【人狼の宴・第一話】

書類を全て片付けおえるとヴァルターは椅子にかけたまま両手を頭上で組んで伸ばした。村長になって一ヶ月以上経とうとしていたが妙に肩がこった。故郷の村とはいえもう二十年以上離れていたし、第一村長という立場にまだなじめない。
自治体の長の仕事というのは表面的・外交的な忙しさがあるだけで実際は勤務時間が短かったりと大して忙しいわけではない。しかしこの小さな村では出張せねばならない事はさほど多くなく、また、やろうと思えば村内での仕事は沢山あった。職員たちにはのんびりやってくださいと言われるが、ついあれこれ改善点ばかりが目に付いてしまう。
男手一つで育ててきた一人娘が結婚したのを機に、ヴァルターは長年勤めてきた内務省を早期退職し故郷の村に戻ってきた。
本当は実家にある畑を耕してのんびり暮らそうと思っていた。帰るにあたって父の友人でもある当時の村長・モーリッツに挨拶をしに行った所、年度始めに予定されていた村長選に出馬しないかと言われた。あまり熱心に勧められるので曖昧に肯定する返事をしたのが運の尽き。数えるほどしか人のいない村で他に出馬する者も無く、元官僚という事もあってあっけなく村長に決まってしまった。
モーゼルを臨む美しい景色でそこそこに知名度はある。ただしあまりにも解り難い場所にあるため隠された村だのとよく揶揄される。人口は少なく大きな収益を上げる産業もなくちらほら訪れる観光客が唯一の救いという村だ。しかしヴァルターはこののんびりした雰囲気が好きだった。また似たような仕事をする事になってしまったが、人がゴチャゴチャしたベルリンに比べれば随分気楽だった。

「おや村長さま。今日は遅かったねえ。」
宿屋一階の酒場に入るやいなやレジーナがからかうように声をかけてきた。大抵は数えるほどしか客の居ない店だが秋の観光シーズンとあってかなりの賑わいをみせていた。空いた席を探すのが困難な状況だがヴァルターの席はちゃんと取ってある。
二十数年ぶりに村に戻った日の夜真っ先にここに来た。その時は春で今と同じように人だらけ。帰ると知らせもしなかったのにカウンター隅のお決まりの席は空けられていた。
「こんな隅っこの席誰も座りたがらないよ。」
レジーナはそう言って笑ったが、同じように空いた隣の席が意図的である事を物語っていた。一番隅はヴァルターの席。そしてその横は。
「トーマス!丁度いい所に来たよ、あんた。」
レジーナの声に促されるようにヴァルターは席に着いたまま体ごと振り返る。閉じたばかりのドアの前には旧友トーマスの姿があった。隣の空いた席は、トーマスの指定席だ。
「なんだ。なんだなんだ誰かと思ったら。」
ヴァルターは思わず相好を崩して立ち上がる。髪型も色も変わり顔に刻まれた皺と顎鬚などが随分と印象を変えてはいたが、すぐにトーマスだとわかった。
二人に一斉に注目されて暫し唖然としていたトーマスは、苦笑いしながらヴァルターの隣に座った。
「久しぶりだなあ、ええ?顎鬚なんて生やして、一瞬誰か解らなかったぞ。」
「髭はお前も。お互い様だ。」

「それはそうと、なんで暫く来なかったんだい。」
レジーナはカウンターに二人分のビールを置いて咎めるようにトーマスを見た。
「もうじき聖誕祭だから教会へ手伝いに行ってると言った筈だが。」
「―あ、そうか。そうだったね!忘れてたよ。」
何故かレジーナは白々しく相槌を打った。その様子にヴァルターは微妙な違和感を覚える。聖誕祭は確かに大きな行事だが、待降節の行事以外手伝う事などあったろうか?第一、教会にはディーターという手伝いの男がいるのだからわざわざトーマスが手伝いに行く謂れなど無いはずだ。
「今年はリーザ達も戻ってくるから賑やかになるよ。」
客に頼まれたコーヒーを淹れながらレジーナは感慨深げに呟いた。
「ギムナジウムはテスト期間じゃないのか。」
「終わってから来るってさ。ペーターが帰って来るって聞いたら、自分も戻るんだってきかなかったんだよ。」
リーザはレジーナの末の娘でギムナジウムの7年生だ。ペーターは農業を営むヤコブの弟で、専門学校に通っている。二人とも村を出て寮生活の身 だ。
「ほう。しかしそれにしても一ヶ月も前から準備するとは随分大げさだな。」
レジーナが最初に振った話とはいえ、さりげなく話を逸らされたのが尚更気になる。ヴァルターは再び話を元に戻した。レジーナとトーマスは暫く顔を見合わせてから、笑った。
「やだねえ。あたしらの仲でそんな嫌らしい事は無いよ。前の嵐で教会があちこち傷んでて修理しなきゃいけなかったのさ。あんたも知ってるだろ?修理費用の助成申請を役場に出したんだから。」
可笑しそうに笑うレジーナの言葉を受けてヴァルターははたと気がついた。そう言われてみれば確かに、教会の正面の扉が吹っ飛ばされたとかなんとか。そういう趣旨の助成金申請書があったような気がする。
「別にあんたに会いたくなくてここに来なかったわけじゃないんだよ。ねえトーマス。」
「お前が忘れて聞いたりするからだろう。」
まったく悪びれる風も無いレジーナをトーマスが笑いながら窘める。かつて村に居た頃の光景とだぶらせながら、ヴァルターは安堵している自分がなんだか可笑しく思えていた。


翌日の夕方、ヴァルターは村はずれにある教会を訪れた。なるほど。かなり年期の入った教会の外壁は崩れているらしく青いビニールシートが所々を覆っている。シートで殆どが覆われているファサードの、丁度扉がある位置には少し日に焼けた張り紙がされていた。
張り紙に記された簡単な地図と矢印に従ってヴァルターは裏口から礼拝堂へ入った。シートの所為で光源が乏しくなっている礼拝堂は薄暗く、蝋燭を模した照明が灯されている。祭壇の前には神父の他に数名の村人が集まっており、扉を開けたヴァルターを一斉に注目した。
「やあ、こんばんは。村長さん。」
真っ先に声を掛けてきたのは神父のジムゾンだった。ジムゾンは何時ものように柔らかい笑みを浮かべてヴァルターを中へと招く。集まっていたのは医師のヨアヒム、農夫のヤコブ、そして教会手伝いのディーターだった。
ヨアヒムは村の出身ではなく医大病院勤めの青年だが、異動で村へやってきた。今時の若い医者にしては親切で腕もいいので、世話になる機会の多いモーリッツに気に入られている。
ヤコブはヴァルターが村に帰ってくる二年前に相次いで両親を亡くした。それ以来ずっと一人で農作業をしており、何処か孤高の学者のような雰囲気を漂わせる青年だ。
ディーターはゆくゆくは助祭になる為にと修行中の教会手伝いだ。なんでも、乳児院に居た頃や悪さをしていた頃にジムゾンに世話になったらしい。その所為か黙っていればそこらのならず者となんら変わり無い強面の男なのだが、ジムゾンにはまったく頭が上がらない。

「まるで秘密の集会だな。」
目の前の異色の集団を見てヴァルターは苦笑する。四十代のジムゾンを除けば後は二十代と、年代こそ同じではあったがあまり接点が見出せない。村は人口が少ない為に関係が密なように思われがちだが、各家々は離れているしヨアヒムのような他所から来た人間も数名居る為皆が皆親密な仲ではない。それを考えれば、教会の修復作業という出来事で集まるのも結構な事だとヴァルターは思った。
「酷ぇなあ。どこからどう見ても慈善活動に精を出す健全な若者の集まりじゃねえか。」
一番“慈善”という言葉に程遠そうなディーターが言い、その横でジムゾンが噴出しそうになっていた。
「あんただけだよ。手伝いに来てねえの。」
ディーターの一言に他三名はギクッとした表情を浮かべた。ジムゾンだけはすぐさますました表情に戻り、ディーターが顔をしかめた。どうやらジムゾンが尻をつねったようだ。
「久々に村に戻られた方になんて事言うんですか。我々は歓迎する側。肉体労働させるなんてもってのほかです。」
「村長さんは行政面の支援をしてくれてるし、何も気兼ねすること無いですよ。」
「そうだね。ヨアヒムの診療所も普段ヒマなんだし。力仕事は僕らに任せて。」
ジムゾンに続き、ヨアヒムとヤコブが口々に言い添えた。
「力が有り余ってる子も約一名居ますし。」
そう言ってジムゾンはディーターの背を叩く。
「“子”って言うな!俺はもうとっくに成人してんだよ!」
「親にとって子どもは何時まで経っても子どもですよう。」
「生んで貰った覚えはねえ!」
「オムツ替えてあげてたのは私です。ディーターったら何時もその度人の顔におしっこかけるし、ちょっと大きくなったかと思えば私に向かって“ぼく、おおきくなったら、じむぞんせんせーをおよm」
「わー!言うな言うなぁぁあああ!グレるぞ!!」
ディーターは顔を真っ赤にしてジムゾンの口を塞ぎ、皆がどっと笑った。

それから取りとめも無い雑談をしているうちに日はすっかり沈んでしまった。一緒に帰っていくヨアヒムとヤコブを見送りながらヴァルターは腰に両手をあてて星が瞬き始めた空を仰いだ。
「じゃあ明日は何か差し入れでも持ってくるかな。」
「すみません。うちのディーターが失礼な事を言って。」
「いいんだよ。本当の事だ。」
申し訳なさそうなジムゾンに、ヴァルターは笑って答えた。とうのディーターは夕食の準備だとかで司祭館へ帰ってしまった。
「ご自宅までお送りしましょうか。」
「いや。君に送らせたらディーターに殺される。」
笑い飛ばすヴァルターだったが、ジムゾンがやや神妙な顔をしているのに気付く。
「殺人……。起こり得るかも、しれません。」
ジムゾンは、呆気に取られているヴァルターをよそに続けた。
「これは噂なのですが。…人狼の伝承はご存知ですか?」
「あ、ああ。勿論だとも。」
「どうやらその人狼が、この地方にも現れているようなのです。もしかしたらこの村にもやってくるかもしれない。」
ヴァルターは暫らくきょとんとした表情でジムゾンを見つめていた。
「ジムゾン。人狼はあくまでもおとぎ話の架空の生き物だよ?まさか君の口からそんな話を聞くとは。」
「たしかにこの村にやってくるという事は噂に過ぎませんが、人狼は架空の存在では無いんです!」
自分でも想像してない大声だったのだろう。ジムゾンはごめんなさいと謝ってから恥ずかしそうに口を押さえた。
「詳しいことはトーマスに聞いて頂ければ解ります。私も、また聞きみたいなものですから。」
「トーマスが?」
ヴァルターは、急に取り繕うようになったジムゾンの口調よりもトーマスの名前が出てきた事に驚いた。
「はい。元々私もトーマスから聞いたのです。ですからここの所ずっと修理を手伝って貰ってはいましたが、大半はその相談だったのです。電話では解らない事もありますし。」
益々訝しげな表情になったヴァルターを見てジムゾンがふっと笑う。
「さっき携帯に連絡があって、明日来ると言っていました。今日より少し早い時間にお越し頂ければ、詳しい話が聞けると思います。」


子どもじみている。そう思いながらもヴァルターは翌日もモヤモヤしたものが晴れないままだった。一昨日のトーマスとレジーナの様子。他所から来た筈のジムゾンがともすれば自分よりトーマスと仲が良い事実。助成金申請書類を忘れてしまっていた自分も悪いとはいえ、話を知らなかった。気を遣ってくれているのは解るが、修理の相談も受けなかった。まるで自分だけが村八分にされているかのように感じられた。
二十数年も村を空けていたのだ。いわば村を捨てていたも同然なのだから、新参者の扱いを受けるのも仕方ない事だ。そう頭ではわかっていても、腹立たしいような悲しいような、なんとも言えない感情は中々消えてはくれなかった。
「こんにちはー村長。隣いい?いいよねー。」
突然の声に思考を破られてヴァルターが顔を上げると、金髪の青年が何時の間にか自分の斜め隣の席に座っていた。何時もは自宅に戻って昼食をとるヴァルターだったが、今日はレジーナの店に来ていた。カウンター席は夜しか使えない。というわけで外のテラスで温かいスープが冷めるのも気に留めず思索に耽っていた所だった。
そうして突如現れた金髪の青年はヴァルターの事など意に介さずレバーケーゼのサンドを美味そうにぱくついている。
「ああ。君は確か…ゲルト、だったかな。」
ぽかんとしながらもヴァルターは漸く思い出した名前を呟く。ゲルトは有名なデザイン会社に勤務しているデザイナーで、この村の景色を大層気に入って引っ越してきたのだとか聞いていた。普段は村にある家で仕事をし、時々本社へ出向いている。さすが芸術で身を立てる者と言った所か。鋭い碧眼が印象的な青年だ。
たしかこの宿の食器類は殆どがゲルトがデザインした物だと言う。ヴァルターは改めて、自分の目の前にある白い食器をしげしげと眺めた。
「うん、そうさ。でも珍しいね村長。俺いっつもここで食事してるんだけど、昼に村長見るのは初めてだ。」
「なんとなく一人家で食う気になれなくてね。」
「へー!じゃあ丁度良かった。」
ヴァルターは面食らってゲルトを見るが、ゲルトは相変わらずニコニコしている。
「ゲルトー。あんたちっとは口を慎みな。相手は“村長サマ”だよ。」
などと茶化しながらレジーナがやってきた。
「だけど村長だって村長であると同時に“村人A”だよ?村の仲間さ。ねー、村長。」
何気ない言葉にヴァルターは黙り込んだ。ノリですぐに反応が返ってくると思っていたゲルトは一瞬戸惑い、レジーナはそれみた事かとゲルトを見る。そんな二人の様子に漸く気付いたヴァルターは慌てて笑った。
「すまない。ちょっと考え事をしていたんだ…。」
嬉しいの一言も素直に言えないとは、自分も年を取ったものだとヴァルターは思っていた。

夕方、早めに仕事を切り上げて教会へ行くと昨日ヤコブらが集まっていた場所にトーマスとジムゾンが居た。何かの木箱を中心に椅子が三脚置かれ、その一つに勧められるまま腰掛ける。トーマスとヴァルターが腰掛けると、ジムゾンはお茶を入れてくると言って鼻歌を歌いながら出て行った。
「それで。その人狼とかいうのを見たとでも言うのか。」
両膝の上に肘を置いてヴァルターは単刀直入に尋ねた。
「ああ。たしかに見た。」
トーマスの答えはあまりに明快だった。“それっぽい影を見た”とか“そういう噂を聞いた”とでも言うのが関の山だろうとタカをくくっていたヴァルターは少しばかり驚いた。
「見たってお前…。どうせ立ち上がった熊か何かの影を見てそう思っただけじゃないのか。」
「いいや。はっきりとこの目で見た。あれはまったく、人のように二本足で立つ狼だった。」
トーマスは意地でも譲らない。
「夢を見たか、映画関係の専門学校生が特殊メイクなり何なりの練習をしてたとか。」
「お前も大概人を信用しないな。夢じゃないし、こんな田舎くんだりまでそういう学生がわざわざ来るわけないだろう。」
「悪いが幾ら親友のお前が言う事でもこの目で見ない限りは信用しないたちでね。」
ヴァルターは上体を起こして半ばふんぞり返るような格好で脚を組んだ。昼間ゲルトとのやり取りで解消されたかに思えたモヤモヤとした気持ちがまたも首を擡げていた。しかしトーマスはそういうヴァルターの心境の経緯をまったく知らない。如何に温厚なトーマスとはいえ、ここまでつっけんどんに返されるとあまり良い気持ちはしないだろう。トーマスもまた上体を起こして腕を組んだ。
「先々週の事だ。何時ものように同僚のハンスと一緒に森に入っていたらハンスが忘れ物をしたと言い出した。一人残されてぼんやりしていた時に、その化け物を見た。全身毛むくじゃらで頭は狼そのものだ。俺はただ呆然と見ている事しかできなくて、身動き一つできなかった。そのうちに化け物が俺に気付いて俺を見た。あの冷たい緑色の目を思い出すと今でも寒気がする。」
「それで?」
「もうお終いだと思った時、ハンスが戻ってきた。振り返った一瞬のうちに化け物は消えてしまっていた。」
淡々と語るトーマスをヴァルターは未だ半信半疑と言った様子で訝しげに見つめた。
「…やっぱり信じられん。」
「俺は嘘なんて言ってない。」
段々と空気が硬くなってきた所に木のトレーを手にしたジムゾンが戻ってきた。トレーには熱いコーヒー入りのカップが三つと、チョコレートやシナモンがかけられたシュネーバル(雪玉を模した硬めの揚げ菓子)が幾つか乗せられていた。木箱の上に菓子とコーヒーを置いてジムゾンも椅子に腰掛けた。

ポリポリとシュネーバルを齧る音が礼拝堂に響く。真横から見て丁度二人の間に座ったジムゾンだけが、手と口元をチョコレートで汚しつつ嬉しそうに菓子を頬張っていた。
「大体、どうしてお前を襲わなかったんだ?その人狼は。他の人間が来たから逃げるとは、亡霊を見たとかいうオカルト体験談そのままじゃないか。」
「ふん。さてはおとぎ話を覚えて無いな。人狼は人間が自分と同数以下になって初めて人間を襲うんだ。」
「では夜毎の襲撃はどうなる。村人が圧倒的多数でも喰われるんだぞ?」
「残念ながらあれは夜限定。俺が遭遇したのは真昼間だ。」
「ほう。そもそも人狼は“夜な夜な”姿を変えるのではないのかな?何故白昼に変化している。」
「そういう種類の人狼も居るんだろう。」
「そんな都合のいい話があるか。」
一見すると真っ当な論戦のように見えるものの、内容はまるでサンタクロースが居るの居ないのと争う子どもそのものだった。
「おとぎ話の事は取り敢えず置いておいてですね。写真もあるのですよね、トーマス。」
チョコレート塗れの口元をほころばせてジムゾンがさりげなく助け舟を出した。
「そうだ。写真だ写真。」
ヴァルターとの言い合いでムキになっているうちにトーマスは自分が話したかった話を忘れてしまっていたらしい。トーマスは慌てて懐をごそごそやって一枚の写真を取り出して木箱に置いた。写真はやや霧がかった森の中を写したもので、中央付近にそれらしき姿が見える。写真を覗きこんだヴァルターは更に眉根を寄せた。
「ネス湖の恐竜レベルだ。」
「何処が!こんなにはっきり写ってるじゃないか!」
「第一何故写真があるんだ!お前“身動き一つできなかった”と言ったろう?!」
「撮影したのは俺じゃない!アルビンだ!」

「…アルビン?」
「そう、雑貨商のアルビンだ。」
勢い余って立ち上がった二人は荒くなった息を整える。アルビンは最近村に移り住んだ雑貨商で、元々は行商人だった。ネットの普及が進んだので売り歩くのも面倒になり、ネット注文での宅配がどうしても遅れてしまうこの片田舎に店を出したという次第だ。ちなみに、アルビンにはパメラという美しい妻が居る。
漸く落ち着いた二人は再び椅子に腰を下ろした。
「アルビンがこの村に来る前。ローテンブルクあたりで行商していた時に撮影したそうだ。」
ヴァルターは木箱から写真を取り上げ、穴が開くような勢いで写真を眺め回した。たしかに、大昔映画で観た狼男のようではある。ヴァルターは音楽や絵画、文学に興味こそあれ、映画はあまり観ない性分なので記憶は酷く曖昧だった。
「アルビン自身疑ってかかったらしいからネタ程度に保存していたんだと。“どうせデジカメだから、加工したんだろって言われるのがオチだろうし”とは本人が言っていた。その写真についてはアルビンに話を聞いてくれ。」
溜息混じりのトーマスに写真を返し、ヴァルターは体を椅子にもたせて考え込んだ。トーマス一人の思い込みならまだしも、他の者まで見ていたとなると簡単に一蹴するわけにもいかない。
「しかし…内務省ではそんな事例を一度も聞いた事が無い。」
ヴァルターは内務省の連邦統計局に所属していた。軍や警察にも友人や知人がいる。全ての公務員には守秘義務があるが、公務員同士の横の繋がりで時折噂程度に他機関管轄の話を聞く事ができる。それでも人狼の騒ぎが本当にあって、被害者が出たなどという話は全く聞いた事が無い。
「でも、その独自性を考えると事件があっても一切伝わらない可能性はありますよ。」
指についたチョコレートを綺麗に舐め取り、ハンカチで口元を拭ってからジムゾンは続けた。
「喰い尽くされれば当然、死人に口無しです。仮に村が撃退できたとしても、撃退には処刑というおぞましい方法が用いられます。そして、死した人間が人か否かは霊能者にしか解らない。
もし、村が閉鎖された中で事件が起こって無事閉鎖が解けたとして―生き残った村人が余所者に口外するでしょうか。」
ヴァルターは無言で首を横に振った。人狼が現れてから撃退するまでをバカ正直に語ろうものなら、連続殺人犯とされてしまうのは想像に難くなかった。


その時、何の前触れもなく裏口の扉が勢い良く開いた。
「こんばんはー!何してんの?皆で集まって。」
場にそぐわぬ明るい声の主はゲルトだった。
「ディーターどっか行ってんの?司祭館に居なかったんだけど。」
「今日は町に出かけてるんですよ。そういえばまだ帰ってきませんね。」
ジムゾンが腕時計を確認すると、丁度6時になった所だった。
「ま、いいや。後でまた電話してみる。…ところで今日作業の日だっけ?」
ゲルトは聊か気まずそうにジムゾンを見た。
「いえいえ。今日はお休み。人狼の存在についての議論を交わしてた所なんです。」
「人狼?」
出て行こうとしていたゲルトだったが、ドアを閉めて祭壇傍まで歩み寄ってきた。ジムゾンは再びコーヒーを入れに席をたち、参列者席に腰掛けたゲルトは二人からこれまでの経緯を聞かされた。
「あっはっは!…人狼なんているわけないじゃん!みんな大げさだなあ。」
ゲルトが腹を抱えて笑っている所にジムゾンが戻ってきた。
「写真もあるんですよう。」
むっつりしているトーマスに配慮してか、ジムゾンが小声で言い添えた。
「ん〜。だってこれ、頭と上半身少ししか写ってないし。これだけで人狼とは言え無いよ。ほら、二本足で立つ犬がよくテレビに出てるじゃん。」
ゲルトは手にした写真をぽんと木箱に戻して更に続けた。
「それにさー。幾ら喋れないベースがあるって言っても連続して大量に人が死んでたらさすがに不審だよ。絶対公的機関には情報が行くって。」
「じゃあ、そういう事を何処よりも先に察知して、国民は勿論他機関にも一切漏らさないような対策機関があるとしたらどうでしょう。」
「ぶっ。」
大真面目なジムゾンの言を受けてゲルトは思わず噴出した。
「ハリウッド映画じゃあるまいし、そんな機関あるわけ無いって!」
あまりゲルトが思い切った反論をするのでトーマスも何時の間にか意気をそがれてしまい、終いには苦笑いまで浮かべていた。

次のページ




back