【轍のバラッド:第四話】

「僕がやりました」
 翌日、エルナは、再び尋問に来たロタールにそう告げた。
「ほ。本当かね」
 さすがのロタールも、こうすんなりと自白するとは思っていなかったらしく、驚いた様子だった。同行していたジムゾンもまた、驚きを隠せなかった。
「僕が、彼を殺したんです」
 エルナは強く重ねる。その表情は頑なで、翻す様子など微塵も感じられなかった。
「では、どうやって殺したね」
 思いがけない質問はロタールの口から出た。刹那、エルナの顔に動揺が見られた。当然だろう。実際は何もしていないのだから。
「はさみで、刺して」
「刺した?」
 鸚鵡返しの問いに、エルナは頷くのがやっとだった。
「妙な話だな。死体は真っ二つになっていたのに。はさみで刺しただけでできるものかどうか。第一、すぐ切れなくなってしまうだろう」
「ともかく!僕が殺したんです!それが解れば、後の事はどうでもいいでしょう!」
「……む」
 ロタールは珍しく気圧されていた。
「その通りだな。後は、フォン・ブランシュにお任せしよう」
 吐き捨てるように言ってロタールは踵を返した。
「もう聞く事は無いんですか?おかしな事があるのでしょう?」
 その背にジムゾンは厳しい問いを投げる。
「見つけるまでが私の仕事。それからはご城主たるフォン・ブランシュの手に委ねるのが筋ですからな。私にそこまでの権限はありません」
 ロタールは少しだけ振り返って言い、早く来いと言わんばかりの視線をジムゾンに向けた。ジムゾンは未練がましく独房に目を向けたが、エルナはもうそっぽ向いてしまっていた。


+++


 地下室から外に出ると陽光がやけに眩しく感じられた。目を刺す光の帯は城のすぐ脇を流れるドナウの水面を美しく煌かせていることだろう。地下室のある南塔は三重にめぐらされた城壁の一番外に接している。母に連れられてきていた幼い頃は、城壁から少し背伸びして行き交う交易船を見るのが好きだった。ジムゾンは不意に立ち止まって振り返った。城壁は一部老朽化して崩れており、空になったビール樽で隠されている部分がある。その他にも古くなった武器などが麻袋に入れられて無造作に置かれているのでやや景観が悪かったが、陽光を受けて輝く川は手前のそれらを忘れさせるほど美しかった。このまま流れに乗って下って行けるのなら目指すウィーンも近いのだが。そこまで考えて、ジムゾンは不意にロタールに向き直った。
「これで任務は完了されましたね。ブラザー」
 声音に少しばかりの嬉しさが滲んでしまう。全てはマテウスの裁量に任されている。謎の騎士とやらの動き如何に関らず、あとはマテウスさえ言い包められればエルナを釈放させられるのだから。そんなジムゾンの期待を見透かして、ロタールは冷ややかな視線を向けてきた。
「そうですな。有能な部下にも恵まれたお陰で早く聖務に戻れて何よりです。あなたとお別れするのは実にお名残惜しいですが」
「寂しくなりますね」
 何時もどおりの皮肉を聞きつつジムゾンの顔はどうしてもゆるんでしまい、つい心にも無い事を口走る。それを見たロタールはわざとらしく驚いてみせ、鼻で笑った。
「そうですかそうですか。では、せめてもの置き土産に異端審問の歴史からじっくりお聞かせしましょうか。なんでもマリアラーハは花の栽培をされているとかで?イエズス会の暴走や、その果てにこうして戦火に包まれた煉獄の実情とは無縁のご様子ですからなあ。いえいえご心配無く。出立は明日の朝ですから、夜までみっちりと」
「花の栽培は生産の一環であって、それだけをしてるわけではありません。負傷兵達の世話だって。大体あなた達は、ベネディクトと聞くとすぐ……」
 軽くかわしていればいいものを、ついジムゾンは熱くなって語り始める。そうして二人は言い合いながら場所を城内の客間に移し、日が沈むまで延々と論戦を続けたのだった。


+++


 空が藍色に染まり、星が瞬き始めた頃にジムゾンはスープだけの簡単な夕食を持って再びエルナの元へ向かった。自白した後は地下室のある塔の入口を守っていたロタールの兵達も姿を消し、一人が中庭を見回っている程度だった。独房の中で蹲っているエルナの前にスープ皿を差し入れて、無言で去ろうとしていたジムゾンの背に思いがけず声がかかった。
「神父さん」
 ジムゾンが振り返ってみると、エルナは顔をあげていた。表情は晴れず、視線も自身の足元に注がれている。
「どうかしましたか?」
 ジムゾンは立ち止まり、振り返ってエルナと同じ目線までしゃがんだ。エルナは暫く黙っていたが、ゆっくりと喋り始めた。
「シモンが僕を見たと証言したっていうの……。あれ、嘘だよね」
 囁きで確認した事をまさか本人から聞いただのとは言えない。しかしエルナを誤解させたままにするわけにもいかず、ジムゾンは頷いた。
「ええ。きっと、嘘だと思います」
「どうして?」
 エルナは訝しげにジムゾンを見上げた。
「あなたが仮に本当に事件を起こしていて、それをシモンさんが見ていたとしても、彼はきっと言わないと思います。あなたがここに連れてこられた日に、あんなに心配していたのですから」
 ジムゾンの言葉を聞きながらエルナの顔は歪み、翡翠色の瞳から、涙が一粒溢れて落ちた。
「信じてあげられなかったんだ。シモンがあんな事、言う筈が無いって」
「エルナさん……」
 ジムゾンはつい、本名で呼んでしまう。しかしエルナはもうそんな事も気に留めない様子だった。
「心の隅では、何時かこんな日が来るんだろうって思っていたんだ。シモンと僕とでは、立場が違うから」
「えっ」
 立場が違う。その一言にジムゾンは思わず声をあげた。エルナは漸く自分が言った事に気付いたようで、気まずそうにしていたが、もう口は閉ざさなかった。
「神父さん、これは告白だから。絶対に、誰にも言わないで」
 ジムゾンは無言で頷いた。後に続く告白の内容がどんなものか察しはついていたが、黙って続く言葉を待った。
「……神父さんは信じないかもしれないけど。人を食べる人狼は、本当に居るんだよ。そしてシモンは、人狼なんだ」
 エルナは小さい頃から、シモンが人狼だと知っていたのだと言う。ある晩に、変化するシモンを目撃してしまった、と。だからこの町に来て、異端審問官から事件の事を聞かされた時、直感的にシモンだと思った。事件という言葉に一々怯えていたのは、シモンが犯人だろうと気付いていたからだった。そして審問官が宿に来た翌日に自分を目撃したという証言が出たと知り、もしやシモンが、身の安全の為に自分を売ったのではないかとも、心の片隅で思っていた。そしてそれが現実のものであると審問官から聞かされて、シモンが言ったのだと思ってしまったエルナは、その罪を被ってしまった。
「幾ら立場が違う者同士でも、きっといつか解り合える筈だって。そんな事を思いながら、その実僕は、シモンはきっと僕の事を餌としか思っていないんじゃないかって、疑ってしまっていたんだ……」
 泣き崩れるエルナを、ジムゾンは複雑な面持ちで見つめていた。二人が人狼同士で、或いは、人間同士であったなら、こんな事にもならなかったろうに。どうしても捕食される立場である人間であるがゆえの悲しみを目の当たりにして、すんなりと言葉を出せないでいた。
「たとえ疑っていたとしても。彼の為に自分の身を差し出そうとするなんて、そうそうできる事ではありません」
 ジムゾンはそう言って立ち上がった。
「後の事は私達に任せてください。大丈夫、主はお許しになられますよ」


+++


 町一番の夜更かしである娼館の明かりも消えて全体が眠りについた頃、宿屋の裏路地に佇む人影があった。頭巾のついた黒い外套に身を包み、カンテラと、柄の長い斧を手にしている。一見ただの夜警にも見えるが、カンテラには何故か火が入っておらず、斧は攻城戦で使う鉤爪がついた特殊な物だった。目深に被った頭巾から僅かに覗く顔の輪郭からすると、どうやら男のようだ。男は暫く二階の窓を見上げていたが、やおらカンテラを地面に置いて、斧を手に壁へと近付いた。
「そこはただの宿屋だぞ」
 物陰から一部始終を見ていたディーターが姿を現して声をかけると、男は弾かれたように振り返った。ディーターは両手をゆるく腰に当て、目だけは男を見据えたままで小さく笑った。
「城攻めでもするつもりか?ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」
 振り返った拍子に男の頭巾は脱げ、素顔が月光の下に曝け出されていた。切り揃えられた薄茶色の髪の毛に青い瞳をしたその人物は、修道士見習いのヨハンだった。ヨハンはディーターの挑発に乗る事も無く、これまで見せた事も無い表情を浮かべていた。凡そ慈悲という物が無いような、それ以前に、感情があるのかも解らない冷たい表情だった。そこに居るのは一人の戦士で、一々怯えてみせていた小心者の聖職者の面影は最早何処にもなかった。
「邪魔だてする気か」
「そうだと言ったら」
 ディーターが言い終わるより先に、ヨハンが動いた。青い闇に黒い残像を残して。一瞬の激しい空気の流れが止まると同時に鋭い金属音が響き渡る。月明かりに煌く重い刃はディーターの剣に受け止められていた。
「大人しく退け」
 言葉と共に目一杯の重圧がディーターの体にかかる。刃を軸に後方へ飛び下がったヨハンはすぐさま体勢を整え、威圧するように間合いを詰める。
「それは俺の台詞だと思うんだが」
 とうのディーターは全く物怖じする様子も無く、片手の平を上向けて肩を竦めて見せた。
「お前くらいにできるんなら、今ので大体差は解ってる筈だ」
「黙れ」
 吐き捨てるように言って再びヨハンが動いた。真横からの一閃をディーターが逆手に受け止めると、斧の重い刃は即座に勢い良く翻り、逆斜めに振り下ろされた。しかしディーターはそれをも受け止め、そのままの勢いで大股に一歩踏み込んだ。それを受けるヨハンは自身が込めた力をそっくり返され、しかも切り結んだまま踏み込まれて一瞬体勢を崩した。ディーターはその瞬間を見逃さず、斧ごと斜めに剣を振り下ろす。ヨハンが完全に無防備な状態で背を仰け反らせている間に、返す刃で斧の鉤爪をすり上げて引っかけた。握力の縛りを殆ど無くした柄は容易くヨハンの手をすり抜け、宙に舞った。斧が鈍い音を立てて硬い地面に突き立つのと、ヨハンが倒れ伏すのとはほぼ同時だった。
「何故シモンを狙う?」
 ディーターは仰向けに倒れたヨハンの鼻先に切っ先を突きつけた。
「お前の狙いは最初からシモンだった。エルンストがその親友だと知って先ず裏通りの仕立て屋に偽証の土台を作り、ロタールにはシモンからの告発だと嘘の証言を伝えて捕えさせた。そして、エルンストの危機を知ったシモンが自ら出頭してくるのを待っていた。そうだな」
 ディーターからの問いを聞きながらヨハンは口の端で笑った。
「聖職者として最後の良心に賭けただけだ」
「ハッ。人の感情を散々利用しておいてその言い草か」
「ああ俺が間違っていたよ。人外の者に人間並みの感情を要求するなんて」
「人外?」
「そう。バイエルンの騎兵というのは仮の姿。その本性は人を喰らうおぞましい魔物、人狼だ!」
 ディーターは剣を退け、呆れた表情を浮かべて鼻で笑った。
「……人狼、ねえ」
「あの男は我が身可愛さに友を見捨てた。伝承にあるように、至極当然の結果だったというわけだ。仕立て屋が人間であっても、仲間であっても、人狼が庇うような殊勝な真似をするわけがないというのに」
 ヨハンは上体を起こして自嘲気味に笑う。
「シモンがその妙な化け物だという証拠はあるのか?」
 ディーターが問い掛けるとヨハンはぐっと言葉に詰まった。
「無い。無いが、俺はこの目で見たんだ!あの男が、戦場で死んだ戦友達のまだ温かい死肉を貪り食っていたのを!」
 ヨハンがシモンの正体を知っていたのは予想していたとおりだった。エルナが捕えられるのに何の理由も無い以上、暗躍している人間の本当の狙いはシモンだろうと思っていた。そして、狙う理由は恐らく人狼である事を知っているからだろう、と。ヨアヒムの知り合いだった狩人に付け狙われた経験が思わぬ所で助けになったものだ。
「信じろと言うのか?その話を」
 ディーターがおどけて両手を上げた瞬間、ヨハンが飛び起きて身構えた。斧は相変わらず遠く後方の地面に突き立ったままだったが、ヨハンの手には護身用のナイフがあった。
「主に背きたく無いのならそこを退け。やっと見つけた主の怨敵。滅ぼすにはこの手を再び汚す以外に方法は無い!」
「子供騙しのおとぎ話を信じてるあんたの方が余程神の教えに背いてると思うがね」
 ディーターは渋々剣を構え、青い闇夜に再び鋭い音が響いた。


+++


「一体何の騒ぎだ!騒々しい」
 ジムゾンとの論戦を終えて寝支度をしようとしていたロタールは、あからさまに不機嫌な表情を浮かべていた。呼びに来た兵士が導くまま、渡り廊下を早足で歩む。城の大半の者は既に眠ってしまっているようだが、騒ぎの発生場所である中庭に面した部屋には幾つか明かりが灯っていた。
「まさか囚人が逃げ出したのでは無かろうな」
 歩きながらロタールが問うと、前を走るように歩いている兵士は怯えたような顔を向けた。どうやら当たりのようである。
「こ、告解をしたいと、あの者が申しまして。それで、起きていらした神父殿が地下に行かれたのですが、暫くして血相を変えて出てこられて」
「情に絆されて鍵を開けるなりしたら逃げたと」
 ロタールの冷たい問いに兵士は無言で何度も頷いた。
「まったく、あのお人好し神父め!そういう軽率なやさしさが甘さなんだと何故解らん!」
 ロタールは半ば走りながら忌々しそうに吐き捨てた。おおかた、最後に外を見てみたいだのと言われて出したに違い無い。エルンストがしおらしい様子だったから逃げる事もすまいと。しおらしく振舞うのは犯罪者の常套手段だ。しかし、ロタールが懸念するのは逃亡ではない。ヨハンから聞いた通りを告げた昨日の様子からして、悲観して自ら命を断つのでは無いかという怖れだ。エルンストと、告発したとかいうシモンという男とは古くからの親友だと聞く。親しい者から密告されたと知ればその衝撃は計り知れまい。それゆえ、素の反応が見たくて敢えて暴露した。しかし昼間の様子からしてどうも、実はシモンが真犯人であって――或いは、シモンが真犯人だと思い込んでいて、エルンストは罪を被っているのではないかとも思えていた。だからこそ心配なのだ。
 城壁の外はすぐドナウ川だ。水面まではかなりの高さがある。あそこから飛び降りれば、どんなに泳ぎが達者でもまず命はあるまい。この際取り逃がすのはいいとして、何としても自殺だけは食い止めたかった。祈るような気持ちで走り、城壁まで辿り着いた。城壁は数名の兵士らが掲げ持つ松明の明かりで照らされ、一部の崩れ落ちた部分からドナウ川の暗闇を覗かせていた。穴を塞いでいた空のビール樽は横へ除けられており、そのすぐ脇には膝をついて座り込んでいるジムゾンの姿もあった。
「……。落ちたのか」
 ロタールが呆然として呟くと、兵士の一人が頷いた。
「我々が気付いた時にはもう、大きな水の音だけが」
 兵士が報告する間に、ジムゾンはふらふらと立ち上がって歩き出した。ロタールは、傍を通り抜けようとしたその肩を掴んだ。
「どちらに」
「シモンさんの所に、行かなくては」
 ジムゾンは言葉を制して言い、ロタールの手を振り払おうともがく。まるで何かに憑かれたかのように、視線は真正面に向けられたまま。
「証言をしたとかいう男の?何故」
 放すまいと強く掴んで聞き返すと、ジムゾンは顔をしかめてこちらを向いた。几帳面に整えられていた髪の毛はほつれ、顔は涙でぐちゃぐちゃに濡れている。
「エルンストさんが仰ったんです!シモンさんが危ないと!自分ではどうにもできないから、助けて欲しいと言い残して、川に……!」
 何故シモンという男が危ないのかさっぱり見当もつかなかったが、ジムゾンに聞いても恐らく回答は得られまい。尋常ならぬジムゾンの様子におされてロタールは頷いた。
「よろしい。何がなんだかわけは解りませんが、行ってみましょう」
既に助かる見込みが無い人間よりは、今危機に瀕している人間を救うのが先だ。事実かどうかは解らずとも、行くに越した事は無い。ロタールは、未だふらついているジムゾンの腕を引っつかんで城門へ向かった。



→第五話