【恩愛の夜明け 第一話「帝都ウィーン」】

 夕方から降り始めた雪がウィーンの町並みを白く染めていく。ミュンヘンからの旅の途中、ザンクト・ペルテンに辿り着いた日に初雪が降った。これからいよいよ本格的な寒さが始まり待降節も近づいてくる。ウィーンはハプスブルク家のお膝元だ。クリスマス市もさぞ賑やかな事だろう。ジムゾンは窓の外から視線を逸らして温かな香草茶を一口飲んだ。見てみたい気持ちもあるが、のんびり観光をする為にここまで来たわけでは無かった。
「立派なお屋敷ですね」
 ジムゾンはすぐ横に腰掛けているディーターに顔を向けた。
「宮廷図書館の司書ともなればな」
 ディーターは短く呟いて香草茶入りのカップを口に運ぶ。
「私てっきり、王宮にお住まいかと思っていました」
 ジムゾンの言葉を聞いてディーターは苦笑した。
「無い無い。召使ならともかく、司書官だぞ。書記顧問と兼任なんだから所謂宮中伯ってのだ。立場としてはお前の親父さんより上だな」
 ジムゾンは目を丸くし、改めて室内を眺め回した。美しい刺繍が施された厚手の絨毯や、しっかりした造りの飾り戸棚など立派な調度品ばかりだ。宮中伯、つまり大臣の身分とあらばこれだけの品物が揃えられているのも納得がいく。
「お待たせしました。あ、いや、どうぞかけたままで」
 不意に扉が開き、男が入ってきた。年の頃は四十になるかならないか、眼鏡をかけた穏やかな物腰のこの男こそが、クララの雇い主である司書官ライナー・フォン・ケッセルリングその人だった。口髭を蓄えているものの、どことなくジムゾンに似た儚げな風貌は、この動乱の帝国の頭脳と言うにはやや心許ないものもあった。
 ジムゾンはライナーに勧められるまま、同じく立ち上がったディーター共々再び長椅子に腰掛けた。バイエルン大公の甥とはいえ、一介の司祭とその連れにこれだけ丁寧な貴族も珍しい。素性もはっきりしない平民のクララを傍近く置いていた事からしても、ライナーはあまり身分などを気にする人間では無いようだ。一通りの挨拶を終えて、暫くは取りとめも無い話が続いた。ジムゾンが飾り戸棚のガラス細工を誉めると、ライナーは照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「元々、この屋敷は家財道具一切含めて貰い物なのです」
 ジムゾンは驚いた様子でライナーに目を向けた。
「立派なものでしょう。以前は私の友人でもあった別な顧問が使っていたのです。彼が田舎に引っ込んでしまって、それからは私が」
 そう言ってライナーは目を細めた。
「ヴァルター・ローエンシュタインと言って、オーストリアでは随分名の知れた男でした」
 ライナーの口から出た名を聞いて、ジムゾンは思わずディーターと顔を見合わせた。
 ヴァルター・ローエンシュタイン。それはかつて二人が滅ぼしてしまった辺境の村の長の名だった。村長になる以前はどこかの領主の家臣だったらしいと聞いたことがあった。とはいえヴァルターは貴族ではない。皇帝の顧問だったとなると俄かに信じ難く、同姓同名の別人ではないのかと思った。しかし同一人物である可能性も否定はできない。ジムゾンは固唾を飲んでライナーの言葉を待った。
「パドヴァ大学の並み居る教授達をして、最早教える事が無いとまで言わしめた曰く付きの神童で。彼を引き抜いてきた陛下にも随分信頼されて重用されていました。辞めた理由は奥方の療養の為という事になっていましたが、実際は偏向に歯止めのきかぬ宮廷議会に匙を投げたというのが本音でしょう。そして彼の居なくなった後の議会はと言うと」
 ライナーは言葉を切り、首を緩く横に振った。が、すぐに我に返る。
「すみません。つい愚痴が」
「いいんです、いいんです。ところで、そのヴァルターさんにはお子さんがおられませんでしたか。パメラという名前の、娘さんが」
 急いたジムゾンの問いかけに、今度はライナーが驚く番だった。
「ええ!ですが何故それを?」
 ライナーとジムゾンの話を照合すると、お互いの知っているヴァルターが同一人物である事が解った。何時もなら不用意な事を喋るなと止めるディーターも、興奮した様子の二人を黙って見ていた。
「そうですか……まさかヴァルターとお知り合いだったとは」
 一頻り話した後で、ライナーは溜息混じりに呟いた。
「パメラもこの屋敷を出て行った頃はまだほんの小さな子どもでしたが、もう随分と大きくなったでしょう」
 何気ないライナーの言葉に、ジムゾンは一瞬動きを止めた。懐かしさのあまり忘れてしまっていた。ヴァルターもパメラも。自分とディーターが殺めてしまった事を。
 あの村でジムゾンはトーマス以外誰にも手を出さなかった。その為実感がつい薄れてしまっているが、彼らの死の原因は自分にもあるのだ。ジムゾンは改めて、自らの宿命を思い出した。そして今に至るまで命を奪ってきた数名の人の事を。ディーターは一見何も気にしていないように見えるが、実のところそういうわけでもない。彼も彼なりに、人の命を奪って糧とせねば生きられない自らの宿命に負い目を感じている。ずっと一緒に旅をしてきてよく解っていた事だった。にも関らず、直接手を下したディーターの前で無神経に言ってしまった事にも気付き、ジムゾンは自分の軽率さを深く後悔した。そんなジムゾンに気付く事もなく、ライナーは嬉しそうに続けた。
「あの子が生まれた時のヴァルターの喜びようときたら。少し大きくなったら今度は嫁にやる心配ですよ。まだよちよち歩きのパメラをつかまえて、誰の嫁にもやらんと息巻いていたのが本当に可笑しくて」
「そうですね。本当に、本当に」
 ライナーと一緒に笑いながら、何時の間にかジムゾンの瞳からは涙が溢れていた。仕方の無い事なのだ。人狼にとって、人間を喰らうのは人間の食事と同じ事だ。喰わなければ飢え死にしてしまう。そしてこの身に流れる血は、どんなに拒んでも一定条件下で惨劇を引き起こしてしまう。そんな事はとうに解っていた事だった。理解し、受け入れられていた事だった。しかし村を出た後犠牲にしてきた人々と違い、あの村の住人とは一年近く同じ土地で過ごしてきたのだ。特別親しかったわけではないが、よく見知った村の仲間だった。ジムゾンはただあの村での思い出を押し止めるのに精一杯で、彼らの死と村の壊滅をライナーに伝えるのに随分と時間がかかった。

 一転して部屋は悲しみに包まれた。突然の訃報を聞かされたライナーは驚きと嘆きを隠せなかった。
「ヴァルターは最後まで戦に異を唱えていました。徒に戦火を拡大しても、フランスをはじめ諸外国を利するだけで何にもならないのだと。予言どおり国内は荒れ果て、その煽りが、彼と家族にまで」
 ライナーは言葉を詰まらせ、俯いた。あの惨状をジムゾンの口から聞いて傭兵の仕業だと思っているようだった。自分達の、人狼の仕業だと言うわけにも行かず、ジムゾンもまた黙して俯いた。事実、今まで旅をしてきた中で見てきた光景の中には、血の宴以上に凄惨な物もあった。人狼でも考えられないような惨状を目の当たりにして、人狼以上の魔物がどこかに潜んでいるのではないかと思った程だ。げに恐ろしきは人間かな、とはよく言ったものだが。筆舌に尽くし難い光景を生み出すに足る心とは一体どのようなものか。人狼のジムゾンにも想像すら出来なかった。
「ささやかな幸せもお許しにならないとは、神も酷な仕打ちをなされる……」
 そこまで言ってライナーは慌てて顔を上げた。ジムゾンが司祭だと思い出したのだろう。しかしジムゾンは釈明の言葉を待つまでもなく、許しの代わりに静かに頷いてみせた。
 ヴァルターの妻を奪ったのは傭兵だ。そして彼ら親子を殺めたのは自分達だ。神の行いではない。村での真相を知らぬライナーも、悲劇が人為的な物である事は勿論解っているだろう。しかし誰を恨めばいいのか解らない状況では、神を恨んでしまうのも仕方の無い事だった。
「申し訳ない。つい取り乱してしまいまして」
 漸く落ち着いたライナーは眼鏡を外して目頭を押さえつつ、顔を上げた。
「しかし不幸な知らせとはいえ、聞けて良かった。彼から便りも無く、もう一生、何も解らないものと思っていましたから」
 力なく呟くライナーだったが、不意に何かを思い出したようだった。と、同時に今まで黙っていたディーターが口を開いた。
「ジムゾン、手紙」
 ディーターに言われてジムゾンも漸くここまで来た目的を思い出した。ディーターから受け取った書簡を手に、ジムゾンは改めてライナーに向き直った。
「ごめんなさい、うっかりしていました。こちらが、クララさんからのお手紙です」
 伯父にライナー宛ての書簡を頼んだ際、ジムゾンの走り書きも同封して貰っていた。伯父に事情を話すわけにもいかず、こうやってライナーに真の用件を伝えていた。勿論、万一誰かに見られても解らないようにぼかして、だが。
 ライナーはジムゾンから書簡を受け取ると、神妙な顔つきで封を切った。ライナーの目は静かに手紙の文字を追う。ジムゾンとディーターも黙ってそれを見守り、室内には暖炉の火の燃える音だけが響いた。沈黙の中、ライナーの表情は徐々に険しくなっていく。暫くしてライナーは手紙を読み終え、小さく唸って目を閉じた。
「どうかされましたか」
 不安げなジムゾンの声を受けてライナーは目を開けた。が、すぐに返事はせず少しの間何事か考えているようだった。
「この書簡を届けて下さったという事は、あなた方も私と一蓮托生」
 ライナーはまるで独り言のように呟いてから手紙をジムゾンに渡した。促されるままジムゾンとディーターは手紙を見た。手紙の冒頭は、突然屋敷を辞した事に対する謝罪だった。そして次いだ本題にジムゾンは我が目を疑った。そこには、皇帝軍総司令であるフリートラント侯ことヴァレンシュタインの暗殺計画についてが書かれてあった。

 驚いて顔を上げるジムゾンに、ライナーは黙したまま続きを読むよう促した。手紙には更にこう綴られてあった。クララが偶然、その計画を話し合っている現場を見てしまった事。そしてそれを知られたがゆえ命を狙われた事。新教軍との講和に尽力している侯を失うのは多大な損失である。叶うものなら計画を阻止したかったが、あまり首を突っ込むとライナーにまで迷惑がかかると考え、逃げたのだと。図々しい事も承知の上だが、もし出来る事なら侯を救って欲しい、とも。
 暗殺計画首謀者はリヒャルトという書記官だとも記されてあった。ライナーの話によると、リヒャルトは新教との融和派であるライナーとは対極の保守派で、議会ではもう長い事お互い平行線のまま対立しているという。ただリヒャルトもヴァルターとはまともに討論して勝てた試しがなく、昔は大人しくしていたそうだ。しかしヴァルターが去った後はこれ幸いと攻勢を強め、ことある毎にライナーを陥れようと画策するようにまでなった。ライナーがこうして議会から遠ざかったのも、半分はリヒャルトの執拗な攻撃に嫌気が差したのもあるとの事だ。
「……不穏な気配は感じていました」
 ライナーはジムゾンから手紙を受け取りながら呟く。
「ウィーンではヴァレンシュタイン卿謀叛の噂が囁かれて久しいのです。殆ど議会に顔を出さず、引き篭っている私の耳にさえ入るほど。何時か誰かの手でなきものとされてしまうのではと思っていましたが。やはり」
 この所、ヴァレンシュタインは密かにザクセン侯やスウェーデンと連絡を取り合っているとの噂がまことしやかに囁かれていた。戦とその余波による国内の荒廃を憂えて、或いは講和というのは真っ赤な嘘でスウェーデンに寝返るため。その捉え方は各地で差があり、ライナーの話からするとウィーンでは後者謀叛説が主流のようだ。
「そんな、今までずっと資金や兵を供出して下さっ」
 驚きのあまりジムゾンは声が大きくなってしまう。傍らのディーターは、更に立ち上がりかけたジムゾンを制して口を塞いだ。
「疑念を抱かれるのも仕方の無い事でしょう。今までの彼の行状からすれば」
 ディーターはジムゾンを押さえたままライナーを見た。
 ヴァレンシュタインは元々ボヘミアの下級貴族で、新教徒だった。幼くして両親を亡くした後はパドヴァ大学への遊学など放浪を続け、富豪の婦人との婚姻や金貸しで一財産築いたのだという。その金を元手に傭兵を雇い、これを調練し、故郷ボヘミアでの反乱の折に資金と兵を皇帝に提供した。しかしその後ボヘミアの土地を買い漁り、皇帝との契約によってフリートラント(北ボヘミア)の土地と爵位、更にはメクレンブルク公爵の地位まで手に入れた。一度罷免され、再び要請を受けた折には選帝侯位まで要求したと言われている。爵位を喉から手が出る程欲しがっていたというのは専らの噂で、となれば神の啓示だったなどと言われる旧教への改宗も単なる政治的な目論見である可能性は高い。勿論、身の安全の為に改宗するという話は珍しいものではないのだが。旧教への帰依の熱心さや皇帝への忠誠心など薄いと見られたなら、今回の単独行動が疑われるのも仕方の無い事だろう。
「ジムゾンさんやクララのように、和平を望む人々にとって彼は率先してスウェーデンと交渉に当っている英雄にも見えるでしょう。しかし仮に卿に二心無かったとて、これまでの行いも踏まえ、単独で交渉したとなればウィーンに誤解されても仕方ありません。シュタイナウでは敵方捕虜を無条件で釈放までしてしまった。私とて和平は大いに望むところです。ですが私は新教との融和派である以前に帝国の人間です。国を余所者にあけ渡す可能性もある彼を擁護するかと聞かれたら素直にはいとは言えない」
 きっぱりと言うライナーの表情は先ほどまでと打って変わって厳しいものだった。まさしく帝国の行く末を双肩に担う書記官のそれである。ライナーは難しい顔をしたまま立ち上がり、クララからの手紙を一つずつ丁寧に暖炉の火にくべた。手紙の結びに読み終えたら焼却して欲しい旨も記されていたからであったが、記されていなくてもライナーはそうしていただろう。
「北方の獅子という強大な敵が居たからこその信頼でした。が、その敵も戦死しあのような態度を取った今では僧侶達からは戦渦を広げた悪魔だと罵られ、諸侯からは成り上がりの裏切り者と詰られる。卿に本当に野心も二心も無いのなら、さぞ苦しかろうと思います。ですがそれを確かめる事もできない状況では、いかに卿の命がかかろうとも私も擁護のしようが無いのです」
 ジムゾンは呆然とライナーを見つめるばかりだった。言いたい事も聞きたい事も沢山あるが、頭の中が混乱していて何を喋って良いのか解らなかった。
「お陰でクララが出て行った謎も、この所の妙な動きの原因もよく解りました。後はともかく、クララから手紙が出され、それを読んだという事を悟られないようする他ありません。お二人まで目を付けられる事は無いとは思いますが、クララに関する事をもし聞かれたら十分気をつけて下さい。……私の使いが大変なご迷惑をおかけして。申し訳無い」
「妙な動きとは、何かおありだったのですか?」
 少し気になって、ジムゾンはライナーに問うた。
「あ、ああ。すみません。これはお話していませんでしたね」
 ライナーは苦笑して再び椅子に腰掛けた。気疲れからか、先程より体を深く沈めている。
「実は、半月ほど前から異端審問官の訪問を受けているのです」
 異端審問官という単語を聞いてジムゾンとディーターはまたも顔を見合わせた。二人の脳裏には、以前インゴールシュタットで出会った異端審問官ロタールの姿が浮かんでいた。これが一癖も二癖もある人物で、騙すのに中々骨が折れた。当時の苦労を思い出してジムゾンはライナーへの同情を禁じ得なかった。
「それがどうやらリヒャルトの差し金のようで。何の根拠があって私を異端だと告発するのか不思議だったのです。しかしあの男がクララを追っていたとあらば合点が行くというもの」
 ライナーは更に続けた。
「クララは新教は新教でも、アウグスブルクの和議で新旧両方から異端とされたスイス長老派教会の信徒なのです。俗に言う、カルヴァン派です。恐らく、リヒャルトはクララの素性を調べ上げてそれを突き止め、使いが異端なら主人も異端だと難癖つけて教会へ奏上でもしたのでしょう。クララとの関与を見てというより、私を追い落とすいい機会と見たのでは無いかと」
 そこまで一気に話して、ライナーはすっかり冷めてしまった香草茶を一口飲んだ。
「審問にかけられるのですか?」
 ジムゾンは不安げにライナーを見た。
「いえいえ、ご心配無く。それが可笑しいのですよ。あの方は審問官になられてから滅多に公の場に姿を見せないのでリヒャルトは気付いていないのかもしれませんが」
 ライナーは笑いながら姿勢を整えた。幾分か元気も取り戻したようだ。
「審問官というのが、ヴァレンシュタイン卿のご友人でしてね。以前軍に身を置かれていた事もあるモラヴィア辺境伯、ロタール・テオドシウス・フォン・ギレッセン卿なのです」

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「こういう偶然はありなんだろうか、ジムゾン」
「ありなんだと思いますよ、ディーター。だって。現にそうなんですから」
 ジムゾンもディーターも、二人とも視線は明後日の方へ向けたまま呟いていた。ヴァルターの事といい、本当に妙な偶然が続くものだ。ジムゾンは戸惑った様子のライナーに説明し、ロタールがあのロタールである事はすぐに明らかとなった。
 ライナーの話によると、ロタールはヴァレンシュタインの友人で、かの軍の元帥でもあったらしい。ヴァレンシュタインが罷免されてすぐ軍を辞し、ドミニコ会所属の異端審問官になったのだという。傭兵然とした見てくれから解るように半分は俗世に身を置いているため、今もモラヴィアを治めているのは彼なのだそうだ。それゆえプレンツラウにある修道院に所属しているものの、拠点はモラヴィアであると言う。立場の面でも地理の面でも、ロタールがライナーを担当したのは当然の事と言える。
 しかしモラヴィア辺境伯となると国王にも匹敵する大領主だ。ハプスブルク家の遠戚にもあたる。単独で軍を率いるならともかく、誰かの下で軍人として働く必要も無ければ、一審問官として活動する理由も無い。出会った時に身分を明かさなかったあたりからしても、矢張りかなりの変人のようだ。
「審問官も兼任されている事はあまり表向きにされていませんからね。敬虔な旧教徒ですが少数の思想にも理解のあるお方です。今まで二度訪問を受けましたが、誤解される事はありませんでした。依頼主がややこしい人間なので形式だけしているのだとも。ですから、ご心配には及びません」
「ばったり出会ったら大変ですね」
 ジムゾンは頬を引きつらせてディーターを見た。と、同時にライナーが立ち上がった。ふと見れば、暖炉の上に置かれた時計の針は丁度十時を指していた。
「遠路ご足労頂いて、本当に有難うございました。私がこんな状態で大したもてなしも出来ないかもしれませんが。せめてウィーンご滞在の間は、こちらでごゆっくりお寛ぎ下さい」
 ライナーは随分遅くまで話し込んでしまった事を詫びた。二人が立ち上がった所で、ライナーは何やら言い難そうにジムゾンへ問い掛けた。
「ところで、その、クララはどうしていましたか?怪我をしていると書かれていましたが、大事は無いのでしょうか」
 ジムゾンは一瞬口元を綻ばせ、ザンクトブラジエンでのクララの様子を伝えた。まだ楽観できるわけではないが、助かる、とも。銃撃された件を聞かされて最初は青ざめていたライナーも、助かるという一言に安心したようだった。先ほど見せた冷徹な様子から、クララに対して何の情も持っていないのかと思われたが、やはり第一印象のとおりに情深い人物なのかもしれない。思えばクララが女性ながら眼鏡をかけていたところからしても、一人の人間として大切にしていることも推し量られた。
 そんな彼らを微笑ましく思う反面、やるせない気持ちにもなった。仮にクララが自由に動けるまで回復しても、リヒャルトとライナーの対立がある限りウィーンには戻れない。また、ライナーも重職にあるためウィーンを出て他所の土地で暮らす事などできない。リヒャルトとライナーの間にある誤解さえ解ければ良いのだ。何やら小難しい情勢の話をしているライナーとディーターの後ろを歩きながら、ジムゾンは何か妙案は無いものかと思案に暮れるのだった。

 ライナーとの会談の後二人はそれぞれ客間に案内された。かつてヴァルターがこの屋敷で暮らしていたのかと思うと、どの部屋を見ても感慨深いものがある。尤も、主人が客室を使う事は無いだろうが。やや広めの室内に置かれた調度品も全て応接室と同じ立派な年代物だった。寝台も所々嫌味にならない程度に象眼が施された豪華な代物で、敷き布団の柔らかさも申し分ない。ミュンヘンを出てから野宿が長く続いたため、寝台で眠るのは久しぶりだ。
『なんだかまだ頭が混乱してます』
 ジムゾンは一人寝台に横たわったままディーターに囁いた。
『ヴァルターにしろロタールにしろ、なんでこう素性がややこしいかねえ。そうだ。身近な所じゃお前だって』
 苦笑混じりのディーターの囁きが聞こえてくる。
『内情がややこしくない人の方が珍しいのかもしれません』
 囁き返して、ジムゾンはふと昔の事を思い出していた。実家の城に居た頃、修道院に居た頃。ジムゾンがそれぞれ親しくしてきた中で、全く何の問題も抱えていない人など一人としていなかった。それこそ壊滅させてしまった辺境の村でさえも、誰もが何かしらの事情を抱えて生きていた。
『ライナーじゃないが。まあ、色々解って良かったよ。あとは明日、違和感無いように図書館に行って。ぼちぼちザンクトブラジエンに引き返そうや』
 もう少し休ませて貰いましょうよ。そう囁こうとしてジムゾンははたと気がついた。
『配達のお仕事は確かに終わりましたけど。ライナーさんはこれからどうなるんですか?』
『どうなるって。クララの手紙は燃やしたし、異端審問官はあのロタールだし、後はなるようになるだろ』
『でも、例のリヒャルトとか言う書記官との対立は続くのですよね?暗殺計画絡みの件が終わったとしても』
『そりゃ続くだろうな』
『乗りかかった舟です。いっそ、その書記官の陰謀を挫――』
『かない』
 ディーターはジムゾンの言葉を遮った。
『俺達が口出しできる問題じゃない』
『だって、クララさんも……』
『クララの希望を理由にするな。お前もクララも、講和という目先の餌だけしか見えてない。さっきも散々言ったが、もしフリートラント侯に二心あったらどうするつもりだ。それにクララ単独でも十分危険なんだぞ。審問官がロタールだからいいようなものの、他の審問官なら異端の関係者と言うだけで問答無用の火あぶりだ』
 珍しく手厳しい反論だった。理詰めで感情は挟まない。正論で相手に反論の余地を与えない。村で出会ったばかりの頃、打ち解ける前のディーターは何時もこんな調子だった。和解してから冷徹な面がすっかりなりを潜めていた分、久々に真正面から攻められるとドキリとしてしまう。
 しかも異端審問に火あぶりとなると、どうしてもジムゾンは伯父で修道司祭だったアロイスの事を思い出してしまう。現皇帝フェルディナント二世の兄でもある伯父は身分を偽って僧となっており、ジムゾンを守る為に院長を襲撃して審問にかけられた。火刑にされた所を目にしなかった事だけがせめてもの救いだが、一様に伯父を悪魔だと罵る修道僧達の姿を思い出すと悲しかった。ジムゾンはそれ以上何も言えず、黙りこんだ。
『意見を違えているのなら対立は必然だし、ライナーやリヒャルト当人同士でしか解決できない問題だ。もういいから寝ろ寝ろ。第三者の一般人である俺達が悩んでても仕方ねえ』
 昔のディーターと違い、気を遣っているのはよく解る。それでもやはり悲しくて。ジムゾンは口をへの字に曲げて毛布をかぶった。感情に訴え、相手を説得できないとなるとすぐ反論をやめてだんまりを決め込むのはジムゾンの悪い癖だった。ディーターの悪癖と同じく暫くなりを潜めていたのだが、よもやこんな場面で復活してしまうとは。ジムゾンが不貞腐れて気を緩めた瞬間、誰ともつかない囁きが頭に響いた。
『……町だけでなく、ライナーさんのお宅にも人狼が居ますね』
 ジムゾンはぼそりと呟いた。
『居るな。二、三人は』
 ヨハネスが言っていたとおりウィーンの人狼人口は相当のものだった。開けた土地や大都市では血の宴が起こらない事に加え、喰いの衝動も激減すると言う。都会生まれ都会育ちの人狼は、下手をすると一生人を喰わないままの者も居るという。それゆえ、都会は人狼にとって過ごし易い場所だと言える。とはいえ、インゴールシュタットでも何人かの気配は感知していたが、これほどでは無かった。囁きの雑音も人ごみの中に居るくらいの酷さで、ウィーンに入ってから二人はずっとお互いに絞って囁いてきた。
『こんなに喧しくて、皆よく絞らずに居られますよね』
『慣れてるんだろ。いいから早く寝ろって。早くしないと寝る直前に変な囁き聞く事になるぞ』
『変な、って?』
『色事』
 聞くやいなやジムゾンは無理やり目を閉じた。眠りに就く瞬間はどうしても気が緩んで他人の囁きが耳に入ってしまうからだ。しかし悲しいかな、強引に眠ろうと思えば思うほど目が冴えてしまう。情交の内容まで絞りもせずに囁いてしまうなんて、都会の人狼はどうかしてる。そんな事を悶々と考えながら、ジムゾンはとうとう朝方まで眠ることができなかった。


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