【渇ける謀略】

窓の外を景色が駆け抜けてゆく。陽光を受けて煌く緑の林を疾走する馬車の中。ジムゾンは何時も以上に眉根を寄せて溜息をついた。
「ごめんなさい。私が要らぬ事をしたばかりに…。」
「あの場じゃ仕方なかった。」
向かいに座るディーターは笑って頭の後ろで組んでいた手を放した。窓から少し顔を出して前方を見ると、遠くに石造りの建物の影が見えた。目的地までもうすぐのようだ。

嵐の去った翌日に森を出た二人は今までどおりに南下を続けた。ところがルドルフの予言が的中し、傭兵団と鉢合わせになってしまった。皇帝軍に招集された者達のようだったが、もはや皇帝軍にも紀律は無いに等しい。先に立ち寄った町を襲うべくしていたところに丸腰ののんきな旅人に出くわしたとあれば、どうするかは言うまでも無い。その上純正の銀でできたロザリオをぶら下げていた日には奪ってくれと言わぬばかり。
あわや、という所でジムゾンは隠し持っていた短剣を取り出した。戦う為ではない。家を出る時持たされた短剣の柄には家の紋章が施されてあった。何かの時の身の証となるように、と。家の権威に頼りたくは無かったが、ロザリオを奪われる事と運が悪ければ命を奪われる事とを天秤にかけたらそうするより他に無かった。
如何に統率の取れない傭兵とはいえ、雇い主と関係のある陣営の者に手を出せば報酬に響く事くらいは知っている。お陰で二人は難なくその場を切り抜ける事に成功した。

問題はその後だった。
数日後、突如として貴族の使いと思しき者らと馬車が二人の前に現れた。あの後傭兵らから話を聞いた部隊指揮官からとうとう実家にまで伝わってしまったらしい。二十数年前に手放してしまった息子が近くに居ると聞いて矢も盾もたまらなかったのだろう。ジムゾンの父であるルーデンドルフ伯オスヴァルトは早急に探し出せとの命を出し、見つかってしまった…というのが事の顛末であった。


城は三方を林に囲まれた湖畔にあった。馬車から降りて中へと通される。ジムゾンは懐かしさに思わずほっとしてしまう。何も変わらない古めかしい城内。と、同時に思い出したくない者の存在が心を掠めた。できれば会わずにすませたい。そう思いつつやがて父の部屋へと辿り着いた。
「お父様。」
扉を閉めてジムゾンが声をかける。その表情は久々の再会への喜びではなく複雑な悲しみに満ちていた。先に使いの者から聞いていたとおりオスヴァルトは寝台に横たわっていた。なんでもここ数年体調が芳しくなく近頃は立って歩くのも辛い状態だと言うのだ。
威厳に満ちていたかつての父とはかけ離れた姿。老いは予想できていた事だったが病から来る弱弱しさは想像以上の物だった。オスヴァルトは声に気付いて視線を巡らせる。そのうちに待ち望んでいた者の姿をとらえて目を見開いた。
「アンナ。」
驚愕の眼差しで呟いたのは遠い昔に失った妻の名だった。次第に混乱は解けて目の前の聖服をまとう人物が何であるかを漸く認識する。
「いや…ジムゾン。ジムゾンか?!」
オスヴァルトは思わず勢い良く身を起こして痛みに顔をしかめ、ジムゾンは慌ててそれを支える。気遣いを遠慮して使いの者に下がって貰っていたのだが、こう驚かせるなら先に報告して貰うのだったと今更ながら後悔した。

「いよいよお迎えが来たのかと思ったぞ。」
驚愕と歓喜の再会の後、オスヴァルトは枕に背をもたせて苦笑した。
「巡礼の旅の途中だと聞いたが。」
言葉を切ってオスヴァルトは二人を眺める。どうしても視線はこの場にそぐわぬディーターへと向かうようだ。
「この時世に剣すらも持たず?」
「折れてしまったのです。新調するような余裕もありませんから…。」
ジムゾンは内心慌てながら取り繕った。
「そうか。では後で一振り持って行かせよう。…暫くは滞在できるだろう?」
哀願するような父の目を前にジムゾンは口ごもる。
「お前にも都合はあるだろうが、せめて一晩だけでも休んでおいき。ここは安全だ。」
察したようなオスヴァルトの様子を見てジムゾンは申し訳なさそうに頷いた。
これも使いの者から聞いていた事だったが、ケルン大司教領やその近隣諸国は戦に参加していないのだそうだ。新教と旧教の対立の構図は国内を扇動する表向きの物にすぎないと知ったケルン大司教は今現在も諸侯に対して休戦を説いているのだという。争うのは、諸外国を喜ばせるだけの事なのだと。
ケルン大司教は母の従兄弟にあたる。母は既に他界したとて縁のある間柄。ゆえにこの土地の安全は確実に保証されている。

退室すると待っていた召使が客室へと案内した。ジムゾンは自分の部屋へ向かおうとしたが子供の頃の調度品がそのままにされていた為、ディーターと同じように客室で休む事にした。
すっかり安心したジムゾンはディーターを部屋に残して庭を散策しに出かけた。昔は薔薇が沢山植わっていた記憶があったが、見慣れない赤い福寿草が目に付いた。
「“神父ジムゾン”か。とんだお笑いだな。」
思い出したくも無かった声がしてジムゾンは弾かれたように振り返った。後ろに佇んでいたのは堂々たる体躯の男。オスヴァルトに良く似た顔に忌々しげな表情を浮かべてジムゾンを見つめている。
「お前のような背教者が。」
その言葉にジムゾンは頬を引きつらせる。
「そうしたのはあなたです。ベルンハルト。」
人間として生を受けた実兄に向けてジムゾンは臆する事無く反論する。幼い頃のジムゾンであれば言い返す事もできずに泣いていたに違いない。無論、それを予想していたベルンハルトはジムゾンの意外な反応に驚きを隠せない。

「あのような薄汚いならず者に護衛を任せるとは。しかもその護衛は丸腰と来ている。落ちぶれる所まで落ちたものだ。」
「彼は私の大切な友人です。無礼な言い方は止めてください。」
挑発するようなベルンハルトの言葉にジムゾンは不快げに顔をしかめた。
「ご用が無いのなら失礼します。」
踵を返したジムゾンの腕が掴まれる。
「何が目的だ。」
「目的などありません。巡礼の途中で勝手に連れて来られただけの事。」
ジムゾンの反論にベルンハルトは鼻で笑う。
「傭兵団にわざわざ紋章を見せて“呼び出された”などと言ったそうだが。」
「それ以外に方法が無かったのです。」
「坊主になっただけあって言い逃れが上手くなったな。」
顎を掴まれてジムゾンは力いっぱいにベルンハルトの手を振り払った。
「何が仰りたいのか解りかねます。」
「当主の座はお前には渡さん!」

ベルンハルトからの予期せぬ答えにジムゾンは唖然とした。
「何ができるわけでも無い、その上僧籍に入ったお前に。」
怒りを露にしてベルンハルトはジムゾンを指差す。
「家督を継がせるとまで言ったのだ!父は!」
ジムゾンは漸く我に返って口を開いた。
「冗談で仰ったのでしょう。」
「冗談なものか。その証拠に未だにお前の部屋はそのままにしてある。」
「それはお母様の部屋も同じでしょう。」
「孫にあたる私の息子にさえ会わぬ父がお前には会った。」
ジムゾンが反論しようとしたその時、召使が夕食の時間だと知らせにやってきた。誤解なのだと理解してもらえなかったのは残念だったが、恐らくこれ以上何を言っても今は聞いてもらえまい。ジムゾンはベルンハルトに背を向けて庭を後にした。

ジムゾンの顔を見て少し気分が良くなった、と会食にはオスヴァルトも同席した。ディーターが作法を知らないのでは無いかと一瞬ヒヤリとしたジムゾンだったが傭兵時代に何度か経験があると言う事でその心配は無用に思えた。
ところが全員が席についた時に事件は起こった。ディーターが手を滑らせてスプーンを放ってしまい、しかもそれが運悪くオスヴァルトのスプーンに命中して何れも床に落ちてしまった。
「下賎の身ゆえ緊張で手が滑りました。申し訳無い。」
そういうディーターの顔には全く焦りが見られない。ベルンハルトの妻と成人したばかりの息子はあからさまに嫌そうな顔をしたが何も言おうとはしなかった。こういう時こそ真っ先に詰りそうなベルンハルトはただディーターを睨むだけで、当のオスヴァルトは特に気にもしなかった。ジムゾン一人がヒヤヒヤする中で二人のもとへ新しいスプーンが運ばれて食事は再開された。

『さすがはバイエルン公の親戚。贅沢なもんだな。』
表向きには肉食を禁じられているジムゾンに、鱒のクリーム煮を切り分けてやりながらディーターがのんきな事を囁く。食卓に所狭しと並べられているのは全て銀製の食器に盛られた料理。鴨や鹿肉のローストに鶉のパイ。パンは無論すべてが小麦のみで作られた白パンで、飲み物もビールではなくライン産の白ぶどう酒だ。甘味では林檎などの果実類に加えて南方の珍しい菓子マカロンまである。
『それはそうですが…もう少し落ち着いて下さいね。』
ジムゾンは心中溜息をつきつつディーターから皿を受け取る。それでなくてもベルンハルトはいい感情を持っていないというのに。先程の一件に何も言及しなかったのは奇蹟に等しい。
『あれはわざとだ。』
『わざと?』
『スプーンに毒が塗ってあった。』
何気ないディーターの囁きにジムゾンは思わずパンを口に運ぶ手を止めた。
『いい加減表に感情を出す癖は直せ。』
ディーターは平然とした様子で器用に指を使い鴨肉を黙々と口に押し込んでいる。
『ど…毒って…。』
『匂わなかったか。』
人間の五感では食器に塗られた毒の匂いなどわからない。だが人狼の五感であれば可能な事。ただしそれは毒がどういった匂いをしているかを知って初めて解る事であって、注意していたとしてもジムゾンには解らなかっただろう。
『どうしてあなたを?…まさか、ベルンハルトが…。』
『そうだな。多分犯人はお前の兄上なんだろうが。』
ディーターは一旦言葉を切った。
『毒を塗られていたのは俺じゃない。伯爵殿だ。』

『嘘でしょう。』
『残念ながら。』
ジムゾンの微かな希望は一瞬で否定されてしまう。
『体調が芳しくないのは自然とかかった病の所為じゃない。恐らく、ごく微量に毒を盛られ続けたからだろう。あの種類の毒は量さえ調節すれば病に見せかけて殺す事も容易い。…だが今日スプーンに塗られてあったのは致死量だった。』
淡々としたディーターの説明を聞きながら、ジムゾンは何時の間にか大粒の涙をこぼしていた。
「どうしたジムゾン。…まさか泣くほどひもじい目を見てきたのか。」
それに気付いたオスヴァルトは吃驚してジムゾンに問う。
「いえ…食事は足りていましたが…白パンを食べたのは久しぶりだったので、つい。」
頬を真っ赤に染め、ジムゾンは恥ずかしそうに呟いた。
『伯爵殿のいい質問に感謝しろよ。』
とディーターは苦笑まじりに囁く。そんな中でベルンハルトの家族は同情に満ちた目でジムゾンを眺め、オスヴァルトは白パンを銀の皿に乗せられるだけ乗せてジムゾンへ勧めるのだった。


一日の営みがこの上なく快適に終り、二人はそれぞれの客室へ引き上げていた。ディーターは開け放した窓枠に座って涼やかな風と月の光を浴びる。真下には赤い花のみが寂しげに咲く庭が広がり、その先の湖は青白い月の光を反射して輝いていた。
『お前らが口論しているのを上から見ていた。ベルンハルトは随分と当主の座に執着しているようだな。』
ディーターが囁くと少し言い難そうにジムゾンからの返事が返ってきた。
『…それが兄の全てだったのでしょう。私は好き勝手に出て行ってしまいましたが、ベルンハルトはこの家に留まらねばならなかった。父に当主として認められる事だけが、何時しか生きがいになっていたのでは無いでしょうか…。』
『ところがその手段が何時の間にか目的に変わってしまっていた。か。』
空を仰ぐと西の空に浮かぶ三日月が目に入った。鋭い光を放つ三日月を見てディーターはふとニコラスを思い出した。ニコラスはよく空を、特に月を見上げていた。何かの答えを求めるかのように。
目を凝らして月を見つめたが月以外に何が見えるわけでも無く、何が聞こえるわけでも無かった。現世と神秘との間にあったニコラスであれば何か聞こえたのだろうか。しかしあろうが無かろうが自分には必要の無い物だ。そう思ってディーターは顔を戻した。
『ガキの頃は自分の身分が不幸の元凶だと思い込んでいたが、階級があれば幸せだとも限らないもんだな。』
ディーターは独り言のように囁いて窓枠から降りた。

今回のようなお家騒動、はたまた個人間の愛憎や利権問題。近しい者から命を狙われるという事はよくある話だった。戦場にあっても眼前の敵よりも背後の敵の方が油断しているだけに数倍の脅威。毒殺など地味な方法では無く、戦死に見せかけて後ろから刺される。などという話も日常茶飯事だった。
この世の害悪をジムゾンは知らな過ぎる。とてもでは無いが領主の器ではない。その事をジムゾンの父・オスヴァルトも知っている筈だ。にも拘らず家督を継がせるなどと言ったのだとすればそれは本心ではなくベルンハルトに対する何らかの叱咤激励のつもりだったに違いない。
窓を閉めて寝台へ腰を下ろすとジムゾンに就寝の挨拶を囁く。しかしジムゾンからの返事は無い。
なんだかんだ言っても久しぶりの実家だ。安心して眠ってしまったのだろうか。それとも兄が父を毒殺しようとしていたという事実を嘆いているのだろうか。何にしても、今はそっとしておいた方が良いだろう。
『おやすみ。』
もう一度だけ囁き、ディーターもまた眠りについた。


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