【恩愛の夜明け 第三話「赤い瞳の神の犬」】

 朝になって、ジムゾンが寝ぼけ眼で祈りを捧げていると来訪者があった。昨晩リヒャルトが去った後にも来た男で、彼の使用人のようだった。年は二十そこそこだろうか。亜麻色の髪をした小奇麗な若者だ。多くは語らず無表情で、人狼の臭いはしないが主人には忠実そうに見える。男は持ってきた小さな盆をそのまま木の机の上に置いた。盆にはパンとスープと水だけの簡単な朝食が載っている。とはいえパンは柔らかい上等な白パンで、香ばしい小麦の匂いを漂わせていた。食器も以前インゴールシュタットの地下牢で見かけた物とは違い、立派な銀食器だった。
 男は淡々と食事の説明をし終えると一礼して踵を返した。去り際、一瞬だけ見えた男の顔はなんとも苦々しい表情に染まっていた。招かれざる田舎神父の相手などしたくない、と言った所だろうか。あまりいい気持ちはしなかったが、昨日散々リヒャルトに悪態をつかれたので諦めもついた。
 朝食を終えて暫くすると筆記用具が届けられた。今度は別な男が持ってきたが、これまた無表情で微塵も愛想が無かった。主人が主人なら使用人も使用人だ。そんな事を考えながらジムゾンはただ机に向かってぼんやりしていた。ライナーを告発する手紙など書ける筈もない。書けば出してやると言うのも果たして本当かどうか怪しいものだ。それなりに丁重な扱いはされているが、だからと言ってあの狡猾そうな男を心から信じるのは難しい。そうこうしている内に日は傾き、室内もまた次第に暗くなっていった。

『ジムゾン、聞こえるか』
 夕闇の中、突然聞こえた囁きはディーターのものだった。
『ディーター!』
 ジムゾンは驚喜して囁き返した。来てくれると信じてはいたが、何しろウィーンから遠く離れた場所だ。北と言ったものの、場所まで特定できるかどうか不安になってきていた所だった。
『よくここが解りましたね?プラハらしいですよ、プラハ!』
『ああ。どこから見てもプラハだな』
 ディーターは苦笑まじりに場所が解った理由を説明した。ライナーと一緒に来たという事で、今は城の傍にあるプラハ大司教館に居るらしい。ディーターの話によると、城や町全体がリヒャルトの影響下にあるわけではないという。大司教、そして城内にあるという大聖堂やベネディクト会の修道院はリヒャルトと無関係なのだそうだ。一通り聞いたのち、ジムゾンも牢らしき所へ入れられた顛末とリヒャルトと会った事を伝えた。
『告発の手紙は書くんじゃないぞ。奴の計画は、手紙が出来上がった後お前を片付けて終了なんだからな』
 片付ける。予想はしていた事だったが、ジムゾンは小さく身を震わせた。
『それでな、今日リヒャルトに会った』
『見つかって良いんですか?』
『良いも何も、お前が攫われた日からずっと付きまとわれてるんだ。今更コソコソしていても始まらない。それに、作戦の一環でもある』
『作戦?』
 ディーターによると、作戦とはこういう事だった。まずライナーとディーターがリヒャルトの元へ出向き、それとなくジムゾンを探している様子を匂わせる。当然リヒャルトは警戒を強め、二人への監視を増強する。事実、増えたそうだ。そうしてジムゾンへの注意が手薄になった所で、人狼化して牢から抜け出したジムゾンは城外、できれば町外れまで一気に走り、夜明けまで待つ。という手筈だ。
『……本当に大丈夫なんでしょうか』
 ジムゾンは不安げにもらす。
『大丈夫というか、それしか方法が無い。俺も目をつけられてるから、奴らに隠れてお前を助けに行くのは難しいだろうな。力ずくで突破する事も考えたが多勢に無勢だ。ところで今はまだ、お前の居る牢周辺にも人狼は居るだろう』
『ええ、確実に一人は居ますね』
『明日の昼間にもう一度焦っている様子を見せる。それからお前の居る塔を探してわざと牢を見落とす。そうして油断させた所で、実行だ。ライナーの来訪は諸刃の剣だ。何れにせよそうもたもたしていられない』

 明日の夜までの辛抱だ。そう思うと、ジムゾンの心は急に晴れやかになった。何よりディーターが傍に居るというだけで十分心強い。内心半ば浮かれながら寝支度をしていたその時、漂う血の臭いがまた強くなった。
「手紙はできたかな?」
 牢に入ってきたのはリヒャルトだった。ジムゾンは途端にげんなりした表情を浮かべた。
「書いていません」
 リヒャルトに背を向けたまま素っ気無く返し、更に続けた。
「どうせ書いた所で私をここから出す気など無いのでしょう」
 ジムゾンが振り返ると、リヒャルトは口の端を引き上げたまま黙ってこちらを見つめていた。何故そう思う?表情はいかにもそう言いたげだった。
「私が、あんな手紙は嘘っぱちだと伯父様に言ってしまえばそれまでです。それに私はあなたから牢に押し込められたと言いふらすかもしれませんしね。書きました、はいそうですかと出してくれるなんて考えられない」
 ジムゾンは両手を腰に当て、不信感をあらわにリヒャルトを見た。
「だとしたらどうする?」
 しかしリヒャルトは表情を変える事無くジムゾンに歩み寄った。答えに窮してジムゾンは漸く気がついた。真意など解っていると言ってしまったら、後に待っているのは力ずくの方法だ。即ち拷問、或いは最悪、無言での殺害である。ディーターはライナーのプラハ来訪は諸刃の剣だと言っていた。ディーターがジムゾンを救い出す機会でもあるが、リヒャルトにとってはジムゾンを殺してライナーに罪を擦り付ける絶好の機会でもある。幾ら明日脱出できるとはいえ、いくら腹に据えかねていたとはいえ。言うべきではなかった。ジムゾンはまたも自分の軽率さを悔いたが、今更悔いた所でどうにかなる事では無かった。しかし次の瞬間、リヒャルトの口から出たのは意外な言葉だった。
「確かに。書き終えた後、君の命は帝国の為に捧げて貰おうと思っていた。が、事情が変わった」
 リヒャルトはジムゾンの目前まで来たが、歩みを止めない。武器の類を持っているようには見えないものの、ジムゾンは思わず後ずさる。しかしやがて背に冷たい石壁が当たった。
「ああそうとも。バイエルン大公の親族の神父を捕らえるよう命じたのは私だ。無関係な人間を殺すのは忍びないが、これも全て帝国の為だ。そう思っての事だった。だがその神父である君が、これほどまでに美しいとは」
 違和感のある形容詞だった。美しい、とは男を誉めるのに適した言葉だろうか。新手の嫌味かと思った所でジムゾンはふと思い出した。神学校に居た頃何度かそう言われていた事を。そして言ったのは、その気のある者達であった事を。
「緑なす黒髪と雪のように白い肌、華奢な体躯に綺麗な顔立ち。育ちが良く、物腰も柔らかだが芯が強い神父とは。まさに私の理想通り!」
 何やら一人で盛り上がっているリヒャルトを見つつ、ジムゾンは頬を引きつらせた。自分を見つめる灰青色の双眸は熱を帯び、どこか夢でも見ているようにもみえた。まさか初めてここで会った時、リヒャルトが固まっていたのはその所為なのか。
「もう暫くして落ち着いたら、私の屋敷に連れて行く。牢暮らしはそれまでの辛抱だ。なに、死体など幾らでも偽装できる」
 リヒャルトは興奮気味にまくし立てながら、さりげなくジムゾンの顎を掴む。
「ちょ。ちょ、ちょっと!何してるんですか!」
 ジムゾンは咄嗟に払いのけるが、その手を取られて壁に押し付けられてしまった。ディーターより大きな体躯の通りリヒャルトの力は強く、とても押し返せるものではない。そうこうしているうちに更に間近に迫られ、ジムゾンは必死に顔を背けた。
「男色は大罪ですよ!」
「知られなければ構うものか」
 それが旧教信者の言う事だろうか。反論したいのは山々だったがそれどころの騒ぎではなかった。ジムゾンは敢え無く力尽き、息をついたと同時にリヒャルトの唇が首筋に触れた。
「ひぇ」
 情けない声が漏れ出た。リヒャルトの唇はジムゾンの肌を這い、気持ち悪さに粟立つのをジムゾンは歯を食い縛って耐え、漸く言葉を搾り出す。
「あ、あなたなんて犬の餌にでもなりゃいいんですよ!」
 リヒャルトはニヤニヤ笑いながらジムゾンに囁きかける。
「だが残念ながら私は狼だ。犬ふぜいには喰われない」
 なんと、リヒャルトは片手を人狼化させてジムゾンの目の前に翳して見せた。ジムゾンは驚いて息を飲む。もしこの爪で、余興とばかりに傷つけようとされたなら。同族の掟に従って爪は弾かれてしまうだろう。そうなったら、人狼だという事がばれてしまう。強がってみせるべきか、恐がってみせるべきか。混乱した頭でジムゾンは必死に答えを探していた。すると何の前触れも無く、大きな音が牢に響いた。
 これにはリヒャルトも驚いたようで、体を起こして音のした方に顔を向ける。ジムゾンが僅かに上体を起こして見えた先には、牢を閉ざしている筈の頑丈な扉があった。蝶番は外れてしまっている。どうやら音は、扉が無理やり外された音のようだった。とても力でどうにかなる代物には見えないが、誰かが蹴破りでもしたのだろうか。そしてその誰かが靴音も高く牢に入って来た。程なく現れた人影は、まさにドミニコの神の犬、異端審問官のロタールだった。
「さて不届き者の狼とは?」

「ブラザー、どうしてここに?」
 ジムゾンは驚いて問い掛けるが、ロタールは何時もの無感動な表情でジムゾンを一瞥して視線をリヒャルトに向けた。
「司祭の純潔を奪おうとは。あまり感心できませんな、カペル卿」
『何だこの男は?!見張りは何をしている!』
 囁きの絞りを解いてみるとリヒャルトの囁きが聞こえた。そうだ、周辺に人狼が居るのだからロタールを止める機会は幾らでもあった筈だ。勿論、我を忘れて周囲を狼の目で監視していなかったリヒャルトもリヒャルトだろうが。
『す、すみません!我々も今気付いたところで……!』
 慌てふためいた囁きが返ってくる。リヒャルトは忌々しそうに顔を歪め、改めてロタールに問いかける。
「何だ貴様は。誰の許可があって立ち入った」
「これは失礼を。私はロタール・フォン・ギレッセン。ご覧の通り説教者修道会所属の異端審問官です」
 ロタールはやや大仰な身振りで驚いてみせた。しかし表情は相変わらずで、以前ジムゾンにしたのと同じように名を名乗った。
「ギレッセン?」
 リヒャルトは訝しげな表情を浮かべた。ロタールの名は偽名でもなんでもない。書記官なら当然聞いた事のある姓だろう。
「審問官になる以前はヴァレンシュタインの軍に」
 付け加えられた一言を聞いて、リヒャルトも漸く気付いたようだった。今までの高慢さはどこへやら、さすがに表情にも焦りが滲んでいた。ロタールもその様子から察しただろうが、責める事もなく慇懃無礼に続けた。
「先日は弟のユリアンが世話になりました。何しろ聖務が忙しいもので、代理ばかりを参上させていて申し訳ない」
 呆然としているリヒャルトをよそに、ロタールはつかつかとジムゾンの傍に歩み寄った。
「ルーデンドルフ伯付きの司祭が誘拐されたと聞いて捜索していた所でした。どちらで発見されましたか?下手人は?ともあれ、あなたが保護して下さっていて何よりです」
「え、あの」
 ジムゾンは眉根を寄せてロタールを見上げた。どこからどう見てもリヒャルトが誘拐犯にしか見えないだろうに、何をとんちんかんな事を言っているのか。説明しようとした瞬間、ロタールから睨まれた。まるで言うなと言わんばかりに。しかしこれで逃げられるかもしれない。ジムゾンは椅子の上に乗せていた雑のうを素早く取り上げた。
「しかし幾ら好みとはいえ手をつけられては困ります。私も説明のしようがなくなりますからな。そしてご乱行もほどほどに」
 ロタールはリヒャルトに釘を刺し、ジムゾンを促しつつリヒャルトに再び顔を向けた。
「ご協力感謝します。扉の修理費は私宛てにオルミュッツまでご請求を。では」
 リヒャルトに発言の隙を全く与えないままだった。ロタールはジムゾンの腕を引き、足早に塔を後にした。

+++

 外はしんと冷え、青白い月の光が余計に寒々しく思えた。ほんの一晩だけだったが、外に出るのも随分と久しぶりに思えた。ジムゾンは伸びでもしたい気持ちで一杯だったが、ロタールに引っ張られたままで立ち止まる事が出来なかった。
「ブラザー、どうしてあそこが解ったのですか?それに、誘拐されたって何故ご存知なのですか?それより、何故こちらに?」
「今説明している暇はありません。ともかく城外の大司教館へ」
 ロタールは面倒そうに言い捨て、振り向きもしなかった。ディーターから聞いた限り大司教館はかなり遠いらしいが、城門はすぐそこだ。境界である城壁の外へ出てしまえばリヒャルトの手先に追われる心配も幾分か減る。早く逃げるに越した事は無いのだろうが、歩きながら説明くらいしてくれても良いのに。ジムゾンは不満げに口を尖らせた。
『どうしますか?あの審問官、こちらが誘拐犯ではないと勘違いしているようですが』
『その場しのぎの嘘に決まっているだろう!大司教館に集めている連中を両翼から二手に分けて北門へ向かわせろ。この際モラヴィア辺境伯だとて構わん、人狼化してでも殺せ!』
 聞こえた囁きは。とても正気とは思えない恐ろしい指令だった。それに逃げる事ばかり考えていたが、大司教館にはリヒャルトの手先が集中していると聞いていたではないか。ジムゾンは思わず立ち止まってしまう。ロタールは動かないジムゾンを無理やり押そうとした。が、それより先にジムゾンが口を開いた。
「大変!大司教館には行けません!」
「どうして」
「大司教館にはディーターが居て、だからリヒャルトの手先が集中していて――とにかく、城外はかえって危険です!」
 ロタールは少し城門の外を見つめてすぐに踵を返した。殺気でも感じたのだろうか。
「ではこちらへ。イジーへ向かいます」
 塔の方へ逆戻りしてしまうが、リヒャルトを含めてもこちら側の人狼の数はそう多くない。城がどれだけ広いのか解らないし、リヒャルトの感知能力がどれほどの物かも解らない。不安な要素が幾らかあるのも事実だ。しかし軍に所属していたと言っていたから、ロタールもそれなりに戦闘には慣れているだろう。人狼相手に対等に渡り合うのは先ず無理だが、慈悲の刃を使えば追い払う事くらいは――
 そこまで考えてジムゾンは漸く気付いた。慈悲の刃をディーターへ渡したままになっている事に。
『ディーター!緊急事態です!』
 再び囁きを絞り、ディーターに呼びかけた。
『なんだ。どうした』
 すぐに驚いたようなディーターの声が聞こえた。
『さっきブラザー・ロタールが来て私を連れ出してくれたんですが、追われてます!リヒャルトは大司教館に集中させていた人狼も総動員してこっちに向かっていて。だから塔の南路地からイジー、たぶん修道院へ向かっています。慈悲の刃をあなたに渡してるでしょう。リヒャルト達は人狼化して追うとも言っていました。もし追いつかれたらなす術がありません!』
『解った。すぐ行く』
 ディーターの囁きは途切れ、道も路地から比較的大きな道へ抜けた。城内だと言うのに家々が立ち並び、まるで小さな町のようにも見える。しかしどの家もひっそりと静まり返っていた。中には営舎と思しき物もあり、明かりも灯っているのに誰一人出てくる気配が無い。どうやら単に寝静まっているだけではなく、既に襲撃地帯の催眠が施されているようだった。にも関わらず人間のロタールは全く眠る様子がない。ウィーンで襲われた時のライナーも同じだったが、人狼が至近距離に居た場合は眠りの効果が及ばないのかもしれない。あれこれ思いをめぐらせていたその時、急に血の臭いが濃くなった。
「この道を南へ。突き当たったら右の細い道です」
 ロタールが独り言のように言った瞬間、屋根の上から二つの黒い影が躍り出た。予想に違わず人狼だった。それも一方はどうやらリヒャルト本人のようだ。毛の色は灰色と薄い茶色で、気配からするとリヒャルトは薄い茶色の方だろうと思われた。ロタールはジムゾンの腕を放し、剣を抜く。インゴールシュタットで人狼など居ないと散々言った癖に、いざ前にしても不思議がる様子すらない。しかしそれはともかくとして、まさか戦おうとでも言うのか。ジムゾンは思わずロタールの腕を掴んだ。
「無茶です、勝てっこありません!」
「いいからあなたは先に逃げて。足手纏いだ」
「良くありません!相手は人狼なんですよ」
 もはやインゴールシュタットでの一件など完全に忘れてしまっていた。人狼の存在を信じるような発言は迂闊だったかと思ったが、目の前に居るのだからしょうがない。不毛な応酬を続けている間にも、リヒャルト達は攻撃を仕掛けて来た。二つの爪がロタールに襲い掛かる。が、なんとロタールは攻撃を避けた。
「え……」
 ジムゾンは驚きのあまり二の句が継げなかった。それはリヒャルト達も同じようで、攻撃の手が止まっていた。人狼の身体能力は人間のそれを遥かに凌駕する。故に人間は抗えぬまま喰われてしまう。しかしあくまで身体能力の爆発的な向上というだけであって、完全無欠というわけではない。もし同じような身体能力を持った人間が居たとしたなら、攻撃を見切る事も、避ける事も可能だ。そう、鍛え上げた狩人など。しかし剣で受け止めるというわけでもなく、こうも綺麗に避ける事はまずありえない話だ。
 気を取り直したリヒャルトらは再び攻撃を再開したが、どれもこれも避けられてしまっている。人狼が人間相手にここまで梃子摺るさまなど今まで見た事が無かった。強いて言えば辺境の村で純血統の狩人だったトーマスを相手にした時くらいだろうか。あの時は、最初にジムゾンが致命傷を与えていたのにディーターとニコラスの二人がかりでやっとだった。ロタールも純血統の狩人なのだろうか。しかし、それにしては人狼を知らないというのがおかしい。などと思いつつ、一人取り残されたジムゾンはまるで観客気分で戦闘の様子を見守っていた。
「ぼうっとしていないで早く逃げる!血を吸われて死にたくは無いでしょうが」
「は?」
 ロタールの叫びに、ジムゾンは間の抜けた声を返した。
「人狼は血なんて吸わないと思いますよ」
「だから、人狼なんて居ないと何度言えば」
「目の前に居るでしょ!」
 ジムゾンは思わず突っ込んだ。恐らく、襲い掛かっているリヒャルト達も同じ心境だったのではないかと思われた。
「ああもう解らん人だな!」
 堪り兼ねた様子でロタールが振り返った瞬間、リヒャルトの腕がその背後で振り上げられた。ロタールはすぐに気付いたが、とても避けられない。ジムゾンが思わず目を閉じた瞬間、何か弾いたような金属音が響いた。聞いた事のある音だった。以前ドナウエッシンゲンで出会った修道女フリーデルを襲撃し、弾かれてしまった時のような。
 ジムゾンが恐る恐る目を開けると、ロタールが無傷のまま立っていた。あの時のフリーデルのように。まさかロタールも聖痕の民だったのだろうか。そう思った瞬間、ジムゾンはふとした違和感に気がついた。
 ロタールの目が、赤い。元々鳶色で赤に近い色合いではあったが、今はまるで人狼のように鮮やかな赤をしている。しかも引き絞った口元から覗いているのは、お世辞にも八重歯とは言い難い、れっきとした牙だった。
『どういう事だ』
 愕然とした様子のリヒャルトの声が聞こえてくる。
『同族というわけでもなし。剣に当たったのか?』
「芸が無いな」
 独り言のように呟いて、ロタールが剣を翻した。再び動きを止めた人狼達に今度はロタールの剣が迫る。当然避ける暇もなく、剣はリヒャルトの胸に深々と突き刺さった。しかしリヒャルトは平然とそれを見つめている。
 ロタールはすぐさま剣を引き抜いて距離を取った。リヒャルトに効いた様子が無いのを悟ってか、表情には若干の驚きが見てとれた。リヒャルトの胸の傷からは血が溢れる事すらなく傷口もすぐに閉じてしまう。変化した人狼に普通の武器が通用しないのは当たり前の事なのだが、ロタールは知らないようだった。
「人狼には普通の武器は効かないんです!刺そうが、斬ろうが、無意味……だと、以前本で読みました!」
 ジムゾンは、我ながら苦しい言い訳だなと思いつつ叫んだ。ロタールは一瞬こちらに振り向き、何か思い直した様子で腰につけていたナイフを抜いた。銀色に煌くナイフの刃にはなんと、細かな文様が彫り込まれていた。
「ジムゾン!」
 驚いたのも束の間、背後からディーターの声が聞こえた。
「おい……何やってんだロタールは」
 ディーターの視線の先にはリヒャルトらと戦っているロタールの姿があった。驚くのも当然だろう。人間が人狼を、しかも二人を相手にしているなど無謀にも程があるのだから。
「いや、なんだかよく解らないんですけど」
 攻撃は通らない上に慈悲の刃を持っているみたいですよ。と、ジムゾンが呟き終えるより先に、ディーターはロタールの方へ走っていった。
「危険だ、あんたは下がってろ!」
「それはこっちの台詞だ!お前こそさっさと自分の主を連れて逃げろ」
 ディーターは辿り着くやいなや、ロタールと口論になってしまった。二人ともリヒャルト達の攻撃を避けながらな為ろくに意思疎通が出来ていない。しかし何合かリヒャルト達とやりあっている内にお互い実力が五分五分だと気付いたようで、言い合いはすぐに終わった。
「あんたはそっちの灰色、俺は茶色をやる」
「言われなくても」
 二人は同時に反撃に転じた。
「やる、って」
 ジムゾンは息を飲んで両手を胸の前で組んだ。
『同族を殺すというのですか?』
 思わず囁いた言葉に、ディーターからの返答は無かった。
「殺さないで下さい、お願い!」
 ジムゾンの叫びに一瞬ロタールが振り返った。ロタールの攻撃が僅かに逸れ、ナイフは灰色の人狼の脇を掠めた。一方、ディーターの一撃もリヒャルトの手の甲を切るに留まった。
『つっ』
 鮮血が迸り、リヒャルトは顔を歪める。リヒャルトが思わず片手を庇った瞬間、ディーターはもう片方の手の甲も同じように切りつけた。
『狩人か!』
『退きましょう!同人数では制圧できません!』
 リヒャルト達は身を翻した。これでやっと移動できる。と、思いきや、ロタールは逃げる二人を追おうとした。その腕をディーターが掴む。すると
「邪魔をするな!」
 ロタールは珍しく声を荒らげた。
「追ってどうする。後続の連中も居るんだぞ」
 ディーターは負けじと言い返した。それを聞いてジムゾンははたと気付く。後続の人狼達の姿は一向に見えない。人間の足ならともかく、人狼ならさして時間はかからないだろうに。
「大司教館の連中は部下が抑えている。いいから放せ!これは私の問題だ!」
 そう言われてみれば、今回はロタールの私兵の姿が見えなかった。今まで人狼の援軍が追いついて来ていないあたり、ちゃんと抑えているのだろう。人狼と互角にやり合える人間がそれほど揃っているとは驚きだった。
「あんた、人狼を何かと勘違いしていないか」
「お前こそ、さっきから主と揃って人狼人狼と。あれが吸血鬼以外の何だと――」
 言いかけてロタールは口を噤んだ。何か引っかかる所があったらしい。
「何ですか、吸血鬼って」
 ジムゾンは訝しげにロタールを見た。そういえば、先ほど血を吸うだのどうのと言っていた気がする。人狼を前にして何ら疑問を持っていなかったあたり、似た別な魔物が居るというのだろうか。ジムゾンは首を傾げながら更に続けた。
「それにブラザー。さっきの牙と、その、目は?」
 ロタールはぐっと言葉に詰まっているようだった。瞳の色もすぐ元に戻ったが、あった事実は消えない。ロタールは剣を納め、ため息を一つついた。
「後で説明しましょう。奴らも見失った事ですし、一先ずイジーへ」



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