【雨が運ぶ想い】

鳶の鳴き声がする。ジムゾンは帽子のつばを上げて空を見上げた。高く澄み切った空に舞う鳥の影がひとつ。周囲の山から飛んできたのだろうか。それとも仲間とはぐれたのか。思いをめぐらせながらジムゾンは顔を戻し、待とうともしないディーターを小走りに追った。

村を出てからどれくらい経ったろう。寒さは次第に和らぎ、雪の溶けた地面からは新芽が顔を覗かせはじめていた。お互いに行くあても無く、ただ村から南の方向へ向かってライン川を越えようとしていた。途中立ち寄った集落で襲撃する事も何度かあったがジムゾンは相変わらず襲撃できないままだった。その所為もあってか、二人きりで旅をしているというのにお互いに口数は少ない。村に居た頃と同じ、ややもすればそれ以上に余所余所しくなっていた。

やがてあたりの景色はうっそうとした森に変わった。昨日あとにしたふもと集落での情報によると、この森を抜けた先に宿場町があるのだという。獣道を歩いていると行く手にぽつんと立っている小屋が見えた。注意していなければ見落としてしまいそうなほど森に同化してしまっている。もう長らく人は住んでいないようだ。ディーターは絡みつくツタを取り払って扉を開け、中に荷物を放り込む。
「夜戻る。」
そう短く言い残して森に消えてしまった。
何時もの事だった。閉鎖空間と成り得る範囲内に役者が揃えば再び惨劇が始まってしまう。二人もの人狼が人の集落に立ち入ればその確率は格段に増す。何も好き好んで襲撃をしているわけではない。本能の求めに足るだけ喰えればいい。できる事なら無益な勝負は避けたかった。それはディーターも同じ事。ゆえに集落が近づくとジムゾンは休息できそうな場所へ留まり、ディーターだけが出向いて情報を仕入れてくる。というのが決まりになっていた。

1人残されたジムゾンは小屋に入り、積もった埃を払い始めた。小屋の中には戸棚が一つと寝台が一つ。戸棚は空だったが有難い事に寝台には敷布がされていた。汚れは無いが埃まみれだったので外で干す事にした。敷布を引っ張り出して比較的日の多く差し込む場所まで持って行く。日々の洗濯や水浴びなど教会での日常の延長のような事をディーターは嫌がるが染み付いているのだから仕方ない。
「痛っ。」
敷布を木の枝に引っ掛けた拍子にささくれで指を刺してしまった。顔をしかめて咄嗟に指を口に含む。何か巻く物を小屋まで取りに帰ろうとした時だった。
「大丈夫ですか。」
突然の声に驚いて振り向くと旅人らしき男が居た。無精ひげを生やし金色の髪も伸びっぱなしと風体は良くないが、服装や物腰から察するに、ただの放浪者というわけでは無さそうだ。端正な顔立ちなのに顎のあたりに三本と鼻筋を横に一本傷跡がある。何処と無くディーターに似ているようにも思えた。
「ええ、かすり傷ですから。」
簡単に言って通り過ぎようとした瞬間男に手を掴まれた。
「かなり切ってる。少し沁みますが我慢して。」
抗う暇も無く男は懐から取り出した水筒の水で傷口を洗い、手際よく布で止血した。
「あ。有難うございます。」
突然の遭遇と強引な親切さにジムゾンはぽかんとして機械的に礼を述べた。唖然としているジムゾンの様子を見て男は顔をほころばせる。
「申し遅れました。私はルドルフ・フォン・ベルガー。皇帝軍に所属しておりましたがわけあって旅の身の上です。」
旧教側であれば自分に親切なのも納得がいく。ジムゾンは幾分かホッとして溜息をついた。
「私はジムゾン…ルーデンドルフと申します。今は巡礼の旅の途中です。」
「この森を抜けた先に少し大きな街があります。私は今日そこの教会に宿を求めるつもりですが…あなたもいかがですか。こんな森の中では何時獣に襲われるかしれない。」
「有難うございます。でも私は連れとここで落ち合う約束を…。」

言いかけてジムゾンは言葉を飲み込んだ。約束。そういえば自然とそうなっていただけで約束をしたわけではない。何時もきちんと戻って来るから疑問に思った事など一度も無かった。ふと頭をよぎった不安を打ち消そうとジムゾンは曖昧に笑った。
「…そうですか。残念ですがお連れが居るのでは仕方ありませんね。
けれど十分に気をつける事です。聖職者と言えど襲ってくる夜盗もいますし、今は夜盗などよりも傭兵の方が恐ろしい。ここが戦に巻き込まれるのも時間の問題でしょうから。」
「えっ。」
「北方の獅子どもが南下を始めています。マクデブルクの虐殺を契機にザクセン始め新教諸侯が奴らと同盟を結んだ上に奴らの用いる砲兵と新戦術の前に為す術も無いのが現状です。」*1
沈痛な面持ちでルドルフが語る。ジムゾンは嘆息を漏らし思わず口を両手で覆った。
「巡礼はまさかフランスまで行かれるおつもりで?」
「ええ。」
咄嗟にジムゾンは嘘の相槌を打っていた。
「それはいけない。行くな、とまでは言いませんが長く留まってはいけません。何しろ今回も裏で手を回しているのはフランスです。終り次第すぐ教会へ戻られる事です。…この状況では教会も危ないかもしれませんが。」
「フランスが?!あの旧教国のフランスがですか!」
愕然としているジムゾンにルドルフは気の毒そうな視線を向ける。
「残念ですが神父ジムゾン。この一連の戦では宗教の対立などほんの表面的なもの。民衆や諸侯を踊らせる口実に過ぎません。本当の狙いはこの神聖ローマ帝国を内外から解体する事にあるのです。」

気が付くとジムゾンは地面にへたり込んでいた。同じくしゃがんだルドルフに肩を揺すられて漸く我に返る。
「なんとかその事実を新教側諸侯に知らせる手立ては無いのですか?
このまま…国は滅びてしまうのですか?!」
半泣きになりながらジムゾンはルドルフに問いかける。
「もう彼らは気づいています。」
「なんですって!」
「我が身が無事であれば解体しようが構わないというのが大部分でしょう。それでなくてもハプスブルクが力を持ちすぎてその事に反感を持っている上信教の違いという隔たりもある。精神の向かう先までも違えば纏まる事は不可能です。…幾らなんでも滅亡までは行かないと思います。ですが荒廃と衰退は免れないでしょう。」
そう言いながらルドルフは泣き崩れるジムゾンを抱き締めてやる事しかできなかった。

「ところで神父ジムゾン。あなたのお名前は“フォン・ルーデンドルフ”が正しいのではありませんか。」
落ち着きかけた頃急に問われてジムゾンはどきりとした。肯定の意を酌み取ったルドルフは苦笑した。
「どうやら私の事は覚えておられないようですね。バイエルンの使い走りのルドルフですよ。」
「…あ!」
ジムゾンはまたも驚く事となった。おぼろげに思い出す幼い頃の記憶。ジムゾンが修道院に入る前あたりから城に姿を見せるようになっていた母の実家からの伝令。母の家の親戚筋にあたる者だという程度にしか覚えていなかったし、なにしろあの時はお互いにまだ少年で今は随分容貌が変わってしまって全く気づかなかった。
「まさかこんな所でお会いしようとは夢にも思いませんでした。何年…いや十何年ぶりでしょうか。あなたはますますアンナ様に似てこられましたね。」
「…母に似ていると言われてもあまり嬉しくないです。」
ジムゾンは少しむっとした表情を浮かべる。
「これは申し訳無い。」
子どもじみた反応にルドルフはふきだしてしまう。
「修道院に行かれてその後の行方が解らなかったのですが、神父になられたのですね。どちらに赴任を?」
「まだ赴任はしていません。修行期間中で、それで巡礼へ。」
村の事はなるべく言いたくない。後ろめたさを感じながらもジムゾンは嘘に嘘を重ねていた。
「そうですか。戻り先が修道院なら安心しました。あそこまで略奪に向かう者はさすがに居ないでしょう。しかし領までそう遠くないはず。いっそ戦が落ち着くまで城へ戻られた方が良いかもしれません。」

ルドルフの馬が待ちきれずにいなないたのは日も沈みかけた頃の事だった。幼い頃の思い出話に花を咲かせているうちにこんな時間になってしまった。もう随分と人と喋っていないかのような錯覚さえ覚えるほどに。
「ではお名残惜しいですが、これで失礼します。」
跪いたルドルフに右手を取られそうになってジムゾンは思わず手を引っ込めた。
「私は口付ける指輪も無い一介の司祭に過ぎません。」*2
「いいえ、臣下としての礼です。」
と、ルドルフはにこやかに言って半ば強引に手の甲に口付ける。
「道中のご無事をお祈りしております。」
よくとおる大きな声で言い残してルドルフは去っていった。その姿が見えなくなるまで見送ってからジムゾンは敷布を取り込み小屋へ戻った。


夜半近くになってディーターが戻ってきた。煩わしい程の木犀の香りを纏わせて。寝台の淵に腰掛けていたジムゾンは思わずディーターを睨んだ。ルドルフならこんな事はしないだろうに。ふとそんな言葉が頭を掠めた。
ディーターはそんなジムゾンの様子に何の反応も示さずジムゾンに背を向ける格好で寝台に横たわった。ジムゾンは憮然とした表情を浮かべて蝋燭の火を吹き消し、更に背を向ける形で身を横たえて毛布をかぶった。一つの毛布を二人で分けてお互いに背を向けて眠る。少ない口数が何時も自然とそうさせていた。
「あの男の言うように。」
眠りに就こうとしていたジムゾンは再び目を開けた。
「お前はとっとと領に帰れ。」
「見ていたのですか。」
「これでおあいこだ。」
ディーターは悪びれもせず淡々と言う。
「お前はもう教会に身を置けない。よくよく考えてみればそれが一番だ。また、お前は俺に頼ろうとするから何時まで経っても狩りができない。様子を見ていればよく解る。技量はあるが何時だって甘えが出る。
お前には帰る場所がある。狩りが出来るようになるすべも解った。そうなれば行動も合わない俺と一緒に居る理由は何も無い。それに。」
ため息一つついてディーターは続ける。
「俺は疲れた。」
ディーターの言葉にジムゾンは目を見開いた。
「ニコラスに言われたのもあって同行させたが、俺は1人の方が気楽でいい。」
ジムゾンは振り返る事もできず、ただ目の前の暗闇を凝視していた。
「お前とは城に送り届けるまでだ。明日から南西の方角に進む。」
突き放すように言い残してディーターは眠ってしまった。ジムゾンは突然の事に動揺して何時までも眠れなかったが、やがて小さな雨音を夢うつつに聞きながら意識を手放していた。


「エルフリーデときたらすっかりあの赤毛の男にお熱でね。」
翌日、酒場の女主人ベリンダは苦笑しながら言った。ベリンダは町でも評判の美人で、結婚した今でも彼女目当てに酒場を訪れる者も珍しくない。今日も朝から雨だと言うのに客足は絶えない。
「あんたも昨日あったろう。あんたと同じで顔に傷はあるけど中々のいい男さ。」
目の前の旅人に酒を出しながらベリンダは続ける。
「一夜限りだってわかってた癖に物は喉を通らないわため息はつきどおしだわ。商売女らしくもないよ。」
「その男はもう旅立ってしまったのかい。」
旅人は少しだけ苦笑したがすぐに真顔で問うた。
「急ぎの旅じゃないって言ってたしこの雨だ。足止め食らってるんだろうからきっと夜には来ると思うよ。」
「そうか。」

旅人は懐から小さな薬の包みを取り出した。
「これを男に出す酒にでも混ぜるといい。」
「なんだいこれ。」
包みを手渡されたベリンダは訝しげに旅人を見る。
「エルフリーデの望みを叶える薬さ。」
「惚れ薬って事かい。」
しげしげと包みを眺めていたベリンダは意地悪く笑って旅人を見た。
「まさか毒薬じゃないだろうね。」
「はは。見ず知らずの男を毒殺してどうするって言うんだ。」
「それもそうだ。」
二人は笑い、ベリンダは包みを懐にしまいこんだ。
「あんたは悪人には見えないし、母さんの知り合いだってんなら疑うわけにはいかないね。けど良く解ったね。あたしがレジーナ・アルトマイヤーの娘だって。」

「よく似てるよ。見た目も、喋り方も。女将さんには昔随分世話になった。」
旅人は銀貨をカウンターに置いて席を立った。
「薬なんかよりあんたが直接あの娘を慰めてくれりゃ話が早いんだけどさ。」
「それは有難う。だが私には生憎女遊びの趣味が無い。」
「だろうねえ。同じ男前でもあんたは目つきが違うよ。あの男はそうさね、まるで狼みたいな目をしてる。」
旅人はその言葉に一瞬足を止めたが、すぐに踵を返した。
「村に寄ったら母さんに宜しく言っとくれ。」
ベリンダの声に旅人は片手を上げてこたえる。雨脚は一向に弱まる気配を見せず空は一層暗さを増していた。夜は嵐になるらしい。小走りに通り過ぎる人々の会話も雨の音にかき消されていった。


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【注釈】
*1マクデブルクの虐殺…1631年5月、ティリー伯率いる皇帝軍がハンザ都市であるマクデブルクを落とした際に起こった事件。ティリー伯本人は道徳的な人だったが、大多数が傭兵で構成された軍の暴走を止める事はできなかった。これを機に、スウェーデンへの助力を渋っていた新教諸侯がスウェーデンと同盟を結ぶ事となった。

*2指輪…司教以上の聖職者になると右手薬指に主と結ばれた証である指輪を嵌める。pax(パクス)と呼ばれる聖職者への礼は、この指輪に口付ける事を指す。ちなみにpaxとはラテン語で「平和」の意。

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