【彷徨を留める腕】

夜の冷えた空気が火照った体を冷ましてゆく。傍らに佇むニコラスも心地良さそうに目を細めて風を浴び、漸く人間の姿に戻った。被毛に散っていた赤い血は跡形も無くなり、古びた緑色の外套が風に揺れている。
「さて。」
ニコラスは足元に転がる喰い残しを一瞥し、何のためらいもなく崖下に蹴落とした。暫くして鈍い音が聞こえる。眠りを覚まされた鳥たちの声も聞こえたが、すぐにそれも静まった。
「鳶なり何なりが掃除してくれるでしょう。…後で洗わなきゃ。」
ニコラスは涼しい顔で言いながら自身の靴に目をやり、苦笑した。蹴った拍子に血がついてしまったようだ。
「神父さんの分を残しておかなくて本当に良かったんでしょうか。」
「本人が要らないと言った。」
ジムゾンの陰鬱な表情を思い出して気分が悪くなり、俺はぶっきらぼうに返答した。昨晩は覗き見した上に一人で癇癪起こして泣き喚いていた。訳も解らず文句を言われて不愉快だった半面、この調子なら今日は襲撃に加わるのでは無かろうかと思っていた。ところがジムゾンは朝になって襲撃には同行しないと囁いてきた。ニコラスは何かなだめるように説得していたが、ジムゾンは頑として聞き入れなかった。まったく、体だけでかくなった子どもみたいな野郎だと改めて思った。

ニコラスと別れた後俺は村はずれの教会へ向かった。ジムゾンに会うのも面倒だったので旅芸人の小屋で寝ようかとも思ったが、また昨日のように癇癪を起こされてはたまらない。なだらかな丘を登るとすぐに教会が見えた。礼拝堂から出てくる人影が見えたので足を止めてとっさに茂みに身を隠す。屈強な体つきをした坊主頭の男…。隊商に居た旅芸人だ。こんな時間に告解でもしていたのだろうか。
男が行ってしまったのを確認し、俺は教会へと戻った。礼拝堂からかすかな明かりが漏れている。ジムゾンは恐らくまだ起きて、中に居る。俺は隣接する家には向かわず礼拝堂に入った。

中には誰も居なかった。祭壇の上に明かりのついたカンテラがぽつんと置かれている。後ろの扉を閉めると、前列のあたりで衣擦れの音がした。
居る。
「何コソコソ隠れてやがる。」
その態度にムッとして俺は気配のした所まで歩み寄った。良心の呵責だとか罪の意識だとかでうじうじして、神様にでも祈っていたのだろうか。これほど人狼に不向きな奴も珍しい。閉鎖空間での勝負になったなら潜伏役としてうってつけかもしれないが。神様とやらが居るのなら、何故こいつを人狼にしたのかを聞いてみたいものだ。

最前列の椅子の影に隠れていたジムゾンの姿を見て俺は絶句した。ジムゾンは素裸だった。聖服で体の前を隠し、肩を落として俯いている。目を真っ赤に泣き腫らし、肉の薄い体のあちこちには赤黒い内出血の痕があった。何があったのかは聞くまでも無い。
「さっき出て行ったハゲ野郎か。」
俺の問いかけにジムゾンは無言で頷く。人狼には人間など比にならない力がある。襲われたとて返り討ちにするのは造作も無い事。ただしそれは人狼と化した時の事であって普段の非力なジムゾンでは、あの大男に抗うことすら出来なかっただろう。
「何時もの事です。」
「何時も?」
不貞腐れたジムゾンの声を受けて鸚鵡返しに問う。
「余所者が来ると。またはそれを教会に泊めると。何故か決まって、皆一様に。」
ジムゾンは熱に浮かされたように喋り続けた。
「何故長らく司祭の居なかったこの教会に突然配属されたのか。何故家政婦すら居ないのか。教会に売られたのだろうとあの悪魔どもは口々に言う。下卑た笑みを浮かべて。」
そこまで言って、ジムゾンはぎゅっと膝を抱え込んだ。
「…そんな事、信じません。」
ジムゾンは薄い唇を引き結び、睫を伏せて膝に顔を埋める。暫しの沈黙が続いた。
「俺もそうだと思ったか。」
最初に会った時の物憂げな表情。あれは諦めていたからだったのか。
「ええ。」
暫らくしてジムゾンのか細い返事が聞こえた。
「そんな趣味は無い。」
「私にだってありません。」
ムキになったかのような声と共に肩が小刻みに震え、膝に埋めた口元から嗚咽が漏れはじめる。俺は溜息一つついて上着を脱ぎ、ジムゾンに羽織らせる。
「何時までも泣いてんじゃねえ。」
俺は胸糞悪さを吐き出すように呟き、ジムゾンを担ぎ上げた。暴れるかもしれないと覚悟していたが大人しく抱かれるがままになっていた。尻を抱えた掌が名残で湿る。手袋が汚れたろうが、そんな事はどうでも良かった。椅子の上に置きざりにされた聖書を取ってジムゾンに渡し、カンテラを片手に脇の扉を開けて礼拝堂を出た。
「…ありがとう。」
耳元で微かにジムゾンの呟きが聞こえた。

数日後、隊商は予定より早く再び旅立つ事になった。誰もあからさまに口にはしなかったが、あまりに頻発する行方不明事件が出立を早めた原因だった。病み上がりの(という事になっている)ニコラスと物好きな行商人が、後続の別隊が来るまで村に残る事になった。行商人には悪いが、やがて訪れる血の宴の際にはニコラスの不自然さを隠すいい隠れ蓑になってくれそうだ。
『ニコラス、今日の村での襲撃は無しだ。』
俺はニコラスにだけ聞こえるように囁いた。
『了解です。私も今日はあからさますぎると思ったのでしないつもりでした。あなたはどういった理由で?』
『お前と同じだ。』
短く返事をすると夕飯の支度をしているジムゾンに向き直った。
「レジーナの店に行って来る。メシは要らない。帰りも遅くなる。」
「…。」
「お前も来るか。」
ジムゾンはジロリと俺を睨んだ。そういう所が嫌いなのを知っているくせに。表情が恨めしそうに語っていた。教会から出ると何時も以上に冷たい風が頬を撫でた。澄んだ夜空に月は無い。俺は姿を変え、夜の闇に紛れた。

夜もふけて教会へ戻るとジムゾンは大人しく眠っていた。俺は最早俺専用の部屋と化してしまった客室へ入り、簡素な寝台に腰を下ろす。
『一人で襲撃するだなんて水臭いですね。』
唐突にニコラスの囁きが聞こえた。
『何故解った。』
『さあ、何故でしょう。』
ニコラスは明るい声ですっ呆けた返事をして続けた。
『一言言って下されば私は遠慮してお手伝いだけでもしたのに。』
『喰ったわけじゃねえ。』
『?』
『喰う気も起こらねえ相手だ。…だからお前に迷惑はかけられなかった。』
命乞いする情けない表情。支配する恐怖に打ち震える体。響き渡る絶叫と視界を染める赤。本能を歓喜させる全てを持ってしても食欲は一向に湧かず、腹の底にどす黒い熱さだけがあった。初めて味わうその感覚が一体何なのか、俺にも良く解らなかった。

「人狼って奴が出たらしいんだよ。」
次の日の夜、カウンターで酒を飲んでいた俺にレジーナが話し掛けてきた。レジーナはこの村唯一の宿屋兼酒場の女主人だ。それなりに年もいっている今は驚くほどでも無いが、若い頃は間違いなく村一番の美人だったであろういい女だ。
「君は朝からそればかりだな、レジーナ。」
「だって!気になるじゃないか!」
お決まりの席についた村長のヴァルターが呆れたようにレジーナを見、レジーナは語気も荒く反論する。何でも大学出だという学者然としたヴァルターはレジーナとは旧知の仲だ。数年前に妻を亡くし、パメラという一人娘と一緒に暮らしている。
「人狼?」
「やだなあ、ディーター。知らないの?おとぎ話であるじゃないか。」
問い返した俺に、パンを配達してきたオットーが苦笑して言った。俺より少し年少のオットーは若くしてマイスターの称号を取得したパン職人だ。昔は大きな町に住んでいたらしいのだが、故郷でもあるこの村に最近戻ってきたという。中々腕が良く、不味い黒パンもオットーの作る物は酸味が少なく食べやすい。
「知らねえな。」
実際に俺が人間だったとしたらそんな話は知らないだろう。おとぎ話を聞かせてくれるような人間はいなかったし、学も無い。耳に入ってくる情報と言えば酒場での下品な噂話や戦の情勢くらいのものだ。
「おお!それならワシが説明してやるぞ、ディーター。人狼と言うのはじゃな…。」
窓際の席でうたた寝していたかに見えた老人・モーリッツが急に生き生きとして俺に説明し始める。モーリッツはこの村の長老的存在の老人で、若い頃は隣国の騎士団に所属していた文官だったらしい。それゆえか博識で、何時も大きな本を持ち歩いている。俺は興味のある風を装って熱心に聞いた。モーリッツの話は多少の尾ひれはついていたが、中々に詳しい物だった。

「…で、そんなバケモノが出たってのか?」
俺は苦笑してレジーナを見た。
「そうらしいんだよ。…あたしもまだ半信半疑なんだけどね。隣村の酒屋が今朝来るなりそう言うからさ。」
「ふん。」
適当に相槌打ちながらコップを口に運ぶ。他の者も苦笑いしながら熱心な様子のレジーナの話を聞いていた。
「なんでも隣村はずれの森で惨い死体が見つかったって…。」
「熊か狼の仕業なんじゃないの?」
「夜盗とかな。」
と、オットーと俺は口々に冷やかす。レジーナはますます熱くなって話を続けた。
「それが!目を背けたくなるくらい八つ裂きにされていて、傷痕はとても狼なんか比べ物にならない大きさの物だったって言うんだよ。」
「単なる殺しかもしれん。よくあるだろう。怨恨でとか。」
あくまでも冷静にヴァルターが呟く。
「殺されたのは昨日までウチの村に居た旅芸人の一人だったんだ。ほら、力自慢で頭を丸めてた大男が居たじゃないか。碧玉の首飾りをつけた占い女の旦那でさ。ええと、名前は忘れたけど…少なくとも人に恨まれるような人間じゃなかったよ。」

レジーナは一旦言葉を切って悲しげな表情で首を横にふった。
「そりゃまあ仲間内じゃどういう確執があるかは解らないし、人狼の仕業かどうかはなんとも言えないけど…。もし本当に人狼で、この村に来たりしたら大変だよ。バカにしてないで対策くらい練っといた方がいいと思うんだよ、あたしゃ。…村長!聞いてんのかい!」
「ああ、聞いてるとも。」
寝たふりをしていたヴァルターはレジーナに肩を強く揺さぶられ、困ったように返事をした。
「人狼なんて居るわけないじゃん。おおげさだなあ、レジーナは。」
それまで黙って聞いていたゲルトがのんきな声で一笑にふした。ゲルトは前の村長の息子だ。前村長の死後後を継いで村長になる筈だったらしいのだが政治にはとんと疎く、代わりに人望も厚いヴァルターが村長となった。莫大な遺産を相続した為に働く必要が無いといういいご身分で少し年の離れたリーザという妹がいる。
「あんたは気楽でいいこったよ。」
やれやれと苦笑してレジーナが言った。放蕩息子の典型のようなゲルトだが、不思議と憎めない男だ。
「昨日から頭の中で誰か喋ってるみたいに煩いし、このうえ変な噂なんて信じてたら頭が混乱しちゃうよ。」
そう言ってゲルトが笑う。
「誰かが喋ってる?」
「うん。なんか…。あー。詳しく思い出せないけど。『水臭い』とか『喰う気も起こらなかった』とか…。」
オットーの問いを受けてゲルトは考え込みながら返答する。
「何それ。」
と、オットーは苦笑した。俺も含めた他の者は人狼の噂の事も忘れてそれぞれに話を続けていた。

『ニコラス。聞こえるか。』
酒場を出た俺は教会へ帰る道すがらニコラスに囁いた。
『聞こえてますよ。そろそろ今夜の襲撃先を決めなければと思ってました。』
『今日の襲撃は楽天家だ。』
『楽天家…。』
ニコラスは暫し考えこんでいる様子だった。
『我々の囁きを聞ける人物というわけですね。』
『当たり。さすがだな。』
ゲルトの話を聞く限りでは、そう鮮明に聞こえているわけでも無く本人もわずらわしいくらいにしか思っていないようだったが…自分の名前を出されれば嫌でも気付いてしまうだろう。そう思ってわざわざ楽天家と言った。恐らく本人にその自覚は無い。
『異論は?』
『ありません。早速見つかった事を感謝したいくらいですよ。』

『ところで、昨日の襲撃は意図的だったのですか?』
『どういう事だ。』
『目に付くように隣村で行えば、現在村にはおらずあたかも隣村から来るように思えます。』
『…ははっ。』
思わぬ効果に漸く気付いて俺は笑ってしまった。言われてみればそうだ。まぐれだと言う事を察してか、ニコラスも笑った。
『そういう事にしておいてくれ。』
『ではまたのちほど。』
『ああ。』

教会へ帰りつくとジムゾンは部屋で祈っている最中だった。
『人狼の噂が広まっているのを聞いたか。』
『いいえ。』
当然と言えば当然だ。ジムゾンは人の集まる酒場を嫌っている。教会は個別の告白こそあるかもしれないが、噂話が入手できるような環境では無い。知らない。という事はジムゾンは昨日の襲撃の事も知らないままだ。
『ならいい。』
少しホッとして部屋を出て行く俺を追うようにジムゾンが囁く。
『あなたが広めたのですか。それとも誰かから…。』
『お前は知らなくていい事だ。』
言葉をさえぎるように強く囁くと、それっきりジムゾンの囁きも途絶えた。…何か後ろ向きに勘違いしたかもしれないが、それならそれで構わない。また、勘違いしたのなら尚更ニコラスにこっそり聞くような事も無いだろう。
「…何考えてるんだ俺は。」
裏口から外に出るなり俺は思わず独り言を呟いた。妙なほどよく揺れる自分の感情に複雑な思いを抱きながら全身を黒の被毛で覆い、再び夜の闇に溶けた。


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