【青の楽園 第十五話 エピローグ】

ジムゾンの耳に届いたのは天使の奏でる音楽ではなかった。まして小鳥の歌でもなく、なにやら、野太い声だった。薄っすらと目を明けると見慣れない天井が見えた。ぼんやりしたまま体を起こすと胸元が涼しい事に気が付く。見れば聖服のボタンが千切れてはだけてしまっていた。あの出来事は夢ではない。
そうするとこのお世辞にも上手とは言えない歌声は。
そこまで考えた瞬間、声の主がひょっこりと姿を現した。
「おう。目え覚めたか。」
ディーターは嫌に晴れやかな顔を覗かせるとまた引っ込んだ。手にもっていたフライパンには珍妙な物体が乗っていたような気がするが、今は何も考えまいとジムゾンは思った。
二日酔いの所為か少し頭がガンガンして体がだるい。今日くらい聖務をサボッても神様も文句は言うまいと甘えた事を考えながら、寝台から降りて居間へ向かった。
テーブルに散らばっている酒瓶が手際よく片付けられ二揃いの食器と料理をのせた皿が二枚置かれる。皿の上に載せられているのは先ほどフライパンの中にあった珍妙な物体だった。ミルクの甘い香りが部屋中に溢れてはいるが、果たしてこれは食べられる物なのだろうか。ジムゾンはまだ寝ぼけて開かない眼でじいっと皿の上の物体を見つめた。
「顔洗わなくて良かったのか?なら食おう。」
水がなみなみと注がれたコップを二つ置いてディーターはジムゾンを椅子に座らせ、自身も向かい側の席についた。
「…なんですか。これ。」
半開きの目のままジムゾンは珍妙な物体を指し示した。
「何って…パンだよ。フレンチトーストってやつ?」
「…。」
とてもパンの形には見えない。それほどに原型を留めていない塊だった。全体的に茶色く焦げて、べっちょりとしている。何をどう頑張ったらフレンチトーストをここまで破壊できるのかと感心している間に、ディーターはさっさとお祈りをすませて食べ始めた。普通に食べている所を見ると、どうやら毒では無いようだ。しかしこれは、オットーに見せたらきっとパンへの冒涜だと怒り狂うに違い無い。
覚悟を決めて一口含む。少し砂糖が多すぎるようだが、幸い味に問題は無かった。ジムゾンは今日ほど神に感謝した事は無かった。

「…昨日。」
ジムゾンの呟きに気付いてディーターは手を止めた。
「私、寝てしまったんですか。」
「あーあ寝た寝た!寝たもいいところだ!」
ディーターは片手のナイフを振りつつ小ばかにした口調で言った。
「もうムードぶち壊し。百年の恋もさめたね全く。」
衣服が脱がされた様子は無かった。ということは、無事だったのだ。ジムゾンはふーっと長い溜息をついた。
「お前はまだ保護者が必要なお子ちゃまだ。俺はやっと悟った。うん。」
「悟らなくていいですそんな事。」
ジムゾンは低い声で呟いて恨めしそうな目を向けた。そうして不貞腐れながら再びナイフとフォークを手にとってフレンチトーストらしき物体と格闘を始めた。
「…まあつまり。トーマスが帰ってくるまでお前は俺が面倒見なきゃ駄目だって事だ。」
そう言うディーターはどこか気恥ずかしげで明後日の方向を向いていた。
「単純…。」
「なんか言ったか。」
「いえ別に。」

食事を終えて外に出ると素晴らしい秋晴れの空が広がっていた。
「ああ…やっぱり太陽の光が一番です。」
ジムゾンが大きく伸びをしているとふいに声をかけられた。
「あ。おはよーございますジムゾンさん。それにディーターさんも。お出かけですか?」
隣町から品物を仕入れて帰ってきたアルビンだった。行商をしていた頃のように大きな荷袋を背負い、荷袋からは傘やら地図やら溢れかえった品物が顔を覗かせていた。
「おうよ。今から草原までピクニックだ。」
「はあ?!」
「へえ、いいなあ!今日はきっと風が気持ちいいでしょうねえ。」
「それはそうと、お前やっぱりでかいリュックが似合うなあ。」
ディーターはさりげなく勝手に今日の日程を決めて、ジムゾンの声など聞こえないふりをしながらアルビンと話を続けた。
「あぁらおはよう。朝っぱらからお熱いわね。」
茶化してきたのはパメラだった。ペーターと手を繋いで、これから畑に行くのだろう。
「ああこんだけ熱けりゃ冬もびびって村を避けるだろうよ。」
「それはまた農家におやさしい事……やだジムゾン何つけてんの!いやらしい!」
「へ?」
パメラが顔を真っ赤にして叫び、ジムゾンはパメラの視線を追ってみた。行き着いた先は自分の胸元。パメラに手鏡を借りて見ると、そこには赤い跡形がくっきりと残っていた。それが一体何の跡なのかは聞くまでもなかった。
「…ディーター…。」
「な、な何だよお前昨日“何しても赦す”って言ったじゃねえか!なんだキスくらい、減るもんじゃ無し!」

「あーうるさい!痴話げんかならどっか他所でやってくれ!」
「何だね…まったく騒々しい。」
業を煮やしたオットーが小麦粉のついた手のままで飛び出し、ヴァルターまでもが騒ぎを聞きつけて出てきた。
「な、なんでもないんです。ほんと、何でもっ!」
ジムゾンは顔を青くして必死に胸元を隠した。そうしてディーターに文句を言おうと振り返った瞬間、体が宙に浮いた。
「ちょ」
「じゃあそういう事で!いい一日を!」
ディーターが言った事も無いような挨拶を言い、あっという間に景色が遠のいていった。

「…ディーターなんか大嫌いです。」
漸く下ろされたジムゾンは早足で歩きながらむくれていた。
「右に同じ。そのうちお前が“神父になんかならなきゃ良かった!キイ!”って悔しがるような嫁見つけて、お前の教会で式挙げてやらあ。」
「ふっふっ……その時は黒ミサに変更しますからお楽しみに。」
「へっ、妬くくらいなら大人しく神父やめて俺んとこに来い。」
「やだ。」
「うわ可愛くねえー。」
そんな調子で言い合いながら二人は草原に向かって歩き続けた。肝心の弁当を忘れたことに気が付くのは、草原に辿り着いてからの事だった。
またお互い責任をなすりあいながら、いまや二人にとってはそんな時間さえも大切な物となっていた。
気付くことができなかった日常の他愛も無い出来事の喜びを、喜びとして感じているのは他の村人も同じだった。太陽の光も星の煌きも何一つ変わっては居ない。
けれど神に祝福された楽園は、たしかにここにあるのだった。


おしまい

あとがき


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