【恩愛の夜明け 第五話「ヴァレンシュタイン」】
町の中は人でごった返していた。様々な店が建ち並び、露天商の声も明るい。時折傭兵の連隊など物々しい集団も目に付き、砲撃で破壊された跡も幾らか残っていた。しかし暗い雰囲気は無く、町は活気に満ち溢れている。全体にどことなく異国情緒も感じられ、プラハはウィーンともまた違う美しい町だった。 「凄いですね。エルナはこんな素敵な所に居たんですね」 町の一角に大きな仕立て屋を見つけたジムゾンは興奮ぎみにディーターを見上げた。 「エルナ?」 前を歩いていたロタールが訝しげに振り返った。そういえば、ロタールはエルナが偽名のエルンストだと思ったままで、女だとは知らないのだ。 「ちょっとした知人で」 ジムゾンはさりげなくロタールから目をそらしてしまう。 「オットーもここで修行していたらしいぞ」 何気ないディーターの一言に、ジムゾンは驚いて再び顔を上げる。 「プラハで修行して、その後ウィーンに行ってマイスターになったんだと」 ふわ、と香ばしい匂いが鼻腔を擽った。辺りを見回すと、少し先の通りに一軒のパン屋が見えた。そしてすぐ脇を通り過ぎていった人の手にした籠からは美味しそうなパンが覗いていた。人狼の自分には必要の無いものだ。けれど、ジムゾンは無性にパンが食べたくなっていた。村で朝一番に嗅いでいた、あの温かい匂いを思い出して。 「本当に、村を愛していたんですね」 暫く進んで通りを抜けると一つの大きな川に出た。ボヘミアを象徴する川、モルダウだ。城下と対岸に見える町を繋いでいる重厚な石橋もまた、人の往来が激しい。橋の真ん中あたりには大きなキリストの像もあった。ジムゾンは目を留めたが、ディーターに引っ張られて素通りしてしまった。橋を渡りきって大きな広場に出た頃にはすっかり日も傾き、町は茜色に染まっていた。 「大きな時計!」 市庁舎の一風変わった時計を見上げ、ジムゾンは感嘆の声をあげた。針はじきに四時を指そうとしている。残照の落ちる広場ではあちこちで何かの作業が行われていた。 「クリスマス市か」 「今年は開催するようだな」 ディーターの呟きにロタールが答える。時計を見上げていたジムゾンはふと首を傾げた。 「去年は開かれなかったのですか」 「新教軍から奪還したばかりで、まだ復興まで至っていませんでしたからね」 ジムゾンは沈痛な面持ちで目を伏せた。 「この町も大変な目に遭ったのですね」 「十二年前はもっと酷かった」 言ったのはディーターだった。ジムゾンが顔を上げると、ディーターは広場を見つめたまま続けた。 「漸く俺が傭兵稼業に慣れてきた頃だ。ここの郊外で戦があってな。反乱を起こしたボヘミア貴族対皇帝軍という図式だった。ボヘミアの貴族達はあちこちの新教国に応援を要請したそうだが叶わず、結果皇帝軍の勝利となり、たった半日で終わった戦だった」 「それが、悲惨だったのですか?」 「戦の後、反乱を指揮したボヘミア貴族のうち二十数名がこの広場で処刑された」 思わずジムゾンは息を飲んだ。見開いた目で広場を見渡すが、当然広場には当時の面影など無い。しかし、今のジムゾンにはそれが返って不気味にも思えた。 「斬首や絞首。単に殺すだけならともかく、じわじわ痛めつけながらな」 耳こそ塞がなかったが、ジムゾンは眉根を寄せる。人狼の襲撃の絶対条件として先ず獲物の息の根を止める事が挙げられる。確実に一撃で葬る事が出来て初めて一人前の人狼と言われるのだ。誰に教わるわけでもない、体にそれが染み付くのだとニコラスが言っていた。あくまでもただ糧にするため。その事を人狼本人に解らせる為なのだと言う。ゆっくりと嬲り殺しにするなど人狼としてありえない話でもあり、人間としても惨すぎて信じ難い行いだった。 「見たんですか」 「見たよ。見た後で、ウィーンに引き揚げた」 淡々と語るディーターから目を逸らし、ジムゾンは所在無く視線を彷徨わせた。ついで口を開いたのはロタールだった。 「その後死体はバラバラにされて籠に入れられ、あの橋塔から吊るされて晒し物となりました。新教軍がプラハを占領するまで、約十年に渡って」 「十年!」 ジムゾンは叫んでしまう。声に気づいた人々の目が自然と集まり、ディーターは目を避けるため再びジムゾンを促して歩き始めた。傭兵じみた二人に連れられる司祭の姿は嫌でも目立ってしまうが、留まり続けるよりはましだ。ロタールもまた平行して歩き始める。 「どうして誰も葬りをなさなかったのですか?遺骸を辱めて、その上十年も放っておくなんて!」 「二度と反乱を起こそうなどと思わせない為です」 ロタールの答えにジムゾンは言葉も出なかった。 「ご存知かもしれませんが、そもそも事の起こりは信教の自由を認めた約束を反故にした事です。ボヘミアは反発し、ウィーンからの勅使を城の窓から投げ落としました。更にボヘミア側は新たな皇帝を立てて対抗し、一時期ウィーンにまで迫ったのです。残虐な処刑をしてまで黙らせようとしたのはこういう経緯もあってです」 導かれるままのろのろ歩いていたジムゾンは黙って片手で頭を抱えた。信教信教、また信教だ。 「旧教側が加害者のようになると、耳が痛いでしょう。ですがそう気にする事もありません。ボヘミアが反発したのは単純に奉じる教えの為だけではなく、利権問題が絡んでいたからです。ことの善悪や大義名分は人々を焚き付け、踊らせるものでしかない」 顔を上げたジムゾンを一瞥して、ロタールは続けた。 「また、ボヘミアの貴族達は長きに渡って農民から過酷な搾取を続けていました。戦での敗北と処刑の苛烈さを招いたのは、虐げられてきた民衆の恨みも恐らくあったでしょう。一方の正義に狂信が応えた。そういう側面も無いとは言えない」 「だから、そんな惨い殺しをすると言うのですか?」 「したくもなる仕打ちだったんだろう。珍しいことじゃない」 ジムゾンはハッとしてディーターを見上げた。しかしディーターはふいと目を逸らし、僅かに陽光の残る空を見つめるばかりだった。 三人は暫し無言のまま歩き続けた。前を歩いていたロタールは一本の路地に入り込み、ジムゾン達も同様に路地へ入った。どうやら商店街らしく、屋根のある薄暗い通りには店が立ち並んでいる。一日の仕事を終えて畳み始める店が散見される中、やがて辿り着いた路地の突き当たりには何かの建物の入口があった。扉は開け放たれ、中はまるで聖堂のような装飾が施されている。ロタールは入口で足を止めた。 「ティーン教会です。以前はフス派の拠点でしたが、旧教用に改装されています」 案内されるまま中に足を踏み入れてみたところ、広い礼拝堂はがらんとしていて人っ子一人居なかった。市庁舎の時計を見てからまだそんなに時間は経っていない。夕べの祈りまであと一時間ぐらいだろうか。そういえば先ほど広場から簡素な、新教らしい尖塔は見えていた。恐らく、ここがその尖塔の在り処なのだろう。しかしロタールが言った通り、中は旧教式に飾り立てられている。睥睨するかのような堂々たる聖人達や、愛らしくも麗しい天使など。微細に彫り込まれた装飾のどれもが、聖書に帰れと訴える新教の否定してきた物だった。 何時もなら心安らぐ筈の聖人像達が、今のジムゾンにとっては何故か恐ろしく感じられた。新教から旧教に塗り替えられた経緯を想像するに、胸も疼く。 「処刑されたボヘミア貴族らの遺骸が、憐れんだ新教軍によって葬られたのも、この教会です」 真っ直ぐ祭壇へ歩むロタールの声が礼拝堂に響く。 「そんな場所で、旧教の僕が祈りを捧げて良いものでしょうか」 ジムゾンは立ち止まった。 「何時から教えの僕になったのです」 祭壇の近くでロタールが振り返った。呆れたような表情を浮かべてジムゾンを見ている。 「我々はあくまでも主の従僕。形式や価値観が違っても、祈る神は同じでしょう」 正論だが、ここの聖職者達が聞いたらどんな顔をするだろうか。ジムゾンは思わず辺りを見回してしまう。 「一つきつい話をしますが、リンチェピングの血浴はご存知ですか」 血浴、という単語からしておぞましい内容である事は想像に難くなかった。あまり聞きたくは無かったが、ジムゾンは小さく首を横に振った。ロタールはさもありなんと言いたげに続けた。 「戦死したスウェーデン王、グスタフ・アドルフの父の代の話です。今から三十数年前になりますかな。当時スウェーデンは、ボヘミアとよく似た状況にあったのですよ」 ロタールが説明するにはこうだ。先代スウェーデン王カールは先々代王の弟であり、甥のシギスムンドが本来スウェーデンの王位継承者であった。そのうち先々代の王が亡くなり、当時ポーランドに居た皇太子シギスムンドはスウェーデンに戻った。旧教徒であったシギスムンドはスウェーデンの旧教化を図ったが、国民らの反発を招いた。そこで、シギスムンド不在の隙をついて叔父のカールは反乱を起こし、自ら王位についた。そしてプラハの処刑と全く同じ、いやそれ以上に。旧教側に与した貴族らを粛清し、かくしてスウェーデンは完全なる新教国となったのだと言う。 「スウェーデンはまあ、“上手くやった”のです。十二年前、あの白山の戦いでもし新教軍が勝っていれば、スウェーデンと同じ事になっていたかもしれません。誰しもしうる事なのですから、あまり気負わない事ですよ。祈る神が同じであると、理解しあえる限りには」 そうは言われても、ジムゾンは心中複雑だった。チラとディーターを見やったが、ディーターは今の話に特別何の感慨も抱いていないようだった。 「正義は誰にもありゃせんのです」 相変わらず淡々としていたが、ロタールの表情は僅かに寂しげにも見えた。ジムゾンは少しだけ頷いて、複雑な表情のまま祭壇へ向かった。 聖堂から出ると外はすっかり暗くなっていた。ジムゾン達は元来た道を引き返す事にした。まだ人の通りはあったが、来た時に比べると随分数が減っていた。坂を登って城に辿り着いてからジムゾンはふとある事を思い出した。 「ああ。大司教様にご挨拶するのを忘れていました……」 これでは今晩の宿泊も望めない。ジムゾンは溜息をついて肩を落とした。 「修道院の方があなたの好みではありませんかな。地味で」 「別に地味好きだから修道院に入っていたわけじゃないですよ」 ジムゾンはロタールの皮肉に食いつき、横で見ていたディーターは苦笑いしてしまう。 「なんなら王宮に泊めて貰ったらどうだ。リヒャルトは大歓迎すると思うが」 「冗談じゃありませんよ!なんですか。私の貞操が危なくてもいいって言うんですか」 「冗談だよ冗談。まあ、夜這いには気をつけろよ」 ディーターは完全に他人事だと思って笑っている。とはいえ、リヒャルトがまた襲おうとする心配が無いからこそ言っているのだろうが。ディーターと別れ、ロタールと修道院へ戻ると一人の修道士が待ち構えていた。ジムゾンを待っていたその修道士から渡されたのは一通の手紙だった。手紙を渡すと、修道士はいそいそと奥へ引っ込んでしまった。そろそろ夕べの祈りの時間だ。二人は一先ず客室まで戻った。 「見慣れない封ですね」 長椅子に腰掛けつつジムゾンは手紙に施された赤い封印の紋章を見て首を傾げた。 「リヒャルトですよ」 何気ないロタールの一言に、ジムゾンはあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。ロタールにナイフを手渡されて渋々封を切る。果たして、内容は予想に違わず、背筋が寒くなるような言葉が連ねられていた。カペル家専属の司祭になってくれ、などという熱烈な誘いと共に。家専属の司祭になれと言う依頼は別段おかしな事ではない。しかしリヒャルトが言わんとしているのは推して知るべし、であった。 「ああしつこい」 ジムゾンは声まで震わせて手紙を放り落とした。ロタールはそれを拾い上げ、目を通す。 「あの男が執拗なのは今に始まったことでなし」 手紙を読んで苦笑いしているのをジムゾンは恨めしそうに見る。リヒャルトがライナーに粘着して攻撃していた件も記憶に新しい。このままでは実家やマリアラーハにさえも手紙をよこしてくるのでは無かろうか。想像してジムゾンは再び身を震わせた。 「あなたの本来の血統がハプスブルクだと知れば、案外あっさり諦めるかもしれませんよ。一見傲慢で野心家にも見える男ですが、王家への忠誠心は誰より強い」 「――え。どうして私の素性を知っているんですか」 ジムゾンはロタールを見上げた。以前インゴールシュタットで出会った時、ロタールはジムゾンを、表面的に知られているバイエルン、ヴィッテルスバッハの血筋だとしか知らなかったはずだ。 「調べました。調べずとも想像はできる範囲でしたがね」 ロタールは手紙から目を離してジムゾンを見た。 「あなたの母上は皇帝との婚約を破棄した。幾らバイエルンが仲介しているとはいえ、ルーデンドルフ伯は冷遇されてもおかしくないのですよ。にも関らずバイエルンは相変わらず厚遇し、ウィーンは当らず障らず。となると、冷たく出来ない理由があるからに決まってるでしょうが」 言われてみればその通りだった。ただし、ロタールの言うように確証には至らない、想像できる程度のものでしか無いが。ロタールは手紙を元通り折畳み、ジムゾンへ返した。 「要りませんよう」 「取っておきなさい。何かあった時役に立つ」 何かあった時とはどういう時だろうか。などと考えつつ、ジムゾンは仕方なく雑のうに手紙を仕舞った。 「そういう意味では、ルーデンドルフ伯はあなたに領を継がせたかったろうと思いますよ。彼に似たベルンハルトより、ハプスブルクの血を濃く継いだあなたにね」 「父を。兄をご存知なのですか」 これにはジムゾンも驚いた。ジムゾンの実家の領はネーデルラントに程近い西の辺境にある。対するロタールの領地であるモラヴィアは正反対の東側だ。接点もまるで無い。 「知ってますよ。軍に居た頃一度だけ城を訪れた事があります。あの時あなたは既に居なかったし、二人に全然似てなかったのでインゴールシュタットでは一瞬騙りかと思ったくらいで」 だろうと思いましたよ。と、ジムゾンは内心呟いた。しかしそれにしてもまさか父や兄を知っていたとは。父は柔らかい癖のある金髪で角張った顔立ちをしている。対する自分はあまり癖の無い黒髪で、顔立ちは母に瓜二つだ。せいぜい瞳の青い色を受け継いだくらいで、父と自分は似ても似つかない。父を知っているのなら騙りと疑うのも尚更だったろう。 「まあ勿論、あなたが領主に向いていないのは卿もご存知でしょうが」 そう言われてジムゾンはフンとそっぽ向いた。領主として不適格なのは解っているが、はっきり言われるのはやはり面白く無かった。 「そういう感情に素直なところは、さすがスペインの血と言うべきか」 「偏見です、そんなの」 ジムゾンは口を尖らせる。しかし確かに、スペインというと血の気の多い印象がある。情熱的で、黒い髪、黒い瞳――。そこまで考えてふとジムゾンはロタールを見上げた。そういえば、ロタールもライナーも黒髪だ。 「あなたやライナーさんも黒髪ですよね」 ロタールは一瞬目を丸くしてジムゾンを見る。 「それが何か」 「南の血が入っているのかなぁと……」 あまりに短絡的なジムゾンの疑問に、ロタールは噴き出してしまった。 「それこそ偏見という奴ですな。黒髪だからと言ってスペインやイタリアの血脈とは限らない。我がモラヴィアやボヘミア、そしてライナーの故国であるハンガリーも」 世間知らずここに極まれり、である。バイエルンにも黒髪の者がそれなりに居たため、黒髪の者はてっきりイタリアやスペインの血の流れを汲んでいるのだと思っていた。ジムゾンは頬を紅潮させて結んだ唇をへの字に曲げる。が、モラヴィアという地名を聞いてふと思い出した。ロタールが辺境伯だと言う事を。 「大変今更なんですけど」 ジムゾンはやや上目にロタールを見た。 「あなたは形式上の修道士なのですよね。まだ俗世に籍がある」 ロタールは、何を今更、と言いたげな表情を浮かべてジムゾンに続きを促した。 「だとすると、あなたにブラザーというのはおかしくなるわけで。――それこそギレッセン卿とか。お呼びした方がいいのかなあと思いまして」 「ハッ」 ロタールは鼻で笑った。 「唐突にそんな扱いをされてもこちらが戸惑います。これまで通りで結構。どうしても僧と捉えるのが難しいと仰るならロタールとでもお呼び下さい」 「もっと砕けてるじゃないですか」 「ディーターはずっとそれですよ。相手を見て使い分けているんでしょうが。己の身一つというのは自由なものだ」 そう言ってロタールは笑う。言われてみればその通りだ。ライナーにはまだ敬語を使っているから良いようなものの、リヒャルトには普段通りに話している。丁寧な対応の者と無礼な者との差なのだろうか。そしてディーターは放浪の身だ。領土や民は勿論、家族も居ないのだから誰かに対する責任は何も無い。仮に無作法をしたとて彼自身が危うくなるだけである。 ジムゾンは視線を床に落とした。しかし今は自分が居るではないか。別に、だからと言ってディーターにあれこれ押し付けようなどと考えてはいない。ありのままのディーターが好きだし、それで良いと思っている。だが今のままでは、ピルゼンに行ってもし万一軍に勧誘されてしまったなら。ディーターがまた傭兵に戻ってしまうのではないかと余計不安になるのだった。 「どうかされましたか」 ロタールの声を聞いて、ジムゾンは我に返った。笑いながら慌てて取り繕ったが、ロタールは何とは無しに察したようだった。その後は取りとめも無い言葉を二三交わし、お互い静かに眠りに就いた。 +++ 翌日、ライナーと別れた三人は一路ピルゼンを目指した。ロタールは自身の、ディーターとジムゾンはライナーに借りた馬で。簡単な休憩と昼食を挟み、日が傾く前にはピルゼンへ到着した。 「物凄い数ですね」 ジムゾンは表情を強張らせる。ピルゼンの町はあちこちに幕舎が立ち並び、傭兵で溢れ返っていた。鉛色の低い空からは雪がちらつき始め、気温も随分と下がってきている。昼だというのに町並みは暗い。しかし点在する陣中酒場は活気付き、いたる所で騒ぎ声が聞こえる。明るいと言うべきか暗いと言うべきか。何とも形容し難い光景が広がっていた。 陣を通る間中傭兵達からじろじろ見られた。ジムゾンは完全に固まってしまい、前を見ているのでやっとだった。ただ、視線はジムゾン達ではなくロタールに集中しているようだった。中には親しげに声をかけてくる者も居る。 「たった三年前ですからね」 知り合いと思しき傭兵と話し終えたロタールは再び二人を追い越した。 「そういえばブラザー。あなたはどうして軍を離れたんですか?」 「そのうち解りますよ」 ロタールは適当にはぐらかした。と同時に馬の足を早めてしまい、ジムゾンは問い返す事が出来なかった。そうこうしている内に公邸へ辿り着き、三人は馬を下りた。どうやらロタールは随分前から連絡していたようで、使いの者と特に話す事もなく中へ通された。公邸は明かりが僅かに灯され、それが余計に邸内の暗さを際立たせている。三人は二階中頃の部屋へ案内され、一人の男と対面した。一人佇んでいた男は厳しい顔つきをしていたが、それもすぐさま崩れた。 「ロタール!ああ、本当に来てくれたのか!」 男は感激した様子で両手を大仰に広げて迎えた。年の頃は五十代前半と言ったところだろうか。ロタールと同じような鬚を蓄えたこの男こそが皇帝軍総司令、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインその人だった。 「本当も何も。偶々プラハまで出てきたのでね」 一頻り話した後、ロタールは改めてジムゾンとディーターを知人だと紹介した。ディーターにはルッターの一件を添えていたが、ジムゾンについては家の事へ細かく言及しなかった。 道中ロタールに聞いていたのだが、ヴァレンシュタインはバイエルンと仲が悪いのだそうだ。血筋を誇りとしているバイエルンと、成り上がりのヴァレンシュタインである。互いの間で何かいざこざが起こるまでもなく気が合わないのは明白だった。 「君が退いてしまった後の戦いがこれほどやり難いとはな。今からでも戻ってきて欲しいくらいだ」 そう呟いてヴァレンシュタインは苦笑いする。とうのロタールは少し笑っただけで返事をしなかった。 「ディーター・ヘルツェンバイン。最終階級は少佐だったかな。騎兵連隊の」 と、ヴァレンシュタインは唐突にディーターへ向き直った。 「はい、閣下」 ディーターは珍しく真面目くさった調子で返答した。 「確か、天涯孤独の身だと聞いていたが」 「仰る通りです」 口元に僅かな笑みをたたえるディーターの様子は、次に発せられるであろうヴァレンシュタインの言葉を既に知っているかのようだった。 「陣営では不当な扱いも受けたのではないかな。少佐になるのも随分苦労しただろう」 「私の力不足で」 実に謙虚なディーターの返答を聞いてヴァレンシュタインが笑う。決して嘲り笑っているわけではない。逆に、同情の笑いにすら思えた。軍に居た頃それなりに苦労したという事はジムゾンも知っていた。自分の事となるとあまり語りたがらないディーターなので、どう苦労したのか細かな事は大して知らない。だがヴァレンシュタインは、ディーターと初めて会うにも関らずそれがどんな物だったのか解っているかのように見えた。ヴァレンシュタインはディーターと違って出が貴族とはいえ小貴族だ。それなりに不当な扱いを受けた事も恐らくあったろう。また、早くに両親を亡くした孤児でもあった。ジムゾンに比べるとディーターとは共通点が多い。 「力不足、か。うん。だが私は生まれや何やで評価したりはせん。この陣営を見たかね」 「拝見しました」 ヴァレンシュタインは満足そうに頷いた。 「見ての通り様々な生まれの者の寄せ集めだ。だが人の真価は生まれなどではない」 そこまで言って言葉を切り、ヴァレンシュタインは改めてディーターに向き直った。 「傭兵に戻る気は無いか?」 それは唐突な提案だった。ジムゾンは驚いてディーターを見たが、ディーターは平然としていた。 「ここには以前ティリーについていた連中も居る。気心の知れた人間も幾らかは居るだろう。お前にその気があるのなら一隊を与えよう。どうだ、やってみる気は無いか」 ジムゾンはヒヤヒヤしながら見守る事しかできなかった。何時もならディーターの手なり服の裾なりを掴んでしまうが、今日ばかりはどうして良い物か迷っていた。 「勿体無いお言葉。身に余る光栄です」 ディーターのその一言に、ジムゾンは息が止まりそうだった。しかし。 「ですが私はもう軍を退いて七年になります。今となっては腕も頭も衰え、ご期待に添えないでしょう」 継いだ言葉に、ジムゾンが胸を撫で下ろしたのは言うまでも無い。だがヴァレンシュタインは諦めなかった。 「その若さで七年くらいの開き、大した問題ではなかろう。戦並みとまでは行かずとも少なからず剣を振るう事もあったろうに」 「アルブレヒト」 横合いからロタールが割り込んできた。 「ディーターは神父を警護する任務を仰せ付かっている。それに今日は新しい兵を紹介しに来たわけでは無いぞ」 「そうは言ってもな」 ヴァレンシュタインはチラとロタールを見て眉根を寄せた。その隙を見てロタールは切り返す。 「ところで、バイエルンの援護要請はどうした。動かなかったそうだが」 ジムゾンは吃驚して目を見開いた。まさかまたバイエルンが戦場になっているとでも言うのか。一方のヴァレンシュタインは益々眉間に皺を寄せ、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。 「バイエルンを助けてやるような義理は無い。それに放っておいても撃退しなさるだろう」 と、皮肉めいた口調で片手をひらひらと振った。これはジムゾンにとって衝撃だった。噂を聞くに、バイエルンは気位が高くてやり難い部分もあるのかもしれない。しかし自分にとっては優しい人達ばかりなのだ。そんな人達をこうも無碍に扱われてしまうのは理解し難い物があった。しかもヴァレンシュタインは総司令だ。皇帝の命令には従う義務がある。しかもバイエルンは皇帝と密接な関係にあると言うのに。 「義理云々だけでも無かろう」 ロタールの一言に今度はヴァレンシュタインが目を見開いた。 「講和がやり難くなる。違うか?」 畳み掛けるようなロタールに、ヴァレンシュタインは沈黙で答えた。ロタールは更に一歩踏み出して距離を縮める。 「ボヘミアに安寧を取り戻すという夢は忘れてしまったのか」 「その為にしとるんだよ」 にべない返事を聞いて、ロタールは驚愕の眼差しをヴァレンシュタインに向けた。 「馬鹿な……」 なるほど、ヴァレンシュタインの言うように早々に講和を取り付けられればこれ以上帝国の領土を踏み荒らされる心配は無くなる。しかしロタールの様子を見ていると、講和という言葉に含まれる意味は他にも何かありそうだった。ジムゾンには何が何だかさっぱり解らなかったが、聞くに聞けなかった。ディーターには解ったようだったが、唇を引き結んだまま何も言わなかった。暖炉で薪が爆ぜる音だけが響く中、ヴァレンシュタインが沈黙を破った。 「そう心配する事も無い。ただ一つ、星の巡りが中々良くならん事を除いてはな」 「星?ケプラーは死んだと聞いたが」 ロタールは訝しげに問う。 「あれは残念だった。が、また占星術師を雇ったんだ」 そう言ってヴァレンシュタインはゆっくり歩き始めた。表情には笑みが戻り、新しい玩具を自慢している子どものようにも見えた。 「お陰で随分事は順調に運んでいる。惜しむらくは先に言ったように、決断を下すに足りぬ巡りの悪さだよ。天空の破片さえあればそれも全て解消するんだがなあ」 「滅多な事を言うものではない」 ロタールは咎めるかのような表情で鋭い視線を投げる。 「他愛ない夢の話だよ」 ヴァレンシュタインは軽く笑っただけだった。それからはロタールと二人、よく解らない情勢の話などが続いた。 公邸で一晩過ごす事となり、ジムゾンは夕食後ディーターの客室を訪れた。ロタールは相変わらずヴァレンシュタインと何やら話し込んでいるようだった。何故ここへ誘ったのかも聞きたかったが仕方が無い。また、それよりもディーターに確認したかった。何故誘いを受けたのか、傭兵に戻る気が僅かでもあったのかと。ヴァレンシュタインの誘いは断っていたが、それでもジムゾンはどこか胸の痞えが消えないでいた。 「お昼の件なんですけど」 ジムゾンは寝台に腰掛け、両手を何とは無しに突き合せる。すぐ本題に入りたい所だが、唐突に振るのも躊躇われた。 「バイエルンはまた戦場になっているんでしょうか」 「らしいな」 ディーターは装備を整理しつつ、素っ気無く答えた。知っているならどうして教えてくれなかったのか、とジムゾンは思った。が、ジムゾンに対する配慮だったのだろうか。 「心配ねえよ。もうミュンヘンは落ちない」 ディーターは僅かに笑みを浮かべた。しかし領土が蹂躙される事には変わりなく、領民が憂き目にあう事には違いなかった。 「それから、講和に何か問題があるのですか?」 「大有りだ」 ディーターは漸く顔を上げた。そうして椅子から腰を上げ、ジムゾンの隣に座りなおす。 「命令に逆らってでも進める講和はただの講和じゃない。しかもボヘミアの支配権を得る為だとなれば最早謀叛に他ならない」 驚くジムゾンをよそにディーターは続ける。 「昔から風の噂に聞いてはいたんだ。ボヘミア王になりたがっているんだと。誰でも大きい事は言うもんだと流していたが、まさか本当だったとはな」 ジムゾンは嘆息して天を仰いだ。誤解どころか本当に謀叛だったとは。擁護できないと言ったライナーの見方は正しかった。そして手段は正しいと言えないが、リヒャルトの考えも。 「それに天空の破片とか言ってたろう。俺もそんなに詳しくは知らねえんだが、手にした者は全てを制するとかいう代物らしい」 「はあ?」 ジムゾンは怪訝な表情を浮かべた。 「傭兵連中の夢の話さ。ハプスブルクの当主が代々受け継いでいるとの噂でな。まァあれだ。西に太陽の沈まぬ帝国を築き上げたその血の強さの源流は、きっと超自然的な物に違い無い。だから自分も何時かそれを手に入れて覇権を手にしたい。ってな憧れが生んだ妄想の産物だろうと思う」 「でしょうねえ。そんなおとぎ話みたいなお話、今初めて聞きましたから」 ジムゾンは首を傾げて思いを巡らせる。母は一言も自分の出自を口にしなかったが、黒い森の伝承などは聞かせてくれていた。天空の破片とやらも、もし存在するのならおとぎ話として子どもに聞かせても構わない筈だ。修道院でも、村でも、旅の最中にも全く聞いた事が無い。となると矢張り、ディーターの言う通り傭兵達が夢物語として語り継いできた物なのだろう。何れにせよ、ヴァレンシュタインの立場でそんな物を手にしたいと口にすれば冗談では済まされまい。本人の言うように軽い気持ちだったのかもしれないが、ロタールが咎めたのも納得が行くというものだ。 「ただまあ、四十年前くらいに王宮から何者かに持ち去られたって噂もあってな。年数が妙に現実的で引っ掛かる。超自然的な力の有無はさておき、そういう代物は存在するかもしれねえ」 続けられたディーターの言葉を何気なく聞き流していたジムゾンだったが、四十年前という単語に引っかかって顔を上げた。しかしすぐに自嘲ぎみに笑う。 「まさかね」 「何が」 ディーターもまた顔を上げてジムゾンを見た。 「いえ、丁度伯父が。アロイスが王宮から失踪したのも四十年前くらいだろうかと思ったのです。でもそんな物を持ち逃げする理由がありませんから無関係でしょうね」 さて、そろそろ本題に入ろうとジムゾンが決心したその時、ディーターは腰を上げてしまった。 「さ、明日も早いから寝よ寝よ。起きなかったら置いて行くからな」 そう言ってさっさと寝支度を始めてしまった。何時もの軽口なのだが、置いていくという一言も妙に真実味を帯びて聞こえてしまう。ジムゾンは不満げにディーターを見ていたが、その内に諦めて部屋を出て行った。 次のページ |