【人狼の宴・第三話】

「ところで素朴な疑問なんだけど。」
ミネラルウォーターのペットボトルを手に、カタリナは暖炉傍のソファに腰掛けた。被害状況の再確認と検証の為にヨアヒムをはじめ殆どの村人は二階へ上がっている。残っているのはヴァルターとレジーナにジムゾン、そしてカタリナの4人だけだった。
「なんで人狼の仕業だって断定できるの?」
「一つは喰われたと思しき痕があった事ですね。」
ジムゾンは書き物の手を止めてかけていた眼鏡を外した。
「ゲルトの遺体を見ましたか?」
全員が無言で頷いた。アルビン達の後を追って二階に上がった時にヴァルターも一応確かめていた。顔も判らないくらい全身無茶苦茶に切り刻まれ、胴体は一部欠損していた。恐らくその欠損部分が喰われてしまったのだろうと思われる。
「それから、通信機能の破壊と道の寸断です。普通そんな事しませんよね。と、ここまでが一般的な殺人と異なる点です。決定的なもの。我々のみが知り得る判断材料は、これです。」
そう言ってジムゾンは一枚のメモをテーブルに置いた。メモにはペンの走り書きで“Lupus in fabula”と記されていた。
「ゲルトの死体の傍に、血で書かれていた文字だな。」
「そうです。覚えていらっしゃいましたか。」
ヴァルターの言葉にジムゾンは少し驚きつつも満足げに頷いた。
「ルプス・イン・ファーブラー。ラテン語で直訳すると“話の中の狼”となり、意訳では“噂をすれば影”という意味になります。彼ら人狼は殺戮を始める前にこうして宣言する慣わしがあるのです。」
「なんだか本当に冗談みたいなご都合っぷりよねえ。」
カタリナはソファに深く身を沈めて半分呆れたように笑った。
「ご都合で生み出されたのですから自然とそうなるんですよ。そういう命令が刷り込まれたウィルスなんでしょうね。」
「ウィルスっていうけど、感染したりするのかい?」
不安気な様子でレジーナが問いかけた。が、ジムゾンは首を横に振る。
「いえ。人狼と人狼。あるいは人狼と人間との間に生まれた子にのみ遺伝していきます。経口感染など、日常生活…勿論性行為でも感染はしません。」
「へー。じゃあ神父さんがディーターと一緒に暮らしてても平気って事ね。」
何気ないカタリナの一言に、コーヒーを飲んでいる最中だったジムゾンは激しく咽こんだ。
「どうしてディーターが人狼だという事になるのですか。」
「突っ込む所はそこだけかね。」
ヴァルターが不審気に切り返すとジムゾンはあからさまに聞こえないふりをした。
「えー…なんとなく。外見からして、そんな感じ?」
問うたジムゾン同様カタリナも明後日の方向を向いてはぐらかした。たしかにディーターは外見的には悪事に手を染めそうな筆頭だ。そう考えてヴァルターははたと先程の事を思い出した。
「ありえるな…。」
「えっ?」
「ディーターがゲルト殺しの犯人かもしれない可能性がだよ。」
三人は思わず動きを止めてヴァルターに注目した。
「あまりの事でつい混乱して忘れてしまっていたが、ペーターが腹痛になったろう。それで部屋に運んだ後、ゲルトが殺されていた部屋から出てくるディーターを見た。」
「嘘…。」
先程自分がその可能性を仄めかしたというのに、カタリナは青くなって両手で口を押さえた。
「それは本当なのですか?」
「ああ。とはいえ、それを証明できる物は何も無いがね。」
そう言った所で階段の方がにわかに騒がしくなった。ヨアヒムの検証が終わり、全員が下りてきたようだ。ヨアヒムとアルビンの二人がかりで何やら白い布に包まれた物が慎重に下ろされている。恐らく、ゲルトの遺体だろう。ヴァルターは立ち上がって手伝いに加わった。

ヨアヒムらと共に暗い教会に遺体を安置して初めて、ゲルトという村の仲間が死んでしまったという事実を認識した。
ほんの僅かの付き合いではあったが、決して悪い人間ではなかった。人懐っこくて朗らかで、何の落ち度も無かったはずだ。それなのに、何故殺されなければならなかったのか…。
発見した当初は頭が混乱していて何も考えられなかった。せいぜい、悪意ある何者かの存在に恐怖するくらいでしかなかった。我が身を守る為に人を殺せるかと問うたものの、自分はゲルトの死を悼む事すらしなかったのだ。無自覚な利己の側面を改めて思い知らされ、ヴァルターはその後の会議では大した発言もできないでいた。
「村長さん。」
少し強めのジムゾンの声に気付いてヴァルターは顔を上げた。見れば、全員の視線がこちらに向けられている。どうやら何度か呼びかけられていたようだ。
「この中で怪しいと思う人物は居ますか?ご意見を出していらっしゃらないのは村長さんだけです。」
ジムゾンは相変わらず微笑んでいるが、声が嫌に冷たく感じられる。そういえば、処刑したい、もしくはカウンセラーに調べて貰いたい人間を挙げろと言われていた。
諜報員と同様に隠れているカウンセラーは居ないかとジムゾンが問い、名乗りを挙げたのはヤコブとアルビンだった。
カウンセラーは唯一人狼か否かを調べられる人間だ。当然、人狼としては早々に葬りたいものだろう。しかしご都合に則るのなら村には人狼の襲撃から誰かを守護できる狩人もまた存在する。カウンセラーが判明すれば狩人も無論鉄壁の守護に入るだろう。そこで、人狼が抗う手段として“騙る”という方法が用いられる。さすがにこれは証明する書物も何もない為、言動から見極める他に無いのだとジムゾンは言った。
どちらを信じるかは今はおいておくとして。さて、誰を調べて貰うべきなのか…。ヴァルターの口からはその人物の名がすんなりと出た。
「ディーターだな。」

「それはまた、どうして?」
問いかけるジムゾンの顔は僅かに曇っている。さっきその理由を説明したというのに。
「先程説明したはずだ。私はこの目で、ゲルトが殺された部屋から出て行くディーターを見たんだ。」
レジーナやカタリナはもう驚かなかったが、聞かされていなかった全員が驚いて息を飲んだ。不審気な視線は一斉にディーターへ向けられ、ディーターはあからさまに動揺していた。
「…本当なのですか?ディーター。」
ジムゾンの問いもまた厳しい。ディーターは暫く黙っていたが、大人しく頷いた。
「ゲ…ゲルトが具合が悪いって言うからよ。様子見に行ってただけだ。」
ジムゾンはディーターを冷たく一瞥した。
「村長さんはディーターに一票ですね。」
そうして何事も無かったかのように役場から持ってきたホワイトボードにディーターの名前を書いた。しかしその後ディーターへの追及は全く無かった。侵入した時に死んでいたのかどうなのか。それすらも聞かずに。
「ジムゾン。まさかディーターが自分の身内だからと贔屓する気では無いだろうな。」
「そんな…私は。」
ジムゾンは冷静に否定するが、ヴァルターは追及をやめない。
「では何故ディーターに追及しない?おかしいだろう、どう考えても。……ならば私から聞くが、ディーター。君がゲルトの部屋に入った時ゲルトはまだ無事だったのか?」
「お、おうよ。」
「姿を見たのか?それともそんな気がしただけ?」
「いや…うん。そんな気がした。」
「見なかったのか?」
「ああ。」
「様子を見に行って姿を見なかった?それはまた妙な話だ。」
「待ってください!二人とも!」
次第に険悪な雰囲気になってきた二人の間に割って入ってきたのはジムゾンだった。今までとは打って変わって、哀願するかのような視線をヴァルターに向けていた。やはり贔屓じゃないか。と、ヴァルターの苛立ちは更につのった。だが、ジムゾンの唇から漏れたのは信じがたい言葉だった。
「ディーターは…私の仲間なんです。」

一変して。ディーターはふんぞり返ってヴァルターに向き直った。
「俺をスケープゴートに仕立てるつもりだったのか知らねえが。残念だったな。」
尊大なディーターの態度が歯がゆくて仕方が無かったが、もはや言い返す事もできない。しかし次の瞬間ジムゾンの右手が拳を作ってディーターの頭の天辺に振り下ろされた。
「だっ…!!」
「あなたもあなたです!どうしてそういう重大な事を言わなかったんですか!殺人が行われたと思しき時刻に被害者の部屋から出てきたなんて姿を見れば誰だって疑います!」
涙目になって頭をさするディーターをさておき、ジムゾンは申し訳無さそうにヴァルターを見た。
「そういう事だったのです。彼がグレーの人間であれば私も追及したのですが…。取り敢えず後で詳しく聞こうと思っていました。強い疑惑が向けられればただの雑音にしかならない…。こんなに早く仲間を知らせる事になるなんて。」
「ったく紛らわしい…。言ってくれて腑が良かった。」
同じくディーターを挙げていたアルビンが大きなため息をついた。
「じゃあ。その後の犯行って事なのね。」
「看病に行ったパメラが叫び声をあげるまで…さて、どれくらいだったか。」
カタリナが何気なく言い、ヴァルターは腕組みして考え込んだ。ディーターにいいたい事は一杯あるが、今はジムゾンとアルビンが言及したので良しとする事にした。それよりも考えるべきは事件の事だ。
「そういえばペーターの姿を見とらんのう。」
「ペーターは腹痛で寝込んでたんだよ。」
モーリッツの疑問にはヤコブが即答した。
「ヨアヒムの姿を見なかったな。」
ヴァルターはヨアヒムが探しても見付からなかった事を思い出した。
「私は…ゲルトの容態を診た後軽く診察道具の洗浄をしていたんです。」
ヨアヒムは特別驚く様子も無かった。
「証明するものは?」
「なにも。私一人です。」
「それを仰るなら村長さんもアリバイを証明できないのではなくて?」
鋭い言葉を投げかけてきたのはパメラだった。
「君もそうだろう。」
「いいえ。私がゲルトさんの看病に向かってから発見して、夫達が来るまでものの5分もありませんの。証明する人はありませんけれど、物理的に不可能でしょう。」
パメラは優雅な所作で長い髪の毛をかきあげ、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。そういえばヴァルターは何かかにか感けていて、10分程度は居たような気がする。それでも、不可能といえば不可能なのだが…。
「そうだ。俺は村長の姿を見てねえぞ。」
横合いからディーターが意地悪い援護を添えた。
「だけどヴァルターもムリだよ。居たってもたかだか10分くらいで、あんな事できるもんかい。」
ヴァルターに言い添えてくれたのはレジーナだった。
「そうなると不明なのはヨアヒムとペーターの二人、か…。」
ゲルトの遺体を目にして以来、生気が抜けたようになっていたオットーがぼそりと呟いた。その後議論の焦点は二人に絞られた。

「ヨアヒムだったらありえそうだな。医者だし。どうやったら音も立てずに殺せるかとか知ってそうだ。」
「でも人狼はそういう技能を、むしろ日頃目立たないように隠してるんじゃない?」
「じゃあ具合が悪かったペーターができたって言うのか。」
アルビンとカタリナが言い合うのを聞きながら、ヴァルターは部屋に運んだ際のペーターの様子を思い出していた。あの酷い様子が演技だとはとても信じられなかった。
「そういえば…あいつ出てこないな。」
ヤコブはふっと思い出したように階段を見上げた。誰かが下りてくる気配は無い。
「だいぶ悪そうだったから寝込んでるんじゃないか。」
そうは言ったものの、ヴァルターもペーターから何の反応も無い事が不思議だった。ゲルトが殺されたのは同じ階の、そう離れていない部屋だ。幾ら寝入っていたかもしれなくても、あの悲鳴でさすがに目を覚ますだろう。また、一階では何の音もしなかったが、もしかしたらゲルト殺害時の物音を何か聞いているかもしれない。そういう観点からもペーターの証言は得たい。
「ちょっと見てくるか…。」
「待って下さい。」
腰を上げたヴァルターにならい、ジムゾンもまた立ち上がった。
「私も一緒に行きます。」
「信用ならんという事かね?」
「それもそうですが。」
皮肉を含んだ問いをジムゾンは臆面も無く肯定した。
「もしペーターが人狼で、村長さんがただの人間だった場合一対一になるのは危険です。逆も然りですし、もしペーターが殺害されて村長さんが無実だった場合に私という証人が居なければ無実も主張できませんよ。」

二階はしんと静まり返っていた。階段を上る間背後から聞こえていた話し声も次第に薄れ、二階では何も聞こえなかった。窓を開放してなお異臭の残る廊下を通って突き当たりのペーターの部屋に辿り着いた。
「ペーター。入りますよ。」
一度ドアをノックして返事も待たずにジムゾンはノブを回した。部屋には薄明かりが灯っており、目の前にはペーターが立っていた。
「起きてたんですか。」
「うん。今から出ようと思ってた所。…何かあったの?すごい声で叫んでたけど。」
「気付いていたのかね。」
ヴァルターの問いを受けてペーターは苦笑した。
「気付くよ。すごい声だったもん。でもあの時まだ身動きできなかったんだ。動けるようになったのはたった今だよ。」
「何か気付いた事はありませんか?ゲルトの部屋に入った人とか、聞こえた音とか。」
「うーん…。ディーターが出て行ったすぐ後くらいにドアの開く音はしたよ。後は覚えてない。」
「そうですか。それは残念です。」
ジムゾンはふっと微笑み、三人は階段を下りた。そして一階に辿り着くやいなやジムゾンが宣告した。
「今日の処刑はペーターです。」

再び一階がワッと騒がしくなった。声はどれもがジムゾンへの非難だった。わけも判らない様子のペーターはトーマスから経緯を聞かされていたが、次第に顔は青ざめて言葉は殆ど右耳から左耳に突き抜けているような状態だった。
「一体何を根拠に!アリバイが無いと言えばヨアヒムもで、得票数も同じくらいじゃないか!」
「そうよ、ペーターずっと寝てたんだよね?ね?!」
アルビンは声高に異を唱え、リーザは半泣きになってペーターに問いただす。そんな騒ぎどこふく風、と言った様子でジムゾンは机の上に何かを置いた。わざと大きく音を立てて置かれたそれは、細長い形状のICレコーダーだった。レコーダーの存在に気付き全員が注目する中、ジムゾンは無言でスイッチを押す。再生されたのは、たった今しがたペーターの部屋に行った時の会話だった。ペーターの最後の言葉で再生を停止してジムゾンがペーターに向き直った。
「“身動きできなかった”のによくディーターがゲルトの部屋に行った事がわかりましたね。」
「あ…。」
ヴァルターは思わず声を漏らした。ディーターを目撃したのは自分だけだったはずだ。ここで先程話はしたが、ペーターは“たった今”動けるようになったとも言っていた。こっそり部屋を抜け出して一階のやり取りを盗み聞きしていたというのもおかしな話で、一階の目に付く所まで下りなければ一階の声は聞こえまい。
「仮病を使って二階へ行き、村長さんとディーターが居なくなったのを見計らってゲルトを殺害したのではありませんか?」
ペーターは皆の視線を浴びて、ただきょとんとしていた。ペーターを見ている側のヴァルターも同様に呆然としていた。心臓の鼓動が外に聞こえてしまいそうな沈黙が苦しかった。

「……ふふっ。」
沈黙を破る小さな笑い声を発したのはペーターだった。
「ペーター…。」
「そうさ。ゲルトを殺したよ。」
愕然としている兄のヤコブを尻目に、ペーターは笑顔さえ浮かべていた。
「僕は別に食べたくなかったんだけど。ヨアヒムがどうしても食べたいって言うし。」
「な、なんだって?!」
仲間呼ばわりされてヨアヒムが叫ぶ。が、すぐにジムゾンから制止された。
「モーリッツもそれでいいとか言うし。だからしょーがなかったんだよね。」
ペーターに視線を向けられてもモーリッツは沈黙を守っていた。
「おやおや。これはご丁寧に。」
ジムゾンは大仰に言って笑みを浮かべた。
「僕だけいいように使われるのは癪だからさ。」
ペーターはさも当然と言わんばかりに言い放つ。
「で、処刑って何?古典的な首吊りは汚いから嫌だな。」
「綺麗な処刑なんて聞いた事ありませんが。ご安心を。」
ジムゾンが懐から取り出したのは銀色のケースだった。一見するとシガレットケースか何かのようにも見えたが、フタが開けられると中には青いカプセルが並んでいた。
「カプセルとはまた時間がかかる物を選ぶなあ。」
「青酸カリとか微量でも害のある物だと、もしうっかり素手で触ったりしたら危ないからじゃない?」
隅の方でオットーとカタリナがひそひそと話す。まだ実感が湧かないのか、まるで他人事のようだ。
「では…ヨアヒム、それからトーマス。立会いをお願いします。」
ジムゾンはペーターの肩に手を置いて二人に呼びかけた。ヨアヒムもトーマスもやや表情を強張らせながら黙って従った。
「やだ…!やだよ!どうしてペーターなの?!なんで?!」
叫んだのはリーザだった。ペーターを連れたトーマスらは動きを止め、ペーターもまた立ち止まって少しだけ振り向いている。
「およしリーザ。もう決まったんだよ。」
駆け寄ろうとするリーザをレジーナが制する。それでも当然リーザは止めようとしない。
「なんで皆平気な顔してるの?ペーターが殺されてもいいって言うの?!」
「ペーターは人狼なんだ!放っておいたら、あんたが食べられちゃうんだよ!」
複雑な表情でレジーナがそう言うとリーザは顔をくしゃくしゃにして、それでも腕の中で抵抗を続ける。全員が気の毒そうな表情で視線だけをリーザに向けていた。
「いいもん!あたしそれでもいい!」
泣き叫んだリーザに向かってレジーナが口を開いたその刹那、ペーターが振り返ってリーザを見た。
「ゲルトの死体を見たよね?」
無惨な遺体を思い出してリーザは体を硬直させた。
「僕らにとっちゃ、“兄弟”以外はみんなただのエサなのさ。牛とか豚とか、そんな感じ。君だって食べちゃえばあくる日には汚物になって出ちゃうんだよね。それでお終いハイさようなら、なんだけど。それでもいいんだ?」
アハハ、アハハ、と場にそぐわない笑い声が響いた。ペーターは目じりに涙まで浮かべて心底おかしそうに、腹を抱えて笑っていた。
やがてトーマスがペーターを促して四人は宿の外に消えた。残された者はただ呆然と彼らが消えた扉を見つめ、リーザもまた口を半開きにしたまま黙って宙を見つめていた。


「せめて調べさせてくれりゃ良かったのに。」
帰りを待つ間にアルビンが不満げにぼやいた。
「もう何がなんだか…。」
レジーナはふうっとため息をついて椅子に腰を下ろした。あれだけ騒いでいたリーザは、ソファで拗ねたように膝を抱えている。
「あんたもお疲れだね、ヴァルター。」
ヴァルターはうーんと明後日の方向を向いて唸り、顔を正面に戻すと肩を落とした。
「疲れたというか何というか…。もうわけが解らん。」
「もう何にも考えたくないってとこだよ。」
「同じく。」
同意の言葉と共にヴァルターも深いため息をついた。豹変したペーターを見ていた時、まるで何か別の生き物を見ているような気分になった。リーザが急に黙ってしまったのも解る気がする。
人間とは違う生き物だから殺してもいい。というわけではないが、これは危険だと直感した。
「こういう感情が所謂中世の“魔女狩り”を正当化させたのかな…。」
と、誰に言うでもなく独り言を言ってヴァルターは頭を抱える。言葉の上で、資料として。感情で村八分の人間を生んでそれを処刑するのは愚かしい事だと幾らでも言える。特に、攻撃性を封じ込める事をよしとする現代の観点では。人殺しは悪い事、と。学校に行き出さないような子どもでも、言うだけなら簡単なのだ。けれど実際にそう言った場面に直面した時、自然と排除すべきだと思っていた。
情けない、とヴァルターは思った。この感情がというわけではない。今までこの感情を“愚かしい”と断じる節もあったような自分の傲慢さをだ。
自分だけはそんな事はしない。そういう思いが、他人や過去を断罪してきた。それをまざまざと思い知らされた時、何ともいえない情けない気持ちになるのだった。


+++


一睡も出来ないまま夜が明けた。ジムゾン達はあのあとかなり経ってから戻ってきた。当然、ペーターの姿は無かった。三人ともどこか空ろな表情で疲れ切っており、ペーターがどうなったのか聞く事も憚られた。その後は誰が何を言うでもなく各自黙って自室へ戻り、ヴァルターはオットーやモーリッツと共に一階で過ごしたのだった。
「全員で行動していれば人狼とやらも襲う機会が無いだろうにな。」
用足しや風呂まで一緒に行動できるわけがない。自分の問いかけに頭の中で返答し、ヴァルターはため息混じりに首を振った。オットーもモーリッツも向かいのソファで寝息をたてており、ヴァルターの独り言に答える者は居なかった。何を見るでも無く窓の外に視線を送ってみても外はまだ暗い闇に包まれている。時計は6時を回っていたが一向に夜が明ける気配は無い。この時期の日の出は遅い。
モーリッツもオットーも普段ならもう起きる時間なのだろうが、熟睡していて起き出す様子も無い。あれだけの事が一気に起こったのだ。恐らく他の者も同様に疲れ果てていることだろう。ヴァルターもできる事なら眠りたかったが、どういうわけか目だけがさえてしまっていた。
体に悪いと思いつつ、今夜三杯目のコーヒーを入れようと立ち上がった。
「おや、早いねえヴァルター。」
刹那、厨房奥の扉が開いてレジーナが出てきた。カウンターごしにヴァルターと鉢合わせになったレジーナは一瞬目を丸くしたが、すぐに意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ははん、さては眠ってないね。」
「目が異様にさえてね。頭はぼーっとするんだが。」
「コーヒーの飲みすぎなんじゃないかい?」
「カフェインは効かない体なんだ。何杯飲んでもすぐ眠たくなる。…普段なら。」
ヴァルターはぼんやりしたままとうに煮詰まってしまったコーヒーをカップに注いだ。
「今日は何も無いみたいだよ。」
「うん。」
コーヒーを啜りつつ思わずレジーナと同じように階段を見やる。誰かが下りてくる気配も無いし、何かが起こった様子も無い。
「おとぎ話と同じように進むのなら、一夜のうちに二度は無いだろう。」
再びカップを口に運んだ瞬間、二階の方から鈍い音が聞こえた。


次のページ




back