【恩愛の夜明け 第二話「暗き予兆」】

 翌日、ジムゾン達はライナーと共に宮廷図書館へ赴いた。宮殿の一角に設けられた図書館はそれは豪華なものだった。宮殿の一室なので室内の装飾が立派なのは勿論、飾り付きの本棚には様々な本がぎっしりと並んでいる。本が賑やかな反面人気は無く、館内にはジムゾン達しかいない。
「凄いですね。院の図書館とは比べ物になりません」
 ジムゾンは聊か興奮ぎみに本を見て回った。さながら本の森の如く。見上げた天井付近まで本で埋め尽くされている。修道院の蔵書量もかなりの物だったが、さすが宮廷図書館はそれ以上だ。神学や哲学は勿論、史書から占星術書までありとあらゆる種類の本があった。それも印刷された物ではなく、殆どが原本である。
「スコトゥスの原本まで。命題集注解の写本は院にありましたが、見たことの無い著作ばかりです!」
 はしゃぐジムゾンを横目に見つつ、ディーターは手近な椅子に腰掛けた。
「面白いのか、その本」
「面白くは無いですが、ためになりますよ」
 ジムゾンは一冊を手に取り、ディーターに勧めた。が、ディーターは軽く手を振って断った。
「院に居た頃聖ボナヴェントゥラの著書など読もうものなら、すぐ研究熱心なブラザーに捕まって小難しい議論を吹っ掛けられたものです。私はぼんやり眺めるのが好きなだけですから、あれが面倒で面倒で。誰にも気兼ねなく読めるなんて、夢のようです」
「普段なら中々閲覧許可が下りないのですが、今回はすんなり行って良かったです」
 ライナーは嬉しそうに笑みを浮かべてディーターの向かいの椅子に腰掛けた。司書用の机も椅子もあるが、滅多に使っていないようだ。
「あなたに権限があるのでは?」
「私はあくまで本の管理をするだけの取り次ぎ役ですから。最終的に許可を出されるのは陛下です」
 ディーターの訝しげな問いに、ライナーは笑って答えた。近場で本を広げていたジムゾンは動きを止めてライナーを見た。
「書簡を頂いた先月の事です。ルーデンドルフ伯のご子息だとお伝えしたら、二つ返事で了承されましてね」
 上機嫌のライナーを尻目に、ジムゾンは一瞬目を丸くしてから肩を落とした。
 ジムゾンの母マリア・アンナは先代バイエルン大公の娘だ。しかし実はハプスブルクの家の娘で、実弟であるフェルディナントと血族結婚をさせる為バイエルンへ養女に出されていたのだという。ところが母は婚約を破棄してルーデンドルフ伯と結婚した。
 果たしてフェルディナントは母を実姉と知っているのか否か。それが解らない状況では、裏切ったようにも見える母をどう思っているのかも解らない。血の繋がりから考えれば母の選択は賢明だったと言えるが、さすがに事が事だ。
 ジムゾンはそんなややこしい母を持った身である。ルーデンドルフの名を出さない方が良いのではないかと考えた末、伯父のバイエルン大公を頼ったのだ。それが、名前を出しても何事も無かったとは。ミュンヘンまでとんだ寄り道をしてしまったものだ。
「いいじゃねえか。どうせミュンヘンは通らなきゃならなかったんだし。お前んちまで戻っていたらそれこそ時間がかかっただろ。それに、修道士じゃ無くなったのも解って良かった」
 ディーターの慰めもどことなく虚しい。ジムゾンはどっと疲れて椅子に腰を下ろした。だが確かに自分の僧としての処遇がどうなったのか解ったのは収穫だった。
 村が壊滅した事により、ジムゾンの任地は消えた。元々、村からの要請で修道院から引っ張り出されたと言うのもあった為、てっきり修道司祭に戻るものと思っていた。それゆえ、村壊滅の報や自分の行く先などはマリアラーハ修道院に知らせていたのだが。知らせを受けたマリアラーハの院長は、教区司祭となったジムゾンの上司にあたるケルン大司教へ上申した。叔父でもある大司教は、ジムゾンの実家やバイエルンに、身分としては教区司祭のままである事を伝えた。それを、ジムゾンはミュンヘンで初めて知ったのだった。
 現在、ジムゾンはケルン大司教区司祭と言う事になっている。が、任地が無い事やジムゾン個人の事情から、事実上はルーデンドルフ伯付き司祭という状態である。実家付きの司祭と言うのも、なんだか居心地が悪くてしょうがない。ディーターと旅をしていて聖務など殆ど行っていないのだから尚更だ。状況が解ったのは喜ばしい事だったが、ジムゾンは内心複雑だった。
「大丈夫ですよ。どのみちお二人の来訪は陛下に申し上げなければなりませんでしたし、閲覧の理由も別段不自然ではありません。あの男も今はウィーンを離れていますから」
 手紙の事が露見する恐れを抱いていると見えたのだろうか。真相を知らぬライナーは声を潜めて言い添える。的外れな助言だったが、説明しようにも長すぎるのでジムゾンは曖昧に笑うことしかできなかった。

 図書館を出る頃にはすっかり夜になっていた。昼止んでいた雪もまた降り始め、町を行きかう人の影もまばらだ。
「すみません、随分お待たせしてしまって」
 屋敷へ向かう馬車の中、ジムゾンは俯いて手をもじもじさせた。あれからジムゾンは読書に没頭し、とうとう一冊読み終えるまで二人を待たせてしまっていた。
「いいんですよ。本は読まれてこそのもの。世に流通していない本もかなりありますから、お好きなだけご覧下さい」
 ライナーはそう言って微笑んだ。すると思い出したかのようにディーターがこちらに向き直る。
「錬金術の本もあったぞ。それに、おとぎ話の本も」
「へえ、おとぎ話の本なんて珍しいですね」
『おとぎ話っつっても、人狼についての本なんだよ』
 ディーターの囁きに返す前に、ライナーが口を開いた。
「黒い森の伝承集をご覧になったのですね」
「黒い森……あの黒い森の事ですか」
 ジムゾンは訝しげに問うた。
「ええ。バーデンの黒い森です。伝承集は、森を舞台にした古の賢者や人狼という魔物についてのおとぎ話なのです。随分謎めいた、面白い話だったでしょう」
 ライナーに問われ、ディーターが頷く。
「変わった本ですね。平易で、他の蔵書と毛色も違う。内容的に子供用というわけでも無さそうですが」
「あの本だけは特別なのです。ディーターさんがご覧になったのは写本で、原本は閉架書庫の奥深くに保管されています。また、閉架書庫の鍵は陛下がお持ちでお借りする事はできません」
「何故そこまで厳重に?」
「さあ……詳しい事は私も知らないのです。ただ、ハプスブルク家に代々伝わってきたものだという事で。一族の誰かが書いた物なのかもしれません」
 ジムゾンはふと、母が生前黒い森について言及していた事を思い出した。もしかして、母はこの本を読んだのかもしれない。人狼の成り立ちについてはニコラスを始め、転生を続ける古のドルイド達に色々と教えて貰っている。伝承集に書かれてあるのは既知の事なのかもしれない。それでもジムゾンは、母が読んだかもしれないその書物を一度読んでみたいと思った。
「明日、それを見せて頂いても――」
 言いかけた瞬間、馬車が急に止まった。馬車はガタンと大きな音を立てて揺れ、バランスを崩したジムゾンは思わずディーターの腕を掴んだ。
「どうしたんでしょう」
 御者からの連絡も無く、ライナーは一旦外へ出た。暫くして御者らに呼びかけているらしいライナーの声が聞こえた。しかし御者らの返答の声は無く、ライナーの声だけが次第に大きくなっている。様子がおかしい。ジムゾンもまたディーターと一緒に馬車から降りた。
「居眠りか?」
 ディーターが訝しげに呟いた。見れば、御者も従者も揃って眠っているようだった。そして二頭の馬さえも。また、通りを歩いていたと思しき人々もその場で眠ってしまっている。雪の降りしきる広場のど真ん中で、ジムゾンを含む三人を除いて誰も彼もが眠っていた。
「おかしいな、起きないんですよ。クルト!フランツ!一体どうしたんだ!」
『おい、中の奴らにかかってないじゃないか』
『効果が届かなかったんだな。しくじったがまあいい、見られて証言されても与太話で終わるだろう』
 聞いた事の無い囁きが聞こえてきた。刹那、周囲に殺気が満ちる。
「な、なんだ君達は……?!」
 何者かに取り囲まれてライナーが声をあげた。てっきり人狼かと思われたが、現れたのは数名の人だった。だが血の臭いがする。全員が人狼かどうかは判らないものの、先程の囁きからして少なくとも二人は人狼だ。彼らはライナーの問いかけに黙して答えず、手にはそれぞれ抜き身の剣が握られている。あまり楽しい用事でないことは明白だった。対するこちらはディーター以外丸腰である。仮に相手が全く変化しないにしても分が悪い。
「ディーター、これを!」
 ジムゾンは雑のうを探って一振りの短剣を取り出した。変化した人狼に唯一傷をつけられる狩人の道具、“慈悲の刃”。刀身に彫りこまれた古い呪いの文様が、人狼の再生能力を封じるという。都会は人狼が多いからと、以前ヨハネスから護身用に貰っていた。
『まさか対立するはめになるとはな』
 ディーターはげんなりした表情を浮かべて短剣を受け取った。
『夜盗でしょうか。それとも、リヒャルトの手先?』
『解らん。が、襲撃以外の目的で俺達を狙っているのには違いない。とりあえず囁きは絞ったままでいろ。さっきの囁きからすると、奴らは俺たちが同族なのに気付いていないようだ。目的が解らない以上、同族だとばらさない方がいい』
「ケッセルリング卿。剣は使えますか」
「多少は」
 ライナーが答えるやいなや、ディーターは身につけていた普通の剣をライナーに放った。
「幸い奴らは銃を持ってないようだ。すまないが援護を」
 言った傍から切りかかられて、ディーターは鞘をつけたまま短剣で受け止めた。するとまたも囁きが聞こえてきた。
『赤毛は相手にするな!眼鏡の司書官を狙え!』
「……と、思ったが狙いはあんたのようだ」
 ディーターは相手の刃を押し返し、その勢いでライナーの横へ移動した。囁きの指令どおり、刺客らはライナーに攻撃を集中させていた。防戦一方のライナーを見るに、腕前は本人曰くの「多少」の域を出ない。大人数相手では持ちこたえられそうに無かった。
「えっと。私は」
 ただ一人丸腰のジムゾンは、ライナーの影に隠れたままディーターに問いかける。
「お前は俺の後ろにでも居ろ」
 ジムゾンはディーターに腕を引っつかまれ、強引に後ろへやらされた。その時だった。
『今だ!赤毛の後ろ!』
 ディーターが振り返る僅かに前だった。一陣の風が走り抜け、ジムゾンの体は宙に浮き上がる。
「ジムゾン!」
 ディーターの叫び声が遠く下から聞こえた。ジムゾンは今一度周囲を見渡した。先ほどまで通りの建物が見えていたのに、今は家々の屋根しか見えない。さらには遠く大聖堂の尖塔すら見える。そして視線を下にやると元居た広場が足元に見えていた。景色の位置が、違う。
「え?」
 わけが解らないまま両手を彷徨わせていると、荒い毛が手に触れた。よく見ればそれは人狼の腕で、ジムゾンの胴に回されている。振り返って見上げた先には当然ながら人狼の頭が見えた。どうやら人狼化した誰かに、建物の屋根まで連れて来られているようだ。
『神父に傷つけるなよ。無傷で連れて来いとの仰せだからな』
「……あの」
 ジムゾンは恐る恐る人狼に話しかけた。茶色い被毛の人狼はジムゾンを一瞥し、赤い瞳を笑みの形に歪めた。
『大丈夫だ、怖がってて暴れもしない』
 今囁いたのはジムゾンを抱えている人狼らしかった。彼ら全員、この至近距離でもジムゾンが人間だと勘違いしているらしい。人狼の人口が多いだけに、もしかしたら血の臭いが解らなくなっているのかもしれない。
『いや別に同族を怖いとは思いませんけど』
 ジムゾンは思わず独り言で突っ込む。
『よし、全員引き揚げろ』
 囁きと同時に、眼下の刺客達は全員人狼化して姿を消した。ジムゾンがディーターに呼びかけようとした瞬間、物凄い勢いで景色が遠ざかっていった。
『わ、わ。私、どうしたらいいんですか?!』
 ジムゾンの声はかき消され、混乱した囁きだけがディーターに届くばかりだった。

+++

 ジムゾンが攫われてしまった後、通りの人々も御者達も目を覚ました。ディーターは慌てふためくライナーを宥め一旦屋敷へと戻った。
「一体何だったんだ、あの魔物は。ああ、ジムゾンさんにもしもの事があったら……!」
 ライナーはすっかり気が動転しているようで、ぶつぶつ言いながら広間を行ったり来たりしている。ディーターは開け放たれた玄関の扉に背をもたせたまま、腕を組んで目を閉じていた。とんだ失敗をしたものだ。囁きを鵜呑みにしてライナーにばかり気を向けてしまったが、連中は「狙え」と言っただけでライナーの命が狙いだとは一言も言わなかった。あの時ジムゾンはライナーに守られていた。何故それに気付かなかったのか。自分も随分頭が鈍くなったものだ、とディーターは臍を噛む。攫われたから良かったようなものの、もし狙いがジムゾンの命だったとしたら。そう思うと寒気すらした。だが後悔していても何も始まらない。ディーターは思い直してジムゾンに囁いた。
『で、そっちの状況は』
『状況はって……馬ですよ。馬に二人乗り。前に乗せられてて、身動き取れません。とんでもない速度で走ってるので、変化でもしないと逃げるのは無理です』
 ジムゾンの情けない囁きが聞こえる。危害を加えられる心配は無いが、誰が、何の目的でこんな事をしているのか。皆目見当もつかないのは不安だろう。
『ここがどこかも解らないし。ねえ、もう変化して逃げていいですか?』
『駄目だ。全員人狼だっただろう。お前は人狼の身体能力的には平均程度の力しかない。さっき見た限り、奴らはかなり能力が高い。逃げた所で取り囲まれて終わりだし、人狼だと気付かれれば逃げる機会を無くしかねない。いいか、絶対人狼だと気付かれるなよ』
『解りました、解りましたよ』
 ジムゾンの囁きは更に情けなさを増した。
『月は見えるか』
『月?ええ、右の真横に見えてます。もうずっとです』
『了解』
 ディーターは首を外に傾けて空を見上げた。月は出たばかりで東の方角にある。
「ケッセルリング卿。馬を貸して頂けませんか。なるべく早い馬を」
「馬?」
 ライナーは漸く足を止めてディーターに向き直った。
「構いませんが、どうするつもりですか。奴らの狙いも、行き先も、何も解らないのに」
 ここからが問題だった。ジムゾンを攫った連中の目的も行き先も憶測程度にしか解らないが、向かっている方向は解っている。そして、どうやら目的地が遠方である事も。しかし、囁きでジムゾンに聞いたなどとは言えない。
「方角は逃げる奴らを確認したので北だと解っています。あの場でジムゾンを傷つけなかった点から見ると、奴らの目的は今の所ジムゾンへ危害を加える事では無い。また、あなたや私に何の要求もしていない事からして身代金目的でもない」
 ディーターはゆっくりと身を起こす。勿論、逃げる方向を確認したというのは嘘だ。
「いや、ルーデンドルフ伯やバイエルン大公にこれから要求するかもしれません」
 ライナーの反論に、ディーターは我が意を得たりと言わんばかりに体ごとライナーの方を向いた。
「だとしたら奴らはジムゾンの素性を知っている事になる。ジムゾンには悪いですがルーデンドルフ伯は田舎の小領主。ウィーンでの知名度など無いに等しいでしょう。仮に西方から追ってきたのだとしたら、隙だらけの道中に何故襲撃して来なかったのかが解らない。となると考えられるのはウィーンでこの事を知っている人間に限られてきます」
「あ……」
 ライナーは愕然とした表情で呟いた。
「家の人間にジムゾンの素性を話しましたか?」
「いえ。ただ、近いうちにお客様がいらっしゃるとだけ」
 ライナーは首を横に振った。
「では、皇帝陛下以外に宮中でこの事を知っている人間は?」
「陛下についている、十名の書記官のうちの三名。オットカル、デュオニュース、そして……リヒャルトです」
 予想に違わぬ名が挙がった。ライナーは搾り出すように続けた。
「全員が資産家です。誘拐してまで金を得ようとする理由が解らない。たとえ帝国のため、無私の軍資金の調達であったとしても、バイエルン相手なら話し合えば良い事です。そうなると、ジムゾンさんを攫って利益のある人間は一人しか居ない!」
「リヒャルトですね」
 ライナーは力一杯に頷いた。
「ええ!北の方角、ジムゾンさんを知る人間、動機。リヒャルトだとすれば全て納得がいきます。こうしてはいられない。行きましょう!」
 説得するつもりが逆にまくし立てられてディーターは面食らう。が、ライナーが慌てるのも当然だろう。ウィーンと密接な関係にあるバイエルン大公の甥が滞在中に誘拐されたとあらばライナーも咎めは免れない。しかし警護の手薄さを理由にライナーを責めるだけでは誘拐の割に合わない。誘拐までするのならもっと強い見返りがあっての事だ。それこそ抹殺できるほどの。例えばジムゾンにライナーを告発する嘘の手紙を作らせ、然る後に殺害してライナーに罪を着せる。ジムゾンが素直にそんな物を書くとは思えないが、書かないなら書かないで矢張りジムゾンを亡き者にしてライナーに罪を着せるだろう。それが行き着く答えだった。
 ライナーはディーターを促し、馬屋へ向かった。
「リヒャルトは今フリートラント侯の動向監視のため北に、プラハに駐留しています。最短でも三日はかかるでしょうから、そのつもりで」
「プラハって……」
 ディーターは思わず絶句した。旧帝都プラハは、ここからゆうに四十二マイル(約三百二十キロ)離れている。非常識極まりない誘拐だが、リヒャルトが黒幕だとすれば返って納得が行く。
 先程から時折聞こえていたジムゾンの囁きも、段々聞き取れなくなってきている。目的地についてすぐ殺されるという事は無いだろうが、急ぐに越したことは無い。ディーターは荷袋に仕舞いこんでいた慈悲の刃を装備し直し、足早にライナーの後を追った。

+++

 長い、長い道程だった。これまでの過程を振り返ってジムゾンは溜息をついた。何度か休みながら約二日かかり、鬱蒼とした森の中で降ろされた。どうするのかと思いきや、今度は待ち構えていた馬車に乗せられた。それから馬車に揺られる事半日、漸く辿り着いたのは大きな城のような所だった。
 ジムゾンは頭巾のついた大きなローブを着せられ、馬車から降ろされた。長らく馬車に乗っていたせいか体の動きがぎこちない。何度かの休みで洗顔や用足しなど必要最低限の事はできたが、眠る時も体を自由に伸ばせなかった。先行きの不安よりも今はとにかくどこかで横になりたかった。
 両脇を固められて連れて行かれたのは建物の一角だった。大きな門に半分ほどの高さの鉄格子の扉がついている。入口でふと振り返ると聖堂の尖塔のような物が見えた。遠く見える尖塔や屋根は中天にかかった月の青白い光に照らされ、すぐ傍の建物の外壁は松明に赤く照らされている。美しい光の対称を名残惜しそうに見つめていると、脇の男から急かされた。中は外より幾分か温かい。しかし薄暗く陰鬱で暗闇の先に狭い螺旋階段が下へ伸びているのが見える。男達から促されるまま階段を降り、やがてどう見ても牢獄のような部屋の前まで来た。まさかここに入れと言うのか。振り返って問おうとした瞬間、背中を押されて無理やり中に入れられた。
「大人しくしてろよ。まあ、暴れた所でどうにもならないが」
 男達は笑いながら出て行った。硬く閉ざされた扉は木製だが所々鉄で補強されて分厚く、確かに暴れた所でどうこうなるような代物では無かった。窓もほんの申し訳程度の小さなものが一つのみで、差し込む月光だけが唯一の明かりだ。ただ、牢にしては珍しく机や椅子、そして寝台から用足し具まで揃っている。机には燭台が置かれてあり、何か書き物をしていたと思しき痕跡もある。囚人用と言うよりは、捕虜や人質用に見えた。
「暴れなくても出られますけど」
 ジムゾンは不貞腐れた顔で扉の前に座り込んだ。人狼に変化してしまえば厚い扉も頑丈な鍵も意味をなさない。さっさと逃げ出してしまいたかったが、相手の目的を知りたかった。それに見る限り、城と思しきここの敷地内は相手の勢力下にあるようだ。万一城内の人間全員が人狼だった場合、外部からの応援でも無い限り逃げ出すのは困難だろう。悲しいかな、ディーターの言うように人狼化した自分の身体能力は平均値ぐらいでしかない。
「ディーター、ここが解るんでしょうか……」
 ぽつりと呟いてジムゾンは膝を抱えた。ウィーンを出てからすぐに囁きは届かなくなってしまった。方角は伝えたものの、果たしてこの場所が解るだろうか。第一、ジムゾン自身ここがどこか解らない。窓から外の景色を見る限り、地下牢ではないようだ。地下に降りたような感覚があったものの、実際は背の高い塔のような建物の上部から中に入ったのだろう。ジムゾンは立ち上がって窓の傍まで歩いた。
 外は青白い月の光に包まれていた。人狼の目を使うまでもなく辺りの景色がよく見える。夜空には蝙蝠がぱたぱたと不規則な軌道を描いて飛び、どこかで梟の鳴く声もする。手前に見える木々の向こう、遥か遠くには大きな町が見えた。町というよりは都市と言うべきだろうか。これだけの規模になると何処か有名な場所なのだろうが、とんと見当がつかない。ジムゾンが首を傾げたその時、背後で扉の開く音がした。
「プラハの町並みが気に入ったかな、カルヴァンの使徒よ」
 ここまで連れてきた誰でもない、知らない男の声だった。
「カルヴァンの使徒ですって?」
 ジムゾンは驚いて振り返った。再び閉ざされた扉の前に長い金髪を後ろに流した男が一人、何故かジムゾンと同様に目を見開いてこちらを見ていた。年はライナーと同じか少し上くらいだろうか、身なりも上等なものでライナーのそれと似通って見えた。顔立ちはいかにも自信家と言った風で人を食ったような雰囲気を漂わせている。
「私はジムゾン・フォン・ルーデンドルフ。今はケルン大司教区の、れっきとした旧教司祭です」
 少しの沈黙が続き、ジムゾンは訝しげに男を見た。男はジムゾンを凝視したまま暫くその場に立ち尽くしていたが、苦笑いと共に口を開いた。
「ハハ……いや申し訳ない。てっきり異端の伝道師なのかと」
 そう言う口元は何故か笑みの形に歪んでいる。とんでもない勘違いをしたくせに失礼な男だとジムゾンは思った。
「私はリヒャルト・マルコルフ・フォン・カペル。神聖ローマ帝国書記官だ」
 この男が。今度はジムゾンがリヒャルトを凝視する番だった。そんなジムゾンの様子を知ってか知らずか、リヒャルトは続けた。
「私の部下が勘違いをして悪かった。異端者かと思ったらしくてね。そうか、君がルーデンドルフ伯の息子か」
「異端異端と仰いますが、何故そう思われるのか解りかねます」
 ジムゾンは聊か憤慨して言った。身に付けているのは全てよくある司祭の聖服で、ロザリオだって下げている。一体どこをどう見れば新教の聖職者に見えると言うのだろう。大体、自分を攫った連中ははっきり「神父」と認識していたのだ。伝道師と勘違いしたなど嘘八百もいいところだ。そんな大嘘を尤もらしく言うなんて人狼じゃあるまいし。そこまで思った所でジムゾンははたと気がついた。リヒャルトからも自分と同じ血の臭いがしている事を。人狼の部下に人狼の上司。よくもまあ綺麗に同族を揃えたものだと内心感心した。
「君がウィーンに来るにあたって訪ねていったライナーという男だが、異端の嫌疑がかかっているのだよ。それで、聖職者らしい人間と一緒に居るのを見て、部下が勘違いをしたらしい。いやはや、服で解らずともロザリオを見れば一目瞭然だと言うのに」
「ライナーさんは異端などではありませんよ」
 ジムゾンはムッとした表情で言い返した。が、リヒャルトは鼻で笑う。
「田舎領主の息子の君にウィーンの人間の何が解る」
 これにはさすがにジムゾンもカチンと来た。しかしそれ以上に引っかかる事があった。
「私がライナーさんのお宅にお伺いすると何故知っているのですか?」
「宮廷図書館閲覧の許可を申し出ただろう?陛下に奏上される事は、当然私の耳にも入る」
「では何故、それを部下の方に指示しなかったのですか?間違わないように、と」
「私はずっとプラハに駐留している身だ。部下にはライナーの監視を命じただけで、そういちいち細かい知らせは出さんよ。さて、勘違いと解った以上すぐにでも君を解放してあげたい所だが」
 リヒャルトはもったいぶった調子でゆっくりとジムゾンに歩み寄った。
「君もフリートラント侯の不穏な動きは知っているだろう」
 突然の問いにジムゾンは目を見開いた。
「ライナーは密かに彼と手を組み、謀叛を企んでいるらしい。異端なだけならともかく、謀叛となるとさすがに見過ごせない」
 とても信じられる話ではなかった。ライナーと上辺だけで接触したのならともかく、クララの書簡にまつわるやり取りがある。無論、ライナーが実はヴァレンシュタインと結託しており、それを知られたくなかったという可能性も無いわけではない。だがあの時のライナーの言葉が嘘だとは思えなかった。そして、どちらにとっても大切な事だと言ったクララの言葉も。それに何より、同族とはいえ演技も堂に入った人狼の言う事など信用できる筈も無かった
「憶測に過ぎないのでしょう」
「憶測でも不安の芽は摘んでおくに越した事は無い」
 リヒャルトは強い調子でジムゾンの反論を打ち消した。憶測だけで人をどうこうしようなんて随分な事ですね。そう反論したかったが、した所で話になるまいとジムゾンは黙って聞いていた。
「君もバイエルンの血をひく人間だろう。そして、遠くは陛下と同じ血を」
 猫なで声で耳元で囁かれ、ジムゾンはブルッと身を震わせて顔を背けた。
「だからバイエルン大公に手紙を書いて欲しいのだよ。ライナーを告発する手紙を」
 ジムゾンは再びリヒャルトに顔を向けた。リヒャルトは両の口の端を吊り上げて気味の悪い笑みを浮かべていた。
「そうすれば宮中も、バイエルンも、君のご実家も安泰だ。書いてくれたのなら、すぐに解放すると約束しよう」
 ジムゾンは一歩後ずさり、リヒャルトを睨んだ。
「信じられませんね」
 リヒャルトは眉をピクリと動かした。ジムゾンは畳み掛けるように続ける。
「あんな化け物を使役している人の言う事なんて。それに、私を勘違いで攫っておいて何故そっちが条件をつけるのですか」
 倍にして反論されると覚悟していた。だが、リヒャルトは首を傾げて笑うばかりだった。
「化け物?何の事かな」
「とぼけないで下さい。まるで狼のような毛むくじゃらの魔物です。あんなものを使っているなんて、あなたこそ異端か何かなのでは無いのですか」
 リヒャルトは如何にも憐れんだような表情を浮かべた。
「ジムゾン神父。君は夢でも見ていたのではないかな。私の部下はみな普通の人間だ」
「嘘です!だって、あ――」
 ジムゾンは我に返って口を噤んだ。リヒャルトからも同族の血の臭いがしているなどと言っては、自分が人狼である事もばれてしまう。
「そうか。では、勘違いをしたのは私の部下ではなかったのか!」
 リヒャルトはわざとらしくあさっての方を向いた。
「おかしいと思っていたよ。異端者を捕らえてきたと連絡を受けたものの、ウィーンに派遣した部下の姿は見えなかったのだから」
「なっ、っ……」
 あまりの事にジムゾンは二の句が継げなかった。ここに連れてきた連中がリヒャルトの部下なのかどうか確かめる事はできなかった。囁きで自分を攫うのは誰かの命令だと言っていた事くらいだろうか。また、リヒャルトも人狼である以上部下が人狼でもおかしくないというごく薄い憶測など。自分を攫った連中とリヒャルトを繋ぐのは、その程度でしか無かった。しかもリヒャルトと彼らを繋ぐ理由に言及するには自分が人狼である事も明かさなくてはいけない。かといってこのままでは勘違いした罪も無しになり、リヒャルトを責める理由は何一つ無くなる。
「今夜はもう遅い。明日部下に筆記用の道具を持ってこさせるから、まぁゆっくり書いてくれたまえ」
「人を牢屋に押し込めておいて、よくそんな事が言えますね!」
 歯痒さ余ってジムゾンは叫んでしまう。しかしとうのリヒャルトは余裕たっぷりに構えていた。
「私にしてみれば、目当ての人間でも無い者を突然連れて来られて迷惑極まりない所だよ。誰が何の目的でかは知らないが。攫われた君も可哀想だとは思うがね」
 招かれざる客扱いまでされて、ジムゾンは最早爆発寸前だった。ただもう、怒りに我を忘れてしまうのを制するので精一杯だ。
「か弱いのかと思ったら、案外気が強いのだな」
 リヒャルトはクックッと声を漏らして笑った。
「とはいえ囚人でも無い。そんなローブだけでは体も冷えるだろうし、風邪でもひかれたら面倒だ。後で毛布を届けさせよう。必要な日用品も。ではお休み、ジムゾン君」
 リヒャルトが去っていったと同時に、ジムゾンの瞳からは涙がぼろぼろ零れ落ちた。話が通じなかったのもあるが、それ以上に見下されたのが悔しくて仕方なかった。思えば生まれてからずっと、誰かの庇護の下で生活をしてきた。たとえ母から自分の生を否定されても、兄から虐められても。父や伯父は自分を只管愛してくれていた。母に似た容貌のせいか、バイエルンの親戚にも宝か何かの如く大事に扱われている。修道院に入っても、伯父が家の名を消させなかったのでジムゾンを邪険に扱う者は居なかった。辺境の村でも、神父という立場上見下されるような事は無かった。家の事など関係ない。自分は一介の司祭に過ぎない。そんな思いはただの建前でしか無かったのだと、ジムゾンは今更ながら思い知った。見下される事がこれほどの屈辱だとは。
 ディーターが幼い頃身分を気にしていた事を知って、あれこれと諭していた事が情けなく思えた。ディーターは物心ついた頃からずっとこれ以下の扱いを受けてきたのだ。それを解った風な顔をして説教していたなんて。自分が知っていたのは教理上の正論だけで、心情も想像で解ったつもりになっていた。何も解っていない。何一つ解っていなかったのだ。辛い仕打ちを受けた者の悲しみなど。ジムゾンはつくづく、ディーターに申し訳無いと感じるばかりだった。



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