【湖畔の盟約・第二章】
陽光煌く湖のほとりに、クララの姿はあった。木製の車椅子に腰掛けて一人ぼんやりと湖を眺めている。毛布に覆われた脚の傷が疼くのか、時折顔を苦悶に歪めて。 あれからジムゾンとヨハネスとで女子修道院にクララを訪ねたところ、どうしても湖に行きたいと言い出したので連れ出した、と修道女から伝えられた。また、神父が戻ってきたら湖に来て欲しいと言っていた、とも。 それを聞いたヨハネスは囁きでディーターも一緒に来るよう伝え、三人で湖を訪れる事になったのだった。 「“裁きの輪”お持ちしましたよ」 ヨハネスが話しかけるとクララは漸く気付いてこちらを向いた。そして掲げられた腕輪を見た瞬間、その表情が一変した。 「初めまして、誓約者同盟のお嬢さん」 にこやかなヨハネスとは対照的に、クララは表情を強張らせている。 「誓約者同盟?スイス誓約者同盟のことですか?」 ジムゾンは不思議そうな表情でヨハネスを見た。 「さよう。人の身で“裁きの輪”という呼称を知るのは古ケルトの中でも彼らの部族以外ありません。即ち、古の血を継ぐ占い師の部族、とでも言いましょうか」 ヨハネスは改めてクララに向き直った。 「当然“生贄の鈴”の存在もご存知でしょう。こちらのジムゾン神父がそれをつけて無事で居るのを見て、占った。その結果を知り、この腕輪に触れさせようとしたのではありませんかな」 「そんな」 愕然として呟いたのはジムゾンだった。道中、ヨハネスから腕輪の事は聞いていた。腕輪は元々トルクと呼ばれるケルトの護符で、人間が触れても無害だが、人狼が触れれば炎がその身を焦がしてしまうのだと。だが炎は一瞬のもので致命傷を負わせるほどでは無いらしい。自分を処刑するというわけでもなし、何故そんな事をさせようとしていたのか理解できなかった。 「まさかご存知な方がおられるとは思いませんでした」 クララは小さくため息をついた。 「仰るとおり、そちらの神父様が“生贄の鈴”の音を鳴らしているのに無事でいるのを不思議に思い、もしやと思って昨晩占いにかけました。結果は……申し上げるまでもありませんね」 そう言ってクララは自嘲気味に笑った。 「腕輪に触れさせて火傷を負わせ、取引に持ち込もうと思っていました。私は所謂新教の人間です。私の占い結果だけを教皇庁に奏上しても聞き入れては貰えないでしょう。ですが、目に見えて判る火傷なら否定のしようがない。神父様の正体を暴露しない代わりに、神父様には言伝を頼もうと考えていました」 「また無謀な賭けに出たもんだな」 ジムゾンの傍らでディーターは呆れたように呟いた。 「もう先の長くない身ですから」 突き抜けるような夏空に舞う鳶の声が一際大きく聞こえた。南からやってきた大きな雲が湖を覆って陽光を遮る。修道院には今日もまた誰かが運び込まれ、今日もまた誰かが天に召されたろう。そんな地上の事など意に介さず、雲は悠然と流れ行く。緑の山々に囲まれた湖のほとりの美しい景色が何故か残酷に感じられてジムゾンは目を閉じた。 「頭がぼうっとして、段々と感覚が麻痺しているように思います。きっと、傷口から病に冒されたのでしょうね」 クララは椅子の背に頭をもたせて何処か遠くを見つめていた。 「もう私には時間が無いのです。僧の誰かに頼もうかとも思いましたが、彼らはここを離れられないでしょうし、秘密を漏らさず無事渡してくれるかも疑問です。もし途中で何事かあって、知られてはいけない相手に知られてしまえば元も子もありません」 「言伝の内容とは、あなたがお怪我された事と関係のある事ですか?」 クララは暫く黙っていたが、やがてゆっくりと語り始めた。 新教徒の身でウィーンへ出向いたのは、スウェーデン軍の傭兵として皇帝軍の捕虜となった兄達の行方を探す為である事。とある司書官に拾われて、補佐として傍に仕えていた事。主人と敵対しているある書記官に素性を知られ、ウィーンを追われた事を。 「命を狙われるような事か?」 疑問を投げかけたのはディーターだった。 「スイスは傭兵の畑のようなもんだ。新教側にくっ付いてる奴も多いだろうが、旧教側にも居るだろう。出身地を知られた所で何が拙い?それに、もしそれが急所になるとすれば何故お前の主人と敵対している人間は、お前を工作に利用しない?」 沈黙が続いた。クララは表情を固くして湖面を見つめ、森を渡る風の音だけが響く。ジムゾンは一歩前に踏み出してクララへ向き直った。 「聞かせて下さい」 「おいジムゾン」 「大変な事なのでしょう。人狼とは無関係に」 クララは一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに口を開いた。 「必ず届けてくれると、他言しないと確約して頂けなければ言えません」 「お約束します」 「ジムゾン!」 さすがに溜まりかねた様子でディーターが叫んだ。 「何でもかんでも気安く請け負うな!隠してるあたりからして危ない橋なのは明らかじゃねえか。第一、そこまでしてやる義理があるか」 「だって、もし、戦局に関わる一大事だったら……」 「新教側の一大事かもしれなくてもか?」 静かに問われてジムゾンはぐっと言葉に詰まった。旧教の司祭で、幼い頃から旧教の環境で育ってきた身だ。旧教側に対する贔屓が無いと言えば嘘になる。 「どちらにとっても大切な事です」 ジムゾンの代わりにクララが答えた。諦観にも思える笑みを浮かべて。 「主――ライナー様は新教との融和派です。詳細は申し上げられませんが、私がウィーンを追われた本当の理由は、大変な事を知ってしまったからです。ライナー様に敵対する者が企んでいる、恐ろしい計画を」 クララは懐を探って、一通の書簡を取り出した。書簡を差し出すその表情は、これまでにない焦燥に満ちていた。 「人狼云々とは無関係である事はお約束します。ですからどうか、ウィーンのライナー様に、この書簡を届けて頂きたいのです」 「伝令の方が早いぞ」 ディーターのそっけない助言にクララは首を横に振った。 「あからさまに届けられては困るのです。一言も告げずに出てきたものですから、私の失踪は少なくともライナー様のお屋敷中で知られている筈です。そこへ私からの書簡が届けられれば、すぐに広まってしまう事でしょう。書簡の存在が、そしてそれをライナー様がご覧になったと言う事が彼らの知る所となってしまったなら、ライナー様のお命すら危うくなってしまいます」 「あまり早くなくても、良いのであれば」 ジムゾンはディーターとクララを交互に見て、言い難そうに呟いた。 「構いません。彼らは私に知られた事で、当初の計画を断念しているかと思います。そう早々と動きは無いかと。そうですね、完全に私からの連絡で事が露見する心配が無いと彼らが感じるまで。冬になるまでに届けて頂ければ」 クララはそう言って笑い、ジムゾンとディーターは思わず顔を見合わせた。冬になるまであと数ヶ月ある。重大な内容だと言う割に、随分と悠長なものだ。しかしクララの見立てもあながち馬鹿にした物でも無いだろう。何が計画されているのかは知らないが、事が露見してしまえば全てが水泡に帰してしまうのだ。事が重大であればあるほど、クララの言う“彼ら”も慎重に動くだろう。 その後、クララは修道女に連れられて女子修道院へ戻った。 「クララさん、治らないんでしょうか」 ジムゾンは独り言のように呟いて、女子修道院の方を見つめた。ディーターは何も答えず、ヨハネスは穏やかに笑った。人狼が占い師の心配をするなど、本当なら笑い話もいい所だ。しかしヨハネスの笑みは嘲りのそれとは違っていた。 「まだなんとか、治る範囲でしょう」 何気ないヨハネスの言葉にジムゾンは驚いた。 「彼女も薄々感づいていたようですが、破傷風です。完全に治癒するかどうかと言われればちと微妙な、五分五分と言った所ですが。治す手立てはあります」 「破傷風が治るのですか」 ジムゾンはまじまじとヨハネスの顔を見つめた。マリアラーハに収容されていた怪我人の中には破傷風にかかった者も居た。ほんの一人二人を除いて殆どが助からず、ジムゾンにしてみれば破傷風は死に直結する物という認識しか無かった。 「通常通りの治療を施し、“治さない”方法もあります」 ヨハネスは相変わらず笑顔のままでさらりと言った。それが人狼として取るべき選択肢であるが、ジムゾンは首を縦には振らなかった。ヨハネスにも、勿論ディーターにも予想できていた答えだった。 「一人二人人間を助けた所で、今まで殺してきた罪も、これから先あなたが生きていくために殺さなければならない罪も、贖えはしませんよ」 ヨハネスにしては珍しく辛辣な言葉だった。 「罪の贖いのために、そうしているわけではありませんから」 ジムゾンの返答は早かった。 「私が贖いを行うなどおこがましい事です。私は主の愛に従っただけで、そこに理由などありません」 何の迷いも無く、ジムゾンは言った。ヨハネスは嬉しそうに一度だけ頷いた。 →湖畔の盟約・第三章へ |