【青の楽園 第八話】

何時ものようにキチンと聖服を着てジムゾンは一階に下りた。朝とはいえ早朝だ。まだあたりは薄暗く、明かりを消したら足元もおぼつかない。
「あ、おはよーございますー。」
のんびりした声で挨拶したのは当番のアルビンだった。笑いながらも目は眠たげだ。ジムゾンはぐるっと辺りを見回した。
「ディーターは?…それにモーリッツさんも何処か行かれましたか?」
「ディーターさんは例の如く例のように煙草吸ってます。モーリッツさんは、さっき“調べたい事がある”ってレジーナさんの部屋に入ってきましたよ。もうレジーナさんも地下ですし、勝手にいいって言っちゃいました。…村長さんに怒られるかなあ。」
思い出して目が上目遣いになっているアルビンにジムゾンは笑った。
「大丈夫ですよ。昨日だって皆で調べたんですから。」
「そうですよね…え?ジムゾンさん、どちらへ?」
アルビンは玄関に向かうジムゾンを呼び止めた。
「モーリッツさんに頼まれてたんです。明朝家に行って資料を持ってきて欲しいって。」
ジムゾンは鍵束を取り出して見せた。
「ああ。そういやそんな事言ってましたね。」
「見てたんですか?」
「だって私の位置はここですよ。」


そう言ってアルビンは両手を振って存在をアピールし、階段を指し示して見せた。アルビンの位置は会議用(本当は会食用)テーブルの下座だ。丁度階段の上り口とレジーナの部屋の扉が見える。
「ここなら地下の入り口も監視できて、玄関も階段も監視できますからね。ニコラスさん殺し以降、オットーさんが編み出してずっと採用されてるんです。」
「そうなんですか。」
ジムゾンは一寸だけ笑い踵を返した。
「それじゃあちょっと行ってきます。」
「はい。お気をつけて〜。」
その言葉にジムゾンはピタッと足を止めて顔だけ振り返った。まだあたりは暗い。言われてみれば、この時間に一人の所を襲われない保証は無いのだ。
「大丈夫ですよ。窓ごしに見てます。」
不安げなジムゾンを見てアルビンが笑う。モーリッツの家は宿屋の向かいに位置し、遮る物は何も無い。
「家の中でも、なるべく窓に近い所に居るようにします。」
宣言してジムゾンは宿屋をあとにした。

「うふぇ。」
部屋に入るなりジムゾンは不快げな声をあげた。むっとした汗の臭いが鼻を突く。カーテンを開け、窓も開けようとしたがガタついていて開かなかった。外光にうっすら照らされた室内は散らかっており、片隅に置かれた洗濯かごからは汚れ物があふれ出していた。恐らくこれが臭いの発生源だろう。
ディーターは橋が落ちた日にだけ家に戻った。必要な物を取りに戻っただけで洗濯物まで気が回らなかったのだろう。
「ついでに持ってくれば洗ったのに。」
ジムゾンはぶつぶつ言いながらソファやテーブルの上に積まれた物の山を崩しにかかった。だが、出てくるのは衣服や靴、何だかわからないガラクタの類だった。本棚が無いので探ったのだが、どうやら本はなさそうだ。
居間を諦めて向かった寝室もまた、見事に散らかっていた。だが寝台のすぐ脇の床に妙に丁寧に置かれている木箱があるのに気がついた。予想通り、木箱の中には数冊の本がおさめられていた。ジャンルは様々だ。“生活を豊かにする格言集”“新版・解りやすい聖書”“若きヴァルターの悩み”…
思わぬところで出てきたゲーテの恋愛小説にジムゾンはふきだしてしまった。ディーターにそんな繊細な代物を読む趣味があったとは。木箱の本は二重に置かれており、それらを取り払うと目当てのスクラップブックに行き当たった。ジムゾンはモーリッツに言われた表題と装丁を確認して取り出し、他の書物を元の位置へ戻した。

腰を上げて一瞥した寝台の上にジムゾンは妙な既視感を覚えた。寝台の上に放られた上着を退けてジムゾンは動きを止めた。上着の下にあったのは、以前ジムゾンが盗まれた下着だった。
「は…?」
かすれた声が唇から漏れた。ジムゾンの頭は混乱していた。何故これがここにあるのか。トーマスが盗っていったのでは無かったのか。いやいや、盗られたというのは自分の思い違いで、案外ディーターに貸したのかもしれない。
ジムゾンは勢いよく首を横に振った。そんなはずは無い。第一ディーターと自分ではあんなに体格が違うのに。
震える手で下着を手にした瞬間ジムゾンは息を飲んで下着を放り出した。手にあったのはまるで糊が乾いた後のようなごわついた感触だった。眩暈を覚えて壁に寄りかかったその時、宿屋の方から凄まじい悲鳴が聞こえた。

急いで宿屋に戻ると青い顔をしたアルビンが駆け寄ってきた。一階の奥の方では何やら騒ぐ声が聞こえる。ジムゾンが何事か問う前に、アルビンは一度生唾を飲み込んでから口を開いた。
「も、モーリッツさんが…殺されたんです…!」

外の素晴らしい晴天など別世界の事のように、宿の中は今まで以上に重苦しく沈んでいた。
「…とりあえず、状況を整理しよう。」
眉間に皺を寄せたままヴァルターは紙に経緯を書き記していった。
午前四時。モーリッツはアルビンに言ってレジーナの部屋に消えた。それから殆ど時間を置かずジムゾンが二階から降りてきた。ジムゾンはモーリッツの家へ向かった。(その姿はアルビンが確認している)
五時になって朝食準備の手伝いにパメラが下りてきた。モーリッツが中々帰ってこないのを心配したアルビンの申し出を受けてパメラがレジーナの部屋へ行った。暫くしてパメラの声が聞こえ、アルビンはレジーナの部屋に飛び込んだ。そこで一番奥にあるレジーナの寝室でモーリッツが血を流して倒れているのを発見した。
アルビンが叫び、その声で飛び起きた村人がレジーナの部屋になだれ込んできた。見張り番が居なくなってしまったのでアルビンは外に出され、そこにジムゾンが戻ってきて全員が揃った。

「貰ってきたよ。」
浮かない顔をしてヨアヒムが戻ってきた。両手に抱えた布袋には封筒が詰まっている。物資の受け渡し用にとりあえず渡したロープを使って溜まりに溜まった郵便物を受け取ってきたのだ。ヨアヒムが布袋を開けてひっくり返すと封筒がバサバサと落ちてきた。
「モーリッツの事も伝えたな?」
ヴァルターの問いにヨアヒムは無言で頷いた。
ジムゾンは封筒の山から自分あての書簡を取り出した。神学校の同級生から、そして司教からの定例の書簡。何時に無く厚い書簡に聊かげんなりしながら封を切ると、書類の他に一通の封筒が出てきた。差出人の署名欄にはなんと、ゲルトの名前があった。

司教によって添えられた手紙によると。十日ほど前にゲルトから司教あてに届いた書簡に同封されていたという。ゲルトと司教は以前から個人的な交流があった。というのも、ゲルトの研究の関係かららしい。
司教あての文書には“もし村で自分が殺されるような事があったらジムゾンに渡して欲しい”と記されていた。そしてジムゾンの伝書鳩でゲルトの死を知った司教は言伝どおり送ってくれたという次第だった。
皆に注目される中、ジムゾンはゲルトからの手紙の封を切った。
「な、なんて書いてるんで…もが?!」
急かすアルビンの口をオットーが片手でふさいだ。ジムゾンはゆっくりと手紙を読み始めた。

ジムゾンへ

これを読んでるって事は、僕はもう死んでるのだろうね。
僕は今、ちょっとした趣味の研究をしている。おとぎ話で知ってると思うけど、人狼の伝説だ。僕は研究の途中で人狼とはある結社の事だと知った。正確に言うなら、結社の中の暗殺部隊だ。こんな風に結社の核心に近づこうとする、僕みたいな人間を排除するための。
調べてるうちに、どうやらこの村にもそれらしい人物が居る事が判明した。面白いことに人狼の伝説と一緒で、三人いる。本当かどうか確かめるために、それとなく本人にあたってみようと思ってる。
彼らはたぶん、僕の意図に気付く。僕を殺すだけで終わるのならいいんだけど、もし伝説の再現をされたらとても悲しい。
だから君にこれを託す。もし僕が死んでしまったら、暗号を解いてどうか彼らの正体を暴いて欲しい。彼らにとって危険人物とみなされる僕から直接君に接触したらすぐ狙われてしまうだろうから、ダールベルク司教に一旦回す事にする。
どうか僕みたいに接触をせず、こっそりと調べてほしい。それから、これを読んでも皆には内緒にしていて欲しい。君まで死んでしまったら元も子もないから。村長に頼んでも良かったんだけど、僕の暗号は君じゃないと解けないと思う。
僕が隠した三人の証明はそれを解かない限り絶対に解らない。僕の家かもしれないし、村のどこかかもしれないし、もしかしたら村じゃないかもしれない。そう言ってやったらきっと、彼らはやきもきするだろうね。暗号はこうだ。
『イエスに最も愛された弟子 1318 PSA 神になろうとした者が犯した罪の理由』
それじゃあ、後はよろしく。できれば僕自身が完全に解きたいなあ。

ゲルト・アイゼンシュタット


「もう遅いです…。」
“皆に内緒にしていて欲しい”ゲルトの願いを真っ先に無視する結果になり、ジムゾンは途方にくれた。
「村長とジムゾンは白と決まったな。」
「うん。こればっかりはゲルト本人の筆跡だし。託したって事は潔白が証明されてるからだろ。」
トーマスの呟きにオットーも頷いて同意した。
「ふむ…。この暗号にはまだ隠された意味があるのだな。人狼はこの一文が獣の名と読めるのに動揺して破ったのだろうな。だが、核心に迫る証拠の存在までは気付かなかったし、まだ見つけていない。」
ヴァルターは僅かな希望を見出すが、ジムゾンの表情は晴れない。
「けれどこれで気付かれました。この中の、誰かに。」
その一言に議場はシンとなった。ジムゾンは気まずそうに言葉をついだ。
「…モーリッツさんは昨日“引っかかる”と仰っていました。私が夜中にでも、資料を取りに行っていれば。」
「お前の所為じゃない。仮に暗号の真意が判明したからと言ってモーリッツが殺されないとは言い切れない。嘆くよりも、今はその解読が先決だ。」
トーマスはしょんぼりと俯くジムゾンの肩にぽんと手を置く。ジムゾンは一度だけ小さく頷いた。

「じゃあおじいちゃんはどうして殺されたっていうの。」
抑揚の無い低い声で言ったのはパメラだった。
パメラが発見した時、モーリッツの遺体はまだ温かかった。早く医者に、まだ今なら生き返るんだとパメラは狂ったように叫んでいた。
そうしていいだけ喚いた後はずっと口をきかなかったし、手を貸してやらなければ立つ事さえままならない状態だった。
「核心に近づいたからじゃないかな。」
こういう時、感情に流されないオットーの存在は有難い物だった。真っ赤に腫れ潰れた目を向けるパメラを一瞥してオットーは続ける。
「なんたって元刑事だ。長年のカンって奴もあるし、案外喋らなかっただけで俺達の過去をかなり知ってたかもしれない。
モーリッツは職業柄か100%有効と言い切れるまでは中々手持ちの材料を見せたがらない癖がある。だから本質に近い事を知ってたけど核心に至るまでは放置していいと人狼は判断してた。けれど何かの手がかりを掴んだから、ヤバイと思って殺したんじゃないかな。」
その説に異論を唱える者はいなかった。
「あとは。どうやって殺されたかですね…。」
遠い目をしてアルビンが呟く。今まで死因についてはモーリッツが見立てていた。残された者は、経験やモーリッツに聞いてきた方法から導き出す他無かった。

「直接の死因はカタリナと同じだろう。」
トーマスは玄関傍の担架に安置されたモーリッツの遺体を見下ろした。遺体の首にはモーリッツがしていた腰紐が絡み付き、絞めた痕がくっきりと残っている。
「じゃあ腹は、後で?」
オットーの問いかけにトーマスは無言で頷く。
「部屋の様子を覚えているか。」
「ああ。」
「血は飛び散っていなかった。息のあるうちに刺したのなら必ず何処かに飛沫が飛んでいる筈だ。だがそれは無く遺体の周囲に血溜りができていただけだった。という事は、息絶えてからだと考えられる。」
「あのナイフか…。放って行ってたってことは、指紋なんか当然ついてないだろうな。」
何気なくオットーが目を向けた先の床には刃を赤く染めたままの作業用ナイフが転がっていた。レジーナの部屋から盗られた物のようで、ケースはレジーナの居間の引き出しから引きずり出されたままの格好で捨て置かれていた。
「最大の問題は、誰が、何処から侵入したかだ。」

朝食は昨晩から仕込んでいたとうもろこしのポタージュとオットーが焼いてきたバター入り角パンだけの簡素なものだった。早朝から重い空気に包まれた中で皆食欲もあまり無く、それだけで十分でもあった。
ジムゾンは食事そっちのけで一人窓辺の席に離れて座り、暗号と格闘していた。導き出せば人狼に利用されかねない。せめて解答は見せまいと考察中のジムゾンにはヴァルター以外近づかないよう取り決められた。そしてジムゾンもまた、考察の痕跡は残さない事を。
「何か手がかりはあったかね。」
食事を運んできてくれたヴァルターに目も向けず、ジムゾンはうーんと唸った。
「この1318という数字。私に解けるという事は、ゲマトリアじゃないかと思うんです。」
「ゲマトリア?」
「はい。ある数字を元としてアルファベットの一文字一文字に与えられた数価から音価を導き出し、並べて意味を解明するという手法です。聖書の解読に際して最も一般的な手法なんですが、元がカバラというユダヤの理論に基いた物だった所為か魔術と混同される事もあります。
たとえば昨日触れた獣の名“666”ですが、あれもゲマトリアで導くのではないかというのが通説です。
ゲマトリアには新旧二種類あって、古い物はヘブライ文字、新しい物はギリシア文字に対応しています。ゲルトの事ですから、恐らくは新版。これがその表です。」



「それで、解ったのかな?」
期待に目を輝かせるヴァルターを見つつ、ジムゾンは浮かない顔で首を横に振った。
「数字が1318と“:”で分けられていない所からして章節ではなく、また、“千三百十八”である事は解ります。数価の組み合わせ方はそれこそこじつけじゃないかと言われるほど膨大な可能性があるので、それを考えるだけでも一苦労なんですが…今の所どれもうまく言葉にならないんです。
鍵は恐らく、PSA以降の言葉にあるんだと思います。…が、その鍵の意味もいまいちわからない。」
「PSA、PSA…。何かの頭文字かとも思えるが、そうなると数が無限に近い膨大さになる。」
「そうですね。“解ける”と言った以上、その可能性は無さそうです。」

会議用テーブルの片隅で、オットーとアルビンは声を潜めて話し合っていた。
「ジムゾンが出て行った以外に、誰も見て無いんだな?」
「はい。パメラさんが声を出すまでちゃんと目を配ってましたから。」
「…という事は、やっぱり状況的に一番怪しいのはパメラだ。」
オットーは足を投げ出して椅子の背にもたれ、アルビンはおどおどと辺りを窺った。
「パメラとペーターはヨアヒムが外に連れ出してた。気晴らしにってな。」
そう言って端の席に腰を下ろしたのはディーターだった。
「お前はどう思う?」
「どうもこうも。パメラは犯人じゃねえよ。」
期待していた回答が得られず、オットーは聊か拍子抜けした様子だった。
「まさか“孫娘のパメラが祖父モーリッツを殺すなんてありえない”とか言うんじゃないだろうな。」
オットーの苦笑まじりの問いにディーターは首を横に振った。
「そんな理屈がまかりとおるならリーザもレジーナもシロになる。そうじゃない。パメラはアルビンに依頼された上でモーリッツの所に行っている。そんな状況で殺そうものなら自分を疑えと言うようなもんだろ。お粗末だ。」
「突発的な殺しだったのならありえなくも無い。」
「証明する物が無い。」
「ある。」
強い口調で断定したオットーを二人はぽかんと見つめた。
「ちょっといいか。」

レジーナの部屋は寝室の遺体を片付けた以外はそのままにされていた。小物を入れておく棚は開けっ放しにされ、ナイフケースも引き出しの端に引っかかったままになっている。
「朝方皆で入った時気がついたんだ。昨日レジーナの部屋を捜索した時と変わった点がひとつだけある。」
オットーに言われて二人は室内を眺めた。
「えーと…荒らされてますね。」
遠慮がちに呟いたアルビンの答えにオットーは冷ややかな眼差しを投げる。アルビンはなんでもないですと漏らしてしょんぼりと肩を落とした。
「あんまり覚えてねえんだよな。特に目立つモンも無かったし。」
「逆さ。」
オットーはつかつかと寝室の扉の脇に置かれた木製の二段ワゴンの前に歩み、二人を振り返った。
「目立つ物が増えてる。この指輪だ。」
指し示した先、ポットやカップなどに混じって置かれていたのは小さな指輪だった。驚いた二人は鏡台に駆け寄った。
「たしかに昨日はありませんでした。…まさか…!」
「推測に過ぎないと言われれば終いだが。パメラはアルビンに言われたのをいい事に、これを置いたんじゃないかと思う。そして、それを偶然寝室から出てきたモーリッツに見付かって、咄嗟に。」
オットーは言葉を切って考察を促すように二人を見た。
「では、その指輪にも例の数字があるんですね。」
アルビンの問いにオットーは無言で頷き、ハンカチを取り出して慎重に指輪を摘みあげた。指輪の裏側にははっきりと“666”の数字が刻まれていた。


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