【血に刻むは浄罪の狂気】
ヴァルターは執務室で村政の記録を広げていた。蝋燭の薄暗い明かりだけを頼りに文字を辿る。村の住民の名前やその時々に起こった出来事、災害。全てが事細かに、かつ淡々と綴られていた。 机の上には同じ表装の本が数冊積み上げられている。それが、この村の歴史の全てだった。 蝋燭の芯がジジッと小さく音を立てて炎がくゆる。ヴァルターは本を閉じて机に置いた。視線を上げて目に付いたのは、前方の壁に伸びる黒い影。ヴァルターは立ち上がって侵入者に語りかけた。 「やはり君だったか、ディーター。」 音も無く現れたディーターに驚く風もなく、口元には笑みさえ浮かんでいる。 「終焉を託すに申し分無い審判者だ。」 「ハッ。」 “審判者”。ディーターは仰々しい比喩に思わず笑った。が、すぐに笑いをおさめてヴァルターを見つめる。 「何故村の滅びを望む。」 「そんな事に興味があるのかね。」 「あんたのような狂人は初めてだからな。」 ヴァルターは目線を外して暫し考えているようだったが、やがてぽつりと呟いた。 「妻を亡くしたからだ。」 「あれは物静かで優しい女だった。」 ヴァルターは背で腕を組み静かに語り始めた。 「際立って美しいわけでも聡明というわけでも無かった。けれど私にとっては何より大切な妻だった。 大人しく畑でも耕して暮らそうと思っていた私が村を立て直そうと思ったのも彼女が居ればこそ。 …それを、あの悪魔どもが。」 窓から差し込む月光を正面に浴びて歩み執務机の前で足を止める。夕方から降り出した雪は止み、いつの間にか雲も切れていた。 「傭兵か。」 ディーターの言葉にヴァルターが振り返った。 「何故それを。」 「いくらこんな辺境の村とはいえ人口が少なすぎる。家族構成もまばらでおかしな所ばかりだ。 たしかこの近くの平原で数年前戦があったと小耳に挟んだ事がある。おおかたその時の傭兵が戦闘終了後にこの村に押し寄せて略奪と虐殺を繰り返したんだろう。 違うか?」 「そのとおりだ。」 驚いた様子でヴァルターはディーターに向き直った。 「奴らは無理難題な要求をし女子供見境無く犯し、殺した。私は被害を拡大させぬよう食い止めるだけで精一杯だった。 皆必死だった。レジーナは奴らの機嫌をとり、カタリナは美しい髪をそり落として男装し、ヤコブは畑を荒され汚物をまかれてとうとう黒死病にかかってしまった。 そればかりか、奴らの魔の手は幼いパメラにまで伸ばされようとしていた。妻は懇願して自らの身を身代わりに差し出した。 それなのに奴らは。妻を手篭めにしたばかりでなく飽いた玩具を壊すかのように、殺した。」 ヴァルターの声は震え瞳はいいようのない怒りに染まる。 「殺してやりたかった。しかし私が手を出せば、村は完全に壊滅させられてしまうだろう。その時初めて、こんな村さえ無ければと心底思った。」 「ふん。」 面白くなさそうに呟いてディーターは壁にもたせていた体を起こす。 「君には解るまい…。」 諦めと羨望の混じるヴァルターの声。 「そうでもない。」 「同情か。」 「いや。」 短く否定してディーターは続けた。 「共感だ。」 フワ、と一陣の風が部屋を抜ける。いつの間にかニコラスがディーターの隣に佇んでいた。 「遅れてすみません。」 「さて、どういう逝き方を望む?」 ディーターはヴァルターに向き直る。 「ご親切なものだな。」 「特別だ。」 「我々にご協力頂いたわけですから。」 あくまでもにこやかにニコラスが返す。 「妻と同じにと言ったらどうするね。」 笑いながら言ったヴァルターの言葉に二人も苦笑する。 「出来ない事も無いが。」 「ハハ…それは冗談だ。好きなように喰ってくれ。望む事は何も無い。」 「何か娘さんに言い残すことはありませんか。」 ニコラスの問いかけにヴァルターは笑みを潜めた。そしてゆるく首を横に振り、ため息をつく。 「あの子には本当に酷な生を与えてしまった。人間としての憐れな生を。」 「憐れ。」 ディーターは訝しげな表情でヴァルターを見つめ、鸚鵡返しに呟く。 「傭兵になった事があるかね。」 唐突にヴァルターはディーターに問うた。まっすぐにディーターを見つめる目は確信に近い物を持っていた。 「ある。」 「略奪や暴行は。」 「無い。」 「何故。」 「必要が無いからだ。」 「そう、君達人狼はそんな事をする必要が無い。人間と思わせる努力だけしていればいい。誰かから何かを理不尽に奪う事も、何かに執着する事も無い。」 ヴァルターは満足そうに、しかしながら寂しげにも見える笑みを浮かべる。 「教えて下さい、主よ。私の行く末を。 私の生涯はどれほどのものか、如何に私が儚いものか、悟るように。 ご覧下さい。与えられたこの生涯は僅か手の幅ほどのもの。 御前にはこの人生も無に等しいのです。 ああ、人は確かに立っているようで総て空しいもの。 ああ、人はただ影のように移ろうもの。 ああ、人は空しくあくせくし、誰の手に渡るとも知らずに積み上げる。 主よ、ならば私は一体何に望みをかければ良いのでしょう。 私は、あなたを待ち望みます。」 獣脂が燃え尽きる匂いが部屋中に立ちこめる。何時の間にか蝋燭の火は消えていた。あるのは青白い月の光。窓から差し込む光を受けて詩編の一節を語るヴァルターの姿は、あたかもアリアを歌う歌い手のようにも思えた。 「人は無力だ。愚かしく、儚い。そして救いの手は差し伸べられない。」 「それが、あなたが人を裏切る理由。」 ヴァルターはニコラスの言葉に一度だけ頷く。 「道化の芝居はこれで終わりだ。夜もまた無限では無かろう。」 大げさな身振りで肩を竦めて見せたヴァルターの背で、月の光は雲に飲まれ徐々に薄らいでいった。 ディーターは赤く染まった部屋の中で呆然と佇んでいた。足元に広がる血の海の中でヴァルターは穏やかにもみえる表情を浮かべて沈黙している。 「賢しい者は死にたがる。それこそが本当の愚であるとも知らぬまま。」 元の姿に戻ったニコラスの声に我に返る。ニコラスは何時ものように笑っていた。 「ですが村長さんはきっとその事も知っていたでしょう。自分こそが愚かで儚い者であるのだと。ただ一つの間違いは、自分という人間を認められなかった事。」 言いながらニコラスは体から断ち切られたヴァルターの左腕を取る。薬指には飾り気の無い指輪がはめられていた。 「神の寛大なお裁きを願いたいところです。」 目を細めて指輪を見つめ、そっと血の海の中に腕を返した。 「お前でもそんな事を思うんだな。」 「あなたこそ。感傷に浸るとは柄にも無い。」 ニコラスは苦笑しながら言い返した。 「憐れな生…か。」 血の海を見つめたままディーターが呟く。 「肉親に言われたら終いだな。」 夜の闇に再び雪が舞い始めた。レジーナは意を決して蝋燭の明かりを吹き消し、床に就いた。リーザの事件があって以来暗闇がいつも以上に恐ろしく感じられる。 伸ばした手の先に何かが当たる。体を起こしてシーツをはぐってみるとペーターが大事にしている人形が転がっていた。リーザにからかわれるのが嫌なようで最近は日中寝室に置きっぱなしにしていたのだ。 ペーターは今日別室で眠っている。アルビンに食って掛かった様子がよほど恐ろしかったのだろう。何時もなら決してレジーナから離れようとしないのに1人で寝ると自分から言ってきた。 ペーターももう村で何が起こっているのかを勘付いているようだった。ここまで被害が広がり、村人達の様子を見ていれば嫌でも気付くというものだ。1人で寝ると言い出したのを素直に喜べない自分が居る。成長と見るべきか、こちらへの不信感と見るべきか。それとも。 リーザが襲われた晩は何の物音もしなかった。窓も扉も閉じていたし、閂をしっかりかけていた。あの時は気が動転していて咄嗟にペーターを連れて部屋を出たが、もしやペーターが…。 そこまで考えてレジーナは勢いよく首を横に振った。まさか、あんな幼い子どもが人狼である筈が無い。これまで一度だってそんな素振りは見られなかった。 ペーターの両親が殺されたのもこんな雪のちらつく夜だった。傭兵達の顔色を窺いながら息つく暇も無い日々。ペーターの母、ロザリンドもレジーナと同じように彼らの世話をしていた。ロザリンドは聡明な娘だった。傍若無人な態度をされても決して逆らうような事は無かった。次の戦が始まるまでの我慢だと誰よりもよく解っていた。 そんなある日の事だった。ロザリンドに傭兵の1人がちょっかいを出した。相手も酔っていたためレジーナが何時ものように適当にあしらおうとした時、ロザリンドが持っていたナイフで傭兵を刺した。逆上した傭兵によってロザリンドはその場で斬り殺されてしまった。 後で聞いた話によると、傭兵がロザリンドの夫エーリッヒを侮辱したのだという。エーリッヒは以前町で暮らしていた時に戦に巻き込まれて足の自由がきかない体になってしまっている。その事で何か酷い事を言われたのだろう、と。 そこに運悪くエーリッヒがあらわれた。無残な姿になった妻を見て我を忘れて傭兵らに飛び掛った。しかし足の悪い体では戦えるはずもなく。付き添っていたヤコブも加勢したがあえなく返り討ちにされてしまった。余力を振り絞って立ち上がろうとするヤコブをエーリッヒが引き止める。そして生まれて間もないペーターの事を託して息絶えてしまった。ペーターはすぐさまレジーナによって匿われて事なきをえたが、ヤコブは見せしめに散々な目にあった。いっそその場で殺されていた方が良かったと思えるほどに。 間もなく戦が始まって傭兵達は村から出て行き、殴打による傷が癒えぬヤコブに代わってレジーナがペーターを育てる事になった。かわいそうな子だ、とレジーナはつくづく思った。しかし両親の死に様と惨劇を見ずに済んだ事は唯一の救いだったかもしれない。 傭兵という名の悪魔が去って村には平和が戻ったが、途方も無い絶望感に包まれていた。夫は早くにはやり病で死に別れ一人娘はとうに町へ嫁いで居なくなっていたレジーナは肉親を失う不幸にはあわなかったものの、何もかもがどうでも良くなっていた。それでも希望を失わずに村を再興しようと思ったのはヴァルターが居たからだ。ゲルトの父…オーベルライトナー氏が村長であったならきっとそうは思わなかっただろう。いや、それ以前に既に村が壊滅していたかもしれない。 ヴァルターは小さな頃から頭が良く娘たちにも人気があった。レジーナも例に漏れず幼馴染以上の好意も抱いていた。親兄弟を相次いで亡くしたヴァルターを支え周囲もてっきり二人が結婚するものと思っていた矢先の事だった。ヴァルターが大学行きを決意したのは。 結局気持ちを打ち明けられぬままヴァルターは村を出て行き、レジーナはやがて村でもそこそこの実力者であったアルトマイヤーの家に嫁ぐ事になった。 そのヴァルターが霊能者だと告白をした。少なくとも村に居た時にそんな不思議な力があるようには思えなかった。いや寧ろそういった物を毛嫌いするようにも思えていた。しかしオットーとて同じ事で、正直どちらを信じるかと言われたら感情の面からヴァルターだと思っていた。 ああ、もしおとぎ話のとおりに狩人もこの村に存在するのなら。どうかヴァルターを守って下さい。 無意識のうちにレジーナは両手を組んで祈っていた。今夜は自分がニコラスに占われる。そうなれば自分の身も危うくなると思って会議中に若干の抵抗を示したが、そんな事よりもヴァルターの方が大切に思えた。 幼馴染だから。苦労を共にした仲間だから。人狼に抵抗する力を持つ霊能者だから。 積み上げる理由に異を唱える暗い囁きを聞くまいとしてレジーナは一心に祈り続けた。何時の間にか東の空が白みはじめ、厚い雲に幾分か遮られた弱弱しい陽光が寝室を照らす。我に返ったレジーナは眠りを諦めて寝台から降りた。今日もまた一日がはじまる。空元気を振り絞ろうとしたその時 切な望みを断ち切るかのようなパメラの悲鳴が村中に響いた。 next page → |