【福音への階段】

朝一番に無惨な遺体を見てしまったレジーナは、何より先にまだ眠っているペーターを抱えて部屋を出た。ペーターを抱えたまま廊下にへたり込み、床を見て初めて太陽が顔を覗かせている事に気がついた。美しく透き通る冬の朝日がこんなにも残酷に思えた事は無かった。

一時課きっかりに村人は宿屋へ集った。幼い死は人々の恐怖を煽る一方で、生きようとする意志を更に強くしていた。ヨアヒムが席につくと同時にニコラスが立ち上がった。
「私が占い師です。」
村人達の目が一斉に集まる。ヨアヒムは全員を見回すが、他に名乗り出る者は誰も居なかった。
「ニコラス、占いなんてできたのか。全然気付かなかったな。」
アルビンは驚いたようにニコラスを見上げた。
「隠してたんですよ。当然の事ですが私の占いは旅芸人達のする占いとは少し違って、あまり公に知られて良い物ではありませんので。」
そこまで言ってニコラスはちらりとヨアヒムを見る。そして荷物の中から片手におさまる大きさの水晶玉を取り出し、テーブルの上に布を敷いて置いた。水晶玉は青い光を仄かに発し、中心部では幾つもの星が瞬いている。村人達はどよめき、誰もがその美しさに目を奪われた。
「綺麗…。」
ニコラスの隣に座っていたパメラは思わず身を乗り出す。
「カタリナさんは人間です。星の煌きが何よりの証。」

「…霊能者からの報告は無いようだね。やはりヤコブは人間だったと言う事か。」
ふう、とため息一つついてヨアヒムが呟く。
「それでもカタリナが人間だと解ったのは収穫だ。正直な所、人狼が見つけられなくて残念でもあるけど。」
「まだ人間だと決まったわけでは無いぞ。」
力無く笑ったヨアヒムに鋭い一言を投げたのはモーリッツだった。ヨアヒムは顔を上げ、視線で話の続きを促した。
「占い師が一人というのは不自然だとは思わんか。しかも今日襲撃されたのは人狼なのか人なのかも解らなかったリーザじゃ。何故人狼はリーザを襲撃したのか?リーザが占い師だと思ったからじゃろうて。」
「何、ちょっと。それってリーザが本物の占い師でニコラスが偽者だって事?」
未だ水晶に目を奪われながら、混乱した様子でパメラが言う。
「恐らくそうじゃろうな。リーザは昨日占いの事によう突っ込んどったからの。」
「でもそれってニコラスも同じじゃない?それにカタリナに言及って言うのなら皆だってそうよ!」

「違うなパメラ。モーリッツは身の振り方の事に関して言っている。」
ヴァルターは落ち着いた口調で娘を制した。テーブルに肘をついて目の前で両手を組み一呼吸置いてからモーリッツを見る。
「しかし、それにしてもあからさま過ぎはしないかね。仮にリーザが占い師だったとしよう。幾ら幼くとも自らの力に自覚はあるはず。それを隠す事が大事だとも解っている筈だ。なのにあのようなあからさまな態度を取るのはおかしいと思うのだよ。私には単にリーザが幼い好奇心から色々聞いていたのだと思えた。」
「では何故リーザが襲撃されたと思う。」
「それは解らない。だが例えばこういう事も考えられる。人狼が占い師を騙るつもりが無く、態度があからさまだったリーザを占い師だと思わせて占い師の信憑性を無くす事が狙い。だと言う事がね。」
「わしが人狼だとでも言いたいのか!」
思わぬ言葉を受けてモーリッツは激昂する。
「そんな事は言っていない。私は可能性を指摘したまでだ。」
暫しの間、部屋を沈黙が支配する。ヴァルターは怒りに我を忘れているモーリッツを憐れむように見つめた。
「少し休んで落ち着くといい。モーリッツ。あなたの知識は、あなたが何であれ我々にとって有意義な物。それを一時の感情や思い込みだけでふいにするのは惜しい事だ。」

その後ヨアヒムの都合という理由で一時散会し、自由議論。各自希望は議事録へ記入し、終課に決定が下される事となった。とはいえ村で文字を解し、書く事のできる人間は大学出のヴァルターとヨアヒム。文官だったモーリッツ。マイスターであるオットー。占い師のニコラス。そして教師にもなり得る神父ジムゾンの6人。よって、文字を書けない者は書ける者へ依頼しての希望記入であった。
正午の鐘が鳴り響く頃、レジーナは何時ものように昼食の支度をはじめた。テーブルを拭きあげて食器を並べる。宿客のみに留まらず、非常事態だと言う事で村人全員分を用意した。13人分。一見すればまるで何かの祝い事のようだ。異端審問だの処刑だの…本来ならば楽しい祭りの筈だ。
レジーナは娘時代に大きな町で何度か処刑を見た事があった。臨時の市場が開かれて、血なまぐさい行事だと言うのに楽しかったのを覚えている。魔女の嫌疑をかけられた女が断頭台に押さえ付けられて凄まじい形相で泣き叫ぶのを、その首が刎ねられるさまも笑いながら見つめていた。
それなのにこの恐ろしさは何だろう。明日にも自分が喰われて死ぬかもしれない。人狼だと嫌疑をかけられて首を吊られるかもしれない。親しい者達の中に人狼という得体の知れない魔物が潜んでいるという恐怖。また、我が身を守る為とはいえ気心知れた人々を断罪してゆかねばならない罪深さ。そんな現実から逃げようとするかのように食事の支度をしながら、レジーナはこれは祭りなのだと自分に言い聞かせていた。

「よくそんな気になれるね。」
隅で椅子に腰掛けていたアルビンが独り言のように呟いた。宿に残っていたニコラス、カタリナ、オットー達は一斉にアルビンを見る。とうのレジーナはアルビンを一瞥しただけで黙々と支度を続けた。
「そんな言い方無いでしょう。」
編み物の手を休め、カタリナはアルビンをたしなめる。
「人間だって言われて安心してるあんたには僕の気持ちなんて解らないさ。」
アルビンは半ば嘲笑にも似た笑みを溢し皮肉交じりに言った。徐々に険悪になりつつある空気の中レジーナは大人数用のスープ鍋をどん、とテーブルに置いた。
「生きてれば腹が減るよ。腹が減ればゆとりが無くなる。そうならないためにも、さあ食べた食べた。」
そう言いながらレジーナは鍋の蓋を取り、スープ皿によそい始めた。温められたレバースープの匂いがふわりと漂い、誰かの腹が小さく音を立てた。
「ありがとう、女将さん。頂きます。」
ニコラスはにっこり笑い、書物をあさるのを中断して席についた。
「そうだね…僕も貰おう。」
恥ずかしそうに笑いながらオットーが席につき、カタリナもそれに続くがアルビンは動こうとしなかった。
「アルビン。」
ニコラスが呼びかけるとアルビンはチラとニコラスを見ただけですぐに視線を戻した。もう誰も信じたくない。アルビンの背中はそう語っているかのようだった。

その夜下された決定に宿は混乱の極地に陥った。
「何故じゃ!何故わしが処刑されねばならん!」
怒り心頭に達したモーリッツは吼え、村人達も大半は戸惑いを隠せないでいた。
「わしへの票を入れたのはパメラとヴァルターだけじゃ!過半数以上の票が寡黙なアルビンに集まり、2票という票数ではオットーも同じ!なのに何故わしが!」
「そうだぞヨアヒム。爺さんはお前に反発していたかもしれないが爺さんの言う事は確実な間違いでも無い。それに爺さんはよく喋る。昨日カタリナに茶々を入れただけで黙っているアルビンの方がよほど怪しくは無いか。」
「ヨアヒムさん。今日の決定ばかりは私、従えません。」
トーマスとカタリナが口々に異議を申し立て
「よく喋って皆を煽動してるかもしれないじゃない。大体、たった一人の占い師だっていうニコラスが偽者だなんて馬鹿げてるわ!」
「そうだな。昨日は俺に“二人以上でない事を願う”と言っていたのに今日になって急にああ言い出すってのは腑に落ちない。…だがヨアヒム。何も処刑する事は無いんじゃないか?」
パメラはヨアヒムに代わってトーマスらに食って掛かり、ディーターは慎重な見解を見せる。意見はほぼ二つに割れ、議論は何時まで経っても平行線のままだった。

「問題はモーリッツの票にある。」
よくとおるヨアヒムの声に場のざわめきが急速に失せる。
「モーリッツの今日の処刑希望は、ニコラスだった。…ニコラスは占い師だ。如何な自論があろうとも、今日処刑する事は理にかなわない。」
ヨアヒムは議事録の希望欄を指しながら言う。議事録には確かにモーリッツの筆跡でニコラスの名前が刻まれていた。ヨアヒムは皆が再び口を開くより先に議事録をわざと音を立てて閉じ、立ち上がった。
「いいかい。モーリッツは人狼の伝説を実によく知っている。可能性や、対処の仕方も。例えば何も知らない人間が、疑っているニコラスの名前を挙げるのなら意味も解る。それしか思い浮ばないからね。
だけどモーリッツは当然占い師の重要性は十分承知のはずだ。それなのに自分の意見だけを通そうとして、真の占い師である確率の方が遥かに高いニコラスをいきなり処刑希望にするのはどう考えてもおかしい。」
「そんな…!たったそれだけで!」
もう言い返す気力も無い、と言った風のモーリッツに代わってカタリナが訴えかける。
「ちょっと横暴だよ、ヨアヒム。」
オットーも困惑した表情を浮かべて言う。
「じゃあ君が代わりになるかい。」
ヨアヒムの一言はオットーのみならず村人達を沈黙させるに十分な物だった。

「人狼はこの中に恐らく3匹は居る。アルビンへの集中は組織票と言う事も十分考えられるんだ。今日のアルビンは明らかにおかしかった。それゆえ票も集まった。若しかしたら人狼かもしれない。だけどアルビンが人間で、若しそれが人狼による票操作だったら?
僕が人狼の災禍に巻き込まれたのはこの村が初めてじゃない。明らかに挙動不審な者が居て、票が集中した場合結局はその人物が処刑される流れになる。それを見越して人狼は仲間を売ったりもする。二番目に票を集めた者が案外人狼だったりした物だ。
その中で僕は前述の理由でモーリッツに目をつけた。それだけの事だよ。」
ヨアヒムはテーブルに手をついて全体を見た。
「けれどこれじゃただの独裁。よって念の為今日ニコラスにはアルビンを占って欲しい。」
「わかりました。」
ニコラスはヨアヒムを見て一度だけ頷いた。
「ではこれで今日は解散。また明日同じ時刻に集まってくれ。」
淡々としたヨアヒムの宣言を受けて村人達はどこか釈然としない様子で席を立ち始めた。


「わしは人狼なんぞではない。神に誓って。」
モーリッツは告解の代わりにそう呟いた。村はずれに作られた急ごしらえの処刑場。今日はトーマスの代わりにディーターを加えての処刑立会いとなった。トーマスは意見が聞き入れられなかった事に腹を立てたのか、会議が終わると同時に憤然とした様子で帰ってしまった。そこで万一暴れた時の為にディーターに声がかかったのだがモーリッツはヤコブと同じに抵抗する風も無かった。
「だがもう何と言っても聞き入れてはもらえまい。明日は霊能者の告白もある事じゃ。どうせ老い先短い命。村の勝利の指針にでもなれば本望…願わくば福音への礎とならん事を、じゃ。のう神父。」
急に同意を求められてジムゾンは驚いて顔を上げた。
「え、ええ。」
しかし曖昧に返事をしてすぐに目を逸らし、うつむいてしまう。
『馬鹿。目を逸らすな!』
刹那にディーターからの叱責の囁きが聞こえた。
「死に行く者を見るのは辛いかね。」
モーリッツの呼びかけにジムゾンは恐る恐る視線を合わせた。
「神父とはいえまだ若い。無理も無い事。」
そう言ってモーリッツは僅かに笑みを溢した。
「わしも若い頃は自分が死ぬ事なぞ考えてもみんかったわい。騎士団に属していたとはいえ文官だったしの。だが実際に戦場に赴いてから考えは変わったのう。
そこそこ恵まれた家に生まれ、日々を漫然と送っていた頃には想像もできんかった悲惨なありさま。
死ぬんじゃよ。暮らしに困っているわけでもない。病に冒されたわけでもない。まして老いているわけでもない。何でも無い人間が、剣の一突きであっけなく死んでしまう。
命からがら帰還した後の人生はそれまでの人生とは比べ物にならんくらい充実した物じゃったよ。意識してそうしたのではない。自然とそうなってしもうた。…人狼の噂を耳にし、研究を始めたのもそれからじゃ。」

昔を懐かしんで目を細め、ふとモーリッツは再びジムゾンを見た。
「しかしお前さんは院に入って何も変わらなかったか。」
「…え?」
「辺境領主の家とはいえラインの華と謳われた母君の家柄から十分に高位聖職者への道は開かれておった筈。どんな事情があったか知らんが、それを振り切ってわざわざ戒律も厳しいベネディクト派の修道院に入ったのじゃろう。ただの修道士として。死に行く病人も看取ってきたろう。それでも、わしの目を見るのが怖いかね。」
モーリッツに問われてジムゾンは混乱していた。返事の一つすらできず、目をあわせる事も当然できなかった。
「何故それを…。」
ようやく呟いた言葉に、モーリッツは笑う。
「わしはケルン大司教に仕えとったからな。勢力内の各領主の家族構成や内情くらい知っておるわい。
…そういえば母君は早くに亡くなったそうじゃな。もしやそれが蟠りとなったか?」
モーリッツの言葉にジムゾンはびくっと身を震わせた。と同時にヨアヒムが時間が来た事を告げた。モーリッツはそれ以上追求はせず、おとなしく台の前に進んだ。
「“死を思え”じゃ。」
それがモーリッツの最後の言葉となった。


ディーターとともに教会へ帰る道すがらジムゾンは心ここにあらずと言った風だった。ディーターとニコラスは今日の襲撃先の事でなにやら囁きあっていたが、そんな声も耳には入らなかった。たしか今日人間だと判定したカタリナだとか言ったような気がしたが、そんな事すらどうでも良かった。
彼女の夫への哀悼の念や彼女への申し訳なさ。長らくジムゾンを苦しめていた感情の全てが最早どうでも良くなっていた。思い出すたびに昨夜ヤコブの家へ向かう前に見たカタリナとディーターの姿が脳裏を掠めるため、意識的に考えないようにもしていた。その光景が心の泉に波紋を呼ぶ。何故なのかは解らない。けれどそれが繰り返される事で自分がどうにかなってしまうのでは無いかという恐怖心だけがあった。まるで母の死を受け入れようとしなかった時のように。
夜の闇を照らしていた三日月が徐々に雲に覆われ始めていた。ジムゾンはぼんやりと空を見上げながら、明日は再び雪になりそうだと思った。


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