【湖畔の盟約・第一章】

 ザンクトブラジエン修道院は鬱蒼とした森の中にあった。オーストリアの庇護を受けるベネディクト会の修道院は、大聖堂の威容もさる事ながら、それに恥じぬだけの奉仕の活動が行われていた。修道士の数も多いが、収容されている病人や怪我人の数もまた多い。各地の農村で民衆によって行われている魔女狩りの結果、人々は昔ながらの民間療法の手立てを自ら潰していってしまった。そうした中、聖職というお墨付きを頂いた修道士達が伝え残してきた民間療法だけが彼らの一縷の希望でもあった。街道が整備されているとはいえ、黒い森の奥深くにあるここに辿り着くまでに命の灯火が尽きてしまう者も多かった。それを押してもなお、傷つき、或いは病に倒れた人々はここを目指した。
「怪我人だらけだな」
 道端にも溢れ返る怪我人達を横目に、ディーターが呟いた。怪我の程度は様々だが、兵士の姿が目立つ。黒死病の蔓延の上に、この戦乱だ。修道院は受け入れの限界をとうにこえていた。
「こんなに酷いなんて……」
 それなりに怪我人を見慣れているジムゾンもさすがに驚いた。あちこち寄り道をしながらここへ辿り着いた為、ドナウエッシンゲンを出て数ヶ月が経っていた。晩夏とはいえ夏は夏だ。気温の高さゆえに腐臭も酷い。
「外国の方も居ますね」
 先ほどから、時折耳慣れない言葉も聞こえてきていた。
「スウェーデンの奴らも混じってる」
 何気ないディーターの言葉に、ジムゾンは再び道端へ目を向けた。異国の言葉を話す彼らもまた傷つき、当然ながら戦意は見られなかった。たとえ信教が違っても怪我人には違い無い。修道院がオーストリアの庇護を受けていると聞いていたので少し不安にも感じていたが、政治的な意志は介入していないようでジムゾンはほっと胸を撫で下ろした。が、不意にディーターが旧教側の傭兵だった事を思い出して顔を上げた。視線に気付いたディーターもまた、ジムゾンに顔を向けた。
「俺は金の為に戦っていただけの人間だ。雇い主が偶々旧教側だっただけで、信教の観点からの恨みつらみは無い」
 ディーターは言葉を切って視線を逸らした。
「俺の仲間が奴らから殺されたように、俺は奴らの仲間を殺した。血は、どちらにも流れてる」

 大聖堂近くまで来たその時、突然辺りが騒がしくなった。騒ぎ声と共に現れたのは数名の修道士と修道女だった。何やら慌てふためいた様子で、修道女が修道士から担架を渡されている。担架に乗せられているのはまるで文官のような人だった。年のころは三十代前半と言った所だろうか。ディーターより幾分か薄い色合いの赤い髪の毛は肩の辺りで切り揃えられている。かけている眼鏡が光を反射しているため、表情まではよく解らない。
「どうしたんでしょう」
「さあ」
 二人は立ち止まってその光景を呆然と眺めていた。担架を渡し終えた修道士達が大聖堂へ引き返していく。ジムゾンは咄嗟に、うち一人の修道士に駆け寄って尋ねた。
「どうされたのですか?」
「ああ……。いえ、どうもこうも」
 問い掛けられた年若い修道士は困ったように頭をかいた。
「先日運び込まれた怪我人で、ウィーン宮廷図書館の司書官だと言うので、それに身なりがああだったので、こちらで引き取っていたのです。傷が酷くて、応援も要請したのですが」
 修道士は混乱して上手く言葉が出てこないようだった。
「しかし応援の到着まで手をこまねいているわけにもいきませんし、その、せめて包帯だけでも取り替えようとしたら。じょ、女性で!」
 そこまで言って修道士は頬を真っ赤にして顔を両手で覆った。あの格好で、しかも司書官だと言われれば男性だと信じてしまうのも仕方がない。ジムゾンは修道士を同情の眼差しで一瞥し、静かに去っていく修道女達と担架を見やった。
「本当は司書官ではなく、司書官に仕える補佐で。ええ、そうですよね。女性ですから。それが、旅で難儀なので男装していただけだと。それで、今、シスター達へ受け渡しを」
「そうだったのですか」
 ジムゾンは二三度修道士の肩をさすって宥めた。聞けば、ここから南東へ二マイル程行った先には湖があり、その湖畔の丘に女子修道院があるのだという。修道士と別れてディーターの元へ戻りながら、ジムゾンはふとドナウエッシンゲンで出会ったフリーデルを思い出していた。あれからずっと身に付けているドルイドベルの不協和音が、大きくなったような気がした。

 ここに留まれない事は一目で明らかだった。領内のどこか空き地を探す事も出来ないでもないが、山もあり、ザンクトブラジエン以外では閉鎖空間ができてしまいそうだ。とりあえずまた何処かへ移動をするとして、日も傾いてしまったので二人は一晩ここで野宿をする事にした。
「司書官ねえ」
 ぼんやりと呟いて、ディーターは焚き火に木の枝をくべた。もう深夜に近い時間ではあったが、周辺にも焚き火が散見している。
「実際は司書官では無いそうですが。それにしても、おかしいですね」
 ジムゾンはその向かいで膝を抱える。時々聞こえてくる怪我人達のうめき声は、修道院に居た頃を思い出させた。
「ウィーンまで新教軍が進攻したとは聞かないしな」
「今時文官同士の争いなんてしてる場合では無いでしょうし」
「そうでもないぞ」
 ディーターはハッとして顔を上げた。
「白山での戦いの後だったか。ウィーンに行った頃、丁度内部で小競り合いがあったような話を聞いた。文官達が新教との融和派と旧教保守派に分かれていたらしいな。その後は知らないが、ありえるんじゃないか」
 ジムゾンは、むう、と口をへの字に曲げて顔を膝に埋めた。
「ところでジムゾン、あの続き」
 ディーターは急にいそいそとジムゾンに手招きした。
「こんなところでですか?」
 ジムゾンは眉根を寄せて周囲を見渡す。しかしあまりしつこいので、渋々立ち上がって横に腰掛けなおした。普段殆ど感情の起伏が見られないディーターなのだが、この時ばかりはまるで子どものようだった。ジムゾンは声をひそめてディーターに問うた。
「どこまで行きましたっけ」
「サンチョ・パンサと旅に出た所からだよ」
「よく覚えてますね」
 呆れ半分、感心半分でジムゾンは使い古された一冊の本を雑のうから取り出した。ドイツ語訳されたかの有名な物語、ドン・キホーテの前編だ。ひょんな切欠で手に入れた本で、物語なら少しは文字の勉強も楽しくなるろうと考えたジムゾンはディーターに見せながら読んで聞かせた。
 何しろ騎士文化など知らず、生きるか死ぬかの戦場で合理的に戦い続けてきたディーターだ。架空の物語など一笑に付されるのではないかと危惧もした。しかしこれが思いのほか好みだったらしく、それ以来毎晩のようにせがまれている。肝心の文字の学習に役立っているのか定かでは無いが、ディーターが心底楽しそうにしている姿を見るのは嬉しかった。一々驚いたり笑ったり、時には本気で悲しんだりしている姿もそうそう見られる物でもない。
 ジムゾンは焚き火の明かりを頼りに、小声で続きを読んで聞かせた。

「ジムゾン。ジムゾン、起きろ」
 体を揺すられてジムゾンは目を覚ました。日が昇って辺りは明るくなっているが、まだ薄ら寒い。ジムゾンが寝起きでぼんやりしているのもさておき、ディーターは続ける。
「昨日の奴な。ほら、司書官補佐とかいう」
 ジムゾンはまだ夢見心地のままディーターの言葉を頭で反芻した。司書官補佐という単語を聞いて、漸く昨日の事を思い出した。
「ああ、女性だった方」
「さっき修道士が来てな。そいつがお前に終油を頼みたいってよ」
 さすがのジムゾンも一気に目が覚めた。秘蹟が必要とは、よほど重篤なのだろう。
「何でわざわざお前なんだろうな。不自然じゃないか?」
「修道士では終油を行えません」
「しかし修道院にも司祭の一人や二人居るだろう」
「居ますよ。でも、このありさまですし、お忙しいのかも」
 訝しがるディーターをよそにジムゾンは身支度を整える。
「ドナウエッシンゲンの一件もある。旅のお前を指定って所が俺はどうも引っかかるんだが」
「大丈夫ですよ」
 ジムゾンは苦笑しながら立ち上がった。いかに寛容なベネディクト会とはいえ女子修道院にディーターが立ち入る事はできない。万一そこでフリーデルとの一件のような事があっても助けは望めない。ディーターが心配するのも尤もだったが、遠くウィーンの人間と自分に何かの接点があるとも思えなかった。強いて言えばジムゾンの本来の血統を察したという可能性はあるが、そこに悪意があるようにも思えない。身支度を終えたジムゾンは、足早に女子修道院へと向かった。


 丘の上に建つ女子修道院は静寂に包まれていた。修道女に先導されて回廊を歩きながら、ジムゾンは落ち着き無く辺りを見回した。ここにも収容されている怪我人や病人も居るのだろうが、聖堂前の様子とは大違いだった。
 やがて奥まった一室に辿り着き、中へと通された。女子修道院の収容施設がこういう物なのか。はたまた彼女だけが特別なのかは解らなかったが、一人で居るには広過ぎる程の部屋だった。司書官補佐の女性は上体を起こしてぼんやりと外を見つめていた。修道女に声をかけられて漸く我に返り、ジムゾンに顔を向けた。昨日ははっきりと解らなかったが、穏やかな灰色の瞳で大人しい風貌をしている。赤毛と言えば昔からカインの印だの気性が荒いだの言われ、同じ赤毛のディーターも迷信に違わず荒っぽく見えるが、彼女は違っていた。
 あれこれ思いを巡らせているうちに修道女は部屋から出て行き、ジムゾンは女性と二人で部屋に取り残された。
「初めまして、神父様」
 女性はにこやかに微笑んだ。
「クララ・イェーガーと申します。ウィーン宮廷図書館の司書の補佐をしておりました」
「初めまして。私はジムゾン・フォン・ルーデンドルフ。マリアラーハ修道院に所属しています」
 ジムゾンもまた微笑み返したが、クララに別段切羽詰った様子も無い事は不思議だった。昨日の修道士の話からすれば収容されている理由は怪我で、応援を要するほどの重傷らしい。しかも今日自分が呼び出されたのは終油のためだ。だが今のクララの姿を見る限り、その必要は無いように思われた。
「終油を、との事でしたが……」
「元気そうに見える、でしょう?」
 そう言ってクララは小さく笑った。
「ですが、片足を撃ち抜かれてしまって。今もとても痛いのです。一向に、良くなる気配も無くて」
 失礼します、と呟いてクララは上体を寝台へ倒した。先ほどは解らなかったが、よく見れば額には脂汗が滲み唇にも色が無い。
「戦に巻き込まれたのですか?」
 銃による怪我だとすると戦しか思い浮ばないが、ディーターも言っていたようにウィーンまで敵が侵入したとは聞かない。残る可能性は文官同士の諍いくらいのものだが、銃を持ち出すとはあまり穏やかではない。
 クララは無言で首を横に振った。微かに眉を歪めて目を閉じ、暫くして再び口を開いた。
「申し訳無いのですが、神父様。一つお願いを聞いて頂けませんでしょうか」
「できる事でしたら」
「この修道院に安置されているという聖遺物を、生きている間に一目見たいのです」
「聖遺物?」
 ジムゾンは首を傾げた。ザンクトブラジエンは規模が大きく、名も知れている。しかし、ここにキリストの釘等のような聖遺物が収蔵されているとは聞いた事が無かった。
「ええ。さる聖人が身に付けていたという黄金色の腕輪で、“裁きの輪”と言うそうです。地獄の炎から身を守ってくれるという言い伝えがあるのだとか」
 ジムゾンは記憶の棚を探ってみるが、どうにも思い当たるふしは無かった。だがクララはまがりなりにも司書の補佐だ。仕事の程度は定かでは無いが、補佐の身の上で知性の象徴とされる眼鏡をかけているあたりからしても大事にされていた事は解る。ジムゾンの知らない事などまだ山ほどあるだろうし、それを知っていたとしても不思議では無かった。
「それは知りませんでした。ですが、果たしてそういう品物を持ち出して良いものか」
「お願いします」
 クララは哀願するような眼差しを向けた。仕方なくジムゾンは承諾し、聖遺物があるという修道院の礼拝堂へ向かう事にした。


「やぁ、これは。どなたかと思ったら」
 突然声をかけられてディーターが顔を上げると、目の前には白いローブを身に纏った聖職者の姿があった。のほほんとした声音に、余裕を感じさせる独特の表情の彼は、つい最近出会ったばかりのドナウエッシンゲンの神父ヨハネスだった。
「なんであんたがここに?」
 ドナウエッシンゲンとザンクトブラジエンはさして距離が離れていない。ヨハネスがここに居たとておかしくは無いのだが、シトー会所属の彼がベネディクト会の修道院に来る理由は解らなかった。目を丸くするディーターに、ヨハネスはにっこりと笑った。
「治療の応援を頼まれましてね」
 ヨハネスは一緒に聖堂へ行くよう促し、ディーターは一先ずそれに従って歩き出した。
「ザンクトブラジエンは治療院として知られています。しかし看護はともかくとして、治癒を行える人間は限られてますからな。対応できる数の限界をこえてしまうと、こうして我々近隣の聖職者に声がかかるというわけです」
「会派は関係無いんだな」
「そうですな。しかし穏健派のベネディクト会とそりの合わない急進派の修道会にはお声がかかりませんし、まずそう言った会では治療などが活動とされておりません」
 その後ジムゾンの所在や、これまでの出来事を話しているうちにある一室に辿り着いた。
「ジムゾン」
 ディーターは思わず声を上げた。礼拝堂と思しきだだっ広い部屋の奥に、先ほど女子修道院へ向かったはずのジムゾンの姿があった。ジムゾンはディーターに気付いてこちらを振り返る。
「何やってんだお前」
 ディーターが問い掛けたと同時に奥の扉から一人の修道士が現れた。ジムゾンに何か持ってきたようで、古めかしい箱を両手で後生大事に抱えている。と、突然ヨハネスが足早にジムゾンの元へ向かった。
 修道士が持ってきた箱は祭壇の上に置かれて蓋が開けられた。ジムゾンが礼を言って手を伸ばした瞬間、ヨハネスが強引にその横に割り込んで手を遮った。
「そうそう!これを一度お見せしたいと思っていました」
 呆気に取られているジムゾンや修道士を他所に、箱から何やら腕輪のような物を取り出したヨハネスは嬉しそうに語った。
「あ……。あなたは、ブラザー・ヨハネス」
「お久しぶりです」
 未だ呆然としているジムゾンに、ヨハネスは微笑みかける。
「ところで、この腕輪がどうかされましたか?」
「はい。怪我で運ばれた方に頼まれて」
「ヨハネス様にお願いした病人です」
 思い出したように、修道士が横から口を挟んだ。
「ああ、例の患者だね」
「それが。折角お出で頂いたのに申し訳ないのですが、実は、女性で。今は女子修道院に」
「病人には変わりないよ」
 修道士は口篭るが、ヨハネスは驚く風も無かった。
「では私も女子修道院の方に行ってみるかな。ブラザー、折角ですからご一緒しましょう」


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