【あなたと居る幸せ】

未だ嵐はやむ気配を見せない。昨日のうちにジムゾンが拾い集めてきていた木の枝が暖炉にくべられ、時折パチパチと音を立てている。戸棚から渡した大ぶりな枝に濡れた衣服をかけおえるとジムゾンは暖を取っているディーターの横の床に座った。毛布で体をすっぽりと覆い、目の前で燃え盛る火をぼんやりと見つめる。
「さっきは有難うな。」
柄にも無い事をディーターが呟く。ジムゾンが目を向けるとディーターは小さく笑ってジムゾンを見た。嘲笑ではない笑みを見せるのは初めてかもしれない。
「いいえ。」
ジムゾンも微笑んでゆるく首を横に振った。
「それで。何か言いかけていただろう。」
ディーターの問いに、ジムゾンは思わず困惑した表情を浮かべて視線をさまよわせる。雨の音と枝が爆ぜる音だけが小屋の中に響く。時間だけが無意味に流れて行く中、ジムゾンは意を決したように口を開いた。

「帰りたく無いです。」
まるで拗ねた子どものような短い言葉。恐らく言われるであろう“何故”の言葉を待たずにジムゾンは続ける。
「もう少し一緒に旅をしたいです。」
目は真っ直ぐにディーターを見ているが、眉根が寄って声は次第に震えてくる。
「あそこには、帰りたく無いんです。狩りはもうできますがまだ私は自活する方法を知りません。」
慌てて取り繕うかのような言葉にもディーターは表情を変えず体ごとジムゾンに向き直った。
「じゃあ明日からは旅の仕方を教えてやる。指摘する事は幾つも無いが、それでいいんだな?」
ジムゾンはぐっと詰まってしまうが諦めずに言葉を繋ぐ。
「あ、あなたが。私と居ると疲れると。」
「俺の事はどうでもいい。お前が本当に望む事は何だ。」
問い詰められ、ジムゾンはとうとう下唇を噛み締めて俯いてしまう。

唐突に伸べられたディーターの両手がジムゾンの頬を覆う。そのまま顔を上に引き上げられ、ジムゾンは目を逸らせなくなってしまった。
「神様はお前の心を知ってるかもしれないが、口に出すなりしない限り俺には何も解らない。」
ジムゾンは尚も目を逸らせようとするが射抜くようなディーターの目がそれを許さない。
「あなたと。」
眼差しに圧倒されるままに短い言葉が漏れる。小さな切欠を掴んだ心は驚くほど素直に口をついて出た。
「ディーターと、ずっと一緒に居たいです。」
慌てて取り繕う言葉も出なければ、うやむやにしようとする弱さからの涙も出てこなかった。
「これだけ合わない俺とか。」
「合わないですね。本当に。」
返したジムゾンの顔には小さな笑みが浮かんでいた。
「風体が悪くて態度も悪い。教会の金目の物を盗って行くかもしれないとも思っていました。」
「誰だそいつ。」
「あなたの事ですよ。」
とぼけるディーターにジムゾンは意地悪い笑みで返した。二人は笑い、必要の無くなった両頬の手が自然と滑って肩まで落ちる。ジムゾンは更に続けた。
「仲間だと解った後もあなたはぶっきらぼうで冷たくて。助けてくれた後でもそれは変わりませんでした。節操無く女遊びはするし、会議では私の事をしきりに責めて。
およそ私の理想とする友人とははるかにかけ離れた人です。でも、あなたの事が何時の間にか好きになってしまった。だから、ずっと。傍に居たいと思いました。」

一緒に居ても構いませんか。ジムゾンが問おうとした瞬間、両肩に置かれていた手が背中に滑って抱きしめられた。
「ずるいですよ。」
ディーターの肩越しに呟く。ジムゾンもまたディーターの背に手を回し温かい肌に頬を寄せる。
「ずるくない。」
照れ隠しなのだろうか、ディーターはジムゾンの肩に顔を埋めた。
「大体な、俺はどうでもいい奴を助けたりしない。たとえ仲間でも倒れようがのたれ死のうが知った事じゃない。介抱するのに獲物の血を口移しで飲ませたりもしない。」
「えっ。」
「お前こそ。」
ディーターは間髪置かずに言葉をついだ。
「俺の体温ばかり取りやがって。」
苦笑まじりに言われ、ジムゾンは思わず被っていた毛布を取った。
「ごめんなさい。独占してしまって。…。」
腰に布一枚しか巻いていないディーターにかけてやろうとして、漸く自分が素裸である事に気がつく。
「そうじゃない。こういう時は。」
ディーターの手が裸な肩を掴む。力強く引き寄せられるのも、互いの鼓動が直に重なりあうのにもジムゾンは何の抵抗も見せなかった。
「怖いか。」
ジムゾンはかぶりを振って自らディーターに身を寄せた。
怖くは無かった。行為の肯定が教えに反する事も解っていた。それでももっとディーターと触れ合っていたいと思った。今に始まった望みではない。月夜の晩に打ちひしがれたのは嫉妬ゆえだったのだと、ジムゾンは漸く理解していた。
「ジムゾン。」
初めて名を呼ばれジムゾンは目を見開いた。身を横たえられた事も忘れてしまう程の驚き。“あんた”という呼び方に比べれば“お前”でも充分に嬉しかったが矢張り名を呼ばれるのはこの上なく嬉しい。大抵は“神父”で済ませられてしまうからというのもあった。それが少し寂しくて、何時の間にか名を問われると修道名ではなく本名を名乗るようになっていた。
片方の手が伸べられて頬を包まれ、そっと口付けられた。
「愛してる。」
外の嵐は次第に弱まり静かな雨音だけが聞こえるようになった。暖炉にくべられた枝の数本が燃え尽きた。支えを失った枝達が倒れて乾いた音をたてる。静寂の中ではひどく目立つ音だったが、二人の耳にはそんな音すらも聞こえなくなっていた。



俺の記憶の中に家族の姿は無い。物心ついた時からずっと一人だった。
それでも俺が生まれ、そこまで生きてきたという事は親が居て暫くは誰かに育てられていたであろう事は解る。
何時の間にか生活の拠点となっていたのはディトマルシェンという農民による共和国だった。領主や貴族は存在しない農民だけの共同国家。住民の結束が固いがゆえにデンマークとの国境にあっても侵略の憂き目にあった事は無い。
反面余所者には冷淡だった。一見まるで楽園であるかのように思える土地なのだろうが、一目で余所者と解る異質な赤毛をした俺にとっては一時も居たく無い場所でもあった。しかしそこを出てしまえば暫らくは無人の荒野が続く。飢えと渇きをしのぐので精一杯で旅をするにはまだ体も未熟だった俺は国から離れる事もできなかった。
狩りは自分の本能を自覚すると同時に勝手に覚えた。元々冷たく接せられていたので欠片ほどの罪悪感を持つ事も無かった。時々国内で仲間を見かけたが人狼同士という意識よりも集落の集団意識の方が強いらしく、災いを招くなと囁きで追い返される事もあった。それでも運悪く役者が揃い、閉鎖空間の中での戦いが起こる事もあった。

転機が訪れたのは何度目かの血の宴での事だった。そろそろ大人と言ってもいい頃合いに成長した時俺は最初に居た村へ戻り、そこで運悪く役者が揃った。今までのように仲間から散々罵られたが起こったものは仕方が無い。最優先事項は如何にして生き延びるかと言う事。
しかし村人の中には俺に唯一親切にしてくれていた神父が居た。ディーター・ヘルツェンバインという名前も、その神父に貰った物だった。曰く、名が無ければ不便だからと“民の戦士”という俺にとっては反吐が出るような意味の名を、年老いた神父は有難迷惑にも与えてくれた。

ディトマルシェンは教会を中心に存在している。余所者に施しをすればそいつが村八分にされてしまうが、神父という立場であれば誰も文句は言えない。孤児院も運営していた神父は会う度俺に声をかけた。
寒くは無いか。暑くは無いか。ひもじくないか。渇いていないか。遠慮は要らないから皆と一緒に暮らさないか。
当時の俺はそういうお節介が疎ましくて仕方なかった。深く関るのが何故か酷く恐ろしかった。終いには差し伸べられていた手を振り払って自分から村を出た。

勝って、喰わなければいいのだ。なに、正体が爺一人にばれた所で何の問題も無い。そうやって自分を騙し騙し日が過ぎた。ところがあろう事か神父は占い師だった。その上慌ててボロを出して怪しまれた仲間が占われる事になり、襲撃を余儀なくされた。作戦以前に余所者だという理由で平気で俺を売るような仲間の為に。
結果は言うまでも無く勝利に終わった。仲間は二人とも吊られ俺だけが生き延びた。
仲間などどうでも良かった。神父を殺したという事だけが途方も無い衝撃だった。初めて自分の生まれに疑問を持ち存在を呪った。なんの事は無い言葉一つ一つの積み重ねが、向けられた笑顔が、全ての記憶が重く重くのしかかってきた。

思いを振り払うようにして漸く国を出た俺は暫らく当ても無く旅を続けた。当時の俺は魂が抜けたように無気力だった。ただフラフラと生きるでもなく、死ぬでもなく。
そんなある日に立ち寄った酒場で傭兵達に絡まれた。大した事の無い連中だった。金が欲しいばかり、それでいて命が惜しい。満足な戦いもしてこなかったであろう傭兵達はあっけなく床に伸びた。直後に客達からかけられた生まれて初めての賛辞が気恥ずかしくて、逃げるように酒場を後にした。
連中の所属する傭兵団の団長から入団しないかと話を持ちかけられたのは翌日の事だった。俺は二つ返事で承諾してしまっていた。与えられた名の由来がぽつんと頭に浮かんでいた。戦で勝利すれば、あの客達のように喜ぶ者が居る。負ければ死ぬだけの事だ。生きる意味。その答えを探して縋るかのように、俺は戦いの場に身を投じた。
やがて勃発したボヘミアとプファルツの間に起こった戦争に皇帝軍として参戦した。勝利を重ねていく中で俺は生を実感しているというよりは、それを忘れようとしていた。自分が人狼であるという事も。

それから数年後。北部の小さな村が戦場となった時の事だった。その頃は俺も小隊の指揮を取るようになって全身の傷と引き換えにだったが、かなりの戦果を上げる事ができた。戦も勝利に終り、勝利に酔っていた晩。突如として村人が蜂起した。皆一様に瞳を怒りに染め、女子供まで似合わぬ武器を取って。
一人の少女が全身を剣で突き殺された男の死体を指す。食料の徴収に反対したとかで殺された住民の一人なのだろう。あなたたちはなんとも思わないの!と、涙ながらに訴える少女に仲間の傭兵達はへらへらと笑うばかりだった。
俺たちが所属する皇帝軍では目立った略奪や虐殺など聞かない。ゆえに民衆の反乱なども対岸の火事のような感覚しか無かったのだが、報酬によって陣営を変える事も普通にやってきた戦歴の長い者からすれば今回の村人の蜂起など大した問題でもないのだろう。
そんな経験が無かった俺は村人の反応に戸惑ってしまった。戦で勝つ為にする事に何故反対する。大人しく従っていれば殺される事も無かったのだ、と。俺は無感動に死体を見つめたままぽつりと呟いていた。

「犬の餌にもならない。」

ついに怒り狂った村人は一斉に攻撃をしかけてきた。多勢に無勢。その上力の差という物がある。襲ってきた村人が全滅するまで十分もかからなかったかもしれない。
酔いを覚まされたとばかりにつまらなそうな顔をして引き上げる仲間達。人気が無くなったその場で俺はたった今殺したばかりの村人達の肉を喰い始めていた。いや、喰い散らかしていた。食欲は無かったが胃袋に詰め込めるだけ詰めた。そして元の姿に戻ると、一気に吐いた。
滲み出た涙が吐き気の齎すものなのかどうか定かでは無かった。

俺は朝を待たずに必要最低限の荷物だけを持って兵団を離れた。
それから数年、行く当ても無く各地を放浪し続けた。無気力ではなかったが疲れ果てていた。完全な獣にもなれない。しかし人間でもない。ならばどう生きよと言うのだろうか。
人狼同士で家庭を持っている者も見た。事実俺にもそういった機会も幾度かあった。そういうものが幸せなのだろうか。だがどうもそれだけが幸せでは無いような気がした。どう生きるべきかを考えれば考える程、生きる事が辛くなる。
もう何も考えない事にした。考えてみれば俺には守るべき物が無いかわりに失う物も無いのだ。怖れる事も悩む事も無い。ならば行ける所まで行ってみるしか無いのだろう。

そしてあの吹雪の日にジムゾンと出会った。まるで合わないと俺は言ったが、その実俺の心の奥底部分が具現化したような奴だと思えて仕方が無かった。
人間として美しく清貧を貫いて死ぬ。とてもじゃないが黙って見過ごす事は出来なかった。今まで人を殺めておいて何も無かったかのように勝手に綺麗に死ぬ。最初はそんな偽善への単なる反発心だったと思う。

ジムゾンはよく泣いた。馬鹿みたいに泣いてばかりだった。自分から何かしようとは決してせずに、ただ自分を責めて嘆いていた。正直見ていて苛々した。そのうちに身を汚され続けてきた事を知って同情心を抱いた。最初は素直にそう思った。ところがトーマスに襲われているのを見た時に同情が怒りに変わった。
何故抵抗しないのかと思った。命を脅かされてまで何故好きにさせるのか。何より、そんなに簡単に妥協を選んで欲しく無かった。そこでジムゾンに挫けられたら、俺までもがどうにかなってしまいそうだった。

思えばその時に何時の間にか抱いていた感情が溢れ出したのかもしれない。
なんと表現していいのかは解らない。強いて言うのなら、折角差し伸べている手を放して欲しく無かった。
共に生きようとして欲しかった。それだけだった。


隣で眠っているジムゾンの頬を指先で軽くなぞる。最中に流していた涙も拭いて跡形も無い。俺は確かめるようにジムゾンの体を抱いた。首筋に顔を埋めて甘い香りを一杯に吸い込む。
もう背を向けて眠る事も無い。これからはちゃんと向き合っていられる。それだけの事がとても幸福に思えた。
と、ジムゾンが小さな声をあげた。手を放すとジムゾンは二三度ゆっくりと瞬きし、ぼんやりした瞳のまま俺を見て笑った。
「なんだ。」
意味深に笑うのを問うとジムゾンは再び笑った。
「ディーター、私ね。」
そこまで言うと耳元に唇を寄せる。

「今とても、しあわせです。」


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