【恩愛の夜明け 第九話「人狼の誓約」】
屋敷は小高い丘の上に位置し、雪に覆われたウィーンの森が見渡せた。クララが言っていたように、周囲にも全く人気のない寂しい場所だ。 「ここが私の生まれた場所です」 ライナーはぽつりと呟いて、自嘲気味に笑った。 「私は、祖国の地を知りません。祖父はブダの出身だったそうですが、そのブダまでもが今は回教徒達の手に落ちてしまっている。せめて全領地を奪還して欲しいと思っていましたが、最早それどころでは無いでしょう」 「それで、石を」 ジムゾンの問いかけにライナーは俯いて目を閉じた。今や北はスウェーデン、西はフランス、更に帝国領邦の一部がこちらに牙を剥いている。ハンガリーの大半を失った、一世紀前のウィーン包囲どころの騒ぎでは無い。 「黄昏の帝国どころか」 夜空を見上げてディーターが呟いた。空には一部雪雲が居座っており、月は勿論星もあまりよく見えない。 「とっくの昔に夜の闇だ」 そう言ってロタールも同様に空を見上げた。敵に取り囲まれている上、軍指揮官と皇帝は不仲ときている。リヒャルトが言い残したように、今の状態が続けば、ヴァレンシュタインが殺されてしまうのも時間の問題と言えるだろう。殺されるか寝返るか。帝国の敗北は約束されたも同然である。 「なに、そのうち明けますよ」 笑みを見せたのはニコラスだった。ディーターもロタールも、思わずニコラスに目を向けた。二人は暫く唖然としたが、やがて何れも苦笑した。 「そりゃまったく」 「新たな夜明けの嵐に備えよ、か」 そんな彼らの様子を見つめて、ジムゾンやライナー達は複雑な表情を浮かべていた。夜明けとは暗に、王朝が取って代わられると言う意味に取れなくも無い。 「不謹慎ですよ」 ジムゾンはジロリとディーターを睨む。 「そういうつもりで言ったんじゃない」 ディーターは困惑混じりに笑った。 「心配せずとも、帝国が滅びる事はありません」 ロタールの口ぶりは慰めや気休めのようでは無かった。 「奴らとて馬鹿ではない。領邦の分裂は免れんでしょうが、国そのものは残るでしょう。回教徒らへの防壁として」 回教徒の防壁と言えばモラヴィアがまさにそれである。ジムゾンはハッとした。 「あなたはまた、戦いに?」 「そうなるでしょうな。相手が南か北かは解りませんが、そう遠くないうちに」 不安げなジムゾンに気付いて、ロタールは一寸肩を竦めた。 「いやご心配無く。やるべき事をやるまでです」 「本当に私は何もできませんね」 ジムゾンは目を伏せた。 「実家は参戦していませんから、それは良いとしても。幼い頃から世話になっているバイエルンも苦難に見舞われていると言うのに、何一つ力になれないなんて」 目を閉じると、復旧したばかりのミュンヘンの町の光景が鮮明に蘇った。叔父達は普段と変わりなく接してくれたが、戦から来る疲れは隠し切れていなかった。人々や町の痛ましい姿を思い出すにつけ、ジムゾンは何も出来ない自分が殊更歯痒く思えるのだった。 「剣を取り、大きな事を成すだけが手助けではありませんよ」 そう言ったのはニコラスだった。 「けが人達の手当てや、見る者を癒す花の栽培など。勿論、日々の祈りも。院からも、今までも、ずっとそうされてきたでしょう」 ハッとして、恥ずかしそうに俯くジムゾンへニコラスは微笑みかけた。 「十分、立派なことです」 +++ ジムゾンは複雑な表情でディーターを見つめた。 「あなたは、それでいいんですか。ずっと私と一緒で」 自分はともかく、ディーターはロタールやヴァレンシュタインからもその才を認められている。傭兵に戻ってヴァレンシュタインの下で働くのなら少佐以上の地位に就ける事は勿論、戦局を変えられるかもしれないし、それこそ彼の後釜となって歴史に名が残るかもしれない。 「私と一緒に居るより、傭兵に戻った方が沢山の人の助けになれるし、もっと満ち足りた生活が」 ディーターは意地悪い笑みを浮かべた。 「俺にまた戦場に戻れってのか?やだね〜旧教の神父さんは人使いが荒くて」 「そ。そういう意味じゃありません!その方が、あなたのためなんじゃ、あなたはそう、望んでいるんじゃないかって」 言いよどむジムゾンを見てディーターははたと目を丸くする。 「もしかしてお前、それで宮廷に行くのどうのって言い出したのか?」 ジムゾンは無言で顔を背け、意外にもライナーが横合いから口をはさんだ。 「すみません。プラハでは変な事を吹き込んでしまって」 これにはディーターも驚き、一同の視線はライナーに集まった。 「誘拐にはその筋の人間の手を借りましたが、それでもディーターさんの存在が厄介だったのです。それで、どうにか引き離そうと。丁度ヴァレンシュタイン卿の話が出た所でしたから渡りに船と、ディーターさんは傭兵になりたがってるのではないかと言ったのです。正直、効果はあまり期待していませんでしたが」 ジムゾンは呆気に取られてただただライナーを見つめるばかりだった。言われてみれば、変な心配をし始めたのもライナーの問いかけが切っ掛けだった。 「皇帝に会う必要は無い、とわざと引き止めたのもジムゾンの意固地さを知っての上だな」 ライナーは面目ない、と呟いて頷いた。 「ハハ!まんまとしてやられたな、ジムゾン」 大笑いするディーターに、ジムゾンは悔しいやら恥ずかしいやらで何とも言えない表情を浮かべるばかりだった。 「言っただろ。お前と一緒なら何処でもいいって。俺が望むのは、お前と一緒に居る事だけだよ。傭兵をやってたのは生き甲斐を探していただけで、もう名誉だの何だのはどうでもいいんだ」 とんだ惚気話もいいところだった。話した張本人も含めて全員が苦笑を漏らした。 「やれやれ。己の身一つとは気楽なものだ」 ロタールはいつか零した言葉をそのまま繰り返し、一頻り笑った後ジムゾンを見やった。 「その方がいいんですよ。戦場など、望んで行くものではない。戦は我々に任せて下さればよろしい。悲しいかな、戦場の夜風が身に染みる歳になりかけていますが、少しでも有利に運べるよう最善は尽くします」 そんな和やかな雰囲気を遮るように、行く手に立ち塞がったのは一匹の人狼だった。それも、見覚えのある毛並みからしてどう考えてもリヒャルトだった。変化したままな所を見るに、慌ててライナーを追って来たのだろうか。それにしても獣化した姿を意味も無く衆目に晒すとは間抜けもいい所である。どうしたものかとディーターとジムゾンは顔を見合わせる。 「矢張りお前だったな、ライナー!」 そんな心配もどこ吹く風、なんとリヒャルトは変化した人狼の姿のままでライナーを指差した。 「ジムゾンが見つかった等と嘘をついて私を宮中に置き去りにし、出し抜こうとはいい度胸だ。だが人狼の勘を舐めるなよ」 「お前その格好のままでいいのかよ」 ディーターは呆れた表情で呟いた。ここまであげっぴろげだと返って清々しくもある。しかし意外にもリヒャルトはふんぞり返った。さすがに獣の姿では格好がつかず、元の姿に戻りながら。 「フン、これだから田舎者の人狼は困る。我がカペル家は代々人狼として王室に仕えているんだ。隠し立てする必要も無いわ」 これには全員が驚いた。ヨハネスやニコラスも知らなかったらしく、二人で目を丸くして顔を見合わせた。 「戦場で見かけた事は無かったがな」 ディーターの問いに、リヒャルトは更に小馬鹿にした視線を投げる。 「そのような事に力を使うわけがない。掟にも反するしな。我々の種族としての役目は主にオーストリア王の身辺警護だけだ。もし掟を破れば王室との契約も切れる」 リヒャルトの言葉を聞きながら、ライナーはただ目を見開いたまま言葉を失っていた。人を凌駕する力は弔いの石のみならず王室にあり、政治目的に使われる事が無かったなど。 ジムゾンも暫く唖然としていたが、我に返ってリヒャルトを見た。 「何か勘違いされてるようですけど、私は一人で勝手に王宮を出て――」 押し留めるように手を伸べて、言葉を制したのはライナーだった。ジムゾンは驚いてライナーに目を向けたが、ライナーは首を横に振った。 「ジムゾンさんを攫ったのは私だ。言い逃れはしないよ」 「は?」 間の抜けた声を出したのは、なんとリヒャルトだった。 「もしかして、冗談のつもりで仰ったんですか」 ライナーを庇うように前に出ていたクララも拍子抜けした様子で呟いた。どうやら図星だったようで、リヒャルトはあからさまにうろたえていた。 「いやその。私の冗談に付き合わなくていいんだぞライナー」 なぜか当人よりおろおろしているリヒャルトを差し置いて、ライナーは続けた。 「本当に申し訳無い事をしたと思っている。ジムゾンさんには怖い思いをさせてしまった。陛下の信頼も裏切ってしまった。そして私一人がこんな事をした所為で、ハンガリーに余計な偏見を持たせてしまって。しかし悪いがリヒャルト、陛下には私から言わせて貰えないか。直接釈明したいんだ」 至って頑なな態度のライナーだけを置き去りに、リヒャルトの的を射た勘違いのせいで全員が微妙な空気に包まれていた。 「ハンガリーに何の関係があると言うんだ。話がまったく見えてこないんだが」 ただただ驚愕の表情を浮かべるリヒャルトの反応に、ライナーはもどかしそうに口を開いた。 「人狼の伝承にある弔いの石は知っているだろう。それをジムゾンさんが持っているのだと思って」 「聞いた事も無いが」 ライナーは信じられない、と言った風に目を丸くした。 「読んだ事が無いのか。人狼のくせに。いやそれ以前に、失踪事件は大騒ぎだったそうなのに一番陛下に近い家の君が知らないのか?!」 一瞬リヒャルトは何を言い出すのかとばかりに慌てた様子で、ライナーの言葉を遮るように返した。 「くせに、とはなんだ、くせにとは!騒動くらい知ってはいるが、若い時分は細かい事なんぞ興味も無かったわ」 「ああ信じられない!これだからぼんぼん育ちは」 「お前もぼんぼんだろうが!」 「はいそこまで」 再びロタールが間に割って入った。 「まるで子どもの喧嘩だ」 さすがに呆れた様子でため息をつき、リヒャルトとライナーは漸く論争をやめた。 「まあでも、今回の件はそのようなもんですよカペル卿。ライナーも。自分の満足のためだけに謝罪しようとするのはやめた方がいい」 「そういうわけでは――!」 反射的にライナーが反論しかけたが、ロタールの目を見てすぐに引き下がった。 「お怪我は無かったでしょう、ジムゾン神父」 急に話を振られてジムゾンは驚きつつ頷いた。 「謝るのなら神父へ十分謝るように。怖い思いはさせたのだからな。陛下には、約束をふいにした無礼があるだけだろう」 ライナーは複雑な表情で返事をしあぐねているようだった。 「違うのか」 「……」 念押しするように問われ、ライナーは静かに首を横に振った。 「ならば結構。今後とも、ケッセルリングの名に恥じぬよう」 そう言ってロタールはジムゾンらを促した。 「意味がわからん」 一人相変わらずわからないままでいるリヒャルトは眉根を寄せる。 「わからなくていいんだよ、今は」 ディーターは両手を頭の後ろで組んで明後日の方を見上げた。 「まあでもずっと知らない方が、しあわせな事もあるもんだぜ」 +++ ウィーンの中心部へ辿り着いた頃にはもうすっかり夜が明けてしまっていた。パン屋の煙突からは煙が立ち昇り、市場へ向かう人々の姿もちらほらと目に付いた。ライナーとクララは屋敷へ戻り、ジムゾン達はヨハネスと共に一旦修道院へ戻った。しかしジムゾンは昨日攫われて約束をふいにさせられた事について王宮へ赴いて弁明する必要があった。本来なら昨日と同じくライナーが同行する所だったが、話がややこしくなる恐れがあるからとリヒャルトが代理を買って出た。そうして三度やって来た王宮でジムゾンはリヒャルトと謁見の間へ向かった。 煌びやかな王宮を歩きながら、改めて、まるで別世界のようだとジムゾンは思った。プラハの王宮やティーン教会でも同様の事は感じていた。白を基調とした建物に、豪奢な装飾。土埃と血に塗れた外の世界とはまるで違う。 旧教の教会や聖堂が飾り立てられているのは、貧しい者でも神を身近に感じられるようにする為だ。生前、アロイスはそう言っていた。欲望に駆られ地上の楽園を求めたがゆえの産物であり、腐敗の土壌なのではないか。贖宥状が生まれた事また然りである。と、新教が唱える見解とは異なる。どちらが正しいのかは未だに解らない。しかし欲望に駆られてしまうのは人の心の脆さゆえだ。寂しさや貧しさが安らぎを求めて絢爛たるものを作り上げるとするのなら。そう思うと、ティーン教会で感じた威圧感は静かに霧散していった。 不意に、ジムゾンはリヒャルトが人狼として王室に仕えていると言った事を思い出した。あの時、一つ気になっていた事があったのだ。 ジムゾンはリヒャルトの後に従いつつ周囲を見渡した。分厚い絨毯が敷かれた廊下は窓も無く、全体に薄暗い。謁見に指定された執務室も間近のようだが幸い人気は無かった。 「あなたは人狼として王家に仕えていると言いましたね。護衛が、主な任務だと」 ジムゾンの小声の問いかけにリヒャルトは足を止める事もなく、特に反応も示さなかった。そうしている内にいよいよそれらしい大きな扉が近づいてきたためジムゾンは思い切ってリヒャルトに囁いた。 『それは、主の正体が露見した時、身代わりになるという事ですか』 突然リヒャルトが立ち止まった。振り返った彼の顔は予想された通り、驚愕に満ちていた。ジムゾンは眉根を寄せ、やや上目がちになりながらもじっとリヒャルトを見た。 『私も人狼です。王室の記録からは抹消されてしまった陛下の姉マリア・アンナ、そしてその兄たるフリードリヒ・アロイスも人狼だった』 リヒャルトは相変わらず開いた口が塞がらぬ、といった様子だった。暫くの沈黙の後、漸くその口から言葉が漏れ出た。 「何故知っている……姫殿下と、特に兄君の話は私の父などごく限られた人間しか知らぬ筈だ」 絞り方を知らないのか、或いはこの場所が安全であるからか、リヒャルトは囁きを使わなかった。アロイスの失踪騒動の件は先ほどのライナーとのやり取りで少し話されていたが、アロイスのアの字もお互いに出していなかった。やはりそれなりに秘匿されている事なのだろう。ジムゾンは少し躊躇いがちに口を開いた。 「マリア・アンナは私の母です。……バイエルンへ養女に出された事は知らないのですね。伯父のアロイスは神学校時代の師でもありました。彼は王宮から姿を消した後、名を変えてマリアラーハ修道院で修道司祭となっていたのです」 リヒャルトは改めてジムゾンの顔を見つめ、所在なさげに溜息をついたり目線を彷徨わせてから口元を片手で覆った。やっとの事で出た声は急かすような調子で、あからさまに焦りが滲んでいた。 「それで。兄君は今どうされて」 「処刑されました」 短いジムゾンの一言に、リヒャルトが絶句したのは言うまでもない。 「私が愚かな事をしたばかりに――。アロイスは私を庇い、院長を襲撃した事が露見して火刑に処されました。遺骸も何処にあるのか」 リヒャルトは片手は額に押し当てたまま、片隅に置かれた椅子に無言で腰を下ろした。相当な衝撃だったらしく、床を見つめたまま何やら一人で考え込んでいるようだった。 「母と伯父の二人が人狼であった事実、伝統的な血族結婚、黒い森の伝承集の存在。それらを踏まえると、ハプスブルクは古来からの人狼の血を継いできたのではないかと思えました。しかし王家の者が人狼であったとされる記録は何一つ無い。更に人狼であるあなたの家が長きに渡って密接に関係してきたとあれば、万一正体が露見する事があっても、あなたの一族が身代わりになってきたからではないかと思ったのです」 相変わらずリヒャルトからの返答は無かった。打ちひしがれた、と言う形容が相応しいほど塞いでいる彼にそれ以上問う事も憚られ、ジムゾンはただ黙ってリヒャルトを見つめた。すると不意に、背後で扉の開く音が聞こえた。驚いて振り返ると、先程向かおうとしていた大きな扉から一人の男が姿を現していた。歳の頃は五十半ばと言ったところか。口元と顎に髭を蓄えており、面長で何処と無くアロイスに似た風貌でもある。 「へ、陛下!」 同じく振り返ったリヒャルトは椅子から勢い良く立ち上がった。ジムゾンは思わずリヒャルトに顔を向け、再び男へ向き直った。この人が、皇帝。そして実の叔父であるフェルディナントなのか。 「バイエルンの噂どおりだな」 フェルディナントもまたジムゾンをまじまじと見つめた。その視線は父と同じ、十数年前に死んだ母を懐かしむかのようだった。 「アンナによく似ている」 言われ慣れたその言葉に何と反応したものか。リヒャルトに囁くのも忘れ、ジムゾンは複雑な表情を浮かべたまま慇懃に挨拶をした。フェルディナントはジムゾンに部屋へ入るよう促し、扉の手前でリヒャルトを振り返った。 「気にするな、リヒャルト」 短い一言を受けてリヒャルトは目を丸くして顔を上げ、すぐに頭を垂れた。先程からの反応が気になったジムゾンは、扉が閉まるまでリヒャルトの姿を見つめ続けていた。 次のページ |