【漂泊の紡ぎ歌】

「本当に行ってしまうのか」
「ああ」
 夕日が差し込む窓に向かったまま、ヴァルターは独り言のように呟いた。部屋に入るなり問い掛けた男は、ヴァルターのそっけない返事を受けて二の句が継げず、黙って近くの長椅子に腰を下ろした。ヴァルターも暫く黙って遠く赤い空を見つめていたが、やがて男の向かいに腰を下ろした。深く体を埋め、室内をぐるりと見渡すと年季の入った調度品達が視界に入った。調度品は代々この屋敷を所有してきた人間が使いまわしてきたもので、つい最近までまるで生き物のような存在感さえあった。しかし、ここを立ち去ると知った今は何故か、彼らの魂が一斉に消えうせてしまったかのような感覚があった。
「奥方に安静が必要なのは解っている」
 男は所在無げに視線を落としたまま眼鏡を少し引き上げた。
「だがお前はここに必要なんだ」
「それは違う」
 ヴァルターは哀願するような男の言葉を即座に否定した。男はなんとももどかしげな表情でヴァルターを見つめる。
「陛下はお前を最も信頼しておられたというのに。今更生まれなんて」
「だからこそなんだよ、ライナー」
「なんだって?」
 ライナーは思わず身を乗り出した。
「平民の私を顧問官に登用して下さった。それが、今は問題なんだ」
 ヴァルターはベルク公国辺境にある村の農家に生まれた。幼い頃から学問が好きで、成人したのを機に村を離れ、遠くヴェネツィア共和国はパドヴァ大学へ入った。ヴァルターにとってはただ溢れんばかりの知的好奇心からの行動であり、卒業後はまた故郷の村へ舞い戻るつもりでいた。ところがヴァルターの存在は、大学で知り合った一部の貴族たちの噂から、巡りに巡ってオーストリア大公の知る所となった。やがて当時オーストリアの一部領土を有していたハプスブルク家のフェルディナントに顧問官として登用され、彼がオーストリア貴族に推されフェルディナント2世として皇帝に選出された今まで変わらず顧問官として仕えてきたのだった。
「陛下には感謝してもし足りない程お世話になった。だが私の存在が、今の陛下には枷になる」
 ヴァルターは難しい顔で目を閉じる。
「プファルツから取り上げた選帝侯位をバイエルンに与えてしまわれた事に比べれば些細な事だ」
「些細な事、か」
 ヴァルターはライナーの反論に心揺らぐ様子もなかった。漸く運ばれてきた香草茶入りのカップを手に取り、徐に口へ運んだ。何時の間にか日はすっかり沈み、先程まで存在を感じさせなかったランプの明かりが部屋を照らしていた。
 たとえ些細な事でも、やがては積もり大きくなる。ヴァルターの言わんとする所はライナーにもよく解っていた。実力を重んじてヴァルターを登用した。恩義に報いる為金印勅書に反する行為をした。フェルディナントのしてきた事を一口に善悪で判断はできない。しかし彼にとって恐らく“些細な”事であろうそれらが今まさに、国に大きな歪みを引き起こしているのは事実だった。新教系の者達を刺激してしまった今、ヴァルターの存在が付け入られる原因の一つになる可能性はごく低かろうが、否定もできない。
「如何に私が陛下の信を得ていたと言っても“彼ら”には逆らえない。陛下とて、同じ事だ。先帝の父君は廃嫡を仄めかされ、司教メルキオルをもってしても旧教徒らを抑えられなかった」
 ヴァルターは言葉を切って腹の前で組んだ両手を見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「流れだよ」

+++

 ヴァルターはフェルディナントに辞意を伝えた日の事を思い出していた。たしかに、妻は病がちで安静を要する。フェルディナントも渋々納得はしていたが、それでも秘められた理由にも気付いたのだろうか。
“お前も私の元から去っていくのか”
 フェルディナントの力無い声が耳に蘇った。そして続いた、興奮ぎみの言葉も。
“兄のように。アンナのように!”
 あの時、フェルディナントはすぐ我に返って冷静さを取り戻したが、ヴァルターは暫く戸惑っていた。フェルディナントの兄の存在は聞いた事があった。将来を期待されていたらしいがある日突然失踪したという事で、宮廷で口に出す事は禁忌のようにも捉えられていた。突如として自分の元から去った兄をフェルディナントが快く思わないのは当然だろう。しかし、ヴァルターが驚いたのはそれだけではなかった。
 彼はアンナ、と確かに言った。アンナとはフェルディナントの妻の名だ。今なお健在で傍に居るというのに、失踪した兄と同列に見なされるとは一体どういう事なのか。しかし理由を聞くに聞けず、ヴァルターは黙って退室した。

 屋敷へ戻る道すがら、物々しい集団が目に付いた。戦から戻ってきた傭兵達だ。結果的に勝利を齎してくれた彼らではあったが、ヴァルターはどうにも好きになれなかった。勝利が嬉しくないわけではないが、戦果は益々新教徒への弾圧に拍車をかけた。今は平穏が戻ったが、今回の事で諸外国には危機感と同時に口実を与えたような物でもある。近頃フランス宰相となったリシュリューも油断ならぬ男だと聞く。聖職者でもあるのだが、目的の為には手段を選ばぬ人物でもある。フランスの利を考えれば当然、新旧派閥に関わらず、これぞ機とこちらに何らかの圧力をかけてくるのではないかと危惧もされた。
 そんな事を悶々と考えていると、ふと何かに目がとまった。それはまだ若い傭兵で、燃えるような異質な赤毛が一瞬炎のようにも見えた。何より目を惹いたのは鋭い緑の瞳だった。涼やかな色とは裏腹に、何かしら行き場の無い激情のような物さえ感じられる。瞳はただ一点を睨み、仲間達の馬鹿騒ぎも目に入ってはいないようだった。
 一体何を生き急いでいるのか。いや、それとも死に急いでいるのか。何者をも寄せ付けないその瞳に、ヴァルターは今の国の姿を重ね合わせていた。

「賢者の品が届かなかった果て。私は、辿り着く場所を見たくない臆病者なのかもしれない」
 疲れ切ったヴァルターの呟きに返す言葉も見付からず、ライナーは黙って視線を落とした。
 翌日、ヴァルターは妻と幼い娘を伴い、遠い故郷へ帰っていった。

+++

 寂れた宿屋の片隅で安酒を傾けながら、ヴァルターはぼんやりと昔の事を思い出していた。
「なんじゃ、浮かん顔して」
 苦笑いして声をかけてきたモーリッツが隣の席に腰掛けた。後生大事に抱えている本をカウンターに置くと、モーリッツの前には程なく何時ものレモン水が置かれた。
「アンナとモニカばあさんの喧嘩の仲裁で頭悩ませてるんじゃないのかい」
と、レジーナも苦笑いする。
「また畑争いか?懲りんのう」
「いやいや、今度は鶏だよ。ウチのがそっちに紛れてる、とかねえ」
 そういう事で悩んでいたのではないよ。と、本心を語る事なくヴァルターもまた苦笑した。他愛無い二人の会話を聞いていると、まるで都に居た頃の事が嘘のように思えた。あの惨劇で気がふれて、そんな夢でも見ているのではないかと。事実、あの忌まわしい日にせせら笑われたものだ。傭兵達を止めようと自分の身の上を明かしたが、気がふれたのじゃないかと笑われただけだった。
 全てを捨てて故郷へ戻ったヴァルターには、かつての栄光も権限も何一つ無かった。それで良いと思い、自ら選んだ道だった。だが、もし地位を捨てていなければ、奴らの蛮行を止める事もできたかもしれない。妻も、殺されずに済んだのかもしれない。そう思うと、全て自分の責任であるような気さえして、償っても償いきれないような気がして、もう何もかもどうでも良くなってしまうのだった。
 運命は逃げた咎人を許さない。また、許される筈もない。ならば神の愛とは何なのか。所詮は弱い人間の思い描いた愚かな妄想に過ぎぬのか。何時しかヴァルターはそんな思いを抱き始め、誰にも打ち明けられぬまま、心には静かな狂気が芽生えていた。
「アンナ……」
 レジーナが料理を運びに出た後で、ヴァルターは今更ながら二人の会話を思い出した。アンナと言えば、あの時フェルディナントが口にしたアンナとは一体どういう意味だったのか。
「アンナがどうかしたか」
 唐突な呟きに、モーリッツは驚いた様子でヴァルターを見た。
「モーリッツ。あなたはたしか、ケルン大司教の顧問だったな?」
 ヴァルターはハッとしてモーリッツに向き直った。モーリッツはヴァルターの突然の勢いに気圧されつつ、頷いた。
「という事は、バイエルンの家にも詳しい」
「そら、ある程度はな」
 戸惑うモーリッツをよそに、ヴァルターはあの日の事を語って聞かせた。
「どういう事だろう?マリー・アンナ様は妃として傍にいらっしゃるというのに」
 食いつくようなヴァルターを前に、モーリッツは白い眉の根を寄せてレモン水を一口飲んだ。
「ほうじゃの。兄君のフリードリヒ殿下を知らんとなると、知らんわな」
「と、言うと?」
「恐らく、陛下の仰られたアンナとは、マリー・アンナ妃ではなく、マリア・アンナ姫じゃろ」
 ヴァルターは一瞬、わけが解らないという風な表情を浮かべた。そんなヴァルターを一瞥してモーリッツは続けた。マリア・アンナがフェルディナントの実の姉である事。体裁が悪いという事でバイエルンへ養女に出された、許婚でもあった事。そして、別人と結婚して去っていった事を。
 ハプスブルクは無闇と他家の血が混じる事を嫌う。兄弟での近親婚は忌まわしい伝統のような物だ。フェルディナントが姉を姉と認識していたか定かではないが、許婚に裏切られたような心持はあったろう。が、その姉が逃げた気持ちも痛いほど良く解った。
 長年心につっかえていた物の一つが漸く取れて、ヴァルターは大きな溜息をついた。
「マリー・アンナとマリア・アンナ。よく混同されるようじゃからバイエルンでは帝妃を“アンナ”姉姫を“マリア・アンナ”と呼び分けとる。直接の血の繋がりは無いが、バイエルンではそれは大事に育てられたもんじゃ。……そうそう、姫君はもう亡くなられたが、その子ならこの村におるよ」
 あっさりとしたモーリッツの言葉を受けて、ヴァルターは目を見開いた。しかし、それが誰であるか悩む事は無く、答えはすぐに口をついて出た。
「神父か」
 モーリッツは無言で頷いた。神父ジムゾン・フォン・ルーデンドルフ。南西にある田舎領主の息子だとは聞いていた。何時も陰鬱な表情をしているのであまりいい印象は無いが、よく見れば人目を惹く風貌ではある。そして美しい黒髪が、カスティリア王家の血も引く名門ハプスブルクの人間である事の何よりの証だった。
「ワケありなんじゃろ。わしらみたいに」
 溜息を一つついてモーリッツは再びレモン水入りのカップを口に運んだ。

 カウンターの、少し離れた席に誰かが座った。同時に、甘く深い香りがヴァルターの鼻腔を擽った。
「おや、ディーター。今日は早いね」
「やる事ねえからな」
 レジーナの言葉にディーターは苦笑いした。
「あんた、ちっとは神父さんを手伝ってやってんのかい?」
「それなりに」
 ディーターは出されたエールをあおった。素っ気無い風ではあるが、微かに体から漂ってくる没薬の香りが“それなり”の手伝いを表していた。ディーターの姿を遠目に見ながら、ヴァルターの脳裏には職を辞した日に見た傭兵の姿が蘇っていた。あの傭兵も、燃えるような赤い髪だった。あの傭兵も、行き場の無い感情を秘めた目をしていた。生き急ぐその目は、死に急ぐその目は、あの日と寸分違わなかった。
 遠くの森から、狼の遠吠えが聞こえた。一つ、また一つ、声が重なる。宿屋裏手の家で飼われている犬も、それに倣って吠えはじめた。
「狼のつもりなのかねえ」
 クスクス笑いながら、レジーナは窓ごしに裏の家を見た。
「犬にも野生の本能はあるさ」
 ヴァルターはそう言って酒をあおった。
「けど綱は千切らない」
 ディーターは肘を突いて両手をゆるく組み合わせ、カウンターごしに窓を見つめた。ヴァルターは思わずディーターに目を向けた。
「それでいい。その方が、幸せなんだ」
 緑の瞳が、珍しく芯から和らいだ。だがそれも束の間の事で、すぐさま何時もの眼光を取り戻した。
「どうかな」
 ヴァルターは暫くディーターを見つめていたが、そのうちに目を逸らして少しだけ笑った。
 それでいい。その瞳こそ、終焉に相応しい。鋭い瞳に、ヴァルターは自身の死を漠然と予感していた。自らの死のみならず、村の滅びをも。
 罪深い願いだった。自ら縄へ括られ行くのと一体何が違うだろう。煩悶から自由になるための答えは既に知っていた。プラハでも、ウィーンでも、パドヴァでも。何処にでもあった答えは、この村にすらもあった。ただ今は、気付きたくないばかりだった。
 かつての顧問官、かつての傭兵、かつての王女の血を引く者とが、この辺境の村に集った因縁は決して偶然では無いと感じた。何が起ころうとしているのかはまだ定かでは無かったが、役者が舞台に集いつつある事だけは解った。血の奔流が紡いできた悲しい話へ幕引くために。







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