【清か目の曇り】
「女将さんは人間です。」 ニコラスの知らせもレジーナの意識には届かなかった。レジーナは悲しみにくれるパメラを慰めながら何も考えられないでいた。もう何もかもがどうでもよく思える。 「ではオットー。発表してくれ。」 ヨアヒムに促されてオットーが顔を上げる。顔面は蒼白で唇にも血の気が無く、顔の前で組んだ両手は微かに震えている。 「…アルビンは人間だった。」 擦れた声で呟き、更に言葉を続ける。 「ニコラスが人狼で村長は狂人だったなんて…。終りだ…もうお終いだ…!」 悲鳴に近い声で叫んでオットーは頭を抱え込んだ。誰もオットーを慰める者はいない。反面、糾弾する者すらいない。幼いペーターでさえもまるで人形のように黙りこくって喚きもしなければぐずりもしない。それは不気味な沈黙だった。 「どう思う。」 重苦しい静寂を破ってヨアヒムが問い掛ける。 「何がだ。」 短く返したのはディーターだった。 「レジーナへの判定、オットーの結果。そして村長が襲撃された事についてさ。」 「そのまま取っていいんじゃないのか。」 「と言うと?」 「村長は霊能者だと言う事がばれて襲撃された。そしてオットーは人狼にとって居なくなっても痛く無い存在…狂人だと言う事。あわよくば霊能者として成り代わり、為せずとも議論を混乱させられれば良しというハラなのだろう。」 ディーターの発言に異を唱える者は誰もいない。どう考えても、それが一番自然だと思えたからだ。ヨアヒムもまたそれ以上言う事もなく黙りこんでしまった。 「しかし出来すぎな感もあるな。」 と、トーマス一人が反論する。 「人狼は狩人の存在を考えなかったのだろうか。たとえばどちらかが狂人として人狼からしてみれば昨日モーリッツへの判定が割れた事から真偽はついていたのだろうが、人間である狩人からは解らなかった筈。 ヴァルターとオットーの信憑性は大差無かった。それはつまり、狩人がどちらを守るか解らないという事も意味しないだろうか。」 トーマスの問いかけに返事をする者は無かったが、各人の表情は賛意をしめしていた。 「そんなイチかバチかの賭けでヴァルターを狙ってきた人狼…。とすればニコラスを襲撃しないのは不自然だと言えないか。」 「言われてみれば確かにそうだな。だが最初モーリッツがニコラスを疑っていた事に関してヴァルターが反論したように、人狼側に騙るつもりが無く無駄に処刑させる事が目的なら別段不思議も無い。」 ディーターはさして悩む風も無く淡々とトーマスの反論を潰していく。トーマスはそれ以上言おうとはしなかったが、明らかに何か釈然としない感情を抱いているようだ。 「狩人、か…。」 呟いてヨアヒムは組んだ両手に額を押し付ける。ここまで来たら流石に存命しているとも思えない。沈黙が雄弁に語っていた。それは全員に共通の思いでもあった。 「…もしかして勝手が解らずに僕を守っているんじゃ無いだろうな。」 ヨアヒムは苦笑しながら漏らす。 「幾らなんでもそれは無いだろう。それよりもお前は何故自分が人狼に生かされているのかを今一度考えた方がいいんじゃないか。」 トーマスは笑う事も無く冷たく言ってのけた。 「どういう事だ。」 「ここまで言って解らないのか。ヨアヒム、お前が人狼にとって都合の良い存在だと言いたいんだ。」 「そんな言い方は酷すぎます、トーマスさん。」 反論もできないヨアヒムを見かねてジムゾンが咎めた。 「良い子気取りか。」 てっきり無視すると思っていたトーマスの口をついて出たのは皮肉だった。 「そうやってヨアヒムを甘い言葉で煽てて疑惑の目から逃れるわけだな。」 「…一聖職者としての言葉です。他意はありません。」 「聖職者。」 単語を準えてトーマスが鼻で笑った。凡そ彼らしく無い態度に全員が注目した。それでもトーマスは言を引く事無く喋りつづける。 「旅芸人の男にいいように体を穢された身でよくもいけしゃあしゃあと言えたもんだ。」 「!」 ジムゾンは目を見開いて息を飲む。トーマスに集まっていた目が一斉にジムゾンを向いた。その場に凍り付いて動く事もできないジムゾンにトーマスはずかずかと歩み寄り襟元を掴み上げた。 「あの様子だと奴が初めてというわけじゃないな。とんだお笑い種だ。ゲルトが殺される前の日に奴を隣村で殺したのもあんただろう。なあ、人狼さんよ。」 「あ……ぁ…。」 ジムゾンは青ざめ、怯えた目でトーマスを凝視する。そう、トーマスの態度が一変したのはあの頃からだった。 あれを見られていたなんて! 真実だけに抗弁する事もできず、ジムゾンはただ震えて情けない声を漏らす事しか出来なかった。 『出てはいけない!』 トーマスに向かって行こうとしたディーターをニコラスが囁いて制す。 『神父さんも。辛いかもしれませんが耐えて下さい。これはトーマスの心象を下げる。』 「…やめるんだ!やめろ!」 ヨアヒムが見かねて立ち上がり、二人の間に割ってはいる。 「話の真偽は知らないが神父さんが人狼だという証拠になるのか?君が人間ならこれ以上無用な争いを起こさないでくれ! 僕は君の意見を軽視してきたつもりは無い。自分の意見だけを見て目が曇って、結果壊滅に追い込まれた村の記録だって知っている。だからこそだ。 だけどあまりにも怪しすぎる論は疑われても仕方の無い事で、今の君の態度もとても村の為を思ってとは言えない。僕への批判は幾らしてくれても結構。だけどこれ以上村の秩序を乱すようなら、僕は独断でも君を処刑するぞ。」 トーマスは嘲笑を浮かべたままヨアヒムを一瞥して席へ戻った。 静寂が重い。時折思い出したかのように村はずれの森から鳥の鳴き声が聞こえる。 ヴァルターの死がもたらしたものは能力者と思しき者の亡失という混迷だけではなかった。白黒の判別はつかずとも村長という精神的な支柱を失くした喪失感と無力感。抑えられてきた不満と我の噴出。これまでも片鱗は覗かせていたトーマスの反逆にも似た態度が急に露になったのが良い例だ。 いかにヨアヒムが確実な存在であろうと所詮は若者。年月に裏打ちされた言葉の重みも無ければ人徳も無いに等しい。親子ほど離れた年齢の人間を納得させ、場を纏めるにはあまりに若過ぎた。 「仰るようにオットーさんは狂人なのかもしれませんね。」 水晶玉をしまい、席に着いたニコラスは平然と言ってのけた。 「そうだとすれば今日オットーさんを処刑しても人狼は退治できない。」 「けどもし人狼だったらどうするんだい。」 やっと喋る気力を取り戻したレジーナが反論する。 「あたしはオットーが人狼だと思う。」 真っ赤に泣き腫らした目でオットーを睨んで言ったのはパメラだった。 「対抗した父さんを殺す事で、邪魔な能力を消した上自分を狂人だと思わせようとしたのよ。 今日はオットーに票を入れる。もう、決めたの。」 「パメラ…。」 オットーは愕然としてパメラを見た。オットーを見るパメラの目には明らかな敵意があった。いや、敵意という生易しい物ではない。憎悪と言って良い程だ。 「僕じゃない。僕は人狼なんかじゃない。君のお父さんを殺してもいない。」 うわ言のように呟くオットー。最後はもう言葉にならず涙を隠そうと両手で顔を覆う。 「…出来すぎてるんだよ、本当に!おかしいと思ってくれよ!少なくともニコラスを処刑しなければ村が滅びてしまう!」 震える声で喚いた後はもう突っ伏して泣くばかりだった。 「パメ姉ちゃん、怖いよ。」 オットーにつられてペーターまでもが泣き出してしまう。その声にパメラは漸く我に返る。ペーターを宥めながら何処か表情は硬いままだった。 「泣いて訴えられても何も変わらないよ…。」 ヨアヒムは眉根を寄せ、搾り出すように言った。 「モーリッツと同じだ。ただ自分の考えや自分の視点があるばかりで、何の根拠も無い。オットー、君にとって村長は偽者だっただろう。そしてニコラスも偽者だ。だけど僕らにはどちらがどうなのか解らないんだ。 それをただ処刑しろ処刑しろと言われて、どうして処刑できると言うんだ。」 「人狼で無いのならば議論に協力してしかるべき。それをできなかったのは…オットーさんが狂人で、誰かに言及する事で誤って人狼を糾弾してしまう事を恐れたからではありませんか。」 「それにオットーはヴァルターに突っかかっていただけで何も建設的な発言はしていない。」 追い討ちをかけるようにニコラスとディーターが立て続けに責め立てる。 「やめてくれよディーターまで…。僕は君を人間だと信じてるのに…。」 縋るようなオットーの目の前でもディーターは表情を変える事すら無かった。 「有難う。だがそれとこれとは話が別だ。信じて貰えるのは嬉しいが、俺にはお前が信じられない。」 誰かに助けを求めようとオットーは立ち上がって必死で周りを見回す。泣いているだけのペーター。先程の一件で意気消沈しているジムゾン。不貞腐れてだんまりを決め込んでいるトーマス。不審気な目でこちらを見るレジーナ。明らかに攻撃する目を向けているニコラスとディーター、ヨアヒム。そして、持てる感情の全てを憎しみにかえて睨みつけているパメラ。 オットーは力を失ってへなへなと床に崩れる。 「…はは…。」 ぼんやりとした視界で宙を見つめるオットーの口から空虚な笑いが漏れた。 村の出口になる墓地の外れに処刑台はあった。石畳が敷かれた十字路の脇にある大木にかけられた荒縄一つ。ジムゾンは風に揺れる縄をぼんやりと見上げている。輪の形に結わえられた空間から積み重ねられた死を眺めていた。 この輪にヤコブの首がかけられたのは一体何時の事だったろう。たった三日前の出来事だというのに随分と昔の事のような気がする。踏み台の木箱と敷石のぶつかる音に我に返りこれまでのようにオットーへ問うた。 「何か言い残したい事はありませんか。」 力ないジムゾンの問いにオットーは無言でゆるく首を横に振った。大人しく台に上ろうとしてオットーは足を止めて思いとどまる。 「パメラに。」 見開いた目で宙を見上げて名前を呟く。 「そうだ。言わないままで居るよりは。もう受け取ってもらえないかもしれない。それでもいいから…。」 独り言のようにひとしきり喋ったあとでジムゾンを見た。 「パメラに渡して欲しい物があるんだ。」 「何でしょう。」 「僕の工房の机の引き出しに入れてある手紙だ。全てが片付いてしまった時に…。村が落ち着いて僕の身の潔白が証明された時に、彼女に渡してくれないかな。」 寂しそうに俯いてオットーは言葉を続ける。 「無駄かもしれないけど。墓場に持っていったところで誰に気付いてもらえるわけじゃないから。」 「わかりました。…私が生きていれば、必ずお伝えします。」 「頼んだよ。」 四つ目の死が縄にかかる。肉体の絆しを離れて魂が解き放たれる。生き物としての不確かさから逃れて完全に自由になる存在。けれど何も生み出すこともできない存在。 ジムゾンの心に、もう死への幼い憧れは無かった。 『今日の襲撃はどうする。』 礼拝堂の参列者用の椅子にかけてぼうっとしていたジムゾンの耳にディーターの囁きが聞こえた。自分に向けて発せられた物ではない。だがそれとはなしに聞いていた。 『パメラはどうでしょう。彼女なら狩人の守護も無く襲撃できそうです。それに、今襲撃すれば良い効果も期待できます。』 『そうだな。早くラクにしてやるのもいい。』 『そんな!』 オットーとの約束を思い出してジムゾンが横合いから割って入った。 『さっきの“約束”か。』 ディーターが呆れたように言った。 『襲撃に加われ。そうすれば約束は果たせる。』 当然の提案の前にジムゾンは黙ってしまう。 『チッ。』 隣の家のドアが開く音がした。続いて、苛立ったような大きな足音。 『こんな時に出たら怪しまれます!』 『うるせえ。お前はトーマスに目をつけられてるんだぞ。張り込んでるかもしれない教会から襲撃に向かったらそれこそバレるだろうが。 今夜はニコラスに用事があって宿屋に泊まる。それで何の問題も無い。』 『そうですね。今日も彼は見張っているようですよ。』 『えっ。』 ニコラスのなんのけない囁きにジムゾンは驚いた。 『放っておきましょう。気が晴れればそのうち帰りますよ。彼とて人狼は恐ろしいはずですからね。』 それっきり囁きは途切れ、ディーターが持っていったカンテラの明かりも遠ざかっていった。 『しかし…。』 宿の部屋の中でニコラスは窓枠に体をもたせて腕を組んだ。 『何か引っかかる事でもあるのか。』 思わず囁きに漏らした思考にディーターが問う。 『少し。あなたは何か今日の議論で気づいた事はありませんか。』 ディーターは暫らく考え込んでいるようだった。 今日の議論…オットーの無力な嘆きとトーマスとジムゾンの確執…いやそれよりも先にトーマスはヨアヒムに食ってかかり…。 記憶の糸を手繰り寄せ、ディーターはある答えに行き着いた。 『トーマスが狩人だという事か。』 『そうです。』 人狼の伝承に関して造詣が深いわけでもないトーマスが狩人の存在を考慮に入れていた。ヨアヒムへの断定的な言い方も引っかかる。 強烈な反対勢力であるトーマスを今日襲撃してどう転ぶかはさすがにニコラスでも予測がつかない。日が浅い頃であれば口封じの襲撃も容易かったのだが。また別の不安も胸をよぎる。 『どうしたものでしょうね。』 ニコラスは答えを求めるかのように天を仰いだ。 next page → |