【嵐の森】

やけに体が重い。音が聞こえなくなるほどの嵐の所為ではない。長らく豪雨に打たれているが人狼である俺がそれで体調を崩す事なども有り得ない。心当たりはある。先程酒場で出された酒だ。
微かだが妙な味がした。腐っているというわけでもない。毒でも無さそうだが嫌な予感がしたので早々に切り上げてきた。一刻も早く小屋に戻って休息を。時間の経過にしたがって自由が利かなくなる体を引きずるようにして歩き続けた。
「死にたくなければこれ以上ついてくるな。」
俺は立ち止まって言った。と同時に俺をつけてきた気配も止まる。町を出た時からずっとつけてきていた。目深にフードをかぶっている所為で顔までは解らないが、人間の男だ。恐らく酒に何か混ぜたのもこいつなのだろう。狙いが何かは知らないが小屋までつけられては困る。
「死ぬのはお前だ、人狼。」
驚いて振り返ると男の手には抜き身の剣が握られていた。狩人か。しかしそれにしても一対一で挑んで来るとはあまりにも無謀だ。確かに今俺の状態は悪いが、人狼化してしまえばそんなものは関係無い。

「なっ…。」
俺は愕然として思わず声をあげた。変化できない。本能の衝動はあるのに、何か強力な防壁のような物が力の表面化を押し止めてしまう。それを察してか、フードから覗く男の口元が笑みの形に歪む。
「言っただろう。死ぬのはお前だと!」
斬りかかってきた男の剣を俺はなんとかナイフで受け止めた。かかってきた弾みでフードが取れて男の顔が露になる。なんと正体は昨日ジムゾンに近付いてきていたルドルフという旅人だった。
なかなかに力が強い。体が満足に動かず、切り結んだ刃を逆に押し返す事もできない。力を落として空押しさせ、一撃食らわせたいのは山々だが今の状態では直後にこちらがやられてしまうのは目に見えている。無理に攻撃はしかけられない。
「殺すつもりなら何故大人しく毒を盛らない。」
剣を押し止めながらルドルフに問う。大体意味が解らない。
「一般的な毒なら見破ってしまうだろう。それにお前を素直に逝かせるほど私は親切ではない。」
「その口ぶりだと、俺を知っているのか。」
「ああ、よく知っているともディーター・ヘルツェンバイン。北方の小村ルッターの戦いで全身に傷を負いながらも敵傭兵一隊を壊滅させた男。そして谷あいの辺境にある村を滅ぼした人狼。」
言い終わると同時にルドルフがしかけてくる。恐らく、突く。直後剣を引いた瞬間に俺は横へ飛び退きルドルフの剣は空を貫いた。

「その強さから狩人にと期待して教皇庁専属の占い師に直々にお前を占わせた結果は人狼。ならば殺すしかないと出向いた時には既に姿を消した後だった。
私は表向きの職務でブライテンフェルトの戦いに赴いたのち漸くお前の居場所を突き止めた。だが何の因果かあの村には既に純血統の狩人である元傭兵隊長トーマスが居を構え、役者は既に揃ってしまっていた!」
大きく斬り込んできたのをすんでの所でかわす。俺は雨に濡れてずり落ち始めた額の布を毟り取った。
「あの村は私が幼い頃過ごした場所でもあった。そして、弟のように接してきた仲間が居た。」
ルドルフの表情は憎しみに染まり、語る最中もじりじりと間を詰めてくる。
「閉鎖が解かれて村に入ると村は滅び、仲間も…ヨアヒムも喰われてしまっていた…!」
感情が胸を突いたのか、ルドルフが一瞬言葉に詰まる。
「ヨアヒムは私が教皇庁で共有者の育成を行っていた時に素質有りと見出されてやってきた。戦争孤児でニュルンベルクの孤児院で育ったそうだが、よくできる子だった。弱音一つ吐かずただ黙々と神学を学び、孤児でさえなければ大学の教授にもなれそうな程だった。
私も今でこそ貴族だと胸を張って言えるが私生児だったために幼い頃は家から離され隠れるように冷遇されて育ってきた。それだけにヨアヒムは他人のように思えなかった。 あれが潜伏する村にお前が居ると解っていながら、私は何も助けてやる事ができなかった。
何故あの青年が死ななければならなかった。何故悪魔のようなお前がのうのうと生き延びている。私は認めない。神が何故このような仕打ちをされるのか。神が裁かぬのなら私がこの手でお前を裁く!」

裁くとはまた大きく出たものだ。下らないことを考えている間にもルドルフは何度も斬りつけてくる。理由も言い終わった所為かもはや容赦無い。人狼の目を持たないルドルフは豪雨に視界を遮られ、時折ぬかるんだ地面に足を取られている。お陰で動かない俺の体でも何とか防御することは出来た。
「その考えで固まっているのなら仮にお前が居てもヨアヒムは結局救われなかったろう。」
俺が吐き捨てるとルドルフの手が止まり、再び刃を交えて押し合う形となった。
「俺たちに負けたのは気の毒にとしか言えない。だが一つ断っておく。俺たちは殺人鬼でも無ければ悪魔でもない。お前は俺たちに全ての責任をなすりつけてその復讐という名目で自分が安心しようとしているだけだ。」
「悪魔にそのような事を言われる筋合いは無い!」
剣先が顔の脇を掠め、前髪が僅かにそがれた。良く切れる。それにルドルフは力もある。一撃をくらえばそれが致命傷になりかねない。次第に頭までもが重くなり腕も思うように動かなくなる。気力だけでなんとか動かしているようなものだ。
ルドルフの言葉に呼応するかのようにジムゾンの姿が頭を掠めた。鬱陶しくなるほどに自分を責め、泣く事と祈る事以外に漸くできるようになった事と言えば俺に頼る事でしかない。悪魔というには余りにも頼りない存在。
「それはこっちの台詞だ。
生命を脅かす者として単純に憎まれるのならいい。だが神の従僕気取りのお前らに悪魔だと断罪され卑怯だと詰られ憐れなあなたたちと憐憫を振りかざして高みから見下ろされるような筋合いは無い。断じてだ!」

考えるより先に言葉が口を突いて出た。ナイフを持つ指の感覚が無い。感覚は無くともありったけの力をそこに込める。この一振りが弾かれてしまったらもうなす術は無い。
何時の間にか心に今まで感じた事の無い焦燥と意地が生じていた。たとえ死と隣り合わせの戦いであっても寧ろ気分が狂気じみた高揚を見せるだけだったのに、今は生きる事に妙な執着があった。
昨日の様子からするとルドルフはジムゾンが人狼である事に気づいていない。また、俺との関連性も無い。俺がここで死んでもジムゾンに危害を加える事は無いだろう。先に方針は伝え、ニコラスとの約束も一応果たしている。何も心配する事は無い。それなのに俺は何故今更死を厭う。

『ディーター。』
唐突にジムゾンの囁きが聞こえた。不安まじりの声音。
『何処にいるんですか。』
そういえば今日は雨が酷くならないうちに戻ると言っておいたきりだ。囁きが届くという事は近くに居る。とにかくこの周囲から追い払いたかったが、立て続けの攻撃に俺は囁きを返す事もできなかった。



『ディーター、居るなら返事をして下さい。』
囁きながら顔が情けなく歪んでしまうのが自分でも解る。早く戻ると言っていたのに夜半になってもディーターは戻ってこなかった。不安になって小屋を飛び出したが何処に居るのか見当もつかない。町に他に人狼が居ない事も解っていたので酒場や賭場などディーターが行きそうな場所にも行ってみた。それでもディーターの姿は見つからず、豪雨の中をずぶ濡れで彷徨う私は人々の好奇の目に晒されるばかりだった。
そのうちに迷い込んでしまった裏通りで如何にもと言った風の不埒な男どもに目を付けられそうになった為、逃げるようにしてまた森へ戻って来てしまった。
まさかもう置いて行かれてしまったのでは。そんな不安が頭を支配しそうになる。けれどディーターは如何に私を疎ましく感じたとて一旦した約束を破るような人では無い。私は無心に彼を探しつづけた。村に隊商が訪れた夜のように無駄な心配に終わっても構わなかった。いやそれどころか、その方がいいとさえ思えていた。
『ディーター。聞こえているのでしょう。』
水を含んで絡みつく服に足を縺れさせながら歩き続ける。

『気が変わった。お前とはここで別れる。』
漸く聞こえてきた囁きは突然の心変わりの言葉だった。
『今何処に居るのですか。何があったのですか。』
何故なのかを問うよりも先にそんな事を囁いていた。明らかに様子がおかしい。自分が放られるという事実はどうでも良かった。ただ何が起こったのかが不安でならなかった。
『取り込み中だ。いいから早く行け!南西だ!後は立ち寄る集落で話を聞けば解る!』
怒鳴り声の囁きと同時に聞こえてきたのは金属同士がぶつかる音だった。そう遠くない。私は音のした方に向かって走り出していた。

茂みを抜けた先で眼にしたのは信じ難い光景だった。対峙する二つの影。作業用のナイフを手にしたディーターと、剣を手にしたルドルフ。お互いに息は荒いがディーターの様子がおかしい。そう考えている最中にも二人は切り結びディーターは明らかに劣勢だった。
「ディーター!」
私は思わず叫んでしまう。声に気づいた二人は手を止めて驚愕の眼差しを私に向けた。
『馬鹿!俺の名前を呼ぶな!』
「ジムゾン様?!…まさか、あなたの連れとはこの男なのですか!」
『こいつは俺が人狼だと知っている!違うと言え!』
「そうです。」
ディーターの忠告も無視して私は肯定した。それに今更弁解した所で何になるだろう。
『何故人狼化しないのですか!私の知り合いだから情けを?!』
『何かは知らんが薬を盛られて変化の能力を封じられた。俺がそんな情をかける男に見えるか。』
囁く声は何時ものように小ばかにした言い方だった。

「なんて事だ。私はあなたまで失ってしまう所だった!」
ルドルフの発した言葉はまるで見当違いの内容だった。彼は、まだ私が人狼なのだと解っていない。
「この男は人狼です。夜な夜な人を喰らう恐ろしい悪魔なのです。きっとあなたも喰うつもりだったに違いない。騙されていたのですよ。」
私は複雑な面持ちでルドルフを見るしか無かった。完全に私を信じてしまっているなんて。
「…そういうこった。人を信じるのも程々にしておく事だな。」
木に背中を持たせながらディーターは鼻で笑ってみせた。
『これで解っただろう。俺はもう同行できない。さあ、とっとと逃げろ。』
「聖職者まで手にかけようとするとは。」
怒りに満ちた目でルドルフがディーターを睨み、再び剣を構えた。それに応じるようにディーターもまたよたつきながらナイフを構える。
『先の幸せくらい祈ってやる。もう二度と死のうなんて思うなよ。』


「違います、ルドルフ。」
俯いて言った私の声は涙で掠れ、震えていた。
「騙していたのは私です。」


問いただす暇も与えず私は人狼と化してルドルフの喉元に喰らいついた。あっという間の出来事だった。吹き上がる鮮血にも何の躊躇も感じなかった。牙を深く食い込ませて勢い良く引き倒す。ルドルフはあっけなく倒れ、苦悶の表情を浮かべて私を見つめる。声にならない声がかすかに口元から漏れる。私に向けて伸ばされた手は被毛に触れる事すらなく地に落ち、ルドルフは血の塊を吐いて絶命した。
私は脚の下で体温が失せるのも待たずに変化を解くと、ディーターに駆け寄って力いっぱいに抱きついた。
ディーターの指先が探るように体に触れる。やがて指先は掌に変わり腕が背に回されて強く抱き返された。
私は自分でも驚くほどの大声で泣いていた。


「…うん。」
どれくらい経った頃だろうか、ディーターが何かに気づいた。ディーターの腕の中で鼻をすすっていた私は腫れぼったい目のまま顔を上げた。見ると、ディーターの腕は黒い被毛に覆われていた。
「今更遅い。」
ディーターは溜息ひとつついて苦々しく笑った。腕を元に戻すとはた、と何か思い出したようだ。
「そういえばニコラスに聞いていたな。」
「えっ?」
「村でヨアヒムを襲撃した後お前が教会に引き篭もっていた時に聞いた。人狼を生み出した民族にドルイドと呼ばれる神官が居たという。ニコラスのあるじだった古の神とやらを祀る儀礼を司っていたそうだ。そいつらは人狼の変化能力を一時的に無力化するという薬を作る事ができた。
教会ではその技術も密かにだが伝えられていたらしい。が、人間に対しても脱力感を与えるなどの効果が同じに作用した為実用的では無く、何時しか廃れていったそうだ。だが一応記憶には留めて置くように。…とな。」
そうしてディーターは再び苦笑した。

「さて…。完全に冷え切らないうちに喰わなきゃあな。無駄死にさせるわけにもいくまい。」
ディーターが私を促して身を起こす。
「上出来だった。」
ぽんと肩を叩いて私の横をすり抜けてゆっくりと歩む。初めての賛辞だと言うのに私の心は暗くなった。襲撃が成功した。それが意味する事。
私はじっと雨粒が激しく跳ねる草むらを見つめていたが意を決して立ち上がりディーターを見た。
「私。」
声に気づきディーターが振り返る。
「私……。」
その先の言葉が上手く出てこない。暫らくして見かねたディーターはやれやれと言った様子で私を見た。
「後で小屋で聞く。今はこっちが先だ。」
私は眉根を寄せたまま頷いて同じように傍まで歩いた。

見開かれたルドルフの目をそっと伏せる。
親切な人を傷つけて。何の罪も無い人を騙して喰って生き延びて。
トーマスに襲われた時に頭に浮かんだ言葉が蘇って聞こえた。けれどあの時のような混乱は無く言葉はすんなりと思考の深遠へ飲み込まれていった。自分が人狼であるという事実も今は正面から受け入れる事ができた。
そして私に沢山親切にしてくれた正義感に溢れるルドルフよりも、私にとっては彼らをして悪魔と呼ばしめる人狼のディーターが何よりも大切だと解った。
自分以外に大切だと思える存在が解った。それだけでも私はとても幸せだった。


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