【恩愛の夜明け 第四話「禍根」】
イジー修道院は大聖堂の真後ろにあった。中庭には一足先に戻っていたロタールの私兵達が集まり、主の帰りを待っていた。ロタールは短く労いの言葉をかけて私兵らを解散させ、ジムゾンとディーターを奥まった一室へ案内した。部屋はロタールが駐留中に使っている要人用の客室のようで、修道院の一室にしては割と豪華なものだった。ジムゾンとディーターは長椅子に座り、ロタールは執務用の椅子を持ってきて二人の向かいに腰掛けた。興味津々な二人の視線を前に、開口一番、ロタールは本題に入った。 「吸血鬼というのは、我がモラヴィアや、ここボヘミア周辺に古くから居る不死者なのです」 ロタールの説明によると、吸血鬼は一度死んだ人間が成り果てる魔物で、人間の生き血を糧にしているという。人狼と違って肉は口にせず、血のみを。ただし、血を吸われた人間は精気を抜かれて死んでしまうのだそうだ。また、人狼と違うのは糧だけではない。まずは変化で、大抵は人狼のような姿を取るらしいのだが、馬や蝙蝠、或いは不定形な肉の塊など様々な形態に変化する。その為、先ほどの戦闘でロタールも違いに気付いたようだ。 外見の年齢は自在との事で、生き血を吸っている限り何時までも若々しく、仮に血が手に入らずとも体が朽ちていくだけで死ぬ事は決してない。吸血鬼を殺すには心臓に杭を打ち込むか、祝福の施された剣で貫く以外に無いのだという。 「とはいえ、吸血鬼の身体能力に常人がついていくのは先ず不可能です。そのため、滅ぼす方法は単純でも中々討伐がし難い。まあ、時々その男のように鍛えられた人間も居るには居ますが」 「ディーターだ。ディーター・ヘルツェンバイン」 話題にされてディーターは名乗った。よくよく考えてみれば、ディーターはインゴールシュタットでも最後まで名乗らず終いだった。ロタールは一瞬何か引っかかった様子だったが、話を続けた。 「ですが仮についていけたとしても、たった一撃だけでも吸血鬼の攻撃を食らえば即死に至ります。人間が討伐するには容易ではないのです。しかし滅びを望むのは何も被害者となる人間だけではありません。吸血鬼本人も、何時までも若くありたい、人の歴史を傍観していたい欲望の反面、常に自らの滅びを望んでいます」 ロタールは一旦言葉を区切って、椅子に深く掛けなおした。 「如何に死んでいるとはいえ、常人離れした力を持っているとはいえ、人語を解し、喋り、行動する意思がある。意思を生む源泉である心がある以上、根本的には人と同じです。神でも無ければ、魔でもない。そして人の心は、永遠にも似た長い年月を生きていけるようには出来ていない。数百年もすれば、孤独に耐えかねて気が狂ってしまう。そこで、神がお与えになったのかどうかは今となっては解りませんが、彼らにはとある能力が付与されました。人間と交わり、その間に出来た子どもに、吸血鬼からの攻撃への耐性と、同等の身体能力を持たせる力です」 「それが、あなただと」 ジムゾンの問いにロタールが頷く。 「私の父――先代の、そして遥か昔のモラヴィアの王は吸血鬼でした。表向きには事故死という事になっていますが、実際は、私が父を殺したのです」 ジムゾンは言葉を失った。と、同時に、父を手にかけようとしていた兄の事を思い出した。兄は屈折した心から父を逆恨みしての行動だったが、ロタールはどうだろう。過去の事は解らないにしても、逆恨みや何やで肉親を手にかけるような人間に見えない。また、彼の本名であるテオドシウスとは『神からの贈り物』の意である。憶測に過ぎないが、ロタールの父が滅びを望み、希望を託してその名をつけたのではないか。そう思えて仕方が無かった。 恨みも何も無い父親を手にかける。そして、そうせざるを得なかった。だとすれば随分残酷な運命だとジムゾンは同情を禁じえなかった。が、ふとある事に気付いて首を傾げる。 「モラヴィアはボヘミアの一部では無いのですか?」 ロタールは軽く片手を振って苦笑する。 「いえいえ。元々モラヴィアはここボヘミアとは別箇の一つの国でした。それが七百年前ハンガリーに制圧されて滅亡し、更にその後オーストリア治下となり今に至ります。まあ、仕方の無いことです」 やや寂しげな笑みは、諦観が本意ではない事を如実に表していた。ハンガリーと言えばライナーの故国だと言っていた。従属の憂き目に遭ったハンガリーもまた、他の国を従属させていた。国全土を覆う戦火が今に始まった事ではないのだと、つくづく思い知らされた。 「父が吸血鬼に成り果てたのも七百年前の事です。国を滅ぼされ、人ならぬ力を欲した。その代償が死ねない体だ。 悲しみと怒りばかりを抱えて欲望に負けてしまった成れの果て。吸血鬼の成り立ちは斯様に虚しいものです。ヴェドゴニヤ、クルースニク、ダンピール等々。地方によって呼び名は様々ですが、吸血鬼の子は自分達を総称して『葬送の子』と呼んでいます。親の罪を分かち、負い、魂の昇天の見送りを運命付けられた者ですから」 ロタールが口を閉ざすと部屋は沈黙に包まれた。何か言おうにも言い辛く、聞こうにも聞き辛かった。人々を脅威から守り、親の願いを聞き届けた。罪どころか、善い行いをした。とは思うが、そんな言葉をかけた所で慰めになる筈も無かった。父の存在が無ければ、ロタールがこの世に生まれる事も無かったのだ。幾ら人に害をなす魔物でも、彼にとってはたった一人の父だったのだから。 「同じ葬送の子で一隊を組織し、半ば自棄で戦いに参加してみたり、片っ端から吸血鬼を狩ってみたり。何をしても虚しいばかりで、半端に僧籍に入って今に至ります。人の命を犠牲にしなければならなかった運命を呪いながらも、生きていたいとも思っていた。そういう意味では、私も吸血鬼と同じようなものです」 ロタールは自嘲気味に笑った。彼らしくない愚痴だった。いつものディーターならロタール同様笑って話半分に聞くところだが、何か相通ずる物でもあったのか笑み一つ浮かべなかった。しかしジムゾンには一つ引っかかる事があった。ロタールは「人の命を犠牲に」と言った。人狼や吸血鬼ならともかく、葬送の子が人を害する理由は無いのではなかろうか。不思議に思って問おうとすると、先にディーターが口を開いた。 「人の命を犠牲に?あんたは人間の敵じゃないだろう」 ディーターに問われ、ロタールは少し返答を躊躇っているようだった。が、やがて決心したように口を開いた。 「葬送の子もまた人間の敵だよ。十歳の誕生日を迎えるまで、年に一度生き血を吸わなければ生きられない。そして死んだ後、三日以内に心臓に杭を打って埋葬して貰わねば、私もまた吸血鬼になってしまうだろう」 +++ さながら罪の告白のような説明を終え、ロタールは上体を前に傾けた。 「ところで、先程遭遇したあれが人狼だと何故ご存知だったのですか。また、ディーターも。人狼の存在を知っていた癖に何故インゴールシュタットでは存在しないと一蹴したのかね」 今度は二人が答えに困る番だった。 『やっぱり覚えてたか』 表情こそ全く動かさないものの、ディーターの囁きは笑い混じりだった。 『ね。宮廷図書館で読んだという事にしておけば特に問題ないと思いますけど』 『いや。この際正直に喋った方が良さそうだと思うね俺は。あいつも脛に傷がある事だし』 『そんな、人の事情に乗っかって利用するなんて』 ジムゾンは嫌そうに返答する。しかし、今までの囁きの応酬で時間が経過してしまっている。言い訳の説得力も恐らくは殆ど無い。 「大変言い難い事なんですが」 そう前置きをしてジムゾンは両手を人狼化して見せた。ロタールが驚いたのは言うまでも無い。それからジムゾンとディーターは、代わる代わる人狼の性質と、インゴールシュタットでの真相を話して聞かせた。説明が進むにつれロタールは目に見えて気落ちしていき、終いには溜息をついて口元を片手で覆った。 「無知とは恐ろしい……ヨハンには少し可哀想な事をしてしまった」 ヨハンはロタールの部下の見習い修道士だ。インゴールシュタットで人狼の噂を流布したかどで審問にかけられている。人狼が存在する事は真実で、噂も自然に起こった事でヨハンの責任では無い。ただし、ヨハン自身の作戦のため、ロタールが人狼の存在を信じているという嘘を吹聴してまわった件は拭えないが。 「吸血鬼はあのような姿にもなりますから。噂に人喰いの尾ひれがついて、人々の妄想が生んでしまったのだとばかり。しかし驚いたな。ディーターはともかく、あなたが人狼だったなんて」 「何故こんな身にされたのか、神様にお伺いしたいとよく思いますよ」 ジムゾンは笑ったが、ロタールは慌てた様子で顔を上げた。 「いえ、悪いというわけでは」 ロタールにしては珍しい弁解だった。しかし彼自身が負っている宿命を考えれば、似たような境遇にあるジムゾンへの言葉で過敏になるのも当然に思われた。 『俺はいいのかよ、俺は』 さりげなくディーターが不満げに囁いた。お互い聞きたい事は色々あったが、追及すればするほど傷を深くしてしまいそうだった。ジムゾンは気を取り直してロタールに目を向けた。 「ところでブラザー。さっきは危ない所を助けて下さって、有難うございました」 何事か考え込んでいた様子のロタールも我に返ってジムゾンを見た。 「でもどうして私が誘拐されたとご存知だったのですか?」 「あなたがダリボルカ塔に監禁されていると部下から報告を受けたのですよ」 そう言われてジムゾンはふと思い出した。昨晩、夜空に蝙蝠が飛んでいた事を。 「私は気配を完全に殺せますから踏み込むのは容易ですが、脱出に困る。しかし幸か不幸かリヒャルトは筋金入りの男色者で、線の細い美形が好みときている。あなたを見れば間違いなく手を出すだろうと。それで、現場を押さえて反撃の機会を奪おうと待機していましてね。いや、恐い思いをさせてしまって申し訳ない」 「ななななな男色者と解っていて何で野放しにしているんですか!」 ジムゾンは思わず声を上ずらせて抗議した。 「あなたも院や神学校で多少は現実を知っているでしょうに」 ロタールからさらりと言われ、ジムゾンは言葉に詰まった。 「有力者や領主などに割と多いものです。尤も誰であれ、男色者だからと言って滅多にしょっ引いたりはしませんよ。ヴェネツィア共和国あたりに行けば男色者専門の娼館もあります」 頬をひきつらせながらジムゾンは一瞬気が遠くなるのを感じた。そして思わず胸の前で十字を切って天を仰いでしまう。今になって冷静に考えてみれば、牢にやって来たリヒャルトの使用人は線の細い男ばかりだった。ひょっとすると、使用人達は皆案外リヒャルトの愛人なのかもしれない。そして彼らが一様に見せた仏頂面は、自分を新たな愛人と目してだったのかもしれない。ジムゾンは寒気を感じて身を震わせた。 「そう毛嫌いしなさんな。あなたのように望まぬ行為を強いられる側にとっては全員が犯罪者に見えるかもしれませんが、趣向が変わっているだけで基本的には人畜無害です」 「そういうもんですか」 ジムゾンは呆気にとられ、間の抜けた声を返した。ローマ教会の聖職者、しかも異端審問官が大っぴらに同性愛を容認するのはどうかと思うものの、ロタールは完全に僧籍に入っているわけではない。 「さて私も一つあなたにお伺いしたいのですがね、ジムゾン神父」 ロタールは椅子の背に背にもたせ、改めてジムゾンを見た。 「ザンクトブラジエンでクララ・イェーガーという女から何を言付かったのですか」 まさに寝耳に水だった。ジムゾンは驚いて顔を上げた。まさかロタールの口からクララの話題が出てくるとは。それに何故ザンクトブラジエンに立ち寄った事やクララと会った事まで知っているのか。先程の一件からしてロタールとリヒャルトとの繋がりは無いが、ジムゾンは答えに窮してしまう。 『ちょっとディーター。どうしましょうか』 『どうするも何も、言えばいいじゃねえか』 ジムゾンは驚いて思わずディーターに顔を向けてしまう。しかしやはり、とうのディーターは囁きどおりに平然としていた。あからさまに警戒しているジムゾンを安心させようと思ってか、ロタールは説明を始めた。 「ザンクトブラジエンから直接こちらに連絡があったのです。運び込まれた怪我人の脚に銃創があり、身の上からしても何かに巻き込まれている様子だが、全く喋ろうとしない。ただ、旅の司祭にだけ何事か喋っていたようだ、と。それで特徴を聞いたら、どう考えてもあなただったので」 そこまで言われてもまだ、ジムゾンは目を白黒させるばかりだった。ロタールは更に話を続ける。 「クララの素性を調べたところ、誓約同盟出身の異端信者だと解りました。さてどうしたものかと考えていた所に飛び込んできたのが今回のライナー異端疑惑です。依頼主のリヒャルト曰くには、ライナーの使用人が忽然と姿を消して不審に思い、調べた所が反帝国の異端だったとのこと。それで、部下が異端なら上司も異端ではないかと言ってきたのです。しかしそこがおかしい。 ライナーの使用人が姿を消そうがどうしようが、リヒャルトにとってどうでも良い事の筈。確かにあの男はライナーを敵視していますが、そこまで一々監視しているのなら、もっと早くに使用人の素性くらい洗っても良さそうなものです。長くなるので結論を言いますと、リヒャルト本人が何かを企み、それを目撃したクララを襲撃したのではないかと思ったわけです。ライナーを告発したのは事の露見を恐れて焦ったから。そう考えると一連の行動の辻褄が合う」 説明を聞かされてみれば何とも解り易いものだった。ジムゾンは思う。リヒャルトはきっと、血の宴に巻き込まれた事が無いのだろうと。気が急いたのかもしれないが、時期的に被っているしあからさまだ。 「それで先ずリヒャルトを納得させる為と情報収集にライナー宅を訪問し、その後はリヒャルト監視の為にイジーに潜んでいたのです。あなたを追おうとも思いましたが、ミュンヘンの後はどこへ向かっているか解りませんでしたからね」 ディーターに促され、ジムゾンは漸く事の次第を説明し始めた。クララに会い、手紙を託された経緯と、暗殺計画も全て。ロタールはヴァレンシュタインの友人だと聞いていた。どんな顔をするのかと見守っていたが、ロタールは動揺する様子も無かった。説明が終わり、暫くの沈黙の後ロタールはぽつりと呟いた。 「仕方の無い事でしょう」 意外なほどあっさりした感想だった。まるで手紙を渡した後のライナーと同じ、いやそれ以上に淡々としていた。憤り、或いは嘆きや同情。そんな言葉を期待していたジムゾンは失望してしまう。ロタールとヴァレンシュタインとの関係がどれほどのものかは知らないが、友人でさえも見捨ててしまうとは一体どういう事だろう。 ライナーもロタールも、話してみれば親しみ易い一人の人間だと思えていたが、やはり宮中伯と辺境伯。政略に関することとあらば、きっぱり情を捨ててしまえるのだろうか。 「あなたも、自業自得だと思われますか」 ジムゾンは俯いたままで問いかけた。しかしロタールからの返事は無かった。 「随分遅くなりましたな。今日はもう休まれた方が良いでしょう」 ロタールはそう言って立ち上がった。ジムゾンが顔を上げると、隣のディーターも腰を上げていた。 「明日はリヒャルトと直談判するんだろ」 「ああ。計画はともかく、ライナーに対する誤解を解かねばな」 二人だけで話を纏めているのを、ジムゾンはただ傍観するしか無かった。一通り話が終わると、ロタールがジムゾンに向き直った。 「明日。また明日ですよ。そう急くものではない」 ロタールの口調は穏やかだった。 「お前は修道院の客室でも探してゆっくり寝ろ。ここなら安全だ」 「ディーターは?」 「俺は大司教館に帰る。誰にも言わずに部屋の窓から出てきちまったからな」 ジムゾンは釈然としないままディーターを見つめていた。ディーターはジムゾンの肩を軽く叩き、少しだけ笑って出て行ってしまった。 「いい男だ。野に埋もれさせておくには惜しい」 ディーターが出て行った扉を見つめたままロタールが呟く。そうして不意に振り返ってジムゾンを見た。 「あなたはあの男のルッターでの戦功をご存知で」 「ええ。そういうブラザーこそ、何故ご存知なのですか」 ジムゾンは意外に思いつつ頷いた。それなりの戦功とはいえ、ディーターはティリー伯の軍に居た。同じ軍所属だった者ならともかく、ヴァレンシュタインの軍に居た筈のロタールが知っているとは驚きだった。 「快勝でしたからね。参考になればと色々調べました」 「そうだったんですか……。でもあの時のディーターは殆ど自棄で戦っていたそうです。勝って目立ってしまおうが、負けて死のうが、どうでも良かったのだと」 ジムゾンは視線を落とした。人狼としての自らの生を悔やみ、悲しみ、否定し。自殺まで考えていたのは自分くらいだろうとよく思っていたものだ。特にディーターは、さぞ人狼としての生を謳歌しているのだろうと。しかし徐々に彼が語ってくれた過去の心境は、形こそ違えど自分とまるで同じだった。 先程、ロタールは一時期自棄ぎみに吸血鬼を狩っていたと言った。やはり彼もまた、自らに流れる血の宿命を嘆き、もがいていたのかもしれない。となると、要らぬ事を言ってしまったろうか。ジムゾンはロタールを見上げた。 「そういえばブラザー。そのナイフはどうしたんですか?」 ジムゾンに指し示されて、ロタールはナイフに目をやった。 「貰い物です。祝福された剣でも対抗できない魔物が居たら、これを使えとね。以前軍に所属していた時、トーマスという分隊長の男から貰い受けました」 ジムゾンはどきりとした。トーマス。どこにでもあるありふれた名前だが、狩人の道具を持っていたとなるとわけが違う。狩人の人数がどれほどのものかは知らないが、そう沢山居はしないだろう。また、元傭兵で隊長だったとなれば益々だ。戸惑うジムゾンを他所に、ロタールは続けた。 「丁度十年前トランシルヴァニアと戦ったでしょう。あの時は主に私の部隊が当たったのです。トランシルヴァニアは吸血鬼を兵として徴用していましたから、我々でなければどうにもならないと思われました。ところが、あの男だけは葬送の子でもないのに吸血鬼と対等に渡り合う事ができた。ディーターは人狼でしたから、実質、あれだけの身体能力を持った人間はトーマスくらいのものでしょう」 ロタールは懐かしそうに目を細める。そんな様子を見ながら、ジムゾンは言い難そうに呟いた。 「そのトーマスとは、トーマス・クロイツァーさんですね?」 「え。ええ。そうですが」 「灰色の髪と鋭い灰青色の目をした、大男で。女子どもまで大勢殺したことを、悔いていた」 それは他言を禁じられた告解の内容だった。実際はもっと詳細で、聞くに堪えない痛々しい内容だった。しかしそれが、唯一知りえる傭兵時代のトーマスの生きた証だった。 「まさか」 「私が殺しました」 ジムゾンは真っ直ぐにロタールの目を見据えた。俯いたら、目を逸らしたら、涙が溢れてしまいそうだった。 トーマスは辺境の村で初めて自分に親切にしてくれた人だった。足しげく教会へ通い、人狼の自分には必要の無い食糧や薪を持ってきてくれて。辺境の村はかつて傭兵の襲撃を受けて壊滅寸前の打撃を受けた。その所為か、元傭兵だったトーマスに対する村人達の態度はどこか余所余所しくもあった。ジムゾンも赴任したての頃は口下手で人付き合いが悪く、やはり村人達との触れ合いには乏しかった。トーマスとのささやかな交流は、溶け込めない者同士で傷を舐めあうような、身を寄せ合うような感覚もあった。いっそこのまま。トーマスとの穏やかな日々の中で、人間を襲わず、人間として死ねたらどんなに良いだろうとさえ思っていた。いくら最後の最後で自分を襲おうとした人であっても、それまでの日々の積み重ねは容易に捨て去れる物ではなかった。 ロタールは暫く唖然とジムゾンを見つめていたが、やがて表情を戻して静かに言った。 「何があったのかは聞きません」 彼の言葉が何を意味しているのか、ジムゾンには解らなかった。知人の最期や悪行など聞きたくはない。そういう意味なのだろうか。しかし次の瞬間ロタールが発した言葉は予想とは違うものだった。 「ですが、言いたければ言いなさい。泣きたければ泣きなさい。言うだけ記憶に苛まれはするでしょうが、悲しみを抱いたまま溜めておく事は難しい」 言い終わるか終わらないかのうちに、ジムゾンの瞳からは涙が溢れ落ちていた。みるみるうちに、ロタールの姿が霞んでしまう。不意に肩を叩かれてジムゾンが顔を上げると、ロタールがハンカチを差し出していた。ジムゾンは黙って受け取り、顔を覆って涙を拭った。 「何もかも背負い込もうとしないことです。それに、あなたに悪役は似合わない」 ジムゾンが顔を上げると、ロタールは要らぬ一言を付け加えた。 「そんなやわな悪役ぶりでは、叩く方が返って罪悪感を覚えてしまう」 「どうせ私は悲劇のヒロイン専門ですよ」 鼻声混じりにジムゾンは口を尖らせる。 「口答えが出来れば上等」 ロタールはにやりと笑い、ジムゾンに一旦執務椅子に座るよう促した。ジムゾンは腰を下ろすと再びロタールを見上げた。 「私に非があるとは思わなかったのですか」 ロタールは一寸呆れたような表情を浮かべてジムゾンを見た。 「そんな事はどうでもよろしい。人狼と人間の関係に是非を持ち出すとキリが無いでしょうが」 どうでも良いとまで言われてしまい、ジムゾンは面食らう。ロタールはそんなジムゾンに目もくれず、淡々と装備を外していった。時折、短銃や剣を置く重い音が響く。 「私はあくまでも自然に死ねない者が主の御許へ行く手助けをしているだけであって、生きている者の宿命を断罪する気は毛頭ありません。また、同じく人の命を犠牲にして来た以上、そうする資格も無い。それに数の問題ではありませんが、仮に犠牲者の数を言うなら、あなたが殺めた数より私が戦で殺めてきた人数の方がずっと多いでしょう。桁が違うくらいに」 ジムゾンはただ黙りこくっていた。そういえば時々折りに触れては思ったものだ。殺す必要も無いのに、何故怨恨や衝動で、人は人を殺してしまうのかと。また、これまで見てきた筆舌に尽くし難い惨状も。あれを作り出したのは人狼でも吸血鬼でも、第三の未知の魔物でもない。他ならぬ、人間だ。 「ではどうして人は、人を殺めるんでしょうか」 ロタールは漸く手を止めてジムゾンに目を向けた。ジムゾンは続ける。 「戦は解ります。血の宴でも、死にたくないから誰かを殺します。それは解ります。でもこれまで旅をしてきて、人狼の私でも見るに耐えない光景を沢山見てきました。必要以上に残虐な。ああなってしまうのは、どうしてなのですか」 ジムゾンを見つめるロタールの表情は複雑だった。暫く何やら考え込んでいるようだったが、やがて溜息混じりにこう言った。 「本当に困ったお嬢さんだ」 「誰がお嬢さんですか、誰が!」 ジムゾンは思わず立ち上がる。 「そういう世間知らずな所がお嬢さんだと言うんですよ。大体ね、人は、人はと言いますが、あなただって人でしょう」 ロタールは眉間に皺を寄せ、釘をさすかのように一言一言強くはっきりと言った。そうして間髪を要れずに寝台を指し示す。 「それも明日説明しますから、さっさと寝なさい。夜中にあれこれ考えるのは健康上よろしくない」 ええっ、とジムゾンは思わず寝台とロタールとを交互に見やった。そうこうしている間にロタールは外套を毛布代わりに長椅子で横になってしまう。 「修道士達の眠りを妨げないように。それに万一奴らが院に入り込んできた時、あんた一人じゃ何もできんでしょうが」 「でも、そんな」 もうロタールは何も答えなかった。しかしこのまま寝台を借りるのは気が引ける。第一、彼は長椅子に脚が納まりきらずに窮屈そうだった。 「ちょっとブラザー。絶対窮屈でしょう、そこは」 ロタールを揺すってみるが、答える気は無いようだった。やがてジムゾンも諦めて大人しく寝台へ向かった。 +++ 翌朝、ディーターがライナーと共にイジー修道院へやってきた。始終取り乱していたというライナーはジムゾンの無事な姿を見て心の底から安心したようだった。外の広場に出ると空には雲の一つも無く、太陽の光の下で壮麗な大聖堂がはっきりと見て取れた。大聖堂以外にも、修道院の変わった外観や美しい王宮など目新しい物ばかりだ。ジムゾンはついぞ昨晩危ない目に遭った事などすっかり忘れて物見遊山気分になっていた。名残惜しそうに城内の景色を眺めつつ、ディーターに急かされ王宮へ入った。 城内と同じく王宮の内部も沢山の人が行きかっていた。実質主の居ない城ではあるが、かつての中枢であり要所でもあるだけに騒がしい。傭兵然としたディーターとロタール、それに司書官のライナーと司祭のジムゾン。一種異様な取り合わせの一団を気に留める者は居なかった。 「やけにすんなり通されましたね」 ジムゾンは前を歩むディーターに小声で話しかける。 「罠だったりして」 「心配ねえよ」 ディーターは少しだけ振り返って笑った。 『だってあんな人ですよ。しかも昨晩はブラザー・ロタールがモラヴィア辺境伯と知ってなおもみ消そうとしていたし。このご時勢に、辺境伯をですよ。尋常じゃありませんよ』 『普通ありえないわな。あいつたぶん、私情まじりの問題になると混乱しちまうんじゃないかね』 若干呆れたように囁いてディーターは続けた。 『とはいえ会った感じだいぶ切れる風だったからな。理性が戻れば事の重大さくらいわかるだろうし、少しでも釈明した方が賢明だろ』 『殺そうとしておいて、今度はごめんなさいですか?そんなムシのいい事とおらないと思いますけど』 『だからこそ、だろうよ。通らないと解っていても、最初に道理を曲げたのはリヒャルトだ。まともな思考を持ち合わせてるなら、素直に釈明して処断を任せると思うね』 ジムゾンは不意に引っかかってディーターを見上げる。 『あれ?でも、リヒャルトが人狼だと繋げる物は私達の囁きしかありませんね』 『俺が昨日目印つけた』 そういえば、昨晩ディーターはリヒャルトの両の手の甲に傷をつけた。慈悲の刃でつけられた傷は変化を解いても消えない。丁度辺境の村でディーターがトーマスに切りつけられた時のように。 『じゃあディーター、元々殺すつもりなんて無かったんですね』 『当たり前だ。ま、でもお前が勘違いしたお陰でリヒャルトもちっとは生きる気力が出てるんじゃないかね』 『は?』 ジムゾンが訝しげに囁き返したと同時にディーターの足が止まった。ふと前を見やれば一枚の大きな扉があった。先導していた使用人が恭しく扉を開き、一行はそれに従って中に入った。 白亜の室内は窓から注ぐ陽光に明るく照らされていた。長椅子に張られた深い緑色のベルベット生地も煌いて見える。そしてプラハの町を一望できる大きな窓を背にして、リヒャルトが佇んでいた。リヒャルトは珍しく神妙な面持ちで、四人に椅子へかけるよう促した。一瞬出された片手には手袋などされておらず、包帯すら巻かれていなかった。昨日リヒャルトだと思ったのは見当違いだったのか?ジムゾンが思いかけたその時、下座の一人がけに座ったリヒャルトの手の甲が見えた。手の甲には、確かに昨日ディーターのつけた傷跡があった。ディーターの見立てどおり、リヒャルトは今更人狼である事を隠し立てする気などさらさら無いようだった。 「昨晩はとんだご無礼を」 リヒャルトは先ずロタールに深く謝罪した。ロタールは首を緩く横に振る。 「お互い様ですからお構いなく。それから先ず言っておきますが、昨晩の件に関して一切追及するつもりはありません」 これにはさすがにリヒャルトも驚いた様子だった。しかしとうのロタールは平然と繰り返した。 「お互い様ですから」 手の甲の傷でロタールにもリヒャルトが人狼である事は解っただろう。が、ロタールは彼本人の立場からしてもリヒャルトが人狼である事について追及する気は無いようだ。ただ一人、事情を知らないライナーは不思議そうに二人の顔を見比べていた。 「それからジムゾン神父誘拐の件ですが。また後で直接本人とお話し下さい。その背後の問題についてが先でしょうからな」 背後の問題とは一連の事件の発端である、ヴァレンシュタイン暗殺計画だ。ライナーもリヒャルトも一様に表情を強張らせる中、ロタールは事の経緯を話して聞かせた。勿論、万一を考えてクララの所在は伏せたままで。ライナーが計画について追及する意思が無い事。また、ロタール自身にもその意思が無い事も含めてだ。続いてライナーも自身の思う所を事細かに説明した。そして、リヒャルトも。ジムゾンとディーターは黙ってその様子を見守っていた。 数時間に及ぶ会談を終えて漸くリヒャルトの誤解は解けた。ライナーの主張も、形は違えど帝国の行く末を案じての物だと理解して貰えたらしい。昼食も挟み、会談は夕方近くまで延々と続いてしまったが誤解が解けたのは何よりの収穫だった。 「今まで随分と無駄な時間を過ごしてしまったと思いましたよ」 ライナーはさすがに疲れきった様子だった。それでも満足そうにジムゾンへ笑いかける。 「お前の説明が足りないからだ。深く突っ込むとすぐ言を引っ込める上に、終いには議会にも顔を出さなくなった」 癇に障ったのか、リヒャルトが言い返した。流しておけば良い物を、ライナーもムッとした表情で更に返す。 「説明しても君が理解しないからだ。君にとっては私とは帝国の敵だという結論ありきで、内容も殆ど聞いていなかったじゃないか」 「聞いていないとは随分な物言いだな」 「事実を言ってるだけだ。大体、懇切丁寧に言わなければ解らない方が」 「はいそこまで」 再び論争を始めた二人の間にロタールが割って入る。どうもリヒャルトとライナーは根本的に相性が悪いのか、先ほどの論争にしてもどうでもよい所で喧嘩が始まっている。お互い釈然としないようだったが、何とか言い合いは収まった。ライナーは短く溜息をつくと、思い出したかのようにロタールに向き直った。 「でもお陰でやっと、話し合いの場につけそうです。ジムゾンさんやディーターさんにも、何とお礼を言っていいのやら」 「え、いや。私達は何も」 ロタールと一緒くたに礼を言われてしまい、ジムゾンは戸惑ってしまう。 「いえ、こんな事を言っては何ですが。ジムゾンさんが誘拐されでもしなければ、私もプラハまで来る事は無かったでしょう。また、ディーターさんに助言を貰わなければ、犯人がリヒャルトだと思いつきもしなかったでしょうからね」 明るく笑うライナーをよそに、誘拐の二文字に反応したジムゾンはリヒャルトをジロリと上目に見た。 「そうですよ。人をこんな所まで連れてきて、牢屋に押し込めて、お――」 「その件については、すまなかった」 リヒャルトはジムゾンの言を遮った。 「だが帝国の為を思っての事だった。それは君も解ってくれただろう」 「やる事が荒過ぎるんですよ」 ジムゾンはうんざりした表情を浮かべた。話し合えば解る事で生命を脅かされてはたまったものではない。 「怖がらせて悪かったと思っている。しかし私を庇ったという事は、君も私の想いに応えてくれたものと」 リヒャルトに手を取られそうになった瞬間、ディーターが立ち塞がる。 「人の連れに手を出すな」 ディーターはジムゾンをリヒャルトから隠すように後ろへ回らせた。一方のリヒャルトは忌々しそうにディーターを睨んだ。 やがて西に傾いた日に照らされて、城内もプラハの町も黄金色に染まりつつあった。何やら話し込んでいるロタールとライナーを横目に、ジムゾンは小声でリヒャルトに問いかけた。 「ふと思ったんですけど。どうしてライナーさん本人を襲おうとは思わなかったんですか?」 「愚問だな」 リヒャルトは鼻で笑う。 「力はそんな事の為にあるんじゃない」 「ブラザー・ロタールを襲おうとはした癖に?」 すかさずジムゾンが突っ込み、リヒャルトはぐっと言葉に詰まる。 「焦って判断を見誤る事もある」 「見誤ってばかりみたいに思えますけどね」 ジムゾンは口を尖らせてひとりごちた。が、すぐに表情を戻してリヒャルトを見る。 「でも、そんなものじゃないんですか、人狼は。血の宴に巻き込まれればどんなに卑劣でも力を最大限に使って人を貶め、邪魔者を消すのでは」 「やけに詳しいな」 リヒャルトに切り返され、今度はジムゾンが詰まる番だった。すると横合いからディーターが助け舟を出した。 「図書館で本を見たのさ。なあジムゾン」 ジムゾンは促されるまま肯定した。 「人狼の力はあくまでも自分の身を守るための物だ。そう考えれば、血の宴でも無いのに主張が違うと言うだけでライナーを襲うのは掟破りの愚行でしかない。そうだろ?」 「まあな」 ディーターに唐突に振られ、リヒャルトは釈然としない表情で頷いた。 「それで。お前は私を狩らないのか」 そう言ってリヒャルトは片手の甲をディーターに見せる。血こそ出ていないが、閉じたばかりの傷口は生々しく痛々しい。 「生憎俺は狩人じゃない。その逆だ」 ディーターは苦笑して肩を竦めた。リヒャルトが驚いて問い返そうとした瞬間、ライナーとロタールがこちらへやってきた。 「ウィーンまでギレッセン卿がいらして下さるそうです」 「と、言ってもお送りするのは部下ですが」 ライナーの横からロタールが言い添える。 「ブラザーは?ウィーンへ行かれないのですか」 「折角プラハまで来た事ですし、少し旧友の顔を見たくなりましてね。ピルゼンに立ち寄ってからウィーンへ行きます」 ピルゼンと言う地名に、リヒャルトとライナーの二人は突然表情を強張らせた。二人の反応からして、旧友とは恐らくヴァレンシュタインの事だろう。ロタールは不意にジムゾンへ向き直った。 「あなたもご一緒にいかがですか、ジムゾン神父。それに、ディーターも」 唐突に話を振られてジムゾンは戸惑う。ロタールは暗殺計画が持ち上がるのも仕方の無い事だと言っていた。止める意思も無いのに会うとなると、単純に会いたいだけなのだろう。一方のジムゾンやディーターには会う理由などは無い。にも関わらず誘うロタールの真意が解らなかった。 「ああ。構わねえよな、ジムゾン」 なんとディーターはあっさり承諾してしまった。ジムゾンは未だ戸惑いつつも、頷くほか無かった。 『行ってどうするんですか』 『どうもしねえ。単に会ってみたいだけだ』 ディーターは何の考えも無しに行動を決める性質ではない。少なくとも危険は無いのだろうが、それでも意図がつかめずジムゾンは混乱するばかりだった。そんなジムゾンを他所に、ロタールとディーターとであれよあれよと段取りが決められていく。 「私はご同行できそうにありませんね」 ライナーは困惑した表情で呟いた。一般人であるジムゾンやディーターは兎も角、宮中伯のライナーが行くとなると色々と誤解を招きかねない。ジムゾンも何とも言えず、話し込んでいるディーター達を見つめるばかりだった。 「ディーターさんは傭兵だったそうですね。なんでも、故ティリー伯の下で小隊の指揮官もされていたとか」 「ええ。私も後々知った事ですけど」 七年も前の事なのに本人の知らぬ所で噂が広がってしまっている。当時それで目をつけた狩人のルドルフは教皇庁専属の占い師に占わせたと言っていた。ディーターの正体がどれほど知れ渡っているか定かではないし、教皇庁はディーターを抹殺する気は無いようだが、不安は不安だ。ジムゾンは何とも言えない表情で苦笑いした。 「また傭兵に戻られるとか、そういうご意思は無いのでしょうか」 「どうしてですか?」 「ギレッセン卿のご提案に一も二も無く同意されたでしょう。フリートラント侯に会って復帰の足がかりとしたいのかな、と思ったのです。もしディーターさんに戦線復帰の意思があったなら、先の功からして引き抜かれてしまうかもしれませんよ。気をつけないと」 ライナーは冗談めかした調子で笑う。が、とうのジムゾンは少しだけ笑ってライナーから目を逸らしてしまった。ディーターは戦に生きる意味を求めていただけだと言っていた。戦いが好きなわけではない。もし日々の糧が必要な人間であったなら、華々しい傭兵より農夫を選んでいたとも言っていた。それに、ルーデンドルフの領を出たあの日に、自分と一緒ならどこでもいいとも言った。しかしあれから二年近く経っているし、皇帝軍総司令からの誘いとなったら心揺らいでしまうかもしれない。気安くロタールの誘いに乗ったのも気にかかる。果たして本当に、有名人だから会ってみたいというだけなのだろうか。 ジムゾンが一抹の不安を覚えている中話が纏まったようで、ウィーンへ戻るライナー共々出立は明朝に決まった。ライナーは一足先に大司教館へ帰って行った。 『どういうつもりだ』 聞こえたのはリヒャルトの囁きだった。 『おい。聞こえてるんだろう赤毛』 『赤毛じゃねえ。ディーターだ』 ディーターは面倒臭そうに返事をした。 『ヴァレンシュタインに会ってどうしようと言うんだ。まさか、逃がす気では』 『んな事しねえよ。俺は単なる野次馬だし、ロタールはお前を安心させようとも思ってるんだろ』 「逃がそうなどとは思っていないのでご心配なく」 まるで囁きに答えるかのようにロタールが言った。 「計画は中止すると言った、その言葉へ私なりに応えようかと」 「――確かに、私は諦めましたが」 リヒャルトは厳しい表情で西の空を眺めた。 「私一人が断念したとて、第二、第三の計画がどこかで持ち上がるでしょう。彼を危険視し、排除しようとしているのは私だけではない。また、それに呼応する者も星の数ほど居るでしょう。義憤などではなく、彼と同じ欲望の下に」 ロタールは少し俯いただけで返答はしなかった。 「では私はこれで」 短い挨拶を残してリヒャルトは踵を返した。長く伸びる影はやがて大聖堂の大きな影に飲み込まれる。ジムゾンは王宮へ戻るリヒャルトの背中を見やり、ロタールに向き直った。 「リヒャルトを説得はしないのですか。宮中伯より上のあなたの立場なら、議会の流れを変えられるのでは?」 「そう易々と事が解決するのなら、この長い戦も無かったでしょう」 ロタールは苦笑いしてジムゾンを見た。 「どうです。まだ日もある事ですし、少し散歩でも」 「散歩って」 どうしようかとジムゾンがディーターを見上げた瞬間、そのディーターに促された。 「いいね。お前は初めてプラハに来たんだろ」 「ディーターは来た事があるんですか?」 「傭兵だった頃にな」 そう呟いて、ディーターは横を歩くロタールに目を向けた。ロタールもまた無言でディーターを見つめ返し、すぐにまた前を向いた。 次のページ |