いましたが、まさか“恋なすび”だったとは。」
マンドラゴラの毒は、媚薬でもある。ディーターは知っていて事あるごとにジムゾンに触れていた。それを察知したヨハネスは話したい事が終わった後でもジムゾンの体の火照りが治るまでわざと話を長引かせていたのだった。
「他所様の家でなんて、ディーターは節操無いのです。」
ニヤッと笑ってディーターを見るとジムゾンは先になって走り出した。あの不思議な音を鳴らしながら。
「俺はお前を楽にしてやろうと思ってだなあ!…おい!待ちやがれ!」
澄んだ青空に二人の声が響く。祝福するように光が降り注ぐ中、二人の旅はまだまだ続くのだった。


おわり




フリーデルとハムスターの事を置きっ放しにしていたので作ってみました。
ゴールデンハムスターはシリアのアレッポで初めて見つかったそうで、作中にあるようにドイツ語の「ハムステルン」からハムスターと呼ばれるようになったそうです。見つかるのは100〜200年後くらいなのかな?
なんだかんだ言って、また二人の話を打ち込めて楽しかったのです。

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