【黒い森の復活祭・第二章】

夕焼けに染まる聖堂前にはまだ修道士達の姿があった。流石にここを強行突破する事はできない。人狼の能力を使えば姿を見られずに侵入もできるが、生憎まだ日が落ちきっていない。囁きと目以外の力を行使できるのは夜が訪れてからだ。
ディーターは仕方なく最初に案内された詰め所へ戻った。奥にある扉から何とか中に入り込めるかもしれない。
詰め所にはかすかに奇妙な臭いが漂っていた。人間の鼻では恐らく感知できないであろう毒の臭いだ。臭いは奥の扉から漂ってきている。ディーターは急いで扉を開けると臭いを辿って修道院内の回廊を只管に走った。やがて階段を上りついた所で一つの部屋に辿り着く。
「ジムゾン!」
応接室のような部屋の中には予想していた嫌な光景があった。ジムゾンはぐったりとソファに倒れテーブルの上には臭いの発生源であろう毒入りの茶が入ったカップが置かれてある。臭いから察するにマンドラゴラの毒だ。死に至る事は無いが眠気と幻覚に襲われる。
声に気付いてジムゾンはぼんやりとディーターを見た。ディーターが傍に駆け寄ろうとした瞬間に黒い影が立ちふさがる。
「匂いを知っていたのね。」
正体は他でも無い、フリーデルだった。大通りで見た時とはまるで別人のように冷たい表情を浮かべている。手には鍔の無い短剣が握られていた。

フリーデルはすぐさま空いた方の手でジムゾンの腕を取り、短剣の切っ先をディーターに向けた。
「罪状は。」
ディーターは単刀直入に問うた。問いを受けてフリーデルはキッと鋭い眼差しを投げる。
「私の婚約者を食い殺したわ。」
「何の事だ。」
「そうね。おぞましい人狼にしてみれば記憶にも残らない食事でしか無い。…でも忘れたとは言わせないわよ。ルドルフ・フォン・ベルガーを殺した事を。」
その名前にジムゾンも驚いて顔を上げた。
「私たちは成人と同時に婚約したの。だけど戦が始まって式が延びてそのうちに彼は何故かディーターという男、つまりあんたを捜す事だけに執念を燃やすようになっていた。彼がずっとあんたを追っていたように、私は彼を追っていた。彼を見失ってタウヌス麓の森で迷っていたら、無惨な遺体が…。」
悲惨な光景を思い出してか、フリーデルは一瞬言葉を詰まらせた。
「半狂乱になった私は街で保護され、半ば幽閉の形で遠く離れたこの修道院に入れられた。でも私は忘れられなかった。彼の事も、その復讐をする事も。遺体の傍に落ちていた布を手がかりにして行く先々で聞いてまわったけど全て徒労に終わったわ。…でも主は私をお見捨てにならなかった!」

『血が血を呼んでしまう…。』
ジムゾンの力無い囁きが聞こえる。
『落ち込んでる場合か。』
ディーターが一歩踏み出すと同時にフリーデルは短剣をジムゾンに向けた。
「近づいたら神父様が先に主の御元へ行く事になるわよ。」
「そいつは何の関係もない。」
「どうかしら。友人と言うには随分と仲がよろしいようだけど。」
フリーデルは何か思いついたように口の端を引き上げて笑った。
「目の前で大事な人を殺されるのは死ぬよりも苦しいわよね。」
刹那ディーターの瞳が冷酷な殺意を剥き出しにする。
「若しやったら原型も解らないくらいバラバラにしてやる。」
状況に不相応な笑い声が部屋に響いた。笑っているのはフリーデルだった。ジムゾンの腕を掴んだまま心底おかしそうに笑っている。狂ってるとしか言いようが無いほど明るい声だった。ひとしきり笑って咽た後に腹の底から搾り出すような声でこう呟いた。
「あんたが私にしたのと同じ事よ。」

大きな鐘の音が聞こえた。人狼の目があるゆえに気付かなかったが日はとっくに沈んでいた。藍色の空に重い鐘の音がゆっくりと消える。終課の鐘は長い間を置いて数度繰り返され、やがて止った。
『ジムゾン、動けるか。』
ジムゾンは相変わらずぐったりしている。
『喉元に喰らいつくくらいなら。』
『上等だ。』
ディーターが動くことはできない。残された手段はジムゾンが反撃に出るほかにない。盛られた毒がルドルフが使ったのと同じ、変化を無力化する物で無かったのは不幸中の幸いだった。
『後は俺がなんとかする。合図したら一気に行け。』
『…信じてますからね。』
『ああ。』
剣の握り方からしてフリーデルは素人だ。攻撃を感知してから反撃に出るまでの反応速度は幾ら激情にかられているとはいえ戦い慣れた者よりは格段に遅い。ある程度手を離していれば十分に勝機はある。
階段を上る足音がかすかに聞こえ、フリーデルは一瞬それに気を取られた。
『今だ!』
囁きと同時にジムゾンが動いた。フリーデルが気付いて目を向けるより早く変化し喉元に喰らいつく。
かと思えた。


響いたのは悲鳴ではなく弾かれたような金属音だった。見えない障壁が牙を阻み、ジムゾンは再びソファへ倒れこんだ。何が起こったのか解らない。驚きを隠せないままそれでもディーターは続けざまにフリーデルに襲いかかる。
「?!」
ジムゾンと全く同じだった。ディーターもまた何かに阻まれて押し戻されてしまう。そして何を思ったかフリーデルは短剣は使わず、袖の中に隠し持っていた針のような物を取り出した。
「避けろ!」
変化を解いてディーターが叫ぶ。ジムゾンは刺される寸前で身をよじるが腕に刺さってしまった。
「あ…!」
焼けるような痛みにジムゾンもまた変化を解いて刺された腕を押さえた。傷は大した事は無いが酷く痛む。変化状態で刺されたので当然服は破れておらず、中から血だけが滲んだ。
「これでよし、と。」
何故かフリーデルはそれ以上攻撃はせず、何時の間に用意したのか荒縄でジムゾンの両腕をきつく縛り上げた。事態が飲み込めないまま改めてジムゾンの姿を見てディーターは愕然とする。
『…ジムゾン。耳。』
『え…?』
耳は元に戻っている。戻っているのだが、頭の上に二つ。白い耳が残されたままになっていた。ジムゾンは見えない頭に目線を上げて試しに耳を動かしてみた。すると、両方の耳がぱたぱたと動いた。
「えっ、えっ。」
ジムゾンが青ざめて自分の体を見回すと耳のみならず尻尾までもが残されたままになっていた。たっぷりした尻尾はズボンを少し下ろして聖服の上着から垂れていた。

「人狼のままでは手が出せない。人間の姿では占い師以外には解らない。これなら、誰の目にもおかしいと解るわ。」
『早くしまいこめ!』
『しまえないんです!』
「無駄よ。」
まるで二人の囁きが聞こえているかのようにフリーデルは涼しい顔で断言する。先程の針のような物を再び取り出し顔の傍に掲げて見せた。
「これはヤドリギに祝福を与えて作り上げた針なの。刺せば人狼はその姿を隠せないようになる。ただし朝になると効果が消えてしまうから実用化はされなかった狩人の武器の一つよ。」
「あなたも…狩人…?」
「いいえ、私は。」
フリーデルは言葉を切って右手の平を開いて見せる。そこには釘で打たれたような傷跡があった。
「選ばれし聖痕の民よ。呪われた人狼風情に私を喰う事などできない。先程の一件で解ったでしょう?」
得意げなフリーデルの声を聞きながらジムゾンは項垂れていた。神に祝福された証を持つ者はきっとジムゾンにとって羨ましい存在に違いない。
『一々落ち込むな。煮ても焼いても食えない人間なんざ俺達にはクソほどの価値もねえ。』
「下品な言い方は止めて頂戴。」
ジムゾンが反応する代わりにフリーデルが不快げに言い放った。
「…さっきから俺の額の布の件といい、まさか囁きが聞こえるのか。」
「ええ聞こえるわ。これのお陰でね。」
フリーデルが取り出したのはジムゾンと同じ不思議な音のする鈴だった。
「これを持つ者は人狼の囁きを聞く事ができる。神父様は折角機会を得たというのに囁けるから気付かなかったのね。」
勝利宣言のような声を聞きながらディーターは考えるのも苦しくなっていた。
ジムゾンはフリーデルに捕えられている。妙な力と自分が人狼であるがゆえにフリーデルを排除する事もできない。ジムゾンはまだマンドラゴラの毒が回っていて縄を解いて逃げる事もできまい。囁きは筒抜けだから示し合わせた上でジムゾンを抱えて逃げ出す事も不可能に近い。
万策尽き果てた。とはまさに今の状況を言うのだろう。

『逃げて下さい、ディーター。あなただけでも。』
『馬鹿言うな!お前と一緒にだ!』
『私よりあなたの方がよく解ってるはずです。最早万策尽き果てたのだと。』
思った事を言い当てられてディーターは返答ができなかった。
「そうね。あんたが大人しく死んで償うというのなら神父様は逃がしてあげてもいいわよ。ルドルフの仇はあんたなんだし。私には人狼が一匹生き延びようが知った事では無いわ。」
「てめえが喰われないからな。」
ディーターはフンと鼻で笑った。
「好きにしろ。その代わりジムゾンを逃がすのが先だ。」
「ディーター!」
ジムゾンの叫びにディーターは目も向けない。
「いい心がけね。そうした所で地獄行きは免れないでしょうけど。ソドムの罪も加算されて、何処まで落ちるか見物だわ。」
「ああ、地獄でもどこでも行ってやる。だが嘆きの川はてめえにこそお似合いだ。」

その時、何の前触れも無く扉が開いた。三人は一斉に扉の方を見る。扉を開けて突っ立っている男はヨハネスだった。人が居るとは思っていなかったようで驚いて目を丸くしている。
「おやおや、お客さんなのかな?」
聊か怪訝そうな顔で笑いながらヨハネスは部屋に入った。
「あら残念。これで神父様も逃げられないわね。」
フリーデルは笑みを浮かべて言い捨てるとヨハネスに顔を向けた。
「ヨハネス様、すぐにでも審問の訴状をお願いします。」
「審問というと、異端審問の事かな?」
「はい。この者は人狼という夜な夜な人を襲っては生き血を啜り、肉を喰らうおぞましい悪魔です。ご覧下さい、この禍々しい姿!」
フリーデルに促されるままにヨハネスはジムゾンに目を向けた。ジムゾンは救いを求めるようにヨハネスを見つめ、白い耳はぺたりと後ろに倒されている。
「可愛いじゃないか。」
ぽかんとした表情でジムゾンを見るヨハネスの一言に全員が拍子抜けしてしまう。
「ブラザー、それは復活祭の仮装ですかな?強いてやるのならうさぎの仮装が宜しかろうと思われるが。」
「仮装なわけありません!ほらっ!」
フリーデルは全く危機感の無いヨハネスの態度に痺れを切らしてジムゾンの白い耳を力いっぱい引っ張った。
「あっ、やめ、やめてください!ちぎれちゃう!」
「乱暴してはいけないよシスター・フリーデル。」
まるで寸劇にしか見えない二人の様子を見かねてヨハネスはジムゾンからフリーデルを引き剥がした。ヨハネスはまだ事態が飲み込めていないようだ。

「でもねえシスター・フリーデル。君は修道女になってまだ日が浅いから知らないのかもしれないが、異端審問というのはあくまでも妙ちきりんな思想を広めて神の権威を貶めるような者を裁くのであって、そんな異形が仮に居るとして裁くとなると農村でよくやってる魔女裁判になってしまうよ。」
「この際何でも構いません!とにかくこの異形の者を、そしてあそこで突っ立っている仲間の男も処刑して貰えればいいんです!」
ヨハネスは困った表情を浮かべて明後日の方向に目を向ける。暫く目を閉じて考え込み、再び目を開けると憐れむようにフリーデルを見た。
「そんな“居もしない者を居ると主張する”という事自体が異端と言っていい事なんだよ、シスター。これでは寧ろ君を審問にかけなければいけない。しかるべき人に君を“聖別”してもらうとかだね。」
聖別。その単語を聞いてフリーデルは一瞬身を震わせた。
「教皇庁にいる私の友人がその担当の審問官でね。聖別は一晩かけて行うそうなんだが、何の行動制限も無くできる事らしいから一度―」
「いいえ。結構です。」
フリーデルはヨハネスの言葉を遮って拒否した。急に顔を強張らせて唇を噛んでいる。
「そうかね…。だけど少なくとも聖別という証拠がなければ、今のような突拍子も無い話をしたら誰でも君を変に思うだろうから、気をつけた方がいい。
働きどおしできっと疲れているんだよ、シスター。今日はゆっくり休みなさい。」
「失礼します。」
まったく事務的な調子で言うとフリーデルは踵を返した。扉を開けた拍子に不協和音を奏でるあの鈴を落としたが、そんな事にも気付かないほどフリーデルは何かに動揺しているようだった。せわしない靴音は廊下の奥へと消えた。あまりにあっけない出来事だった。

「とんだ災難でしたな、ブラザー。私はヨハネス・エルツベルガー。広場前の教会の神父です。」
「ジムゾン・フォン・ルーデンドルフと申します。所属はマリアラーハです。」
ジムゾンはディーターに縄を解いて貰いながら自己紹介をするが、どこか表情がぎこちない。何時仮装ではないとバレるか、それだけが気になって仕方なかったのだ。できればさっさと話を終わらせて逃げ出したい。
『ご心配無く。どうこうしようとは考えておりませんでな。』
囁きはジムゾンでもディーターでも無かった。二人が驚いて見るとヨハネスはにっこり笑った。
『月に狂った人間の一人、というわけです。』


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