【人狼の宴・第五話】

「ヴァルター。…起きて下さい、ヴァルター。」
聞きなれた声がして体がぐらぐらと左右に揺れる。ヴァルターが目を開けると目の前にジムゾンの顔があった。上体を起こして首をめぐらせる。視界に入るのはおぼろげに記憶しているジムゾンの客室の風景だった。時計の針は9時をさしている。時間が巻き戻ったとは考えられない。あれからずっとここで眠ってしまっていたらしい。
寝台から降りようとするが、気だるい感覚がしつこく残って体が異様に重かった。
「徹夜をすると体に毒です。」
窘めるように言ってジムゾンは苦笑した。言われてみれば、一昨日は寝ていないのだ。体が重いのも、まだその分が取り戻せていないからなのだろうか(貯め寝をしても意味が無いとは解っているが)。
「すまないな…。君のベッドを奪ってしまって。」
「いいんですよ。寧ろそうして下さって助かりました。」
「え?」
「覚えていないのですね。ベッドに倒れこんで眠ってしまったんですよ。でも丁度良かったんです。もし床で眠られでもしたら、私の力ではどうにもできませんから。」
飲みかけのコーヒーをテーブルに置いた所までしか記憶が無い。ヴァルターは恥ずかしそうに苦笑いしつつ、寝台から降りて大きく伸びをした。
「今日は何事も無い事を祈るよ…。」
何時もとは違う状況下に置かれている事を思い出し、ヴァルターはふっと俯いた。ジムゾンと自分が無事なのは良かったが、恐らくは今日もまた誰かが殺されているのだろう。一人か。それとも二人か。もしかしたら、二人以外は皆人狼だったりするのかもしれない。
「残念ながら、襲撃は行われましたよ。」
部屋を出ようとしたヴァルターの耳にジムゾンの無機質な声が届く。手を止めてジムゾンを見ると、ジムゾンは無感動な表情でこちらを見つめていた。
「ディーターが死にました。」

「何時まで経っても降りてこないからさ…部屋見に行ったんだよ。そしたらもぬけのカラで。」
「工房に帰ろうと思って歩いてたら…道の真ん中にこう、無造作にあってさ…。なあ、ニコラス。」
朝の議場でレジーナとオットーの二人が次々に証言した。オットーに同意を求められたニコラスは黙って頷いた。
二人は最初それが何であるかは解らなかったらしい。ただ、肉色をした何かが転がっていると。人形か何かだろうかと近寄ってみたところ、それが誰かの腕である事が解ったという。
オットーが腰を抜かして動けなくなっている所にジムゾンが来て、それがディーターの右腕である事が判明したのだった。
「随分とはらぺこの狼だったようで。」
ジムゾンは冷たい瞳で何やら纏め上げた資料に目を通している。結局その他の体は見つからず、少し離れた茂みの中におびただしい血液が散っていたという。残された右腕だけを埋葬しただけだったので、作業にもさして時間はかからなかっただろう。
「また随分とハデに喰ったもんだな。」
半ば呆れた顔でトーマスが呟いた。
「それだけ憎んでたって事じゃないの。」
オットーがさりげなく返し、全員の目がそれとなくヴァルターに集まってきた。この中でディーターとの確執があったのはヴァルターだけだ。しかもディーターは昨日、自分が明日纏めるなら処刑してやるとまで言っていた。動機は十分にある。
「しかしヴァルターが犯人だとしたらまた随分と間の抜けた殺しをするもんじゃて。」
やんわりと痛い視線を牽制したのはモーリッツだった。それもそうだと言わぬばかりに議場は再び沈黙した。

しかしこの日、村に齎されたのは訃報だけではなかった。
「パメラは人狼だった。」
朝日が差し込む中、ヤコブはきっぱりと断言した。静かだった議場が再びざわめき、誰もが一斉にパメラを見た。
「だから何度申し上げれば解ってくださるのかしら!あの回答は単純なミスですのよ?それをまるで鬼の首でも取ったかのように、人狼だ、人狼だって…。愚かしくて開いた口が塞がりませんわね!偽者様!」
パメラは今にも噛み付きそうな勢いで言い放つ。だがとうのヤコブは表情を全く崩さない。
「私の夫まで殺しておいて…。なんとか仰ったらいかが?」
「その口調はもう止めていいんじゃないかな。」
漸く開いたヤコブの口から出たのは挑戦的な一言だった。
「な…んですって?」
「どうせなら腹を割って話そうよ。その方が君も全力を出せるだろう?解ってるんだよ、本当は君はそんな喋り方をする人じゃないって。」
ヤコブが懐を探ると、それを制するようにパメラが片手をあげて見せた。恐らくはICレコーダーでも出そうとしていたのだろう。パメラとのカウンセリングの様子を記録した。
今度はパメラが懐を探って煙草とライターを取り出した。普段のパメラには縁遠い代物だ。皆が唖然として見つめる中、パメラは悠然と慣れた手つきで火をつけた。
「そうね。その方が無実だって解って貰えるかもしれない。じゃあ白状するけど。あたし役者なのよ。本名はパメラ・クレッチマン。…アルビンはあたしのマネージャーだったの。」

再び議場はざわついた。お前知ってるか?いや知らない。そんな声がちらほら聞かれる。当然ヴァルターも村での姿以外のパメラを知らなかった。
「ああ。やっぱりご本人でしたか。」
たった一人。ホッとしたように、それでいてどこか目を輝かせて言ったのはニコラスだった。
「苗字も違いましたし、他人の空似だったら困ると思ってお尋ねしなかったんですよ。」
「…聞いた事あるかも。」
相変わらず暗く沈んだ顔のままだったが、リーザもぽつりと呟いた。
「え。何、ニコラス知ってるの。」
意外そうな表情を浮かべてオットーはニコラスを見上げた。
「新進気鋭の女優さんなんです。と言っても、長らく舞台で修行を積まれてたんですが。近頃は映画に引っ張りだこなんです。」
「よく知ってるね。…っていうか意外とミーハーなんだ。」
「いえいえ。常にアンテナを張り巡らせて情報を仕入れる事も司書の勤めですから。私にしてみれば、ご存じない方が多い方が意外です。」
「映画館って遠いしねえ。レンタル屋も隣町にしか無くて面倒だし。」
「で、なんでその女優さんがこんな田舎くんだりで名前を詐称してたんだい?」
女優という職業もあって皆がざわめく中、レジーナは冷静にパメラへ問うた。
「今度やるのの役作りよ。田舎の商人に嫁いだ没落貴族の役。時代は現代じゃないんだけど。アルビンがマネージャーやめて田舎で商売始めるって聞いたから丁度いいと思って。」
パメラは長く紫煙を吐き出しつつ答え、ヤコブに向き直った。
「大体ね、やれパズルを解けだの好きな色は何かだのの質問だけで人狼かどうかなんてわかりっこないわよ。正直呆れたわ。」
「太古からの占いに根ざしてるんだ。科学的な根拠なんて無いさ。」
「開き直るわね。そんなの何の説明にもなってないじゃない。」
「たしかに説明なんてできないよ。だけど人狼だという結果がでているんだから、そうとしか言いようが無い。」
至って真剣な様子のヤコブを見てパメラはふんと鼻で笑った。
「怪しいもんだわ。それじゃあ、あんたの主観で全て決めてるって言われても反論できないわよ。」
「そうだね。だけど精神鑑定はどうだろう。僕はお医者じゃないし、お医者のヨアヒムが居る前でこんな事言うと文句言われそうだけど…。科学的根拠があるって言っても、過去の沢山のデータを元に作られた“基準”があって、それに照らし合わせて異常かどうか決めるよね。
だとしたら、そういう事に精通してる人間だったら異常者を詐称する事も、正常なように見せかける事も簡単なんじゃないかな。」
ヨアヒムも含めて全員がうーんと唸る。
「それはまあ置いておくとして、絶対に揺ぎ無い事実はカタリナが処刑された事、パメラが占われた事。そして、ディーターが殺されたという事です。」
ジムゾンの一言に皆はたと我に返った。ジムゾンはだらしなくソファにかけたまま脚を組み、ぼうっと宙を見つめていた。シャーロックホームズよろしく膝の上で突き合わされた神経質な指先は緩慢に伸縮を繰り返している。

「私ではなくディーターを狙った…。その意味する所は何なんでしょうね?」
ジムゾンは顔を上げて全員に問いかけた。
「そりゃあ。人狼に有利になる何かがあったんじゃないかな。単純だとは思うけど、真っ先に思ったのは村長さんが吊られない為かなあって。」
ヴァルターを見ないようにしながらオットーが言う。
「だけどそれは単純ですよね。」
「単純は単純だけど、ありえないわけじゃないよね?」
と、言ったのはヤコブだった。
「そうですね。しかしヴァルターは昨日ずっと私と一緒に居たんです。アリバイがある。」
立ち上がりつつ何気なく言ったジムゾンの言葉に皆が驚いた。
「あら。村長さんのアリバイがあったって仲間が殺せば簡単じゃない。」
パメラがジムゾンに向き直って突っ込んだ。
「というと?」
「つまりこういう事よ。ディーターを生かしておいたら自分の身が危うい。だからといって手を下すと真っ先に疑念が行く。というわけでわざと昨日はジムゾンと一緒に居てアリバイを作る。そしてもう一人の仲間がディーターを殺害する…。利用されたのよ、あなた。」
アリバイがあるという事で消えかけていたヴァルターへの疑惑が再燃した。皆がざわつく中でジムゾンは少し何か考えている素振りで何時もの上座へ戻った。ヨアヒムだけが何か言いたげにその姿を目で追っていた。
「では今度はパメラが人狼でヤコブが真だという仮定で考えてみましょう。何故今日ヤコブを襲撃しなかったのか。何故アルビンを先に襲撃したのか。」
「昨日は意図的な狂人襲撃だと解釈していましたが…案外、人狼がアルビンを真と思っていたのかもしれませんね。」
「それか、狂人だって解ってたけど“アルビンと同じ部屋なのに襲撃されない=人狼なんて安直だ”と、ハナから人狼の可能性を否定される事を狙っていたかもしれないね。」
ニコラスとレジーナが真っ先に答え、他の者も大体それに同意した。
「ニコラスの言うとおりなら間抜けだし。レジーナの言うとおりだったら“策に溺れた”って風だね。」
ヤコブが苦笑いし、ジムゾンもそれにつられてか少しだけ笑った。
「さて、それでは皆さん、どちらの可能性が取りやすいのか。また、誰を処刑し、誰を占うべきか。夜の評決まで決めておいてくださいね。」

自分は無実だという絶対の前提がある以上、ヴァルターにとって怪しく思えるのはパメラだった。先程のニコラスやレジーナの言う仮定の話も筋は通っているように思える。だがパメラが怪しいとなると、こそこそと話をしていた―少なくともパメラの正体は知っている風だった―トーマスが必然的に怪しくなってしまう。
あれほど具合が悪そうだったペーターの一連の行動が全て演技だった。人狼は本当に狡猾というか、本音を隠す事に長けているのだと身をもって知っている。それでもトーマスが人狼だ、などとはとても想像できないでいた。
ニコラスはトーマスが人狼である可能性も示唆していた。パメラにまだ仲間が居るとするのなら、ヴァルターにとっては一番しっくりくる相手でもある。
とにかくあの密談の真相だけでも聞きたくてトーマスを探し回ったが、森の中にでも入ってしまったのか全く見当たらなかった。こんなことなら解散した時に引き止めておけば良かったと後悔しながら何時の間にか教会に辿り着いていた。
「うん?」
教会裏にある墓地から駆けてくる人影が見えた。リーザだ。すぐ近くまで来て漸くヴァルターの存在に気付き、ビクッとして立ち止まった。顔は青ざめ目はヴァルターを凝視している。
「どうかしたのかな?」
ヴァルターが問いかけるとリーザは唇を引き結んで俯いた。何か悩んでいたようだったが、暫くすると顔を上げて口を開いた。
「あのね。アルビンさんの死体が無いの。」


リーザの言ったとおり。アルビンが埋葬されているはずの墓が掘り起こされ、蓋の開いた棺の中には何も入っていなかった。
「ペーターのお墓に花をお供えしようと思ってきたの。…そしたら。」
触る事は控えて眺め回してみたが、土くれが幾つか入っているだけで取り立てて異常な点は無かった。
「死体をここから引きずって持ち出したという風でもないな。」
「どうして判るの?」
「地面に跡形が無い。」
掘り起こされた墓の回りには足跡が幾つかあるばかりで、何かを引きずったような跡は無かった。
「恐らく、抱えあげて運び出したのだろう。何の為にこんな事をしたのかは解らんが…。こんな事を普通の人間がするはずもない。となると人狼だ。一人で抱えるとなると難があるから二人がかりなのだろうな。すると残り人狼の人数は二人…。」
そこまで言ってヴァルターはハッと目を見開いた。
「不自然だな。」
独り言のように呟いたのを聞いて、リーザが何か聞きたげにヴァルターを見上げた。
「パメラは今朝残りの人狼の人数が二人だと断定していた。私を疑っているのならそういう結論に行き着きやすいのかもしれないが。」
考え込んでいるヴァルターを見ながらリーザもつられて難しい顔で首をかしげる。
「言われてみればそう思えるけど…。パメラさんって、元々一直線な感じよ。」
二人は暫く悩んでいたが結論には行き着かなかった。掘り起こされてしまった様子を一応携帯に収め、やがてどちらともなく宿に向かって歩き始めた。

宿に戻り、アルビンの墓が暴かれていた事を告げた。知っていると名乗り出る者は誰も居なかった。しかしただ一人、オットーだけが何故かあからさまに動揺しているのは解った。
「急にお腹が空いて、ストックから食べたって事じゃないかなあ。」
そういうオットーの表情には明らかに焦りが見え、反面平然と“ストック”などと言い換えるあたりの緊張感の無さも相変わらずだ。これは人間としての素なのか。それとも人狼ゆえなのか。オットーに投げかける視線は自然と厳しくなる。他の者もまた同じだった。
投票ではパメラとヴァルターが同数になった。今まではチラホラと纏まらない票が見受けられたが、今日に限っては真っ二つに割れる形となった。皆が固唾を呑んで見守る中、ジムゾンが決定を発表した。
「今日の処刑はパメラです。」

言い合いには発展しなかった。わいわい騒いでいる間は幼稚園の先生よろしくジムゾンが口をきかない事を皆知っているからだ。ジムゾンはちらりと辺りを見回してからパメラを見た。
「パメラは人狼の総数が三人だと知っているかのようでしたね。」
「村長さんが人狼だと思うから仲間が居るって考えるのは当然じゃない。」
パメラは動じる素振りも見せない。ジムゾンは片手を机について訝しげに眉根を寄せた。
「誰かを疑うあまり一直線になってしまう事は往々にしてある事ですが、それにしても不自然ですよね。」
「ふうん。でもカタリナもそうだったんじゃない?」
それを聞いてジムゾンは目を聊かわざとらしく見開いた。
「カタリナが無実だと知っているかのようなお言葉ですね?」
パメラは一瞬ギクリとした表情を浮かべた。が、すぐさま反論をはじめる。
「そう思っているから言ったのよ。」
「にしては昨日ははなからカタリナを人狼と決め付けていたと聞きましたが?」
パメラが答えに窮している間にジムゾンは更に畳み掛けるように追い詰める。
「人狼と決め付けていた人を何の論拠も無く白視し、こじつけのようにヴァルターに疑念を向ける不自然さ。それに」
言葉を切って視線を向けた先にはレジーナが居た。
「昨日運んできて下さったコーヒーの中に、睡眠導入剤が入っていたのです。ヨアヒムに調べて貰った結果パメラに処方している物と同じである事が判明しました。
レジーナ。コーヒーを作っている間機械から離れるような事は?」
「昨日はスイッチを押した所でオットーに呼ばれて、戻った時にはできてたね。」

「薬は私を眠らせる為だったんでしょう。ところがそれをヴァルターが飲み、不審に思った私は結局口をつけずに一晩中起きていました。それで襲撃できなかった。というわけで守護が手薄だと思われるディーターを狙ったのではないでしょうか?」
「なんで普通に持ってるヨアヒムは疑わないのよ!」
「ヨアヒムは人狼ではありませんから。」
さらりと言ってのけたジムゾンの言葉にパメラは何も言い返せない。が、他の皆はざわついてヨアヒムを見ていた。
「ヨアヒムさんは片白ですよね。」
複雑な苦笑を浮かべながらニコラスが問いかけ、漸く気付いたパメラは目を見開いた。パメラはヨアヒムが無実である事を否定しなかった。その事実が意味する事は一つしかない。
「さすがに演技はお見事でした。」
ジムゾンは場に不相応な笑みを浮かべた。パメラは反論の一つもせずにただ観念したように俯くばかりだった。
「ではレジーナ。ヨアヒム。立会いをお願いします。」
何時ものようにジムゾンが言い、会議は終わった。


ぼつぼつと客室へ戻っていく者も出始めた頃にレジーナとヨアヒムが戻ってきた。ジムゾンの姿は見当たらない。
「ジムゾンは?」
「今日は教会で寝るって言ってさ。」
すれ違いざまのレジーナの返事に、ヴァルターはどことない違和感のようなものを覚えた。それでなくても夜一人になるのは危ない状況だと言うのに。今朝は功を急いで単独行動をしていた。しかし今、何も起こっていない教会で一人残るとはどういう事か。焦燥感にかられつつヴァルターは漸く思い出した。今朝、ディーターが死んだという事を。
「置いてきたのか?馬鹿な!」
レジーナの両肩を掴んでヴァルターが叫ぶ。レジーナも、端で聞いていたヨアヒムもぽかんとしてヴァルターを見るばかりだった。誰かが喋り出すのも待たずにヴァルターは宿屋を飛び出した。
「ちょ……ヴァルター?!」
呼び止めるレジーナの大声が後ろから聞こえた。それでもヴァルターは教会に向かって走り続ける。頭を支配するのは、ジムゾンがディーターの後を追うつもりではないかという恐ろしい憶測ばかりだった。ジムゾンは聖職者であり、自殺は大罪だ。能動的な方法はまず考えられないが、受動的な方法――人狼にわざと無防備な姿を晒して喰われる――という事は充分に考えられた。
明かりも何も持ってこなかったが月明かりのお陰で迷う事無く教会に辿り着いた。相変わらずブルーシートがかかったままの礼拝堂から仄かな光が漏れている。

「ジムゾン!」
祭壇横の扉を開けると目の前にジムゾンが居た。目をまん丸に見開いてこちらを凝視している。
「ど…どうしたんですか。ヴァルター。」
驚きつつも、ジムゾンはぜえぜえ息を切らせているヴァルターを心配そうに見つめた。
「一人になると危ないとは、今朝方言った筈だがね。」
漸く息を整えてヴァルターは屈めていた腰をぐっと伸ばす。開けっ放しにしていた扉を後手に閉めてジムゾンの目の前まで歩み寄った。
「安易な選択をして欲しくは無いよ。」
「選択?」
ジムゾンは怪訝そうにヴァルターを見上げる。
「村には君が必要だ。」
真剣な表情で言われてジムゾンは暫くきょとんとしていたが、やがてたまらず噴出してしまった。
「ああ。そういう…。」
「笑い事じゃない。」
「ご心配無く。そういうつもりは本当に無いんですよ。それに。そんな。私はどれだけ教えに背けば良いのですか?」
ジムゾンはやや上目にヴァルターを見ながらおかしそうに笑った。何時もなら自分が説教をする側なのに逆に説き伏せられているのがおかしくてたまらない、といった風だ。
「それなら早く宿へ戻ろう。君にそのつもりが無くても、人狼には格好の標的だ。」
「用があるんです。」
「済むまで待つよ。」
「それに人様の家のベッドはどうも落ち着きませんし。」
「ならば私もここに泊まる。」
「…解りました解りました。帰りますよ。」
とうとう根負けしたジムゾンは溜息混じりに肩を竦めた。

少しだけ待ってと言ってジムゾンは奥に姿を消し、ヴァルターは教会の外で待つ事にした。耳を澄ませてみるが、聞こえるのは木々のざわめきと時折のフクロウの声だけだ。殆ど音も立てずに人を殺めてきた人狼のこと。どれだけ警戒しても無意味な気すらしたが、そうしていないと不安に押しつぶされそうだった。こうして待っている間も時間が異様に長く感じられてしまう。
「むしろあなたの方が犯罪者に見えます。」
突如背後から声が聞こえ、驚いて振り返るとジムゾンが悪戯っぽい笑みをたたえてこちらを見ていた。どうやらこっそり裏口から出てきたようだ。
「そんなおっかない顔をして。」
「人が悪いな。」
ヴァルターは苦笑いしてジムゾンに帰ろうと促す。と、ジムゾンが後生大事に抱えている黄色い箱に気が付いた。
「…ジムゾン。まさかそれ目当てで教会に?」
「いけませんか?」
「チョコレートなら宿屋にもあるだろう!」
「フェオドラのチョコが食べたかったんです。」
当たり前のように言ってのけるジムゾンを見ながら、ヴァルターは長い溜息を吐き出した。色々と心配したのが馬鹿みたいに思えてくる。
「ミュンヘンに行った時に買いだめしてきたんです。お一ついかがですか?」
ジムゾンが差し出すのをヴァルターは片手で断る。が、ジムゾンは無理やり口に押し込んできた。
「明日にも食べられなくなるかもしれないんですから。」
ふと見ると、ジムゾンの青い瞳は潤んでいた。口一杯にミルクの甘味が広がるのに耐えながら、ヴァルターは再び無言でジムゾンを促した。


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